山に越して

日々の生活の記録

疑似短編集冬の霧 四の②(京子の過去)

2019-02-25 07:49:42 | 短編

冬の霧・四の②(京子の過去)

 

  長崎空港を降りると市内までバスに揺られた。高原の諸処に金色に光るものが見渡せた。それぞれの地域差による宗教の違いだろう、日本風の墓所で有りながら十字架が刻まれた墓石である。葬儀はそれぞれの地域、地域で意味を持っている。俺には分からないことだが、その都度その地域の風習に従うだけである。宗教に付いての知識がある訳ではなく、誰が何処でどのような宗教に従事していても一切関係がない。人は生きたいように生き死にたいように死ねば良い。

 葬式専門員の俺にとって葬儀が営まれる場所はどちらかと言えば海の近くが良い。俺の都合に合わせて関係者が死んでいる訳では無いがついそう思ってしまう。それも、岬の先端に漁港が有り人々が釣り糸を垂れているところが良い。

 人間の業は何処で生まれ生活しても大して変わるものではない。人間関係の中で、その人間性が成熟していくと言うが大して関係がないだろう。要するに、その人間の出来不出来はその人間に依って決まるのであって、会社、社会、地域と言う場で生きている限り、単にそれこそが問題とされる。

「京子と出会うまでの俺は毎日を過去に捨てながら生きていた」

「貴方って強い人だと思う。自分を見失うことなく、自分自身に向かって生きていると思う」

「そんなに格好の良いものではなく、ドロドロとした日常にドップリ浸かりながら足掻いている」

「だって、そんな風に捉えることだって出来ない。貴方と居ることで色々なことを感じ教えられる」

「言い過ぎだね」

「私たち、これからどうなるの?」

「分からない。京子のこと愛していくのか別れが来るのか、その時の思いに従うしかない」

「いやだもん」

「でも、自分に嘘を付いても分かってしまう。それに、京子の鋭さが俺のことを許しはしない」

「貴方の優しさを受け止めて良いのか分からなかった。でも、受け止めなくても良いと言った。本当かな?と思った。だって、必要なければ長い手紙を書いたり此処に来ることはなかったと思う」

「そうかな?」

「そうよ、会う度に好きだと言った貴方、キスしても良いって訊いた貴方、私が何も言わない内にキスしていた。始めは許していなかったのにいつの間にか応えていた。貴方と居ることで、貴方の語りの中で少しずつ心を開いていた」

「何時も一緒に居たいと思う。可愛い唇を見ているとキスしたくなる」

「私のことが好きなんだよ!」と、京子は唇を尖らせた。

「またキスしたくなった」

「嫌だもん」

「仕方ない」

「貴方と出会うことがなければ、自分の本当の姿を考え、殻の中から出ることはなかった。知らなかったこと、考えてもいなかった私のことを貴方は的確に知っていた。貴方に愛されていると感じたとき、私は例えようもないほど嬉しかった。でも、愛される意味が分からなかった」

「人を好きになるのに意味や理由など必要ない。それは、自然なことであり意識的なことではない」

「でも、そんな愛し方を私は知らなかった。性格が、家柄が、人間性が、家族関係が、人格が、そう、色んなことを考えなくては相手を選ぶことなど出来ない。何にでも基準が必要で、そうすることが安心感や安定感を得られると思っていた」

「仕事も生活も年齢も関係がない。全く知らない未知の世界で考えなくては答なんて出て来る筈がない。保守的とか進歩的とか言う問題ではなく知識や経験や常識から脱却しなければならない」

「自分の知識や経験ではなく、別なもの?」

「一寸だけ角度を変えれば良い。そして、答はこれしかないと思ったとき、又、一寸だけ角度を変えれば良い。多方面から見る必要は有るけれど、それだけではない」

「分かるような気がする」

「そして、自分の感覚を信じる」

「これまでのこと話して良い?」

「聞きたい」

「一週間前ローラが死んだ。いつも小屋の中から出ることは無いのに不思議な気がした。具合の悪かった様子もなく、鳴き声も発せず死んでいた」

「何歳になるの?」

「私が十四歳の時学校の帰りに拾ってきた。丁度十六年生きたことになる」

「人間で言えば疾うに百歳は越えている」

「大人しくて優しい犬だった。学校から帰ってくる私を何時も待っていた。家の門が開いていても、出てはいけないと言えば決して出ることはなく、芸なんて出来なかったけれど利口だった。一日経ち、二日経ち、ローラを失ったことがこれ程悲しいことかと思った。鎖で繋がれることを嫌とも言わず、与えられたものを食べ、他に何も要求することもない。学校に行くとき、何時も悲しそうな目をしていた。嬉しいとき、困ったとき、ホッとしているときなどそれぞれ表情が違っていた。信頼するものは家族しかなくその家族を一生懸命守っていた。何れ死ぬと分かっていてもローラが死んだ事実が辛くなる」

「京子の優しさだと思う。もう直ぐだね」

「何が?」

「京子がいい女になること」

「知らないもん」

「そして?」

「貴方の好きな京子は、二十五歳で結婚して二十八歳で分かれた。始めはアパートで暮らしていたけれど、夫の母親が脳梗塞で倒れてから同居するようになった。幼い子を抱えながら私は一生懸命働いた。私にしてみれば、夫の両親で有り日常の世話をするのは当たり前のことだった。始めの一、二ヶ月は何事もなく過ぎた。子供は近くの保育園に通うことが出来たけれど、義母は寝たり起きたりの状態だった。でも、義父は本当に可愛がってくれた。端から見ればなんと恵まれた家庭であり理解のある両親だった。しかし義母の経過は思わしくなくその後寝た切りの状態になった。食事の支度をして、夫を送り、義母の介護をして、子供の面倒を見て、休む暇なく日常生活は続いていった。毎日が大変だったけれど、それが仕合わせだったと思う。でも私は何処にも居なかった。同居して半年位過ぎた頃だった。義父が突然暴力を振るい出した。幸い子供に怪我は無かったが、私は吃驚してその時は何が何だか分からなかった。しかしその日、寝付く頃になって私は恐怖に襲われた。その後、義父は何かに付け物を投げたり壊したりした。私には意味が分からなかった。短気なのか、鬱憤を晴らしていたのか、でもその内に落ち着くだろうと思っていた。しかし暴力は益々酷くなった。どう対応して良いのか、夫の帰りは遅く相談しても何の解決策も無く、そんな日常に耐えるしかなかった。しかし、こんな生活を三年も続けていたことで私の精神はボロボロになっていた。生きるに値しない地獄絵のような状態に、何故耐えることが出来たのか答えは簡単だった。私が私を捨て別な人格になれば良いことだった。今で言う、解離性同一性障害多重人格症を演じていた。でも、そんな風になっていたことに自分では気付いていなかった。まるで、宇宙の果てに孤立無援でいるような、でも、人間なんてこんなものだろうと思い耐えていた。帰宅しても泥酔の夫、暴力を振るう義父、もう限界だったのかも知れない。私は自分を取り戻さなくてはいけないと思うようになった。そして、幼い子を連れて家を出た。生活出来ないことも、私自身を取り戻すことも大変なことは分かっていた。でも、そうすることで始めて生きていることを感じられるようになった。子供に辛い思いをさせ、自分自身も寝る時間を切り詰めて働いた。しかし自分を見失うことなく生きていられる。あのままの生活を続けていれば私は廃人のようになっていた。恐怖に脅え、周囲に気を使い、殻の中に閉じ籠もった生活を続けていたと思う。後一日遅れていればと思うと不安に襲われる。『不安定だね』と、貴方に言われた瞬間我に返った。私と貴方とは何の関係もなかった。偶々店の前で出会い、初めて店に来た日のことだった」

「人間の本性と言うか本来の姿が出る瞬間がある。本人の意識しないところで相手は感じ取っている」

「誰にでも?」

「信頼している人や愛していると思っても、親子間や夫婦の間で有っても出る場合がある。本来の姿が、至って純粋で誠実である場合は日常の中に表現されているが、普段その性質が見えない場合は、その人の黒々としたものが次々と現れる」

「貴方は一体何を見たの?」

「好きだったのか、でも、その人間そのものを信頼していた。何でも話し合えることで仲間のように思っていた。時々会って食事をすることもあった。でも、二人の間には何かが足りなかった。そんな訳で、きっと愛することが出来なかったと思う。電話で話をしていた時のことだった。本人は何とも思わなかったのだろう、でも俺は言い知れぬ寂しさを感じた。何故そんなことを言うのか、その時その人の本来の姿を見たように思った」

「貴方のことを知らなかった?」

「そんなことはないと思う」

「その人は貴方を傷付けたことをどの様に思ったの?」

「気付いたのか気付かなかったのか俺は知らない。その事について二度と話はしなかった。でも、その時に終わったと感じた」

「そうなんだ」

「京子は今でも自分の内に籠もり自分が傷付くことで耐えている」

「違うもん」

「京子の優しさは何も語らない。でも、それが内に籠もらないことを信じている」

「私なんて何もない」

「死んで行く人達のことを思うと人間を止めたくなる時がある。仕合わせって何だろう、このままで良いのかなって考える時がある」

「私は、このままで良い?」

「結局、色んなことに拘束され束縛されながら生きている。社会通念とか地域のこととか、相容れないことがあっても、仕方が無いと諦めている」

「生きる場所は一杯有るよね?」

「でも、桎梏と言うか逃れられないものがある」

「自分勝手と言われる?」

「そう思うけれど仕方がない」

「吉川さんの生きる場所は段々狭くなっている?」

「沢山のことが有り過ぎて日常が分からない。でも、流される自分を見ているより気楽だと思う。それに、確かなことなどない」

「確かなことって?」

「信じることが出来るもの」

「私のこと?」

「色んな人を見てきた。好きになったことや別れもあった。でも確かなことはなかった。昔、愛した人がいた。今から二十年も前のことで、情念を燃やすような愛ではなかったが、二人は確かなものを感じていた。大学二年の時に出会い卒業してからも二年間続いた。何故別れたのか今でも分からない。愛していたのに愛し切れなかったのかも知れない」

「そんな人が居たんだ」

「でも、同じ東京に住みながら二度と会うことはない」

「寂しくて辛かった?」

「若すぎたのかも知れない」

「愛することって長続きがしないと思う」

「そうかな?」

「だって、貴方も私も別れている」

「きついよ」

「私は貴方のこと愛して行けるのか分からない」

「大丈夫と思う」

「知らないもん」

「京子にとって俺が何なのか考える必要はない。京子がいて俺がいる。それ以上確かなものはない」

「貴方の優しさだと思う」

「出逢えたことを嬉しいと思う」

「何故、私のことをそんなに思ってくれるの?」

「好きだよ」と、俺は小声で言った。

「知らないもん」

「だから・・・好きな訳などない。京子といるとホッとする。可愛い笑顔を見ているとキスしたくなる」

「少しも可愛くないのに」

「誰にも分からないかも知れない」

「知らないもん」

 二人で過ごす時間はたわいのないものだった。しかし安堵感があった。そして、直ぐ近くで眠る子を愛おしく思った。

 

                                                                   了


疑似短編集冬の霧 四の①(碧い海)

2019-01-03 15:30:37 | 短編

冬の霧・四の①(碧い海)

 

 国道は真っ直ぐに延び左岸は日本海が陽の光を受け燦々と輝いていた。道すがら所々に掘っ建て小屋があり、軒下には(するめ)になり切れない烏賊が干してある。小さな町を過ぎてから人家は疎らになり群落を構成するような形はなく、北海道にして、確かに陸の孤島とも言うべき地域である。

俺は喉の渇きを覚えていた。しかしジュース類の自動販売機など一時間近く車を走らせていたが見当たらない。仕方がなく車を脇に避け木陰で一休みした。随分と辺鄙なところに来たと思った。大学に行っていた頃から津々浦々歩いたが、これほど人家の無いところも珍しかった。木陰で休みながら、これから行われる告別式の閑散たる情景を考えた。会葬者の少ない葬式は寂しさを思わせる。しかしそんなことは主観的なことであり、どんな人間であっても、その人間が死んだときには蛆虫のように人々が集まってくる。一体どんな関係があるのか当の本人さえ分からない。益して係累に分かる筈もない。

「遠い所を態々来て戴き有り難う御座います」と、女は言った。漁師である夫を亡くし、一人息子は東京に行って既に三十年が過ぎていた。

「本来なら上司がお伺いしなければならないのですが、生憎と多用で申し訳ありません」

「遠いところを有り難う御座いました」と、関係会社の重役でもある息子が言った。何もない小さな家、弔意客の少ない簡単な葬儀、挨拶を済ませると俺は来た道を戻って行った。函館空港に向かい帰京する予定だった。

 漁船が何艘か海に浮かんでいた。碧い海、その海で男は死んだ。その男の日常の中には誰も知ることのない悲哀や喜びが隠されていた筈である。誰に語ることも無かった屈辱も有っただろう。漁師は日々海に出、漁をすることで糧を得る。家族の生活を維持して将来の生活設計を立てる。しかし男は死に、漁に出ることも生活の継続も全てが終わった。一人息子は東京で居を構え独立した生活を営んでいる。朔北の地に住む母一人の小さな実家のことは、離陸した機内で忘れ去られるだろう。

 

 俺は一年振りに通勤方法を変えた。あの角を曲がれば・・・確かに・・・その人はいた。依然見掛けた時よりも綺麗になっている。一瞬目が合い通り過ぎた。名前も知らず、でも、一瞬にして理解出来る瞬間がある。その人は俺にとってそのように存在した。そして、俺はこのスナックに通うことになる。

「いつ頃からかしら、吉川さんの話を聞くようになったのは?」

「丁度一年になる」

「今回は何処に行って来たの?」と、京子は慣れ親しんできたのか甘えた声を出した。

「北海道」

「良いな給料貰って全国を旅行しているなんて」

「仕事だよ、葬式が終われば蜻蛉帰り。それに、どんなに遅くなっても翌日は出勤しなくてはならない」

「その土地、土地で美味しいものが頂けるでしょ?」

「とんでもない。ビジネスホテルに泊まり、近くの安食堂を探して食べる。時にはおむすびひとつの時もある」

「少しは大変なのね」

「死に意味はあるだろうか?」と、俺は京子に訊いた。

「意味なんてある筈無いでしょ」

「社会に貢献した人間も居ただろうし不必要な人間もいた。価値は残された人達の間で議論される」

「そうかしら?・・・今まで生きていた人間が死ぬ。唯、それだけのことでしかない。死んでしまえばお終いよ」

 京子の合理的で淡々とした言葉が好きだった。仕事柄出た言葉であったが目許が曇ったことには気付かない振りをした。こうして葬式の後は必ず京子の許に通うようになっていた。いつ頃からの習慣になっていたのか、しかし京子に会うことで精神的な安定を保っていた。京子は何も言わず受け入れる。それは日常に疲れている為だろう、と思っていた。

 俺の勤める一部上場企業の名称は株式会社エルゼである。製紙業界に於いては国内でも最大手の会社である。本社社員数三百人、工場は全国に十ヶ所、総社員数は二千名以上になる。当然葬式の数は数え切れないほど有り、社長や取締役が直接参列することは殆どなく、総務課葬儀専門の社員、詰まり俺が出席することになる。

 通勤電車に押し込められ、毎日毎日同じ道を行き来している俺は既に四十四歳になっていた。二十二歳から二十二年間、何の変哲も無くこの会社で働き、好きになった女の子も何人かいた。しかしそれ以上のこともなく過ぎた。そして、いつの間にか取り残されたかのようにこの年になっていた。焦りがあったのだろうか、否、日常は淡々と過ぎていた。会社の残務処理係のようなものだったが、仕事に対する不平不満はなかった。今でもそうで、会社内から離れ全国を歩くことで自由であり、何事にも代え難い時間だった。

 京子と褥を共にするようになったのは、出会いから半年ほど過ぎた頃だった。 

「京子、好きだよ」

「本当に?」

「可愛い乳首だね」

「優しくしてくれないと嫌」

「瑞々しい肌だ」

「焦らないで、貴方のものよ」

「逃げてしまいそうで心配だった」

「馬鹿ね」

「良い女過ぎる」

「信じて良いの?」

「不安になる時もあったけれど・・・」

「何故?」

「恋しても実ることは滅多にない」

「そうかな?」

「男は何時もピリピリしている」

「女は図々しいって?」

「多分」

「私も?」

「御多分に漏れず」

「いい女の定めね?」

「そう言うこと」と、言いながら京子の乳首を吸った。その激しさに京子の姿態は乱れていった。

「貴方の求め方って素敵よ」と、京子は言った。

「愛し方だと思う」

「今までこんな愛され方を知らなかった」

「京子が求めているのであって俺は自然に振る舞っている」

「自分の欲望から逃げている」

「それは無いな!」

「貴方は誰?」

「唯の俺」

「いいえ、私の好きな貴方」

「有り難う」

「貴方といる時って何も考えない。考えても仕方が無いように感じる。一時の中に自分を忘れられる。でもそれは、自分自身を目覚めさせるようなものかも知れない」

「ちぐはぐだね」

「言葉の上であって、私は充足している」

「そうは言っても京子は難しい」

「どこが?」

「多分気力というか、何かを得ようとする能力が欠如しているのかも知れない。でも、それが魅力的に映る」

「そうかな?」

「何故、そんな風になったのか考えていた」

「愛されるとき女の喜びを知る。でも、そのことが時々怖くなる。貴方と共に仕合わせになれるのか分からない」

「先のことまで考えても仕方がない」

「女って、その時で終わることが出来ない」

「一般的にはそうだろう」

「貴方は何時も詰まらなそうな顔をしていた。私のこと、本当は嫌いなのかと思うときがあった。でも、自分のことばかり考えているからそんな風に思っていたのかも知れない。貴方の悲しみを分かろうとしなかった」

「京子」と、声が詰まった。

「私って何時しか自分の殻に閉じ籠もっていた。仕事の上ではニコニコして接していたけれど、嫌で、嫌で堪らなかった。貴方に出会ったことでそんな自分が見えてきた。貴方は私のことを問い詰めるような事は言わなかった。貴方は黙って私を見つめ何時も優しかった」

「接点を見付けたとき人は自分で解決していく。京子の内面はそれに立ち向かって行くことが出来る。京子の生きる力がそうさせていたと思う」

「私に出来ることは何もなかった」

「京子が越えて来た」

「貴方の優しさがそうさせた」

「これから先・・・」

「知らないもん」と、京子は何時もの様に言った。吉川はその言葉が好きだった。

「京子は何時もそう言う」

「だって、分かるようなことを言っても貴方は何時も否定する」

「知らないもん、って言うのが好きで質問していた」

「いやな奴」

「俺のこと?」

「そう、貴方のこと」

「俺って嫌な奴かな?」

「好きなときには嫌いと言う。良いときには駄目って言う。疲れているときは元気だと言う。でも、始めは分からなかった。本当は嫌な奴だと思っていた」

「嫌な奴だよ」

「嫌い」

「でも、俺は好きだよ」と、言って抱き寄せた。

「いや」と、言いながら京子は唇を開いた。

「いつか旅行に行きたいね」

「行かないもん」

「誘ってくれる人いるのかな?」

「いるよ」

「そうかな?無理だと思うよ」

「何故?」

「京子のこと理解出来る人はいない。きっと俺くらいだと思う」

「難しいのかな?」

「単純すぎて話にならないってこと」

「単純だもん」

「越えなくては成らないものを越えることは苦しい。無視することは出来ても消し去ることは出来ない。京子に対して、助言やこうすれば良いと言うとはない。俺が京子を信じているように、いつか京子が俺を信じられるよう願っている」

「優し過ぎると思う」

「京子と過ごす時間の中に安らぎを覚えていた。そんな時、既に愛していると知った」

「今までにもそう言ってくれた人がいた。でも、何時しか居なくなっていた」

「俺のこともそう思いたければ思えば良い。それは京子が決めることであって俺自身の問題ではない」

「時々貴方のことが分からなくなる」

「俺の言っていることを、受け止めるのも受け止めないのも京子が決めれば良い。人はこれまでの経験や自分の(つちか)われた知識や社会常識で考え判断する。そして、相容れないものを排斥する。誰も彼もが自分の安定や仕合わせを求めようとする。それが間違っているとは言わない。しかし、それが本当のことか考える必要がある」

「自分の知識や経験を越えること?」

「そう、其処に良い女としての京子が生まれる」

「貴方の愛する京子?」

「そう、それにしても可愛い唇だね」と、言って軽く接吻した。

「男の人ってそんなことばかり考えているの?」

「そんなことはないけれど京子にキスしたい。出来れば身体中の全てにキスしたい。そして、眺めていたい」

「三十歳だもん、耐えられないよ」

「俺の好きな京子はそのままで良い。でも京子は男が嫌いだろう?」

「そうだと思う。恋愛も嫌、仕事をしている方が楽しくて色んなことを考えなくても良い」

「何がそうさせたのだろう?」

「面倒なだけ」

「違うね、良い男に愛されなかった。愛されなかったから不安定になる。不安定になるなら一人で居た方が良い」

「知らないもん」

「人を理解することや許容することが出来ない状況に置かれた。そして人間不信に陥り、どうにも越えることが出来なかった。京子の苦しみを知ることはないが受け止めたいと思う」

「私にも分からないこと?」

「前から考えていたが、京子がスーッと俺の前から消え、急に三歳の子供のようになる。許容したかと思えば全く拒絶した態度をとり自分を守ろうとする。京子の中の未成熟の部分が現実に耐え、何かの拍子に京子自身を支配している」

「でも、私は普通だと思う」

「そんな風に思い込んでいるのに過ぎない。恐らく京子自身にも分からず、知らない内に戻る」

「貴方がそう思っているだけ」

「そうだね」

「貴方のこと好きよ」

「京子が好きだよ」

「側に居てくれる」

「勿論」

「何故、私のこと好きになったの?」

「理由なんか無いけれど側に居たかった。始めは好きで無かったのかも知れない。商売だけが好きで、他には何の興味も持っていないような女だと思っていた」

「私ってそんな女だと思う」

「しかしそこが違っていた。京子はそんな風に仕事に夢中になることで自分を隠していた。でも、これからはそれを乗り越えて行かなくてはならない」

「貴方は私のことを何も知らない」

「俺は京子を愛している。それだけで良い」

「分からない」

「いつしか受容して許容している」

「知らないもん」

 何時か別れるときが来るのかも知れない。しかし京子の内面に拡がる空白を理解したいと思った。また、時々見せる不安定さが京子の生きようとする真実で有り、俺と京子を繋ぎ止めていた。


                                          了