ところが、子どもは三歳をすぎると、模倣の時期を脱却して、自分で考え、自分を主張し、自主的に行動するようになる。やる気をおこす神経細胞が配線してくるのである。自我発現、創造の時期であるそして、十歳ころになると、このような働きをする神経細胞のの配線はほぼ完成し、汲めどもつきぬ創造の精神を生み出してくれるのである。
なぜ、ここにあるのか分からない岩波新書の一冊・・・。パラパラとめくる中で、ふと目に留まった数行です。赤ボールペンのラインが、珍しく、引いてありました。定規も使わず、引いた赤い波線・・・。
時実利彦著『人間であること』、1970年3月第1刷で、私は同年10月の第4刷を購入しています。
「昭和46年4月12日~15日」と読んだ日付と、自分の名前まで記入してありました。ええっと、「25」を足して、1971年ですかぁ。大学3年のときですね。
考えるということ、そして判断するということは、受けとめた情報に対して、反射的・紋切り型に反応する、いわゆる短絡反応的な精神活動ではない。設定した問題の解決、たてた目標の実現や達成のために、過去のいろいろな経験や現在えた知識をいろいろと組みあわせながら、新しい心の内容にまとめあげてゆく精神活動である。すなわち、思いをめぐらし(連想、想像、推理)、考え(思考、工夫)、そして、決断する(判断)ということである。【p.112、「考えること・書くこと」】
そして、114ページ・・・。
子どもだけの問題ではない。スピード化、情報過剰の生活環境は、私たちから思考するという時間を奪いとっている。以前は、行間に読みとっていたが、そんなことをすると、かえってわからなくなるといった読物の氾濫。映画やテレビなどの視聴覚の映像は、思考を遮断し、私たちの目と耳をしゃにむに引きたてていく。しばしページをふせて考えることのできる読書に、もっと時間をさきたいものである。
この少し後の文には・・・。
ヒットラーは豪語している-「支配者にとって幸福なことは、民衆が考えないことだ。」【p.115】
さて、この一冊を再び通読するかというと、それはないですね。しかし、まだ捨てられない一冊として、とどめ置いています。
なぜかですか?
それは、ラインや書き込みが、かって私が4日間、食らいつくように読み込んだ痕跡を通じて、ふたたび、この著書の問題提起の世界にいざなってくれるからです。
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