十七 繋縛
綾は舌を使って陰茎を必要に愛撫した。そして、精液を総て飲み込むと「美味しいわ」と言った。綾の愛撫は何時も雅生を夢の世界に誘う。
「雅生、良かった?」
「綾の舌使いは何時でも最高だ。綾は?」
「私は感じない。一々感じていたのでは商売にならないでしょ」
「さっきは商売のように振る舞っていた?」
「そうじゃ無いけれど、感じることはないわ」
「それで良いのか?」
「構わない。自分の身体を自由に操ることが出来なくては商売として成り立たない。自分の身体であっても商売の時には自分では無く商品として扱っている」
「商品が金を稼いでいる。その間、何を考えている?」
「分からない。店を出たとき、始めて自分であることに気付いてゾ
ッとする」
「そうすると、その間の意識は無いことになる」
「ええ、自分であることが分からない」
「別の人格が働いているか、全く意識を失っていることになる。店に入る瞬間、意識の喪失が起こり店から出た瞬間蘇生する」
「難しいことは分からないけれど、店では名前も変わっているからなのかも知れない」
「仕事以外の場合は?」
「時々ある」
「例えば?」
「私の趣味は万引、其れも高価な物しか狙わない。でも、ゾクゾクするような緊張感も興奮もないまま盗んでいる。私が行動しているのに私では無いように感じるけれど、店から出たとき矢張り私なんだなと思う。緊張感は私を支配して、しっかりと必要な品物は手中に収めている。品物を眺めながら仕合わせだと思う」
「違うな、其れでは綾は綾のままである」
「私、正常なのね。良かった」
「どうかな、楽しみや無関心は自分を正常と思わせるが、沸点を過ぎると水が蒸発するように霧散する。どこかに生理的な限界や意識的な限界があるのだろう」
「意識が無くなる瞬間、私の体内で何かが変わる。気付かないまま同じ事を繰り返している。しかし振り返っても自制心は働かない」
「時間に取り残されたようになる」
「多分そう思う。失った時間は許に戻ることはない。時間を捨てながら生きているのに、私の場合は余計に時間を捨てていることになる。戻る筈のない時間の為に今がある」
「しかし、時間の経過を知らないことが良いのかも知れない。所詮どんな奴も時間に拘束されながら生きている。現実の時間を意識しようが仕舞いが関係はないだろう。呪縛から逃れられない」
雅生の言葉も行動も曖昧であった。曖昧であることによって許容するように出来ている。所詮自分を許すことで誰もが同じように安逸な生活を貪るようになる。雅生にしても同じで、対峙するなどと綺麗ごとを言っても始まらない。こうして夜な夜な悶え苦しみ、一日を無事過ごせたことに安堵する。確実であろうと不確実であろうとどちらでも良い。価値は求めようとするから生じるのであって、求めなければ安逸に暮らすことが出来る。
重みに耐えかねて植物は自分の枝を折るか内部から腐り出す。そうすることで生き延びようとする。蛸が足を切り、蜥蜴が尻尾を切り落とす。そして、生きる為に耐える。人間とて同じ事で、許容出来ない範囲を越えたとき無視するか居直る。居丈高になることでその場を逃れる。また、関係を絶つことで新しい明日に向かう。所詮ひ弱なだけで、生き延びて行く為に有りとあらゆる手段を講じる。しかし、それは生命維持の為であって本来的に生きることにはならない。所詮、生きるなどと戯言を言っても始まらない。
「綾」
「なぁに、雅生」
「綾と一緒にいたい」
「私も!」
「生きることが出来なくても良いのか?」
「一緒に行きたい」
「これから先、得る物が無くても?」
「もう全てが終わった」
「何処に行こう?」
「外国」
「シベリア?」
「そう」
「そして、始まりがあるかも知れない。綾、」
「貴方と一緒なら」
「何処かで救いを求めているのかも知れない」
「それで良いのだと思う」
「誰もが強い訳ではない。しかし、」
「生きているときにだけ明日があり過去がある。そして、生きているからこそ違う世界に出会う可能性が残る」
「確かに綾の言う通りかも知れない」
「歴史が示しているように死は何も残さない。貴方には生きて欲しい。そして、個としての歴史を作って欲しい」
「しかし、」
「しかし、なんて言ってはいけない。不安定なまま生きたとしても価値を見いだせる」
一日の内で自分自身を喪うときがある。時計は十五時を指していた。昼でも夜でも無い中途半端な時間である。誰も訪ねて来ることのない時間、雅生は自分の喪失感について考えていた・・・綾が意識の喪失感を受容するように、俺も又失うことがあるのだろうか、失うことが出来るのは失う物があるときである。日常的に、意識的な行動が行われている以上喪失感はない。しかし、綾の場合は無意識的な行動の中に自然と意識した行動をとっている。綾はその事に気付いていないだけのことだろう・・・である。
「私と貴方との関係は?」
「関係はない」
「冷たいのね」
「約束しても、愛していると言っても嘘になる」
「嘘でも良いからそう言って欲しい時がある」
「綾らしくない」
「それが男の傲慢であることに気付かない」
「弱いところを認めたとしても仕方がない」
「未来を期待しているより余程良いわ、貴方が求めているものは一体何なのか答は出ない」
「多分そうだろう」
「逃避?」
「そう取られても仕方がない」
「日々は進んでいる。振り返ることなど無意味でしょ?貴方なんか死ぬことが似合っている」
「でも、俺は綾が好きなことに間違いはない」
「信用できない」
「屈辱かも知れないが生きることを受け入れる」
「それが信用できないと言っている」
「人間は中途半端が良い。妙に完成されたような顔付きや行動をとる奴より信用できる。諦めて何もしない奴、悟りきった奴、都合の良いように動く奴、しかし単に加齢がそうさせる。恐らく完成されないことが人間なのだろう」
「目的や、未来のことを考えても仕方がない」
「しかし、人間は自己に問い掛け社会的な適応を目指している。そんな生き方しか出来ないのかも知れない」
「要するに信用できない」
「俺のことも含めて?」
「そうね、放擲することに価値は無いと言っていた貴方が、自分を失うときはない」
「俺は綾を求めている」
「でも、貴方との別れは必ず来る」」
「何時までも若くはない。加齢は避けることの出来ない事実で有り、肉体的、精神的に微妙な差異があったとしても、一年経てば一歳年を取る。老化は生理機能が低下する自然現象であり、決して元に戻ることのない不可逆的な現象で必然的に死が待っている。歳を取るに従って、日常生活は変容し関係も生活も変わって行く」
「歳を取るなどと、考えても無意味なことでしかない」
「今、綾を受け止めることが出来ても何れ齟齬を来す」
「でも、拠り所が欲しいと思うようになる」
「誰も受け入れることが出来ないように、俺のことは、誰にも受け入れられないだろう。そして、俺は俺自身しか見ることが出来ない嫌な奴になる」
「どう言うこと?」
「人間という言葉の中から感情は消えた。人間は無機質なロボットのような、感覚のない爛れた皮膚のような存在でしかない。何れ、帰着すべき地点を持つことはなくそのまま放浪する。そして、息絶え死滅する」
「人間の歴史にも、明日のことにも興味は無いわ」
「しかし、」
「貴方の物を含んで貴方の熱い生を感じる。そう、性ではなく生を感じる」
「確かに、何も無いところから何かを生み出すことなど出来ない。一足す一が二になるように生産しなくては画餅の餅になってしまう。生きることは常に生産物に頼るしかない」
「雅生、生きよう。生きることで全く新しい地平が開けるかも知れない。そう考えることが唯一の道だと思う」
「一つ、忘れることが生きていることになる」
「でも、それで良い」
「俺には生産手段がない」
「例え借り物で有ったとしても、今日を生きて行くことで明日に繋がる。生きていることが快楽さえ齎す」
「俺は俺を失い掛けているのかも知れない。でも、それが生きている証になる。今日が終わればまた明日仕事に連れ戻される」
「一体私たちがどれほど多くの人々と交わることが出来るのか分からない。雅生、貴方がなりたいと思っているのは、主か、国王のような存在だと思う。でも、そんな者になれる筈がない。単に観念の世界を彷徨っているのに過ぎない」
「自家撞着していることは分かっている」
「私は貴方が好きよ。何時までも!」
綾はもう一度雅生の物を含んだ。そうすることが、雅生を現実の世界に引き戻すかのように愛撫した。
夕暮れが近付き既に一日が終わろうとしていた。
次回 降下