山に越して

日々の生活の記録

山に越して 閉ざされた時間 23-17

2015-12-21 10:34:49 | 長編小説

 十七 繋縛

  綾は舌を使って陰茎を必要に愛撫した。そして、精液を総て飲み込むと「美味しいわ」と言った。綾の愛撫は何時も雅生を夢の世界に誘う。

「雅生、良かった?」

「綾の舌使いは何時でも最高だ。綾は?」

「私は感じない。一々感じていたのでは商売にならないでしょ」

「さっきは商売のように振る舞っていた?」

「そうじゃ無いけれど、感じることはないわ」

「それで良いのか?」

「構わない。自分の身体を自由に操ることが出来なくては商売として成り立たない。自分の身体であっても商売の時には自分では無く商品として扱っている」

「商品が金を稼いでいる。その間、何を考えている?」

「分からない。店を出たとき、始めて自分であることに気付いてゾ

ッとする」

「そうすると、その間の意識は無いことになる」

「ええ、自分であることが分からない」

「別の人格が働いているか、全く意識を失っていることになる。店に入る瞬間、意識の喪失が起こり店から出た瞬間蘇生する」

「難しいことは分からないけれど、店では名前も変わっているからなのかも知れない」

「仕事以外の場合は?」

「時々ある」

「例えば?」

「私の趣味は万引、其れも高価な物しか狙わない。でも、ゾクゾクするような緊張感も興奮もないまま盗んでいる。私が行動しているのに私では無いように感じるけれど、店から出たとき矢張り私なんだなと思う。緊張感は私を支配して、しっかりと必要な品物は手中に収めている。品物を眺めながら仕合わせだと思う」

「違うな、其れでは綾は綾のままである」

「私、正常なのね。良かった」

「どうかな、楽しみや無関心は自分を正常と思わせるが、沸点を過ぎると水が蒸発するように霧散する。どこかに生理的な限界や意識的な限界があるのだろう」

「意識が無くなる瞬間、私の体内で何かが変わる。気付かないまま同じ事を繰り返している。しかし振り返っても自制心は働かない」

「時間に取り残されたようになる」

「多分そう思う。失った時間は許に戻ることはない。時間を捨てながら生きているのに、私の場合は余計に時間を捨てていることになる。戻る筈のない時間の為に今がある」

「しかし、時間の経過を知らないことが良いのかも知れない。所詮どんな奴も時間に拘束されながら生きている。現実の時間を意識しようが仕舞いが関係はないだろう。呪縛から逃れられない」

 雅生の言葉も行動も曖昧であった。曖昧であることによって許容するように出来ている。所詮自分を許すことで誰もが同じように安逸な生活を貪るようになる。雅生にしても同じで、対峙するなどと綺麗ごとを言っても始まらない。こうして夜な夜な悶え苦しみ、一日を無事過ごせたことに安堵する。確実であろうと不確実であろうとどちらでも良い。価値は求めようとするから生じるのであって、求めなければ安逸に暮らすことが出来る。

 重みに耐えかねて植物は自分の枝を折るか内部から腐り出す。そうすることで生き延びようとする。蛸が足を切り、蜥蜴が尻尾を切り落とす。そして、生きる為に耐える。人間とて同じ事で、許容出来ない範囲を越えたとき無視するか居直る。居丈高になることでその場を逃れる。また、関係を絶つことで新しい明日に向かう。所詮ひ弱なだけで、生き延びて行く為に有りとあらゆる手段を講じる。しかし、それは生命維持の為であって本来的に生きることにはならない。所詮、生きるなどと戯言を言っても始まらない。

「綾」

「なぁに、雅生」

「綾と一緒にいたい」

「私も!」

「生きることが出来なくても良いのか?」

「一緒に行きたい」

「これから先、得る物が無くても?」

「もう全てが終わった」

「何処に行こう?」

「外国」

「シベリア?」

「そう」

「そして、始まりがあるかも知れない。綾、」

「貴方と一緒なら」

「何処かで救いを求めているのかも知れない」

「それで良いのだと思う」

「誰もが強い訳ではない。しかし、」

「生きているときにだけ明日があり過去がある。そして、生きているからこそ違う世界に出会う可能性が残る」

「確かに綾の言う通りかも知れない」

「歴史が示しているように死は何も残さない。貴方には生きて欲しい。そして、個としての歴史を作って欲しい」

「しかし、」

「しかし、なんて言ってはいけない。不安定なまま生きたとしても価値を見いだせる」

 一日の内で自分自身を喪うときがある。時計は十五時を指していた。昼でも夜でも無い中途半端な時間である。誰も訪ねて来ることのない時間、雅生は自分の喪失感について考えていた・・・綾が意識の喪失感を受容するように、俺も又失うことがあるのだろうか、失うことが出来るのは失う物があるときである。日常的に、意識的な行動が行われている以上喪失感はない。しかし、綾の場合は無意識的な行動の中に自然と意識した行動をとっている。綾はその事に気付いていないだけのことだろう・・・である。

「私と貴方との関係は?」

「関係はない」

「冷たいのね」

「約束しても、愛していると言っても嘘になる」

「嘘でも良いからそう言って欲しい時がある」

「綾らしくない」

「それが男の傲慢であることに気付かない」

「弱いところを認めたとしても仕方がない」

「未来を期待しているより余程良いわ、貴方が求めているものは一体何なのか答は出ない」

「多分そうだろう」

「逃避?」

「そう取られても仕方がない」

「日々は進んでいる。振り返ることなど無意味でしょ?貴方なんか死ぬことが似合っている」

「でも、俺は綾が好きなことに間違いはない」

「信用できない」

「屈辱かも知れないが生きることを受け入れる」

「それが信用できないと言っている」

「人間は中途半端が良い。妙に完成されたような顔付きや行動をとる奴より信用できる。諦めて何もしない奴、悟りきった奴、都合の良いように動く奴、しかし単に加齢がそうさせる。恐らく完成されないことが人間なのだろう」

「目的や、未来のことを考えても仕方がない」

「しかし、人間は自己に問い掛け社会的な適応を目指している。そんな生き方しか出来ないのかも知れない」

「要するに信用できない」

「俺のことも含めて?」

「そうね、放擲することに価値は無いと言っていた貴方が、自分を失うときはない」

「俺は綾を求めている」

「でも、貴方との別れは必ず来る」」

「何時までも若くはない。加齢は避けることの出来ない事実で有り、肉体的、精神的に微妙な差異があったとしても、一年経てば一歳年を取る。老化は生理機能が低下する自然現象であり、決して元に戻ることのない不可逆的な現象で必然的に死が待っている。歳を取るに従って、日常生活は変容し関係も生活も変わって行く」

「歳を取るなどと、考えても無意味なことでしかない」

「今、綾を受け止めることが出来ても何れ齟齬を来す」

「でも、拠り所が欲しいと思うようになる」

「誰も受け入れることが出来ないように、俺のことは、誰にも受け入れられないだろう。そして、俺は俺自身しか見ることが出来ない嫌な奴になる」

「どう言うこと?」

「人間という言葉の中から感情は消えた。人間は無機質なロボットのような、感覚のない爛れた皮膚のような存在でしかない。何れ、帰着すべき地点を持つことはなくそのまま放浪する。そして、息絶え死滅する」

「人間の歴史にも、明日のことにも興味は無いわ」

「しかし、」

「貴方の物を含んで貴方の熱い生を感じる。そう、性ではなく生を感じる」

「確かに、何も無いところから何かを生み出すことなど出来ない。一足す一が二になるように生産しなくては画餅の餅になってしまう。生きることは常に生産物に頼るしかない」

「雅生、生きよう。生きることで全く新しい地平が開けるかも知れない。そう考えることが唯一の道だと思う」

「一つ、忘れることが生きていることになる」

「でも、それで良い」

「俺には生産手段がない」

「例え借り物で有ったとしても、今日を生きて行くことで明日に繋がる。生きていることが快楽さえ齎す」

「俺は俺を失い掛けているのかも知れない。でも、それが生きている証になる。今日が終わればまた明日仕事に連れ戻される」

「一体私たちがどれほど多くの人々と交わることが出来るのか分からない。雅生、貴方がなりたいと思っているのは、主か、国王のような存在だと思う。でも、そんな者になれる筈がない。単に観念の世界を彷徨っているのに過ぎない」

「自家撞着していることは分かっている」

「私は貴方が好きよ。何時までも!」

 綾はもう一度雅生の物を含んだ。そうすることが、雅生を現実の世界に引き戻すかのように愛撫した。

 夕暮れが近付き既に一日が終わろうとしていた。

 

次回 降下


山に越して 閉ざされた時間 23-16

2015-12-07 10:09:03 | 長編小説

 十六 分裂した聖域

  そう、これは犯すことが出来ない時間である。自分の時間で有って自分の物では無い、そう言う時間がある。意識の移行が行われるか認識して行く場合、互いに相手の内面に入り込む。相手を理解しているとか愛し合うことではない。移行や認識は、同じ主観で認識することで有り共有出来るかが問われる。

 これまで工藤雅生は一度も人を愛したことがなかった。愛は失われる。それは自明の理であり失うことで元に戻ることはない。愛することの愚かさは茫然自失した意識のまま生きざるを得ない。人間は愚かな作業を数万年と繰り返してきた。愚かであるとき愛がある。しかし、女を裸体にしたとき其処に何が見えると言うのだ。男を裸体にしたとき其処に何が見えると言うのだ。乳首と恥部があるだけで他に何も有りはしない。

 腐り切った人間関係は大学の中にも歴然とあった。同じような人間が生きている限り仕方のないことかも知れないが、腐り切って行くことで、存在することが楽しみであり快楽となる。大学生活は、方向性を持たないことで、金銭的に恵まれていることで、多くのことを考える必要さえない。日々狂態の生活に明け暮れ、人生は快楽だけの為にあると錯覚する。しかし、それが生活である。男は女を求め、女は男を求める。交合することを日々念頭に於いて求め合うのに過ぎず、意味のない、求めることのない生活、日常、日常、毎日毎日が日常だった。

 過ぎ去って行くことが日常であり、何処にも生活が有り人々が生きている。しかし日常の意味が分からない。地域の中で生き、地域に束縛され、地域と共に生きるより仕方がない。そして、次の段階は多少なりとも社会的な地位を得ることにある。利得の為、趣味嗜好の為、最大限に欲望を満たす為に発揮する。

足掻いても、足掻いても手の届かないところで細く微笑んでいる連中がいる。その隣には、休む暇なく苦痛な顔をして汗水を垂らしている連中がいる。共通点は同一の時間、同じ社会に暮らしていることであり、唯、それだけのことである。

「人間の命など虫螻よりも劣る」

  と、山川が言った。

「人間が人間を殺すのではなく、コンピュータに操作されたロボットが殺す」

「画像を見ながらミサイルの発車ボタンを押す。実に単純で自責の念はない。対等な殺し合いではなく単なる殺戮である」

「しかし、それが現実だ」

「科学技術の発達は人間や生活を豊かにしたのではなく、科学技術がより発達した国が支配する構図を作ったのに過ぎない」

「人道も糞も有りはしない。木端微塵に吹き飛んだ人肉をカラスが啄み、人間として生きる為の信念や思想や価値は餌に過ぎない」

「雅生、何故許す?」

 と、上田が言った。

「人間の生き方などと戯言を言っていることが俺たちの集団に過ぎない。力は武力を持って対抗するところから始まる。当然、宗教的な力も歓迎する」

「僅かばかりの与えられた安全な場所、聖域とは、俺たちが暮らしている空間である」

「俺の生きる場所はこのアパートの一室なのか、大学の構内なのか分からない。地域は必要性に応じて存在していたが、一旦関係が切れると終わりになる。地域で生きようとする連中は、地域そのものを拘束しているのに過ぎない。寄り集まることで価値を認め自慰する。そう言う関係しか成り立たない。ひとたび関係が崩れると憎しみに変わる。互いに憎しみを持ちながら地域の中で暮らすことになる」

「喰う為だけで良い、それ以上望むことはない」

 と、添嶋が言った。

「確かにお前の言う通りかも知れない。しかし現在はそれを許さない。喰う為に闘うのではなく、単に破戒することに情熱や喜びを感じている。他を犠牲にしてのみ優越感や安堵感を得る」

「文化の問題で有る限り俺は集中するかも知れない。しかし、現実の殺戮から逃避している訳ではない」

「雁字搦めの社会から逃れる術はない。術がない以上、自己の内面に向かう」

「喰う為に進化した人間は、文明という欺瞞に乗じて共喰いを始めた。現在も過去の歴史も変わらない」

「聖域は種族、係累、仲間、個人に限られ、他を侮辱する。そして飢えに苦しむ人間は同類ではない」

「排他的であることは利益を守る」

「詰まり、足掻くことさえ無意味だと思い知らされる」

「自然は自然のままで、これ以上手を入れることはない。ある日の午前、河川敷に数百本の傘が干してあった。一体何の為に、何の目的があって干してあるのか分からない。地面に固定されない限り、風が吹けば何処にでも飛んでいってしまう筈である。俺は思った。あの場所は特殊な地域であり、誰も入り込むことは出来ないのかも知れないと」

「要するに聖域は個の意識の中にしか存在しない」

 雅生は何も語ることなく話を聞いていた。そして、虫たちの会話を思い出した。蒸し暑い日の深夜のことだった。街灯に誘われて蛾や蟷螂たちが集まって来た。草陰では蟋蟀たちが集くっていた。夏の宵は虫たちにとって自己主張をする場である。

「雨が少ないな!」

 と、蟋蟀が言った。

「少し水分が欠けてきたので声が出なくなっている。否、元々俺は声を持っていなかった」

「暑くて仕方がない」

 と、蟷螂が応じた。

「草も少なくなった。自然は徐々に破戒され人間の数だけ増えた。このままでは住む場所さえ無くなる」

 と、 鈴虫が言った。

「人間たちの議論を聞いていると、自分勝手なことを言っているのに過ぎない。身の保全を図りながら他の意見を聞かない。同じ穴の狢で有りながら自分だけは先進的だと信じている」

「巫山戯ていることに気付こうとしない」

「矢張り殺すに限る」

「何れにしても常軌を逸している。俺たちの方が早く住み始めた。しかし進化としては後れを取ったかも知れない」

「そう言うことではない」

「共存することに意味がある。しかし、人間共には決して分からないことだ」

「窒息死させよう」

「それが懸命である」

「一気に襲い掛かり一匹ずつ確実に殺していく」

「俺たちが何を望んだと言うのだ。何も望んだことはない」

「行くぜ」

 虫たちは一斉に飛び立った。数万、数十万の昆虫は寝静まった人家に襲い掛かった。

 しかし、終わりのない人間たちの議論はまた始まっていた。

「何をほざいている。結論を遅らせても仕方がない」

「蟻には蟻の時間があり犬には犬の時間がある。夫々の動物、植物が内なる時間に支配され生きている。そして、生命の営みは適応することを条件にのみ継続する」

「しかし、自然は犯され河川は整備され尽くしている。こんな情況の中で俺たちの感覚は完全に麻痺している」

「詰まり価値は完成されたものであり、その価値を信奉するときのみ生きる聖域が与えられる」

「議論をしても仕方がない」

「夫々が生きたいように生きるとき、接点があるのかも知れない」

「失ったものを取り戻そうとする必要はない。達観している訳ではなく静かに死の時を迎える」

「個は、個の領域から抜け出すことは出来ない。しかし、何れにしても短絡的に行動している限り情況は変わらない」

「感情や感覚は育たないだろう。そして、刹那的であるとき社会はそれを利用する。単なる一般的な出来事として処理できる。実に便利な代物である」

「規制、規則、規律、そして法律、誰も知ることのない法律が笑っている」

「そんなものに支配され、犯した罪や行動によって刑罰が科せられる。理不尽であろうとなかろうと、税金を払い、連中を喰わせ、挙げ句の果て其奴らに愚弄される」

「安定した精神の持続を維持することは大変なことだ」

「しかし、人間にとっての喜怒哀楽も生きて行く日常性も同じ様なもので、体内に受け継がれているものを、人間関係の中で引継、其処から逃れることが出来ない」

「狸や、狐や、蟻が生きているのと変わりがない。人間の奢りの為に他の生命を犠牲にすることなど許される筈がない」

「そうだ。偉そうに生きている人間は復讐の対象である」

 懺悔することのない人間の群に、昆虫の復讐劇は始まろうとしている。しかし昆虫の復讐にも関わらず、蜜蜂は蜂蜜のことに夢中になっている。自然の継続性など持続出来る筈がない。所詮、繰り返される生命活動に意味など有る筈がない。

 雅生は遠く風の音を聞いていた。無意味な音だったのかも知れないが微かに心を揺さぶられた。頽廃と化した自然、雅生は人間たちから遊離して自分だけの安住の地に来ていた。誰とも会話をしなくて良い世界、それこそ安住の地である。日常を越え、歴史を越えた生活感のない場所である。其処から見える風景は、一秒たりとて停止することのない人々の流れが続いている。遠く地球の姿が映っている。人々が犇めき合い右往左往している姿が見える。そして、何時しか人間たちは死に絶え、鼠とゴキブリと少数の生き残った生物が狼狽えている。斯うなることは予想されていた。地球にとって楽しい一時が始まり、四十億年の歳月を遡ることだろう。国も、社会も、法律も、全て無意味なことなど始めから分かっている。人間に生まれたこと自体が間違いで、二十年間の生自体が必要なかった。そして、自省は単なる自己満足に過ぎない。

 欲望は尽きることがなく、人間の歴史は欲望によって支えられてきた。進化しているのではなく、改革も発明も欲望の為に生み出されてきた。「人間か」と、雅生は呟いた。人間であることの意味は何処にも有りはしない。しかし、雅生が求めている人間さえ分かりはしない。緊張している時間が継続しているのではない。連綿と続く時間の中で虚脱した無意味さがある。そして、無意味であることが日常生活を安定させる。「良いではないか」と、雅生は言った。安定した生活からはみ出すことなど出来る筈がない。ガタガタに崩壊する意識は雅生だけのものである。

 次回 繋縛