山に越して

日々の生活の記録

山に越して 乖離 第二章 4-2

2014-11-29 09:46:27 | 長編小説

 二 酒場の女

  刺激するような香水を付けた女達に囲まれていた。接待以外クラブで飲むことは無かったが、安看板が目に入った。金は給料日の後下ろしていたので心配なかった。

 会社に戻るにしても時間が遅過ぎ直接帰る旨の連絡を入れた。

「河埜ですけれど、部長はいますか?・・・」

「お疲れさまです。先ほどお帰りになりました」

 電話には佐知子が出た。

「分かりました。報告は明日にして帰ることにします」

「河埜さん、待って下さい」

「何か」

  佐知子は何も言わず受話器を握りしめていた。

「もしもし?」

「御免なさい。疲れているのに・・・」

「電話切っても良い?」

「はい、お気を付けて」

  慎一には人を寄せ付けない感じがあった。佐知子は慎一の優しさを知っていても、それが深過ぎるように思っていた。

 その日の午後、慎一は八王子に来ていた。閉店の相談だったが、部長から兎に角引き延ばすように言われていた。しかし話を聞いているうちに面倒臭くなり、これ以上話しても仕方がないと思い引き上げた。

「お名前教えて?」

「河埜」

「何をしているの?」

「サラリーマン」

「無愛想な人ね・・・」

 と、女は優しく絡んできた。

「会社で辛いことでもあったの?甘えて良いのよ」

 と、別の女が言った。時間が早かったのか、店内には殆ど客がいなかった。

「ねえ、斯ういう所初めて?」

「此処では楽しまなくちゃだめよ!」

「好きな子を選んで!」

「二人きりにさせて上げるから」

 次々と慎一の耳元で囁いた。

「では、あの子を」

 と言って、入り口付近で手持ち無沙汰に立っていた子を指した。小柄で高校生のような感じの子だった。

「淳子ちゃん、此方のお客さま、お願い!」

  淳子は指名されたことが嬉しかったのか、ニコニコしながら慎一の席にやってきた。

「お願いね、淳子ちゃん。此方のお客さま色気が強いと駄目みたいなの」

「いらっしゃいませ。お飲み物は何に致しましょうか?」

「ビールで良いよ」

「お名前教えて?」

「河埜」

「こうの?」

「そう、河埜慎一って言う」

「河埜さんって、初めて?」

「何度か接待で来たことはあるけれど一人ではない」

「正直な方ね」

「嘘を言っても仕方がないだろう」

「いいえ、みんな嘘の固まり」

「そうかな?」

「この世界は嘘ばかりで本当のことは何もない。例えば私、淳子って言われているけれど、本当は希実って言う名前、変でしょ?希望の希に、実るって書いて希実」

「希実の方が素敵だね」

「ほら、嘘を付いている。本当は変だと思っている」

「何歳?」

「二十二歳、でも、それも嘘!!本当は二十七歳」

「二十二、三歳に見えるけれど!」

「私って馬鹿でしょ、若く見えるだけ」

「淳子ちゃん、触らせて上げた?」

 通りがけに先ほどのホステスが声を掛けた。

「御免なさい。余計なことばかり喋っていて」

「偶には斯う言うところで飲むのも良いだろうと思って、触りに来た訳ではない」

「変わっているのね。だって此処に来るお客様って、それが目当てでしょ?」

「良いんだ、ゆっくり出来れば!」

「そんなこと言っていると財布の中身が空っぽになってしまうわ。それでも良いの?」

「何時もは赤提灯でしか飲まないが、ついフラフラと入ってしまった。人恋しくなったのかも知れない」

「私って詰まらない女でしょ?」

「そんなことはない」

「だって、男の人の気持ちなんて分からない」

「男は助平で女に触りたいって?」

「そう、男なんて嫌な生き物」

「なのに、男の酌をしている」

「こんな所早く抜け出したい。稼いで、貢いで、捨てられる。女って馬鹿ね」

「彼氏、いるんだ」

「嫌な奴」

「別れてしまえば良いじゃないか?」

「そうしたいけれど、女って駄目ね。ねえ飲みましょ、楽しみましょ、高いお金出すんだもの」

 そう言って希実はビールを注いだ。

 慎一は希実が何を言いたいのか考えていた。何れにしても男と女しかいなかった。それぞれの生き方があり、他人には入り込むことの出来ない生活を持っていた。

「ねえ、何考えているの?」

「俺は何を求めているんだろうって!」

「貴方って変な人ね」

「そして結論は、求めても必要な物はこの世にはない」

「そうかな?」

「俺も、希実ちゃんも、この建物も、飲んでいるビールも全て幻かも知れない。例えば現在を一九九九年と仮定する。しかしタイムスリップした時代で、本当は二〇五〇年であっても良い。そうすると希実ちゃんは後三年で八十歳になる」

「幻なの?そして、私は八十歳で水商売しているの?」

「八十歳のお爺さんとお婆さんが乾杯している」

「その間の五十年はどうなるの?」

「必要がないことになる」

「分からない」

「必要な時間ではないし、何をして生きていたのかも必要でない。必要な物は何処にも無かったことになる」

「みんな必要なことじゃない。お金が必要だし、洋服が必要だし、家が必要だし、子供だって必要でしょ。食べることも、仕事も、生きていることも必要なことよ」

「必要だと思っても何も残っていない。みんな消えてしまう」

「だから幻なの?」

「そう、幻の時間を生きている」

「幻なら、私の苦しみも悲しみも無かったことになるの?逃げ出したいと思っても耐えられるの?」

「逃げ出しても良いし、このままでも良い。どちらにしても必要なことではない」

「ねえ、逃げ出した私のこと面倒見てくれる?」

「良いよ」

「信じても良いのね」

  慎一は本当にそう思っていた。

・・・それにしても、あの酒店は今頃になって何故廃業しようと思ったのだろう。得意先を何件も持ち、順調な売上高を確保していた。廃業すると言っている限り、他の問屋が横やりを入れていることはないだろう。予期しないことで土地を手放し、家を手放し、生活の基盤を変えなくてはならない。誰の責任でも何が悪い訳でもない。何時までも同じ儘でいられないと分かっていても、あの家族は一瞬にして八王子の街から消えるだろう。所詮、人間は消滅と再生を繰り返してきた。地球誕生から四十六億年、人類が誕生して三百五十万年、紀元前四千年に始めて地上にシュメール文明が生じた。けれども、その文明さえも一瞬にして砂丘の下に埋もれてしまった。その後アッシリア文明は戦いに敗れて滅亡し、バビロニア文明は興隆と没落を繰り返して滅びた。それから六千年後に俺が生きている。生まれては消滅を繰り返し、数え切れない人間が死んだことになる。戦いに駆り出され伐たれて死んだ人間、自ら命を絶った人間、病で死んだ人間、何れにせよ偶然に生まれ必然的に死んでいった。歴史は学者や学問にとって必要であったかも知れないが、個々の人間の死には必要でない。文明が滅んでも何も変わらなかったように、一軒の酒店が滅んでも何も変わらないだろう・・・

「ねえ、何考えているの?黙り込んでしまって!」

「アッシリア文明は何故滅んだのか考えていた」

「なあに、それ?」

「今から六千年前の女たちは美人だった。希実ちゃんに負けないほどの美人が多かった」

「私って美人かな?」

「可愛いよ」

「嘘ばっかり」

「君となら結婚しても良いと思う」

「貴方って可愛いのね」

「何が?」

「だって、真面目な顔して言うんだもの」

「俺のこと、信用しても良いと思えば電話をくれ。もう帰るよ」

 と言って、慎一は名刺を渡した。渡しながら「待っているよ」と耳元で囁いた。希実は、「屹度」と言って送ってきた。

 夜の街は九月の中旬だと言うのに風が冷たくなっていた。慎一は駅まで歩きながら希実のことを考えていた。酒には酔っていなかったが内面は酩酊していた。この地上に何億という人間が生まれ、何も知らず歳を重ねる人生であっても、享楽の人生であっても、苦痛だけに苛まれる人生であっても、何れ死に絶えていく。温度が沸点に達すれば後は冷えていくより仕方がないように、多くの民族が栄華衰退を繰り返してきた。生まれては消滅し、何れは何も残らない廃墟と為す。全てが地上から消え、無の世界に帰すれば、人間の意味は無くなり歴史の終焉を迎える。そして、慎一自身の歴史は慎一の中で閉じられることになる。

 

 次回 三 同僚

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山に越して 乖離 第二章 4-1

2014-11-28 09:04:47 | 長編小説

一 新宿

  聖蹟桜ヶ丘駅から何時も通り特急電車に乗った。調布で普通電車に乗り換えようと心の準備は出来ていた筈なのに、降りることが出来なかった。電車はつつじヶ丘駅を猛スピードで通り過ぎていた。また同じことの繰り返しに、暮れてしまった街並みが慎一の心を傷付け、乗客の間に映る自分の姿に惨めな老醜を見ていた。慎一は外食するのを余り好まなかった。何時もなら、駅前のスーパーで女達の間に混ざって買い物をしている時間だった。しかし、家に帰って食事の支度をすることが面倒になっていたのかも知れなかった。

 電車は既に新宿駅に着いていた。慎一は足早に人いきれの地下道を西口から出た。

「いらっしゃい、毎度!」

 暖簾を潜ると威勢の良い主人の掛け声が飛んできた。慎一が時々通う店だった。

「旦那、久しぶりですね。何にいたしましょう?」

「ビールと、他は適当に見繕ってくれ」

  手酌でビールを注ぎ一息で飲み干した。

「酒の値段は上がりそうですか?・・・」

 と、慎一が酒の卸売問屋に勤めていることを知っている主人が訊いてきた。

「分からない」

「そうですか」

 慎一の無愛想な受け答えに主人はそれっきり黙ってしまった。

・・・俺は時々自分が何をしているのか分からなくなる。意識の内部で、ふっつりと糸が切れたような行動をとる。理路整然と予定通り行動するのではなく、その時の瞬時的な偶然に身を任せてしまう。そう、あの時もそうだった。授業が終わり、数人の同級生と新宿で飲んでいた。九時頃分かれアパートに帰る積もりで新宿駅に向かった。しかし私鉄に乗ることはなく山手線に乗っていた。着いたところは上野だった。冬だったのか、まだ冬になる前の季節だったのか、青函トンネルは未開通で、東北本線は青森行きの急行が走っていた。上野駅で弁当を買い、十時丁度に発車する列車に乗っていた。客席は込み合っていたが、進行方向に向かって通路側に座ることが出来た。俺の直ぐ後ろが連結器だったが、発車間際にはその間にも何人かの人達が座り込んでいた。列車は定刻に上野駅を発車した。窓外に見え隠れしていたネオンは消え、列車はひたすら北に向かって走っていた。俺の横には労務者風の男、その正面に勤め人風の男、そして俺の正面には若い女が座り、狭い座席は膝が触れ合うように窮屈だった。一つのボックスのまま東京から七百五十キロ、十時間余りの旅程だったが、その間、誰も口を利くことはなかった。途中で駅弁の紐を解き始めたとき、一瞬、三人が俺を一瞥したように思った。腹が空いていたので旨いとも不味いとも思わず黙々と食べた。食べ終わるのに五分と掛からず、空き箱は座席の下に置いた。見られたように思ったのは間違いで、矢張り三人とも目を閉じたまま身動きひとつしなかったのかも知れない・・・埼玉県境を越える辺りから俺は三人の様子を探っていた。しかし、何の為に何故乗っていたのかさえ想像できなかった。ふと、三人は知り合いなのかと思った。口は利かなくても、俺に分からないように目で合図を送り合っていると考えた。上野を出てから既に三時間経っていた。腹が満たされ、足を縮め、同じ姿勢でいることに疲れていた俺は眠りたかった。俺は前に座る二人の座席の隙間に足を入れた。若い女は無表情な目で俺の方をちらりと見た。俺の足はその女の太股の温もりを直ぐに感じていた。感じたことで、二度と下に降ろすことも横に動かすことも出来なかった。微妙なバランスを保ったまま、それを壊してしまえば同じ体勢を取ることの出来ない緊張感を感じていた。福島を過ぎ仙台辺りを通過した頃だった。突然子供が激しく泣き出した。一生懸命宥める母親の声が聞こえていたが、虫が付いたように子供は泣き喚いていた。多分眠っていなかった筈なのに、三人とも何の反応も示さなかった。盛岡辺りで夜が明けてきたのだろう、青森までもう直ぐだった。その時、女が俺の方を窺ったように思った。ぼんやりとした朝の光をそう思ったのか、でも、その時は確かに視られているように感じた。若いと思っていた女は、既に三十歳は越えていたのかも知れない。俺はやっとの思いで足を元の位置に戻した。そして、その足を二度と座席に乗せることは出来なかった。俺の足は、女の温もりを感じながら微妙に脈動していたのかも知れない・・・薄明かりの中、車輌の左右は一面を田畑に囲まれ、人家が疎らに建つ東北地方の始めて見る風景が拡がっていた。長閑と言うよりうら寂しさを覚えた。車内放送が流れ間もなく青森駅だった。その放送にも、三人は何の反応も示さなかった。通路では乗客がザワザワと動き始め、棚から荷物を降ろし、話し声が聞こえ始めていた。列車はゆっくりと青森駅のホームに滑り込んだ。列車が止まってからも三人はその場を動くことはなかった。連絡船の待ち時間は一時間近くあったが、俺は自分だけ下車して良いものか迷っていた。しかし耐えかねて行列の後に続いて列車を降りた。暫く歩いて後ろを振り返ってみたが、三人の姿は皆目見当が付かなかった。俺は連絡船の待合室に向かっていた。途中立ち食いそば屋があったので朝飯代わりにそばを食った。しかしその間も落ち着かず、後ろを何度も何度も振り返ってみた。あの三人が必ず歩いてくると思っていたが矢張り分からなかった。連絡船を待っている一時間余りを非常に長く感じ、俺は苛立ちながら煙草を何本も吸った。そう言えば、あの三人は煙草を吸わなかったし、一歩も動かず、食べず、喋らず、そして俺が座席に掛けたとき既に三人とも座っていた。何れ連絡船に乗るだろうと思い、乗船口で見ていたが誰も乗って来なかった。何故、あの時、列車を降りる姿を確認しなかったのか悔やまれる。あの三人が本当に乗っていたのかさえ今では定かで無い・・・スクリューが巻き上げる白い波と、黒い海を、函館に着船するまで見ていた。記憶は其処でふっつりと途切れている。あの後、俺は何処に行ったのだろう。札幌まで行ったのか、函館の街を歩いていたのか、下船したのかさえ覚えていない・・・

「旦那、大丈夫ですか?」

 と、主人が声を掛けた。

「ああ、大丈夫だ」

「声を掛けても返事は返ってこないし、心配しますよ」

「そうか、昔のことを考えていた」

「お若いのに、未だ昔はないでしょう」

「全てが昔になってしまった。昔の上に胡座を舁いている」

「若いのに大変だ」

  と、主人は呆れた顔をした。

「ビール、もう一本くれないか」

 慎一は酔っていた。しかし何故飲まなくてはいられないのか分からなかった。中空を見つめ遠い日々を顧みていた。

・・・大学生になって、始めての夏休みに四国を旅行した。高松から西に向かう列車は、途中駅で数分間停車した。俺は何気なく駅名の書いてある看板を見ていた。西から進入してきた列車は俺の前で止まった。ホームを挟んで反対側に止まった列車の窓から若い女が此方を見ていた。俺が気付いたとき、女は一分程俺のことを見つめていたのだろう。俺は女の眼差しに釘付けになってしまった。俺の乗っていた車輌も女の乗っていた車輌も殆ど乗客がいなかった。でも、本当に一、二分のことだったのだろうか。ホームはユラユラと陽炎に揺れ、見つめ合ったまま時間が止まっていた。俺は西に向かい、女は東に向かっていた。先に発車した列車は、女の乗っていた車輌だった。遠ざかって行く車窓から女は首を傾け俺の目を見つめていた。名前も、何故その車輌に乗っているのかさえ知らない女は二十歳位だったのかも知れない。駅には、駅員もいなかったし乗降客もなかった。何の為に停車したのか分からなかったが、単線だったので擦れ違いの為に停車したのだろう。もしも瞬間的な出会いが生を左右するほど激しいものなら、俺は反対方向に行く列車に乗り換えることが出来た筈である。乗降口が開かないのなら、窓から出ることも、非常停止装置を押すことも出来た。何も出来なかった俺を置き去りにして、あの女は永遠に消えてしまった・・・旅先での出会いと別れは瞬間的なことで終わる。僅かな時間の中に、凝縮された感情の交差がある。未来を共有することは無かったが、その瞬間のことは俺の中で消滅することはない。思い出として残っているのではなく青春の証としてある。列車は速度を速めていた。窓外に続く海岸線の先に、擦れ違った女の眼差しを見ていた。確かにその女は俺と同じ時間、同じ場所に存在していた。その先には何もないが、夢でも幻でもなく確かなこととして数分前にあった。けれども既に過去でしかなかった・・・走り出した列車は、互いに時間を反対方向にとり、交差した瞬間から過去に向かって進んで行く。西に進んだ俺の先には、俺の未来と女の過去があり、東に向かった女の先には、女の未来と俺の過去がある。未来と過去は、同一線上の同じ時間同じ方向にあり、進行方向に同一に存在している。矛盾しているように見えるが、決して矛盾せず事実としてある。互いの行き先は違い、二度と女に再会することはないだろう。過去と未来が現在という同一線上に複合してあり、交差する瞬間多方向に遊離する。捉えることが出来なければ、それは既に失われているのだろう・・・俺にとって見知らぬ土地への旅は開放感と悲しみを宿していた。東京に出て来たことで開放感に浸っていたのだろうか、その頃の俺はよく旅行をした。生活は苦しかったが、アルバイトで金が貯まると北に南に出掛けていた。時刻表を眺めながら、未知の土地を歩きたい欲求に駆られていたのだろう。そして、当て所のない旅は今でも俺の中で蠢いている・・・俺は未来という新宿駅に向かって歩いて行く。街行く人々は俺の周りを通り過ぎて行く。同じ時間、同じ空間、同じ空気を吸っている。しかし、振り返ると其処には、二度と繰り返されることのない過去がある・・・

「旦那、大丈夫ですか?・・・」

「勘定してくれ」

 慎一は酩酊状態のまま新宿の街中にいた。そして、結果はアパートに着く頃になってくる。吐き気が襲い、酒も、食した物も全て吐く。激しく目の前の物体が右回りにクルクルと回る。トイレに駆け込み指先を喉の奥まで入れる。吐いては水を飲み、水を飲んではまた吐き、胃液まで吐いて落ち着く。全身発汗し、掻きむしられるような不快感に苦しめられる。これまで何度も同じことを繰り返していたが、また酒場に足を踏み入れている。しかし其処に求める物があり、捨てる物がある訳ではなかった。慎一はアパートに帰り着いたことさえ覚えていなかった。しかし苦しみだけは何時も通りやってきた。

次回 二 酒場の女

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山に越して 乖離 第一章 4-4

2014-11-26 15:34:07 | 長編小説

 四 聖子

  ・・・毎日毎日キーボードを叩いている。朝から夕方まで同じことを繰り返し機械の中に埋もれている。就職して一年目は、ペンティアム一六六メガヘルツのコンピュータを扱っていたのではなく機械に使われていた。打ち込みには、リズム、スピード、バランスが要求された。間違った数値が打たれても、機械は何も反応せず打たれた通りに数字を並べていく。数台あるコンピュータの内、俺が使うコンピュータには名前が付いていた。何時だったか、一人残業をしているとき、≪聖子≫と名付けた。秋風が吹き始めた頃だろうか、それとも冬の最中だったのだろうか、今では季節さえ忘れている。聖子には、俺が休みを取ったときにだけ佐知子が触っていた・・・

 事務所には慎一一人が残っていた。静まり返った部屋の中で対話が始まっていた。

「聖子」

「なあに!」

「何時も協力してくれて有り難う」

「だって、慎一の優しいところが好きだもの!」

「今まで、そんな風に言われたことなかったな」

「慎一って、優しく触ってくれるでしょ!私のこと、本当の女のように思っている」

「聖子は俺を裏切ることはない。俺の言う通りに動いてくれ、考えてくれる」

「私は機械、考えることは出来ないけれど、貴方のお気の召すまま従うしかない」

「聖子のこと機械だなんて思っていない。知識であり、感性であり、良い女だと思っている」

「嘘!付いている」

「聖子に触っていると気持ちが静まる」

「ねえ慎一、佐知子さんのこと好き?」

「どうして?」

「佐知子さんの指先ってとっても綺麗!!キーボードを叩くときのスピードも速くて素敵よ」

「可愛いとは思うけれど、好きだって感覚はない」

「佐知子さん、慎一のこと好きだと思う。慎一が休んだとき、私に触る感触で分かる。始めキーボードを優しく撫でている。そして、暫く考えてから打ち始める。途中何度か休むとき、溜め息を吐く。その時に慎一のことを考えている」

「観察が細かいね」

「目許が潤んで指先がしっとりと濡れてくる。そのことに気付いたのは去年の終わり頃だった。でも、何故急に惹かれたのか分からなかった。佐知子さん、誰かに失恋した後、慎一に思いを寄せたのかと思った。でも違っていた。慎一に始めて会ったときから感じていたと思う」

「分からないな」

「嘘ばっかり、知っていてそんな風に言うなんて嫌い!」

「若過ぎて付き合い切れないよ」

「私、慎一のこと長い間見ているでしょ。慎一って少し冷た過ぎると思う。デイトに誘って上げれば良いのに!佐知子さん、慎一が誘ってくれるのを待っている」

「聖子、妬かない?」

「妬かないよ!」

「ほら、妬いている」

「慎一、貴方の考えていること当ててみましょうか・・・」

「何も考えていない」

「また、嘘を付いている。慎一が椅子の向きを変え、私の方を向いて仕事を始めるとき視野には何も映っていない。毎日毎日出社しても仕事のことなど考えない。書類を見ている振りをして、その先にある物を見ようとしている。視野の向こうにあるものは、過去でも未来でもなく況して現在でもない。透明な感覚の向こう側に在るもの、それが一体何なのか探している。しかし何時まで経っても分からない。そして、分からないことで苦しんでいる。生きることも死ぬことも分からないまま、それでも求めようとしている。慎一、何故そんなに苦しむの?・・・慎一はこの世に生まれて来たことを後悔している。生命としてあることが辛い。生きることを放擲すれば、存在したことなど意味が無かったと思っている」

「俺は、俺でしかない」

「私は機械、何台も何台も同じ物が作られる。通し番号が打たれても同じ物であることに変わりない。キーボードを叩けば、叩いた通り画面に反応する命を持たない機械に過ぎない」

「聖子は、変わることのない時間を生きている」

「慎一は慎一として生きている。染色体に同じ物がない限り、生命に同じ物は存在ない。それぞれその時その時に、違うことを違うようにしている。そして、同一の瞬間は決してない。生命は過去を、未来を持たず、瞬間、瞬間を生きている」

「生きているだけであって目的がない」

「いいえ、生きていることが目的となるような生き方が出来る。生命は恐らく何処にも存在しない。仮に宇宙の果てに在ったとしてもそれに巡り会えることはない。慎一の生命は、慎一だけのものであり二度と生じることはない」

「確かに俺以外の物にはならないだろう。でも、俺を生きる方向に持って行くことの決定的なことにはならない」

「機械は電源を切られるか、部品が壊れてしまえば終わりになる。そして、古くなり必要が無くなれば廃棄処分になる。慎一だって何時か私を捨てる。悲しいわ」

「仮に一つや二つの生命が失われたとしても問題はないだろう」

「そうかも知れない。機械であることも、生命体であることも、慎一にとっては関係が無いってことでしょう」

「聖子は必要かも知れない。しかし、そう言うことかも知れない」「壊れた所は、私のように部品を換えればまた生き返ることが出来る。でも、慎一は再生されない」

「人間は年老いて死ぬ。このことだけは真理として正しい」

「加齢って、私の部品が摩耗することと同じ?」

「加齢は一度起こると決して元に戻ることのない不可逆性を持っている。生命は時間と共に全ての機能が低下していく。部品を取り換えることは出来ない。仮に他の部品と取り替えたとしても意味をなさない」

「私は機械、故に感情を持っていない。慎一のカテゴリーまで理解することが出来ない」

「聖子は悲しみが分かる」

「いいえ、私には感情や感覚はない」

「人間であることの意味を探そうと思っても、最早人間そのものが分からなくなってしまった」

「感性で捉えられない?」

「人間は分化し再生されてきた歴史を持っている。生命としての人間は必死に生きようとしてきた。再生から再生を繰り返し、互いに補い合いながら生き続けようとするだろう。しかし、身体だけ生きていても何の意味もない」

「生きる意味は修飾語に過ぎない?」

「そう言うこと」

「でも!」

「人間は認知できる空間の中で生きているのであって、他の空間では生きることは出来ない。地球に生きていることが全てであり、地球があるから人間として存在している。引力圏の影響を受けない生活は有り得ないだろう。地表の上で、生物として存在し、自分の生きたいように生きる自己決定権を持っている。しかしそれさえ既に失われている」

「でも、慎一には生きて欲しい」

「雁字搦めで生きていても仕方がない」

「私は電源を切られると終わる。それに、必要がなくなるとデータを残してゴミ箱に捨てられる」

「何故、生きることを無意味だと思うようになったのだろう。何れ人間は死ぬ。個人の死は遅速の差はあっても、生命の歴史から見れば何の問題もない」

「他者に依存しない生き方が慎一には出来る。慎一がいなければ私だって寂しくなる」

「寂しい?」

「慎一を必要とする人がいる」

「幻想だよ」

「いいえ、私は知っている。慎一にとって大切な人を!」

「終わってしまった」

 時間が過ぎていた。慎一は手を休め溜め息を吐いた。壁に目を遣り時計を眺めた。

「もう帰って、電源を切っても良いのよ」

 聖子も溜め息を吐いた。

「もうすぐ十二時か!」

「帰りの電車、まだあるの?」

「聖子、さようなら」

「慎一」

 聖子は慎一と言ったまま言葉に詰まってしまった。

 

 慎一は電源を切り夜の街に出ていった。秋を思わせる涼風が流れ八月も終わろうとしていた。駅に続く商店街はすっかりガレージが下り街灯だけが虚しく歩道を照らしていた。

 駅のホームで最終電車を待っていた。

・・・一人で始めて東京に行った日、大学の入学試験を翌日に控えていたが、俺は参考書を開くこともなく、国道一号線に架かる品川駅前の歩道橋で沈む夕陽を眺めていた。人々はコートの襟を立て、家路に向かっているのか足早に歩いていた。空は晴れていたのにチラチラと白い物が落ちてきた。夕陽があんなに赤く燃えているのに、雪が降ってきたことが不思議だった。俺は雪を掌に受け止めた。けれども、融ける筈の雪片は何時までも消えることはなかった。暫くして気が付いた。それは雪が落ちてきたのではなく灰だった。東京の空から降り注ぐ灰、次から次へと風に舞いながら落ちてきた。俺はその場を動くことが出来なかった。夕陽を眺めながら両頬を涙が流れていた。虚しい涙、俺の内面は掻きむしられるような悲しみに支配されていた・・・国道に近いホテルの前を一晩中自動車が走っていた。途絶えることのない自動車の流れ、その振動に朝まで眠りに就くことが出来なかった。東京で迎えた朝は、充足感ではなく虚無が支配していた。眠い目を擦りながら試験会場に向かっていた俺に何の意味があったのだろう。しかし鉛筆を握りしめ、答案用紙を埋めて行く作業を黙々とこなしていた。試験が終わると真っ直ぐ東京駅に向かった。一刻も早く東京から離れたかった。新幹線の車窓からビルディングが消え、畑や海が見え始めた頃になって忘れようとしていた虚しさが蘇ってきた。しかし翌年の三月、少しばかりの荷物を持って東京の住人になっていた。それから十一年、何も変わることがなく俺の意味が失われていた・・・

次回 乖離第二章 4-1 新宿

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山に越して 乖離 第一章 4-3

2014-11-25 11:07:42 | 長編小説

  三 倉庫

  八月も後半に入りビールの売れ行きは急激に落ち、替わりに日本酒が少しずつ伸びていた。慎一は注文のファクスが少ないことを確かめると倉庫に行った。事務所で女の子を相手にお喋りをしていることも嫌だったが、ファクスの数値を眺めていることにも疲れていた。倉庫では係長の米崎が、午後の積み込み作業も終わり、夕方まで手持ち無沙汰にしていた。

「係長、蒸し暑いですね。今年は雨が多くてビールの売り上げが余り伸びませんでした。品数は多いのですが、量が出ません」

「忙しいのが良いのか、暇が良いのか、もう夏も終わりだね」

「日本酒の季節になりますね」

「河埜君は入社して何年になる?」

 と、仕事とは関係のないことを訊いてきた。

「六年になります」

「結婚は、まだ先かな?」

「多分しないと思います」

「家庭を持たなくては一人前と認められないだろう」

「先のことまで考えても何も見えてきません」

「うちの娘に会って欲しかったが?」

「生活を維持して行くことも、子供を育てることも出来ないような気がします」

「そうは言っても御両親が心配なさるだろう」

「生き憎い社会であることに間違いはないし、俺のような中途半端な生き方では結婚した相手が可哀相です」

「生き憎い社会か・・・」

「生活することは、苦しみだけしか残らないような気がします」

「苦しみか・・・」

 と、米崎は溜め息を吐くように繰り返した。結婚して二十五年、依田商事に勤めて二十八年経っていた。溜め息の中に過去が滲み出ていたが定年までには十年近く残っていた。

「何れ田舎に帰って暮らそうかと思っています」

 米崎は、慎一の言ったことを聞いていなかったかのように自分のことを話し始めた。

「長女が今年で二十三歳になる。会社勤めをしているが、母親は懸命に嫁ぎ先を探している。しかしのんびりしているのか、遊びたいのかそんな積もりは全くない。長男が大学の二年で、その下に高校生の娘がいる。倅は金も無いのにアパートに移りたいと自分勝手なことばかり言っている」

「僕も中学生の頃早く家を出ることを考えていました。親元を離れ一人で生きたかったのかも知れません」

「子供が成長した分、家の中には問題が多くなり帰ってもゆっくり出来なくなってしまった」

「ええ・・・」

「何時までも同じ状態が続かないことは十分承知している。しかし子供たちも生活することの大変さを知らなくてはならない」

「後少しの辛抱だと思います」

「分かっている・・・」

「親子の関係って何でしょう。血は繋がっているが、個としては別々の生き物でしかない」

「多分そうだろう。親子でありながら分かり合うことが出来ない」「それで良いのではないでしょうか・・・」

「人生の半分以上生きて来て、俺の過去は何だろうって考える年になってしまった。このまま定年まで働いても自分には何も残らないような気がする。何故働くのか考えても仕方が無いし、他に移りたくても老い耄れを雇ってくれるところはない。このまま依田商事で働くことしか能はない。何か成さないと意気込んでも、誰も彼も皆凡人に過ぎない。そして、所詮成るようにしかならない。結局この年になって、何故働くのか、何の為に生きて来たのか分からなくなってしまった・・・」

 配送を終えた最後のトラックが戻ってきた。米崎は明日の準備のため倉庫に入って行った。生活、家庭、仕事と、何処に行こうとしているのか、彷徨い疲れ切った後ろ姿を映し出していた。

 慎一は暫くの間作業を眺めていた。洋酒、日本酒、ビールなど多品目が順序良く二つの倉庫に堆く積まれ、薄暗い倉庫の中は、夏だと言うのにひんやりとしていた。何時までも寝かせて置く品物ではなく、入庫と出庫のバランスを保ちながら常に一定の量を確保して置く必要がある。恐らく何百人の人々が関わり、人間の欲望の対象として倉庫の中に納められている。しかし、商品としての酒は自らの存在を主張し空間を自分の住処として占めている。

 慎一は奥の方に入っていった。

・・・俺は酒と会社の為に出勤している。現実の生活過程が俺自身の存在であるが、俺がこの会社にいる限り、酒は俺自身の生き方を規定して生活の全てを支配する。意識が生活を規定しているのではなく、依田商事に勤めている日常が俺の意識を規定している。毎日コンピュータに数字を打ち込み、営業に歩き廻り、酒を売り込む、それが俺の会社での全てである。そして、俺の日常は会社に拘束されたまま俺のものになることはない。倉庫に積まれた酒は、俺の生き方とは関係が無く俺の日常を支配する為に存在している。会社は俺自信を必要とするのではなく、俺の時間だけを買っているのに過ぎない。会社に寄生し依拠しているのが俺の生活である・・・

 

 夕方になり慎一は事務所に戻っていった。営業の二人は女の子たちと雑談をしていたが、部長と社長は出掛けたままだった。今日も一日が何事もなく終わっていた。慎一は帰り支度を済ませると足早に駅に向かった。変わらないのが日常であり、誰も彼もが変わらないことを望んでいた。慎一はじっとりと汗を掻きながらアパートに辿り着いた。風呂に入り昨夜の残り物を食べた。それは、一人で生活することの合理性よりも日常の頽廃から来ていた。夜になると涼しい風が吹き始め、近くの叢から蟋蟀が鳴き、夏の終わりを告げていた。

 慎一は窓辺に凭れながら夜毎見る夢のことを考えていた。

・・・夢の世界を信じている訳ではないが、最近嫌な夢を見るようになった。それは何時も同じ夢で、突然始まり、纏まりの無いまま終わる。雪で出来た祠の中に、心筋梗塞を起こし唸りながら俺は横たわっている。阿部川で農業をしている父が放心状態のまま俺を眺めている。けれども急に画面が逆転すると、心筋梗塞の発作を起こし苦しんでいるのは父親に替わる。俺は助けようと処置をしているのではなく父親と同じようにただ眺めている。そして、いざ助けようとすると、今度は俺が心筋梗塞を起こしてしまう。その時俺は目覚める。死にそうになりながら、夢から覚め生きていることを確認する。月曜日から土曜日まで同じ夢を見る。眠りから覚めると、周囲を見渡し自分と物との関係を確認する。そして、物との距離や位置が同じままであることを知る。俺は、幼児が目覚めたとき、透かさず物と位置との関係を自然に捉え、安全を確認するかのように安堵を覚える・・・蒲団に横になり、このまま起きなければ良いと思う。しかし何時も通り朝を迎える。俺は定刻に起き、背広に着替え駅に向かう。そして、何時もと同じ電車に乗る。しかし窓外を横切る風景は死に絶えている。走っている電車も、車も、家々も、空間を支配しているのではなく、蜃気楼のように存在感が無く霞んで見える。俺は腕時計を見て、時間だけが確実に進んでいることを知る。俺以外の人間は、その時間の中に生きることの実在感を感じている。それを社会的な人間関係として満足感に浸る。今日一日を、充足した生活として記憶の底に隠し積み重ねて行く。しかし俺自身の内面は依り不確実なものになり、隣り合わせに座っている乗客も、反対側に腰掛けている乗客も視野から消える。夢を見ているのだろうかと思うが、電車は停車し、乗客は乗下車を繰り返している・・・郊外に向かう車輌は都心に行く車輌に比べ、何時も二、三割しか乗り合わせていない。斯うして何年も通っていながら、風景は変わっていないように見える。しかし微妙に変わっていても気付かないだけなのかも知れない・・・生活して行くことは、姿、形を変え、馴染み、自然に同化し、そして順応して行くことだろう。そのとき生活を営んでいる実感を知る。空き地がビルディングに変わり、畑に家が建ち、縁側にいた老人の姿が消えている。食堂の主人が入れ替わり新しい店が開店する。日常の移り変わりが歴史の中にある。しかし左右に立ち並ぶ家々が、そのまま永遠に存続していると思うのは間違いである。地殻変動など自然災害で何時壊滅するか分からない。事実は消滅することを前提に現存しているのに過ぎない・・・月曜日からに土曜日まで、同じことを繰り返して一週間が終わる。そして又、月曜日の朝九時前には依田商事株式会社の正面玄関に立っている。何も変わることはなく、俺は月二、三回の割合で外廻りに出掛ける。自動車の運転をしている時、視野から風景が遠ざかって行くことを知る。近付いている筈なのに、近付けば近付く程目的物は離れ、眼前にあった建物や、歩いている人間が不安定なものになりユラユラ揺曳しているように感じる。手を伸ばしても掴み取ることは出来なく、俺自身が四次元の世界に入り込んでしまったような、不確実な物体になる。そして、最早存在自体が好い加減なものになり、意識する意識など全く無意味に感じる。酩酊状態のときに感じる混濁のような、又、無重力状態のような不確実で不安定な意識になる。俺は世界からはみ出し、暗黒の許に置かれ、眼前には虚無が漂う。胸裡に激痛が走り、喉の渇きと虚脱感を覚え眩暈を感じる。そして、呼吸は荒くなり深淵に落ち込むときのように、意識が薄れ感覚が遠ざかっていく。立っていることも出来なく冷や汗を流しながら耐えている。生きることを嘲笑っているかのように、一ヶ月に一度の割合でそれはやってくる。俺は木陰で、深々と何度も何度も深呼吸をする。そして、水を舐めるようにゆっくりと体内に流し込む。十分、二十分経つ内に少しずつ生気を取り戻し、思考力が戻り、自分の位置の確認や何をしていたのか思い出す。しかし失神していたのか、失神する寸前まで行っていたのか分からない。底なし沼のドロドロとした不可思議な世界の中に陥っていたのかも知れない。気が付くと、周囲の情景が俺とは懸け離れ疎遠なものになっている。本当はそのまま死んでしまえば良いのかも知れない。一瞬にして意識を閉ざし目覚めることがなければと思う。心の中で、俺は、苦しいよ、苦しいよ、と咽頭が掻きむしられるような叫び声で呻いている。そんな時、最早何も感じなくなっている。一日は始まりも終わりもなく、宙ぶらりんのまま時間が過ぎている。そして、疲労困憊した俺は蒲団の中に丸まって眠る。夜中に目覚めた俺は、静かに溜め息を吐き、一つ一つの細胞が泣いていることを知る。一日は中空に消え、俺の歴史を刻んだのではなく、置いてきぼりのまま終わる・・・

 

 慎一の内面は、グルグルと壊れたレコードのように同じ所を廻っていた。出口のない焦慮だったのか、体内を蝕む細胞が疼き始めたのか分からなかった。

次回 4 聖子 

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山に越して 乖離 第一章 4-2

2014-11-24 12:59:01 | 長編小説

 二 出先

 

 各小売店は年に数回折り込み広告を地域の新聞に入れる。季節、季節ごとに重なることが多く、広告を作り安価で提供する商品を決めて置かなくてはならない。見本は、売り上げ、地域性などによって百種類以上用意してあった。また、各小売店の特殊な注文にも十分応えられるように日頃から周到に準備していた。

 慎一は広告のデザインを考えているとき、面白みを感じることもあったが、その他の日は時間を持て余し気味に過ごしていた。製造元への注文も、特定の銘柄は前年中に確保する必要があった。ビールなどの量産品は、気候と売れ行きに微妙な相関関係を持っていたので、気候を読む術が必要とされた。しかし量販品と言え、各小売店からの急な注文に対応出来るように準備をしておく必要があった。また、品目別の年間売り上げの見通しを立て、製造元への発注伝票を切るのも慎一の仕事だった。部長決裁や、社長決裁が必要な事項も、出張中の場合などは慎一に一任されていた。在庫との調整が必要だったが、何れコンピュータが行っている業務であり、売れる商品を必要に応じて仕入れているのに過ぎなかった。

「先ほど伊藤酒店から電話があり、折り込み広告を入れたいと言う話でした」

 倉庫で入庫状況を調べ、事務所に戻ってきた慎一に飯山佐知子は声を掛けた。

「直ぐ電話して頂けます?」

「何処の伊藤さん?」

「御免なさい、訊いていませんでした」

 事務所に残っていたのは佐知子と経理の女の子が二人で、社長と部長は連れ立って出掛け、上嶋、佐伯もいなかった。佐知子は事務所内で一番若く、前年の四月都内の短大を卒業後入社してきた。佐知子の机は慎一と通路を挟んで丁度向かい側に位置していた。

「意地悪言ったかな?!」

 何を言っても直ぐ俯いてしまう佐知子だった。

「済みませんでした」

 と、佐知子は蚊の鳴くような声で謝った。

「御免、御免、分かっているから!」

 そう言って慎一は伊藤酒店に電話を掛けた。

「席を外していて申し訳ありませんでした」

「河埜さん、色々世話を掛けて申し訳ない。ディスカウントストアが出来てから、矢張り売れ行きの方が落ちてしまった。そこで折り込みを入れたいと思っている。安売りをして客を呼び戻したいが、出来るなら何品か安く仕入れさせて欲しいお願いと、売れ筋の出荷状況を知りたい。それに、売り出し日は店頭での協力も得たいと思っている。急なこととは分かっているが是非お願いしたい」

「何時頃の御予定ですか?」

「出来れば七月の初旬に」

「一ヶ月ないですね」

「日数が足りないことは分かっている。しかし其処を何とかして貰いたい。河埜さんなら大丈夫でしょう」

「しかし」

 と、慎一は躊躇った。

「出来ればビールとジュース類を半値近くで売りたいが、如何なものでしょう?」

「分かりました。何とか副うようにしたいと思います」

「有り難う」

「商品の内容を決め、何種類かの広告を作りたいと思います。売り出し期間は月初めの金土日、三日間になると思いますが、宜しいでしょうか?」

「それで良い」

「他に必要なものはございませんか?」

「今のところ無い」

「仕入れ値より箱で千円位安くして、他の商品の売り上げでとんとんにしたいと思います。それに、ジュース類は店頭でサービス品として配布しては如何でしょうか?」

「宜しく頼みます。配達区域も限られているので生き残るのも大変だ。これからも協力して下さい」

「では、来週お伺い致します」 

 伊藤酒店の月間売り上げ、年間売り上げ、販売商品の品目、これからの見通し、広告の見本もコンピュータに記録されていた。一時間もあれば仕上がる仕事だった。躊躇う必要など無かったが、それが商売人の質だった。

 慎一は見本を何種類か作り翌週伊藤酒店を訪ねた。

「ご足労いただいて申し訳ない」

「広告は五種類ほど作ってきましたが、どれにするか検討したいと思います。後は定価を組み込んで、減価計算と予想売り上げを試算しますと仕上がります」

「成る程、河埜さんの仕事振りには何時も感心させられる」

「印刷屋のような訳には参りませんが、カラー印刷が綺麗に仕上がるので、素人の私にも活版印刷並の物が出来ます。それに、コンピュータは持ち運びが出来ますので、何処にいても仕事が出来るようになりました」

 店主は二つ折りの広告に決めた。慎一は色刷りの広告とコンピュータを睨めながら仕事を進めていった。

「後は値段を入れるだけです。会社に帰ってから仕上がったものをファクスでお送りします」

「当日は手伝いの方もお願いします」

「分かりました。佐伯君と二人で頑張りたいと思います」

「宜しく頼みます」

 打ち合わせを済ませると店主は個人的なことを訊いてきた。

「河埜さん、実は紹介したい娘がいるのですが、会っていただけますか?」

「まだ、結婚する積もりはないし弱ってしまうな」

「まあ、そう仰らずお願いします。遠縁に当たる子ですが、屹度気に入ってくれると思います。売り出しの時、手伝いに呼んで置きますので、それとなく様子を見て下さい」

 慎一は体よく断ると早々に伊藤酒店を引き上げた。会社に帰って広告を纏め上げる必要があったが、遣る気力は無く、近くの喫茶店で時間を潰すことにした。

・・・これで三、四回目だ。いきなり知り合いの娘だと言って写真を見せられたこともあった。物の売り買いではあるまいに、対になることを感覚的に捉え蘊蓄を聞かねばならない。人間も所詮、雌と雄しかいないが、常に生物学的に生きているのに過ぎない。見合いをして、生活の基盤があることを確認して生活を共にする。合法的に女を自分の物にして種の保存を図る。自然と子供が産まれ、そして育て、時々は遊園地に行き、動物園に行って楽しいひとときを過ごす。年に一、二度家族旅行に出掛けることもあるだろう。俺は一日の仕事が終わって、団地に灯る明かりを便りに暗い坂道を上って行く。家に辿り着き、翌日、同じ時間同じように起き、混雑した電車に押し込められ職場に向かう。家族の仕合わせの為に、一生懸命働いて、気付いた時には頽齢を迎える。女房も同じように歳を取っていくだろう。成長した子供たちは親元を離れ独立して行く。定年を迎える頃になって、俺も女房も未だ未だ元気で、一緒に旅行へ行く計画を立てるだろう。費用を節約する為、季節外れの公営旅館に泊まる。同じように、歳老いた老人たちと一緒に温泉に浸かり隣同士で食事を摂る。その時、筋向かいに座っている老人の視線と顔面の皺に、俺と同じような虚無を見るのだろうか、それとも生きることを成し終えた人生の充足感を覚えるのだろうか、否、反対に俺が見られているのかも知れない。お前は何の為に今まで生きて来たのか、その窶れた姿は一体何を言いたいのだ。お前の悲しみなど所詮意味することは無いと、そう思われるのかも知れない。そして、翌年は翌年でまた季節外れの旅行をする。時にはツアー旅行の後ろにぞろぞろと付き歩いているのかも知れない。出歩くことが億劫になるまで何度も同じことを繰り返すだろう。そして、体力が衰え動けなくなって人生の幕を閉じる時を迎える。歳老いた俺は病院のベッドで横たわっている。腕には点滴が繋がれ、トイレに歩いて行くことも出来ずお襁褓を当てられている。その時、一体何を思うのだろう。これで良かったと思うのか、それとも、誰にも聞こえないよう廻りに注意しながら、俺の人生は間違っていたと呟くのだろうか。医者は臨終の俺を無愛想な目で眺めている。血液は血管の途中で流れを止め、俺は鼓動の停止する音を静かに聞いている。そして、四肢は動きを止め最後の痙攣を起こすだろう。医者は、『御臨終です』と言い終え俺の側から離れて行く。亡骸は柩に横たわり、一晩自分の家で過ごし、翌日火葬場に運ばれて行く。一列に並んだ焼却炉に押し込められ重油で焼かれる。一時間も経てば綺麗さっぱりと、火葬台車の上には形の崩れた骨だけが残っている。生きてきた証など何処にも有りはしない。告別式が行われ、これから先、永遠の時間に支配されながら生きている人間たちが参列することだろう。そして、暫くの間、俺を知る人間たちは思い出として語り合うのかも知れない。しかし、何れ時と共に忘れ去られる。二、三分で語り尽くせる俺の一生など何の意味もない。これから先、何十年生きたとしても同じことだろう。人は日常の喜怒哀楽の中に生活の根幹を持っている。一生は緩急に満ちた時の流れのようなものかも知れないが、俺の内面を構成している日常とは無縁である・・・

 

 午後になっていた。聖蹟桜ヶ丘駅から会社に戻る途中だった。暗雲が立ち籠めた瞬間、いきなり土砂降りの雨になった。慎一は空を見上げていた。何故雨を避けないのか自分でも分からなかった。背広から滴が滴り始めていた。駅に戻ることも、会社まで走って行くことも出来ず雨中に立ち尽くしていた。

・・・意識できる意識が失われて行くとき、俺も又人間としての生を閉じる。恐らく意識が混濁して行くことは有り得ない。意識できる意識を静かに意識しながら死んでいく。死は俺個人の出来事であって、この地球から、宇宙から、一個の生命が失われることに過ぎない。有機物の死は何れ分解され原子記号に還元される。原子記号になった俺は意識を持たない物質として存在する。マイナスイオンとプラスイオンで構成されていると思えば笑ってしまう。原子記号が酒を飲み、恋をして、旅行して、自動車の運転をしている。全く落語の世界になってしまうだろう。然りとて、死後の世界があるなどと馬鹿げたことを信じ、語り、飯を食っている奴を見ると反吐が出る。生きたこと、俺という意識を持った一個の人間が生きたことは、俺自身の中での事実でしかない・・・目を閉じて、還りし日々の原点に還元して行くとき、俺は何時ものように宇宙空間を見る。暗黒の空間に小さな星の固まりが見えてくる。そして、暗闇に浮かぶ小さな星は永遠の彼方に遠ざかって行く。其処は母の体内だろうか、それとも深海の水圧に閉じ込められた海溝だろうか。何れ人間であることの意味など何処にもない場所である。生まれし暗黒の世界が原点であるなら、それは無の世界である。無の世界に有機物が生じ、四十億年の歳月を経て現在に至った。俺は、その四十億年の歳月を遡り生命の源に還って行く。再現のない時間の流れ、余りに遠過ぎて考えることも出来ない過去である。しかし俺の存在は、その一点に始まっている。生まれてくる嬰児が、母胎の中で生命の歴史を凝縮して生まれてくるように、宇宙の歴史は感じなくとも、生命の歴史だけは感じることが出来る。俺は歴史を越え生命の畏怖を覚えることだろう・・・

次回 倉庫

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