二十一 修正
日常的に許容できる声と頭蓋骨の中心をズキズキと刺激して破壊する声がある。澱部亮子の声は虫酸が走るほど厭なものだった。二万ヘルツ以上か、二百ヘルツ以下の振動ならば聞こえて来ることはないが、恐らくその中間辺りから声を発していたのだろう。醜悪なものは醜悪さから生涯抜け出ることはない。顔を見るのも、声を聞くのも、側を通り抜けることもおぞましかった。これまで人を憎み殺したい衝動に駆られたことなど無かったが、澱部良子だけは例外である。噛み合わない前歯を見ていても、ひん曲がった目つきと尖った眉毛を見ていても殺したくなる。何時会っても厭な女で、雅生は何時かこの女を殺してしまうのではないかと本気で思った。狂気の殺人者工藤雅生と三面記事に顔写真入りでデカデカと載るだろう。しかし本人からのコメントは取れる筈もなく殺した理由も分からない。刑事を前にして、雅生は前歯が気に入らないから殺したと尋問に答える。しかし、人間の、雅生の感覚など知る由もない刑事共は狼狽えることだろう。そして何故殺したのか適当に理由付けをする。
「貴様は人間の感覚を持っているのか、人様を殺しておいて、理由が無いなどと巫山戯たことをよく言えるな、殺された澱部亮子のことや両親の気持ちを考えて見ろ」
「考えることはない」
「巫山戯ているのか」
と、刑事は雅生の顔面を殴った。
「お前が殺したことに間違いないな」
「そう言うことだ」
「理由は」
「理由はない。あの声を聞いているだけで虫酸が走る」
「それで殺したのか」
「それで良いではないか」
「殺して、その後何をした」
「見ていた」
「澱部をか?」
「自分を見ていた。死んだ女を見ていても仕方がない。それに醜い女に興味はない」
「貴様は、それでも人間か」
「関係がない」
「この野郎」
と、言って刑事はまた殴り掛かった。
「同じ事だろう、瞬間的に俺を憎んだお前と俺の違いはない。何れお前も人を殺すだろう、楽しみにしている」
「しかし、それまで生き延びることが出来るかな」
と、刑事は笑みを浮かべた。
「生きているだろう」
「死刑にしてやる」
「裁判官でもあるまいに」
「この野郎」
と、言って刑事はまた殴り掛かった。
「好きにしろ」
「何故殺した」
「理由はない」
「何故殺した」
刑事は同じ質問を繰り返した。しかし雅生は既にその場には居なかった。何を聞かれても同じ事ことだった。独房に戻った雅生は何とも言えない安らかな気分になっていた。
密閉された部屋に何処から入ってきたのか、天井から一匹の蜘蛛が垂れ下がって雅生の目の前で止まった。そして、ジーッと、その視線を雅生に向けた。
「人殺しが来たな」
「殺して何が悪い」
「あの女にも生きる権利がある」
「何が権利だ、糞食らえ」
「醜くても一つの意識体であることに違いない。誰もが自分だけの生きようとする志向性を持っている」
「そんなことはどうでも良い。宙ぶらりんの儘で苦しくないか?」
「一向に」
「何の為にやって来た?」
「お前に人知を諭しても良い。俺のことを知っているのかな?」
「単なる蜘蛛だろう」
「良い度胸をしているな」
「どういう意味だ」
「俺の毒を避け切れるかな?」
蜘蛛はニタリと笑った。
「避けてみせるから掛かって来い!」
「盲目になり全身が痺れたまま動くことが出来なくなる」
「唯、其れだけのことで所詮殺すことは出来ないのだろう?俺は一人の醜い女を殺してきた。恐らくお前などと比較にならないほど醜い。全身血塗れになり踠き苦しんでいた。しかし、何故自分が殺されるのか分からなかっただろう」
「殺す理由も殺される理由も有りはしない。偶々、偶然にそうなっただけに過ぎない。加害者であっても被害者であっても、仮に、どちらであったとしても良い」
「漸く分かったか、その通りだ」
「理由無き殺意と言うものが確かにある。俺の毒は死に至らしめることは出来ないかも知れないが其奴の脳を破壊する。生きていながら死んでいるようなものだ。思考しない人間を、感覚を持たない人間を幾らでも作り出せる」
「だから、何だと言うのだ」
「お前もそうなりたいか」
「やってみるが良い」
「良い度胸だ」
「お喋り蜘蛛が、何も出来ないくせに喋ることだけ一人前だな」
「盲目にしてやる」
と、言いながら毒を吐き掛けた。しかし雅生の目を外れた必要な毒は床に落ちた。
「真剣に遣れ、喋りながらやるからこう言う結果になる。お前は既に必要な一瞬を失った。最早生きるに値しない、失せろ」
「あの女のように殺せ」
「蜘蛛を殺しても仕方がない」
「殺さなければ自ら死ぬ」
「勝手にしろ、俺とは関係が無いことだ」
「人殺しが、人殺しが」
蜘蛛はそう言うなり自らの足を喰い出した。雅生はそれを見ていたが何も言わなかった。死にたい奴は死ねば良い。
一つのボタンを押し間違えたことで、世界は一変するような修正不可能なことがある。人類は為政者の、ひとつの間違いで滅びる。持つことの出来ない権力、しかし、内に秘める権力は暴力に支配される。これまでの歴史はそれのみであった。抑圧され、支配されることで構成される人間社会は人間が滅びるまで続いていく。
「頂点に立ったことで、お前たち人間は自らの掟を作る。しかしそれは都合の良い人間共のことであり、お前のような下司野郎とは関わりのないことだ」
「足は旨いか?」
「下司野郎は、あの官憲やお前のように自らのことしか考えず、生まれてきた頃からの現象面が語られているのに過ぎない。人間故喜怒哀楽が有ったであろう。しかし感情の遺物に過ぎない。人生をどの様に要約しても一時間で語り尽くせるものではない。しかし実際には一時間で語り終えることが出来る。それだけの生き方しか出来ない人間共は俺たちと差して変わりがないことを知るべきだ」
「大した極論だ」
「女を殺したときの感想を聞こう。生きているお前には話す義務がある。感情の拡張ではないことは分かる。しかし単なるエゴの使用ではないか」
「不可抗力だ」
「一人の人間を不可抗力で殺せるか」
「殺せる」
「お前も権力を支配しているのに過ぎない」
「確かにそうだろう」
「中途半端なのだ。中途半端のまま生まれ、何も成すことなく死んでいく。喰っている時だけ生きていることを感じ、それ以外の時間は幻想でしかない。しかしその時間の中で自己を蝕み、苛み、他から辱めを受ける。何者にも代え難い瞬間が有っただろう。しかしそんな物は何時しか忘却の彼方だ。雅生、お前はあの女を殺した。それは自分が生き延びようとする為にだ。殺すことで、自らを正当化することではなかった。何時までも生き延びるが良い」
「違うな、生き延びる為でも、相容れない感覚でも無く、単純に俺の感覚が、不純物は取り除く必要があると指示した。動物、植物の進化の中で不要物は自然淘汰される。あの女は自然界から淘汰されたのに過ぎない」
「お前にとっての理屈でしかない」
「人間の存在とは彼らの現実的生活過程を意味する。それが失われたとき全てが終わる。現在進行中の出来事によってのみ存在して証明される。しかし其処には歴史も未来もない。何故そうなってしまったのか、個々人は、個々人の安逸さを求め日々の生活を流していく。決して修正されることのない日常、それが現在社会で美徳とされる。そして、都合良く現在を生き延びる為に過去を利用する」
「それを作っているのは誰だ」
「現在生きている俺であり人間共である」
「狂気の沙汰だ。偶々そんな風に見えるだけであって、その人間は現実を受け止め対峙して生きている」
「仕事は人生に何を齎すのか、人生そのものだと思っている連中に仕事以外考えることはない。日常も、会社に居るときも総て仕事に関わりを持つようになる。会社の中に人生があり、関係する人間たちの間に人生がある。そして、社会と深い関係を持っているような錯覚に陥っている。仕事の中に人生を見つけ、バリバリ働くことが良い人間となる。しかし最後に残っている物は一体何なのだ」
「お前の言いたいことは単に社会からの逃避で、出来損ないが自ら自慰しているのに過ぎない」
「そう言うことだろう。意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定していく。しかし、齢(よわい)、歳を重ねる毎に生活に埋もれていく過程は、意識も自分の外側に置いていく」
「結果的に、お前のような敗北者は精神病院のベッドの上か、鉄格子の中に居ることで世界を征服したような錯覚に陥っている。白昼夢、白昼夢、白昼夢だ」
「笑止千万」
「お前の哀願する姿が見たいものだ」
「失せろ」
「明日も取り調べが続いていく。それを楽しみに待っている」
蜘蛛はスルスルと天上まで昇り高窓の鉄格子の間から外に出ていった。雅生は、その行動の一部始終をじっと見ていた。
次回、二十二 境界