手と目とあたま

まずは手を動かすこと。そして、目でよく見る。頭を使って考えるのはそのあとだ。重要なのは、順序とバランス。

水墨画のような夜に

2009-10-31 | 日記
それは多分、間違っているんだけれど、
私はそれを正しいと思う。

それは多分、正しいんだけれど、
私はそれを間違っていると思う。

正しいか間違いかの判断は、頭ではなく感覚でしなくちゃいけない。
そうしないと、見事に判断を誤る。

その判断を、常に「私は」と言えるかどうか。




「水墨画のような夜に」って誰の詩の一節だっけ、
と高山から帰る車の中で考えていたけれど、未だに思い出せない。

後ろへ過ぎ去る街灯、すれ違う車のライト、真っ黒な木々の隙間からたまに見える月。
「闇」の中を走りぬける光景を眺めているときの、あの気持ち。


私が今まで見た中でそれを表現し得ているのは、唯一この絵だけだ。

はるなつあきふゆ

2009-10-26 | 日記
「ところで...そもそも、アートってなに?」


と、これまでにも、たびたび思ってきた私です。

たくさん絵を見過ぎたとき、アートっぽい人たちと会ったとき、
かなりの犠牲を払って絵を描いている自分に気づいたとき。


そもそも、洗練ってなに?
おしゃれってなに?
これとこれの違いはなに?


疑問はつづく。


そう思うとき、ハッと我に返るように立ち戻る地点。
それはアールブリュットとかアウトサイダーアートとか呼ばれている、
知的・精神的に障害のある人たちが制作した作品だ。

人に見せることを全く前提としていない、つまり、
他者からの評価を全く必要としていないこと。
創作の動機が全て自分の内にあること。
元はといえば何らかの必要に迫られて行った行為の「結果」であって、
「作品」でさえなかったりすること。


純度の高さを前にしたとき、小賢しいアート談義のなんていう脆弱さ。
この地点に立ち返るとき、私はいつも恥ずかしい気持ちになる。





紅葉は始まったばかり。この写真は3日前のもの。
今日は、朝からよく降る雨の日。雨が降って、なんとなくホッとしている。
あとでコーヒーを飲みに行こうと思っている。

夏から冬へとめぐる只中で制作している今、
どうしても作品というものから「季節」を除外して考えることはできないなぁ、
と、考える。

デクノボーさん

2009-10-23 | 日記
夜中に目が覚めて時計を見ると、たいてい2:30、もしくは3:00だ。
目が覚めない時もあるけれど、覚める時にはいつも時間はきっかり同じ。

昨日の夜は2:30に目が覚め、しばらく眠れなかったので、
眠れるまで待ちながら、頭に浮かぶ想いを眺める。
「ノルウェイの森」のシーンが出てきたのは、多分秋になったからだ。
「ノルウェイの森」のシーンが出てくると、私は鎌倉駅の江ノ電に乗り換える改札口を思い出す。
多分、そこを歩きながらこの話をしていたからなんだけれど。

連想ゲームみたいに、想いは全部つながっている。




昨日今日と、今ひとつ「パッとしない」気分の私だ。
描いていることには描いているが、「今ひとつパッとしないなぁ」と思いつつ描いている。
こういう時って、「気分転換」も「気晴らし」も特に役には立たない。
自分の内から何かが湧いてくるのを待つのみ。
「気分転換」や「気晴らし」は、結局その間の「暇つぶし」でしかないのよねぇ、
と、パッとしないまま思う。




吉野寿がかき鳴らすギターを聴いている。

「歌うから ゆるしてくれ
 こんな俺を ゆるしてくれ」

私の場合、「歌う」のところに「描く」が入る。

つぐない

2009-10-22 | 日記
「人生の突発時はいかに許しがたくとも、よそにつぐないを持つものだ。
これは私の心底からの確信だ。
そしていろんなことを経験して、毎日その確信が大きくなってゆく。
この確信をおまえも持っている。
この確信のなかだけに、一時の苦しさに対するいくらかの慰めを求めるべきだし、慰めが見つかるはずだよ。

どんなことが起きようとも、愛しい娘よ、勇気をお出し。

人生のつらい試練はどこかで説明がつくはずだ。
われわれが失ったものは、また見つかるはずだ。
われわれがとても愛したものは、われわれに返ってくるのだ。」


J.Hファーブルが、赤ん坊が瀕死の状態にある自分の娘に対して書いた手紙より抜粋。



キンモクセイも、そろそろ終わりかもしれない。
本当に、よく香る花。

忘却は知恵

2009-10-20 | 日記
「何も生まないもの」っていうのがある。
例えば「強制」。

する人も、される人も苦しい。
苦しいままで、良い結果も生まれない。
「強制」の背後にあるものって、エゴと不安かなぁ、などと考える朝だ。



昨日、埼玉から届いた手紙に、とてもとても嬉しい褒め言葉があって、
なぜそんなに嬉しかったかというと、
真っ正直に出来うる限りの懸命さで向き合った私に対しての評価だったから。

へつらわず、手をぬかないこと。
「正直さ」以上に価値あるものなど、ない。

素晴らしい、とても素晴らしいギフトをもらった。



11月になると毎年やってくる感情というか心の有様というのがあって、
今年もその尻尾がチラチラ見える今日この頃。

この心境に意味はない。

それは単に、日光が白っぽくなり、葉が落ちて指の先も冷たくなるような季節の変動を、
敏感に察知する生き物としての本能がとりたがる「防御」の姿勢だから。

つまり本心ではない、ただの「気分」。

ただの気分なんですからね、ということを、
トントンと地面を踏み固めるように、慎重に何度も思う。
注意深く、軌道を修正する。


そして、この季節の移り変わりの最中に制作に打ち込んでいるということは、
作品に色濃く反映されるのだと思った。


木が葉を落とすのは、喪失ではない。それは生きながらえるための彼らの知恵だ。
厳しい季節を乗り越えるため、できるだけ身を軽くすること、そして再生への準備。
手放すことに対しての彼らの潔さ・惜しみなさに静かに感嘆しながら、私は山道を歩く。