冬の霧・四の②(京子の過去)
長崎空港を降りると市内までバスに揺られた。高原の諸処に金色に光るものが見渡せた。それぞれの地域差による宗教の違いだろう、日本風の墓所で有りながら十字架が刻まれた墓石である。葬儀はそれぞれの地域、地域で意味を持っている。俺には分からないことだが、その都度その地域の風習に従うだけである。宗教に付いての知識がある訳ではなく、誰が何処でどのような宗教に従事していても一切関係がない。人は生きたいように生き死にたいように死ねば良い。
葬式専門員の俺にとって葬儀が営まれる場所はどちらかと言えば海の近くが良い。俺の都合に合わせて関係者が死んでいる訳では無いがついそう思ってしまう。それも、岬の先端に漁港が有り人々が釣り糸を垂れているところが良い。
人間の業は何処で生まれ生活しても大して変わるものではない。人間関係の中で、その人間性が成熟していくと言うが大して関係がないだろう。要するに、その人間の出来不出来はその人間に依って決まるのであって、会社、社会、地域と言う場で生きている限り、単にそれこそが問題とされる。
「京子と出会うまでの俺は毎日を過去に捨てながら生きていた」
「貴方って強い人だと思う。自分を見失うことなく、自分自身に向かって生きていると思う」
「そんなに格好の良いものではなく、ドロドロとした日常にドップリ浸かりながら足掻いている」
「だって、そんな風に捉えることだって出来ない。貴方と居ることで色々なことを感じ教えられる」
「言い過ぎだね」
「私たち、これからどうなるの?」
「分からない。京子のこと愛していくのか別れが来るのか、その時の思いに従うしかない」
「いやだもん」
「でも、自分に嘘を付いても分かってしまう。それに、京子の鋭さが俺のことを許しはしない」
「貴方の優しさを受け止めて良いのか分からなかった。でも、受け止めなくても良いと言った。本当かな?と思った。だって、必要なければ長い手紙を書いたり此処に来ることはなかったと思う」
「そうかな?」
「そうよ、会う度に好きだと言った貴方、キスしても良いって訊いた貴方、私が何も言わない内にキスしていた。始めは許していなかったのにいつの間にか応えていた。貴方と居ることで、貴方の語りの中で少しずつ心を開いていた」
「何時も一緒に居たいと思う。可愛い唇を見ているとキスしたくなる」
「私のことが好きなんだよ!」と、京子は唇を尖らせた。
「またキスしたくなった」
「嫌だもん」
「仕方ない」
「貴方と出会うことがなければ、自分の本当の姿を考え、殻の中から出ることはなかった。知らなかったこと、考えてもいなかった私のことを貴方は的確に知っていた。貴方に愛されていると感じたとき、私は例えようもないほど嬉しかった。でも、愛される意味が分からなかった」
「人を好きになるのに意味や理由など必要ない。それは、自然なことであり意識的なことではない」
「でも、そんな愛し方を私は知らなかった。性格が、家柄が、人間性が、家族関係が、人格が、そう、色んなことを考えなくては相手を選ぶことなど出来ない。何にでも基準が必要で、そうすることが安心感や安定感を得られると思っていた」
「仕事も生活も年齢も関係がない。全く知らない未知の世界で考えなくては答なんて出て来る筈がない。保守的とか進歩的とか言う問題ではなく知識や経験や常識から脱却しなければならない」
「自分の知識や経験ではなく、別なもの?」
「一寸だけ角度を変えれば良い。そして、答はこれしかないと思ったとき、又、一寸だけ角度を変えれば良い。多方面から見る必要は有るけれど、それだけではない」
「分かるような気がする」
「そして、自分の感覚を信じる」
「これまでのこと話して良い?」
「聞きたい」
「一週間前ローラが死んだ。いつも小屋の中から出ることは無いのに不思議な気がした。具合の悪かった様子もなく、鳴き声も発せず死んでいた」
「何歳になるの?」
「私が十四歳の時学校の帰りに拾ってきた。丁度十六年生きたことになる」
「人間で言えば疾うに百歳は越えている」
「大人しくて優しい犬だった。学校から帰ってくる私を何時も待っていた。家の門が開いていても、出てはいけないと言えば決して出ることはなく、芸なんて出来なかったけれど利口だった。一日経ち、二日経ち、ローラを失ったことがこれ程悲しいことかと思った。鎖で繋がれることを嫌とも言わず、与えられたものを食べ、他に何も要求することもない。学校に行くとき、何時も悲しそうな目をしていた。嬉しいとき、困ったとき、ホッとしているときなどそれぞれ表情が違っていた。信頼するものは家族しかなくその家族を一生懸命守っていた。何れ死ぬと分かっていてもローラが死んだ事実が辛くなる」
「京子の優しさだと思う。もう直ぐだね」
「何が?」
「京子がいい女になること」
「知らないもん」
「そして?」
「貴方の好きな京子は、二十五歳で結婚して二十八歳で分かれた。始めはアパートで暮らしていたけれど、夫の母親が脳梗塞で倒れてから同居するようになった。幼い子を抱えながら私は一生懸命働いた。私にしてみれば、夫の両親で有り日常の世話をするのは当たり前のことだった。始めの一、二ヶ月は何事もなく過ぎた。子供は近くの保育園に通うことが出来たけれど、義母は寝たり起きたりの状態だった。でも、義父は本当に可愛がってくれた。端から見ればなんと恵まれた家庭であり理解のある両親だった。しかし義母の経過は思わしくなくその後寝た切りの状態になった。食事の支度をして、夫を送り、義母の介護をして、子供の面倒を見て、休む暇なく日常生活は続いていった。毎日が大変だったけれど、それが仕合わせだったと思う。でも私は何処にも居なかった。同居して半年位過ぎた頃だった。義父が突然暴力を振るい出した。幸い子供に怪我は無かったが、私は吃驚してその時は何が何だか分からなかった。しかしその日、寝付く頃になって私は恐怖に襲われた。その後、義父は何かに付け物を投げたり壊したりした。私には意味が分からなかった。短気なのか、鬱憤を晴らしていたのか、でもその内に落ち着くだろうと思っていた。しかし暴力は益々酷くなった。どう対応して良いのか、夫の帰りは遅く相談しても何の解決策も無く、そんな日常に耐えるしかなかった。しかし、こんな生活を三年も続けていたことで私の精神はボロボロになっていた。生きるに値しない地獄絵のような状態に、何故耐えることが出来たのか答えは簡単だった。私が私を捨て別な人格になれば良いことだった。今で言う、解離性同一性障害多重人格症を演じていた。でも、そんな風になっていたことに自分では気付いていなかった。まるで、宇宙の果てに孤立無援でいるような、でも、人間なんてこんなものだろうと思い耐えていた。帰宅しても泥酔の夫、暴力を振るう義父、もう限界だったのかも知れない。私は自分を取り戻さなくてはいけないと思うようになった。そして、幼い子を連れて家を出た。生活出来ないことも、私自身を取り戻すことも大変なことは分かっていた。でも、そうすることで始めて生きていることを感じられるようになった。子供に辛い思いをさせ、自分自身も寝る時間を切り詰めて働いた。しかし自分を見失うことなく生きていられる。あのままの生活を続けていれば私は廃人のようになっていた。恐怖に脅え、周囲に気を使い、殻の中に閉じ籠もった生活を続けていたと思う。後一日遅れていればと思うと不安に襲われる。『不安定だね』と、貴方に言われた瞬間我に返った。私と貴方とは何の関係もなかった。偶々店の前で出会い、初めて店に来た日のことだった」
「人間の本性と言うか本来の姿が出る瞬間がある。本人の意識しないところで相手は感じ取っている」
「誰にでも?」
「信頼している人や愛していると思っても、親子間や夫婦の間で有っても出る場合がある。本来の姿が、至って純粋で誠実である場合は日常の中に表現されているが、普段その性質が見えない場合は、その人の黒々としたものが次々と現れる」
「貴方は一体何を見たの?」
「好きだったのか、でも、その人間そのものを信頼していた。何でも話し合えることで仲間のように思っていた。時々会って食事をすることもあった。でも、二人の間には何かが足りなかった。そんな訳で、きっと愛することが出来なかったと思う。電話で話をしていた時のことだった。本人は何とも思わなかったのだろう、でも俺は言い知れぬ寂しさを感じた。何故そんなことを言うのか、その時その人の本来の姿を見たように思った」
「貴方のことを知らなかった?」
「そんなことはないと思う」
「その人は貴方を傷付けたことをどの様に思ったの?」
「気付いたのか気付かなかったのか俺は知らない。その事について二度と話はしなかった。でも、その時に終わったと感じた」
「そうなんだ」
「京子は今でも自分の内に籠もり自分が傷付くことで耐えている」
「違うもん」
「京子の優しさは何も語らない。でも、それが内に籠もらないことを信じている」
「私なんて何もない」
「死んで行く人達のことを思うと人間を止めたくなる時がある。仕合わせって何だろう、このままで良いのかなって考える時がある」
「私は、このままで良い?」
「結局、色んなことに拘束され束縛されながら生きている。社会通念とか地域のこととか、相容れないことがあっても、仕方が無いと諦めている」
「生きる場所は一杯有るよね?」
「でも、桎梏と言うか逃れられないものがある」
「自分勝手と言われる?」
「そう思うけれど仕方がない」
「吉川さんの生きる場所は段々狭くなっている?」
「沢山のことが有り過ぎて日常が分からない。でも、流される自分を見ているより気楽だと思う。それに、確かなことなどない」
「確かなことって?」
「信じることが出来るもの」
「私のこと?」
「色んな人を見てきた。好きになったことや別れもあった。でも確かなことはなかった。昔、愛した人がいた。今から二十年も前のことで、情念を燃やすような愛ではなかったが、二人は確かなものを感じていた。大学二年の時に出会い卒業してからも二年間続いた。何故別れたのか今でも分からない。愛していたのに愛し切れなかったのかも知れない」
「そんな人が居たんだ」
「でも、同じ東京に住みながら二度と会うことはない」
「寂しくて辛かった?」
「若すぎたのかも知れない」
「愛することって長続きがしないと思う」
「そうかな?」
「だって、貴方も私も別れている」
「きついよ」
「私は貴方のこと愛して行けるのか分からない」
「大丈夫と思う」
「知らないもん」
「京子にとって俺が何なのか考える必要はない。京子がいて俺がいる。それ以上確かなものはない」
「貴方の優しさだと思う」
「出逢えたことを嬉しいと思う」
「何故、私のことをそんなに思ってくれるの?」
「好きだよ」と、俺は小声で言った。
「知らないもん」
「だから・・・好きな訳などない。京子といるとホッとする。可愛い笑顔を見ているとキスしたくなる」
「少しも可愛くないのに」
「誰にも分からないかも知れない」
「知らないもん」
二人で過ごす時間はたわいのないものだった。しかし安堵感があった。そして、直ぐ近くで眠る子を愛おしく思った。
了