典虚てん手古舞

我が為の日々の記録! 74歳

残っておったっ!

2023年03月09日 | <歴史>
退職後、ビザンツ史や「北の十字軍」等々に触発されて、ユーラシアの歴の歴史を西から東へと10年間…。中国を経て、日本に戻ってきた?(  ̄ー ̄)ノ なぁんちゃって❗
高校教員採用試験、世界史不合格の無念を晴らさんと?受験・試験で落っこちたのは人生2回ゆえ? そもそもお金出しての試験なんざ、めんどくさ
いだけやぁ!ゞ(`')、
受験票を出していて、行かなかったのもあったっけ!あっはっは!滑り止めの大阪教育大と大学院…。通ると困るでありました。
大学というのは、自分が学びたいことを学ぶ為に行くもんや─が典虚の考えで今も変わらん。しかし、他者・他人を、己の考えで以てみることはないよ❗「大学に行きたい」だけでも◎です。ひとはひと、私は私…。

まぁ、こうなったのは、オヤジのせいでもあり、“おかげ”でしょうなσ(^_^;)?恐ろしいことに、見出し画像の書籍だって、ちょうど50年前に他界した彼の本です。
私は初めて開く…。
やっぱり、見慣れた線引きがありましたよ⁉️
その1ヶ所は、まさに今、私が読みたいと思っていた内容で、「歴史編集の中絶」であります。m(__)m

ベージュ色の『六国史』もはっきり覚えてるけど、あるか捨てたかも定かではありませんな。σ(^_^;)?

さて、今の問題関心は、なぜ「正史」が敦仁のあたりまでだったのか❓ おくりな、“醍醐”。没年930は覚えた…? ババアやから、すぐ忘れるだろうがっ❕ゞ(`')、➡️ドデェン!
岩波新書『平安王朝』の「はじめに」の問題提起は、ユーラシアの西の国々の歴史と比較した時、いわゆる「摂関期」の天皇には、「王の物語」が欠落していて、イメージが極めて偏っている─というか?例えばだよ醍醐にしても、“後々に作られた”らしい。
そこを自分で理解したくてこの数日間、頭を悩ませとるんさ。
ケンムの尊仁が生前におくりなにあたる「後醍醐」を名乗った時点で醍醐の“聖性”が形成されていたことになるが、それは何故どのように❓

さてさてとこの本最後、「史観の変遷」にも父艶虚の赤✏️鉛筆がいましたぁ! マルクスの資本論注解もありましたからね。
歴史を学ぶことで、権威や権力を相対化し、“世間”の縛りから自由になって─があるのでは?

今日は報道1930は、適当に…。掌中のやし。最終講義は録画でじっくりですね。
8500歩で疲れたっ。PM9:44




荘園
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