山に越して

日々の生活の記録

疑似短編集冬の霧 三の①(履歴書)

2019-05-19 09:28:37 | 短編集

冬の霧・三の①(履歴書)

 

 朝から冷え込む日で、夕方にはチラチラと東京の街にも小雪が舞っていた。何時も通り矢部孝之は中央線の三鷹駅で降りた。三鷹市のアパートに越して一ヶ月、新しい会社に移って一週間が経っていた。駅前で晩飯の材料を適当に買うと深大寺行きのバスに乗った。バスは帰宅を急ぐ主婦や学生で込み合っていたが何とか座ることが出来た。

 孝之は永年勤めた大手企業を半年前に退職した。退職する必要は無かったが、仕事に対する情熱は疾うに失い、良い機会だと思い迷うことなく辞めた。退職金はそっくり別れた妻に渡した。マンションのローン返済は一年前に終わり二人の子供は既に成人している。家賃と当面暮らせる金が有れば後は何とかなるだろうと思った。金の大切なことは知っていたが執着したくなかった。就職先は、これまで取引のあった会社ではなく全く違った職種を選んだ。履歴書の経歴欄や家族欄には不必要なことは一切書かず一人で生きようと思った。しかし何も書かなかったことで、結果的に矢部孝之、五十三歳は身元不明者として扱われることになる。

 孝之は別れた家族に住所や電話番号を知らせることをしなかった。落ち着けば何れ子供たちに知らせようと思っていたが、その直前の出来事だった。これから老後を迎える年になって別れる必要は無かったが、孝之が家を出ようとしたのにはそれなりの理由があった。些細な夫婦のいざこざから急に包丁を握りしめた妻が孝之に襲い掛かってきた。孝之は一瞬殺されると思った。そのまま殺されても良かったが子供たちのことが脳裡を掠めた。殺人者の子供、(しか)被害者と加害者の両親を持つことになる。そう思った瞬間逃げ出した。その時の妻の顔付きを生涯忘れることは無いだろうと思った。翌日黙って家を出た。穏やかだった妻が、仮に一瞬であったとしても激しい憎しみを持ったのである。直ぐ普段の姿に戻ったが、自分に対する憎しみや日頃の不満は心の奥底から発していたのだろう。ビジネスホテルで二ヶ月間過ごし、その間にアパートを見つけた。

 人は誰でも些細なことを大切に守り通している。しかしその琴線に触れたとき言い知れぬ憎しみを覚える。孝之の妻も自分では気付いていなかったが、孝之が触れたと思った瞬間包丁を握りしめていた。それが何であるのかその時点では分からない。時間が経過して冷静になっても分からないかも知れないが、人間の内奥に秘める琴線は繊細なものである。普段は誰もが気付くことなく見過ごされているが、時として顔を擡げる。

 その日、孝之は何時も通り帰宅した。妻の佳美もパートから帰っていたので夕食の支度をしながら待っていた。口論は長男の結婚式のことであった。孝之は結婚式など本人たちに任せて置けば良いと言う考えだったが佳美は違っていた。一つ一つが段取り通り進んで行くことを願っていた。その時、何気なく言った孝之の言葉に激怒したのだろう、瞬間佳美は孝之の方を振り向くと両手に包丁を握り締めていた。向かってきた包丁を孝之は咄嗟に避けたが、孝之の見た佳美の目は憎悪に燃えていた。憎しみが増幅していたのだろう、最早人間の顔ではなかった。それほどの憎悪が、いつ頃から芽生えていたのか分からなかった。しかし係累との関係や、家族への思いやりなど何気ないことが積み重なっていたのだろう、そして一気に爆発した。また、孝之は会社のことや人間関係のことを日頃から話すことは無く、佳美との疎遠な関係は十年ばかり続いていた。

 孝之は秋田県の出身で、次男と言う立場でも有り卒業後そのまま東京に就職した。就職して二、三年は故郷に帰っていたが、長男夫婦のいる実家に帰るのも面倒になっていた。佳美とは丁度その頃、忘年会で知り合うようになり交際を重ねた。その後肉体関係も出来たが、佳美はネオンの輝くホテルを嫌い孝之の住んでいるワンルームマンションに来るようになった。佳美は下町の出身で弟、妹があり三人兄弟の長女だった。幼い頃から家の手伝いをしていたような家族思いだった。偶々子供が出来たので結婚したが、式は簡単に済ませ質素な生活を続けていた。佳美は外での食事や旅行なども好きではなく家に居て掃除や洗濯などをしていたり、時間が有れば子供のセーターなどを編んでいた。外に出ることが面倒な訳ではなかったが、興味がなく、端から見れば良妻賢母と言われるような風情を見せ穏やかな家庭生活を続けていた。唯、孝之にとっては何時までも可愛い妻であって欲しかった。しかしどちらかと言えば自分の家族や両親のことを大切にするあまり、孝之にとって他人を見ているような所があった。

 二月四日、朝から寒い日であった。矢部孝之は身分証明書になるようなものは一切持つことなく出勤した。新しい会社に就職して一週間目である。仕事の内容は事務、経理、営業など一切合切含めた何でもこなす仕事だった。

「矢部さん、入社祝いを遣りたいと思っている」と、社長の杉村が言った。

「いえ、就職させて戴き有り難く思っています」

「まさか、街でばったり会うとは思いも寄らなかった」

「あの時お会い出来なければ今頃何をしていたのか分かりません。社長に出会えたことで、又、生活が出来るようになりました」

「そう思ってくれるなら嬉しいよ」

「社長、履歴書も未提出で、来週でも宜しいですか?」

「そんな物どうでも良い」

「そう言う訳にもいきません」

「詳しい話を聞いても仕方がない。矢部さんの仕事振りは分かっている。取り敢えず仕事を覚えて後は任せる」

「有り難う御座います」

 社長との会話も、結果的に履歴書を提出することも無かった為、孝之が翌日から出勤しなくなっても、会社として何処にも知らせることが出来なかった。

孝之の持ち物は、買い物袋と財布に数万円と小銭以外なかった。バスや電車の定期券は翌週買う予定でいた。アパートの家賃は毎月自動引き落としになっている。電気やガス、水道料金も同じだった。人に会うことも無く全てのことが自動的に行われる。その場所に住んでいようといまいと外側からは何も分からない。

・・・此処は何処だろう。周りの声は聞こえるが聞き取りにくい。盛んに俺のことを言っているようだが分からない。二月四日、あの日の朝、俺は仕事に出掛け夕方三鷹駅で降りた。そして、バスに乗り帰路に就いた。バスを降り、もうすぐアパート着こうとするときから記憶が途切れている。

「呼吸器を外しましょう、もう一年になります。脳波は停止状態のまま何の反応も有りません。昏睡状態、自発呼吸の消失、瞳孔の固定、対光反射、脳幹反射、平坦な脳波など感覚諸器官の反応は全く無く快復の見込みはありません」

「しかし一年もの間、彼に関わりのある人が現れなかったことが不思議でならない」

「何れ離婚か何かで誰とも接触を持たなかったのでしょう」

「臓器移植の証明をしている訳でもない」

「身元不明のままでは承諾を得られない」

「回復する見込みは〇㌫」

「そう思います」

「これだけ報道したのに何処からも連絡が無かった。しかしきちんとした身なりで所持金もあった。唯、身元に繋がるような物は一切持っていなかった」

「偶々ニュースの時間誰も見なかったのかも知れません」

「警察への届けもなされていない」

「これ以上待っても仕方がないと思います」

「身元不明で脳死状態」

「呼吸器を外しましょう」

「警察の話でも、何処から来て何処に行こうとしたのか、しかし背広姿で浮浪者には見えない」

「所持品は事故の後誰かが持ち去ったのかも知れません」

「有り得ることだ」

「轢いた奴かも知れませんが車の痕跡もない。僅かにタイヤ痕が残っていたが証拠にはならない」

「何も分からず一年か・・・」

周囲の連中は確かに俺の話をしているようだ。しかし此処は一体何処だろう。夢の中を漂っているのか、現実なのか、俺は誰なのか分からない。

・・・俺は車の運転している。高級車とは言い難いが多分自分の車だろう。しかし何処に行こうとしているのか、助手席に中年に差し掛かろうとする女と、後部座席に中学生らしき男の子と女の子が乗っている。

「初めてだね、お父さん。家族で出掛けるなんて」と、後部座席から女の子が話し掛けてきた。その時、お父さんと言われたことに妙な違和感を覚えた。結婚などした記憶はなく況して子供がいる筈はなかった。それに俺は未だ二十二、三歳の筈で、自分の背丈ほどもある子供に、お父さんと呼ばれること自体可笑しかった。

「海、綺麗かな?」

「当たり前だ」と、男の子が応じた。

「お父さん、毎日遅くまで働いて偶の休みはゴルフの接待だったものね。夏休みになっていたけれど予約が取れて良かった」

「美味しいもの出るかな?」

「ホテル代高かったら大丈夫よ、ねえ貴方」

 俺のことを抜きにして家族らしい親子がはしゃいでいる。助手席に座っている女にも見覚えがなかった。それに、二人の子供からお父さんなどと言われながら運転していることに腹が立った。

「帰りは連絡船に乗るでしょ?」

「そうね」と、助手席の女が言った。

 俺とは関係なく勝手に決めていることに益々腹が立った。しかし幾ら思い出そうとしても分からない。

「早く温泉に入りたい」

「貴方、直ぐ着くかしら?」と、助手席の女が言った瞬間全てが消えていた。

 ・・・海が見える。俺の故郷から見ているような感じがする。俺は必死で思い出そうとした。そうだ、確かに秋田県沖の景色に違いない。

「孝之」と、呼ばれた声に俺は振り返った。其処には未だ若い女が立っていた。

「こんな所で何をしているの?」

「海を見ていた」と、思わず答えた。

「一人で来る所では無いでしょ?」

「何故?」

「子供一人では何時荒波に飲まれるか分からない」

「荒れていないよ」

「遠い波間が白くなっているでしょ?波が高くなる前兆よ。気を付けないと!」

「分かった」

 東京に就職して以来長いこと帰郷していなかった。しかし何故、秋田の海が見えるのか分からない。

「孝之、私の所に来ない?」と、女が言った。誰なのか記憶に無かったが後に付いていった。

「孝之は高校一年生よね」

「そうかも知れない」

「変な言い方、でも、前から可愛い孝之のことが好きだったのよ」

「お姉さんは幾つなの?」と、俺は馴れ馴れしく訊いた。

「二十三歳」

「貴方未だ童貞でしょ?色々教えて上げる」と言って、孝之のズボンを脱がし始めた。そして、「横になって」と言いながら股間部に手をやると触り始めた。孝之は指示に従った。「そのままにしていて」と、おしぼりを取り出すと隆起した貴之のモノを拭い、唇を触れたかと思った瞬間口の中に含んだ。

「う、うう」と、貴之は身震いした。

「気持ちが良い?・・・何時も一人でしているのでしょ?・・・これからは私がして上げる。それに色々教えて上げるから何時来ても良いのよ。貴之の女になって上げる」と言った瞬間、脳天を突き上げるような快感に女も海も消えていた。

 俺の周囲では人間が動き回っている。そうだ、調布行きのバスを下りアパートに帰ろうとしていた。其処から全てのことが途切れている。会社に連絡しなければと思いながら夢を見続けているのか、しかし此処は何処なのだ。

 

                                                                       了



最新の画像もっと見る

コメントを投稿