空模様はいまひとつの12月1日でしたが、私いちにんとしては、穏やかな生き心地のよい日でした。
修理出来るものは、直して使いたいのです。
ちょっとした綻びなら、手縫いで繕って、着用しています。
安かった品だし、面倒なことをするよりも、買い替えた方が「楽」という考え方を、はしたないとまで申しませんが、何か人としての「品」が落ちていくような、そんな気がするのデス。これは、資本主義、大量消費社会によって、私共が陥れられている「罠」ではないかとね。
しかし、金遣いの粗いわたしめの言葉?と怪訝に思われる方もいらっしゃるかも知れませんね。
うちに切り花の百合を欠かすことは、ほぼありません。でも、飾りたいからではなく、毎日水を替えたり、花瓶を洗ったりという行為によって、自分の「心働き」を調えておきたいからです。面倒です。面倒なことを厭わないよう、ぐうたらな自分をたしなめているつもりなんね。
小学校教員の時にこんなことがありました。35年以上昔の話です。
確か、小学2年生のときでした。掃除が終わり、雑巾を点検すると、洗わないままのものが1枚ありました。自分が洗って済ませた方が気楽でしたが、勝負をかけました。
「終わりの会」で、汚れた雑巾をみせて、「洗ってない人、洗って!」。でもしかし、中々、前に出てくる子はいませんでした。
「これが片付かないと、おわりの会も終わらない・・・」と、待ち続けました。時間はどんどん過ぎて行きます。職員室に行って、状況を知らせ、保護者への対応を頼みました。
季節は、秋か冬・・・。日の暮れる時刻も早かったと記憶しています。
学級の子ども達には、「もし、このまま、終わったら、その子は、誤魔化しても何とかなると考える大人になると思うんや」「しんどいやろうけれど、我慢してな」
やっと、一人の男の子が出てきました。こういうときは、絶対に、怒鳴ったり、叱ってはいけません。
自分の過ちを正直に、みんなの前で晒したのです。言葉で伝えたかどうか?その子もしんどかったはずです。にこっと笑って、「洗っておいで」の後、「みんなもよく頑張ってくれてね」と、あっさり挨拶して、お終い、チャンチャン夕方、すぐに家庭訪問をしました。
いや、季節から考えると、小学1年生だったかな?
そののち、古いタオルで、子どもたちに雑巾を縫わせました。初めて、針をもった子たちです。当然、縫い目は、すごく粗い・・・。けれども、彼らは自分の縫った雑巾を嬉しそうに大事にしていましたっけ。
自分の過誤を率直に認めることは、勇気のいることなのね。
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