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手と目とあたま

まずは手を動かすこと。そして、目でよく見る。頭を使って考えるのはそのあとだ。重要なのは、順序とバランス。

冬が為した良い行い

2012-04-12 | 日記


「冬の夜に いくつものパンが育つのです。
 小麦が若々しい緑の芽をふくのは 雪の下なのですから。
 春になって お日様が笑顔を見せて初めて
 きみは気がつくのです 冬が為した良い行いを。

 だから この世が
 侘しく、空しいものに思われても
 だからこの世が
 厳しく、辛いものに思われても
 静かに、そして
 変化に耳を澄ませるのです。

 冬の夜に
 いくつものパンが育つのですから。」F.W.ヴェーバー


去年収穫した小麦でパンを焼いているけれど、
もうすぐなくなるなぁというここ最近。
その小麦の子孫たちは、畑でやっと大きくなり始めた。

麦というのは、本当に不思議な植物で、
寒さが本格化する前にニョキッと一斉に顔を出し、
そこから一冬を我慢強く耐え、春になり日射しを感じるや否や、
まことに力強い様子で伸び始める。

冬の間に、これから使うべくエネルギー全てを、蓄えているのだろうか?

麦の葉をサラサラとさわりながら、頭に浮かぶのはパンのことばかり。

春まぢか。

2012-02-23 | 日記
ウグイスの初鳴きを聞いたのは、もう10日も前のことだ。
いろんな鳥のさえずりが毎朝聞こえるけれど、
いつだって朝イチで鳴き出すのはウグイスだということが最近わかって、
ますますウグイスへの親しみは増すばかり。


おととい、はっきりと分かった。
文書で示されたように、写真を突きつけられたように、
くっきりと。それは、
「私は何かを意図したり、何かを目的としては、絵が描けない」
という事実だ。

今までもそう思いながら、自分でも何を描いているのか分からない絵を描き続けてきたけれど、
もしかしたらそれは自分の勝手な思い込みで、
もっと別のやり方で、別の条件でも描けるんじゃないの?
と思ったりもして、ここ数ヶ月、行きつ戻りつ試しては様子を見ていた。

そしてここに来て、回答が出て、つまり私は
「自分でも何を描いているのか分からない」というこのことを、
軽く見過ぎていたのだと思う。
まともに考えれば、正体のわからないものを描くことに大量の時間を何ら疑問なく投じるなんてことは、
大半の人はしない。
でも私が10年以上やってきたことはまさにそれで、要するにその行為の「意味」は、
私の計り知れないところにあるようだ。
それは計り知れない所にあって、そして私自身はそれを知る必要はない。

意味も価値も、なくていいや。
たまに誰かがやってきて、描き上がったものに意味や価値を見いだしてくれたりもするけれど、
そんなことは誰かにまかせよう。

世界の終わり

2012-02-10 | 日記



「今日で世界が終るかもしれない」
と思いながら、
特にここのところ、強く自分に言い聞かせるように思いながら、
生きている。

震災からもうすぐ一年。
原発の有様は毎日綱渡りのような現状なのに、
マスコミはそのことを全く報道しなくなってきている。

未だに大気中に海に、放射性物質をジャンジャン流し続けているのに、
みんなそのことを忘れ始めている。

忘却と、慣れ。

この性質は人の備えた知恵だと思っていたけれど、
どんな長所もその裏返しとセットになっていることを思い出さなければならない。

この長所の反対側にあるもの。
それは、

無視と思考停止。


なんて恐ろしいことだろう。

そうこうしているうちに、被爆が日常化しようとしている。



明日、世界が終るのだとしても、私は種を蒔くだろう。

放っておかれても、人知れず芽を出していた植え残りのニンニクを、
お守りのように机の上に置いている。

印象。2012年。

2012-01-30 | 日記



2012年になった途端、身の回りで大小様々な出来事が起こり、
非常に慌ただしい日々でした。
これは私個人に限らず、世の中全体的にこんな様子で進むんじゃないか、と思ったり。
いい事も悪い事も複合的に起こりながら、巨大な川のように流れだけは止まらない、
というのが2012年に対して私が抱いたイメージ。

そんな予感の中、さしあたってやっておくべきことは、
流れによくしなりながらも折れず、足下はしっかりと踏ん張って
何が起こっても動じないよう、精神と体を鍛えておく、
というシンプルないつもの心がけに他ならない。

「精神を鍛え、心は穏やかに保ち、全てを楽しめる健やかな魂を持つ」
というのは一生かけて取り組む課題だなぁと思います。
出来事が起こるのは、止められないものね。


そんな寒い寒い毎日の中、野菜が美味しいのはひっそりしたご褒美のようで、
しみじみ楽しくいただいています。
家の畑の野菜は無農薬・無肥料。野菜が自ら頑張って育った結果、
すごく甘かったり身が詰まってたり、彼らのその努力の跡が、なんともいとおしい。

「野菜を育てる」と言うけれど。
正確には「野菜が育つのを手助けする」だけだよなぁと思う。
一粒の種を発芽させたのは私ではないし、その芽から一本の人参を作ったのも私ではないし、
そう考えると私が出来ることなんて本当にごくわずか。

また春がきて、種をまくときは「よろしくお願いしまーす」と心の中で言いながら蒔こう。

「わからない」ということ

2011-12-16 | 日記
「どうもあの人は絵を描く人らしい」という噂が町で広まり、
高齢者学級の講師を引き受けることになって、昨日がその初日だった。

20人ほどの生徒さん(みなさん60歳以上)と来年の干支・龍の絵を描いたのだけれど、
終ってからしみじみ、「私は絵が『描けない』状況が全くわからないんだな」と思った。

子供の頃からまず絵を描くことが好きで、たくさん描くからどんどん上手くなって、
その繰り返しで大人になったので、
「どう描いていいのかわからない」「何を描けばいいのかわからない」
という人の「わからない」が私にはわからないのだ。
描き出しをためらったことはないし、目の前の白い紙はいつだって明るくひらけた未来のように感じる。


描くことができないのは、「恐れ」から来るんじゃないか、と想像してみる。
上手く描けなかったらどうしよう、はみだしたらどうしよう、線がまがったらどうしよう、
という「恐れ」。
そこを抜け出すには、どんどん描くしかないんだけれど、
それを伝えて習得してもらうのは、なかなか難しい。


最初から持っているが故に、持たない人の気持ちがわからない、持たない人の存在を理解できない、
という類いの「わからない」は世界中どんな場面にもあって、
それはある種の暴力になり得るんじゃないか。
持っているという自覚すらない人の振る舞いは、持たない人にとっては時に傲慢な脅威にうつる。




想像することだと思う。
とにかく、想像すること。

想像力を深めるのは、他者への興味と優しさだ。