山に越して

日々の生活の記録

山に越して エンルム岬 12-7

2015-03-28 10:08:27 | 中編小説

  

  昭生は東京に帰ろうかと思っていたが苫小牧から札幌行きの列車に乗った。春の気配を間近に感じても、未だ何度も雪に見舞われる札幌の街を当て所無く歩いていた。暫くしてホテルに戻り、降り出した雪を眺めながら義妹の安達和江に会いたいと思った。和江は短大卒業後、札幌市内のデパートで事務員として働いていた。夕方待ち合わせの場所にいると和江の歩いてくるのが遠くから分かった。オーバーコートに身を包んだ姿は、一瞬雪江が近付いて来たのではないかと錯覚した。

「和江ちゃん、元気そうだね」

 と、昭生は先に声を掛けた。そうすることで自分を取り戻そうとした。

「義兄さん・・・」

「久し振りだね、それにしてもよく似ている・・・」

「東京を発つ日の朝電話を掛けても繋がらないし、何処に行ってしまったのか・・・管理人さんに連絡して鍵を開けて戴いたけれど、心配させて駄目な義兄さん」

「山梨県の清里にいた」

「告別式の日から?」

「そう、夜明け前にマンションを出て、着いた所が清里だった。今後のことを考えようと思っていたが、無為な時間だけが過ぎていった」

「様似の帰りだと言っていたけれど・・・」

「旅館に泊まっていた。義兄さんの所に行くことが出来なかったので和江ちゃんの所に寄った」

「そう・・・」

 和江は昭生の目を見つめ暫く考え込んでいた。

「雪江の思い出が恐かったのかも知れない」

「義兄さん、優しいから・・・」

「様似の町を歩き、エンルム岬から海を見ていた」

「仕事は?」

「退職届を送った。暫くこのままで居ようと思っている」

「辞める積もりでいたんだ・・・姉さん仕合わせだったと思う」

「和江ちゃんにも済まないと思っている」

「待っていても二度と姉さんは戻って来ない・・・義兄さん、分かっていながら待とうとしている。その気持ちは痛いほど分かるけれど・・・でも・・・ご免なさい。生意気なことを言って」

「歩こうか・・・」

「ええ・・・」

 暮れてしまった街を二人で歩いた。通りすがりの人から見れば仲の良い恋人同士のように映っていただろう。

「こうしていると、雪江と一緒に居るように感じる」

「元気、出してね・・・」

 二人で場末のレストランに入った。軽い食事を摂り、それぞれの思いを噛み締めていた。

「未だ誰にも話していないことがある」

 と、昭生は言った。これまで誰にも話さないまま胸の内に仕舞っておいたが和江には知って欲しかった。しかし、昭生は躊躇っていた。窓ガラスに映る姿が幾分震えているのが分かった。

「姉さんのこと?」

「医者に言われた・・・雪江のお腹には子供がいた」

「え・・・ほんとに?・・・」

「医者は誰にも聞こえないように小声で言った。三ヶ月になっていたそうだ。雪江はそのことを内緒にしていた。雪江が亡くなった後も、お腹のなかで生きていたかと思うと、苦しくて、苦しくて仕方がない。俺は雪江と一緒に自分の子を殺してしまった・・・雪江は俺のことを驚かす積もりでいたのだろう、長野に出張するとき、俺の目をまじまじと見つめ、そして、帰ってきたとき『教えて上げる・・・』と、言った。俺は何のことか皆目見当が付かなかった。結婚して四年目に初めての子が出来た。今思えば、そわそわしていたり、にこにこしていたり、普段と違った様子をしていた。しかし雪江の思いにも容態にも気付かなかった・・・幾ら自分を責めても、仕事に追われていたと言い訳をしているのに過ぎない。俺は自分の仕事を勝手に自負していた。しかし一番大切なことを見落としていた」

 昭生の両頬に涙が伝わり落ちていた。

「義兄さん・・・」

「雪江は、暗い部屋で俺の帰りを待っていた。必ず帰ってくると信じていた・・・激しい胸痛と闘いながら・・・無念だったと思う・・・今頃になって自責の念に駆られても仕方がないと分かっている。しかし、暗いベッドで耐えていた雪江のことを思うと・・・雪江の骨を拾っていたとき、産まれてくることの無かった子の姿を胸裡に描いていた。融けてしまったのか、未だ骨にもなっていなかったのか、でも、雪江の骨と混ざり合っていたのだろう。俺は名も無い子に済まなかったと侘びていた。しかし幾ら侘びても最早取り返しはつかない。火葬台車を目の当たりにしたとき、赤子が悲しく微笑んで『お父さん、お父さん』と、言っているようだった。骨を拾う俺の指先はブルブルと震えていた。発狂したかのように大声を出したかった。唯、唯、誰にも気付かれないように耐えていた。しかし、何時自分を見失うか分からなかった。自分に対する怒りと、雪江の思いと、小さな子の悲しみが渾然と混ざり合っていた。俺は人間として許されないだろう・・・」

 昭生は虚空を見ていた。そして、また話し始めた。

「一日が終わり、眠りに就こうとすると、子供の声が『助けて父さん、助けて父さん』と、言っているように聞こえてくる。俺は手を伸ばして必死で助けようとしているのに、子供は徐々に遠ざかって行く。俺は闇雲に子供の後を追い掛ける。しかし、名も無かった子の姿は忽然と暗闇の中に消え、近くにいた筈の雪江も一緒に消えている。俺は自分の居る場所も分からず呆然としている。そして、時間が経つに連れ誰も居なくなった暗闇で一生懸命出口を探している。でも、出口など始めから何処にも無いことを知る・・・清里での三ヶ月間、これからのことを模索していた。しかし空白を埋めることは出来なかった。仕事も、友人も、家族も、お金も、何もかも必要が無いと思えば本当に要らなくなる。雪江を失ったことは、俺自身を失ったことなのかも知れない・・・」

 

 その日和江と別れると、翌日、札幌支所に戻っていた伊藤友矩と会った。

「先輩、心配していました」

「悪かった」

「本社に電話を入れると退職届が出ていると聞きました・・・直ぐ行きますので待っていて下さい」

 伊藤は待ち合わせの場所に十分ほどで来た。

「飲みに行こうか・・・」

「先輩には面倒を懸けて申し訳ないと思っています。それに、色々なことを教えて戴きました」

「札幌市の工事は後を矢崎君に頼んである。準備は進んでいると思うが協力してやってくれ」

「分かりました」

「落ち着いたらこれからのことを考えようと思っているが、今のところ自分でも何をして良いのか分からない」

「北海道に来ませんか?・・・」

「会社では一従業員でしかなかった。既に退職届を出してあるし、そう言う訳にもいかないだろう」

「先輩がこんな風に結論を出すとは思いも寄りませんでした」

「仕方がなかった。しかし終わったとは思っていない。まだ先があるような気がする」

「僕に出来ることがあったら何でも言って下さい」

 昭生は久し振りに会話をしながら飲んだ。酔うほどに会社での辛かったこと、楽しかったことが蘇ってきた。しかし、これからのことを考えると不安だった。義妹に会い、伊藤に会い、励まされ、勇気付けられた。生きることの大切さ、仕事に復帰することの必要なことを感じていた。

(貴方、酔っているの?)

(飲み過ぎたのかも知れない)

(気を付けてね)

(分かっているよ)

(北海道には何時まで居るの?)

(東京に帰って出直そうと思う。しかし意識が持続しない。頽廃から抜け出すことは出来ないが、自分に対峙することを恐れている訳ではない)

(そう言う貴方であって欲しい。貴方の生命を支える血は未だ燃え尽きていない。清里から帰る日の朝、貴方は子栗鼠の話をしてくれた。私の好きになった人は溜め息が洩れるほど素敵だった)

(様似に行ったことで安心したのかも知れない。直ぐ近くに雪江を感じていた)

(貴方のこと何時も見守っている・・・)

 冷たいベッドで横になっていた。間もなく夜が明けてくる時間だった。昭生は窓を開け、降り出した名残雪の冷たさを感じていた。そして、東京に帰ろうと思った。身の回りを整理して生きる基盤を作らなければと思った。

 搭乗手続きをとるまでの間、雪江が立っていた公衆電話を見ていた。その受話器で何人もの女性が電話を掛けていた。しかし、振り向いた人の誰ひとりとして雪江ではなかった。雪江が振り向いたのは五年も前の出来事だった。

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山に越して エンルム岬 12-6

2015-03-20 10:42:55 | 中編小説

  

 駐車場に車を停めエレベーターに向かった。暫くの間ドアの前で躊躇っていたが、昭生は薄暗い部屋の中に入っていった。マンションに帰って来たのは三ヶ月振りで、部屋の中は葬儀の後出奔したままになっていた。母親に台所の片付けは頼んでおいたが、他は手が付けられておらず、静まり返った部屋は冷気が支配して、これまで人の住んだ気配さえ感じさせなかった。雪江の寝ていたベッドには新しいベッドカバーが掛けられていた。遣る瀬無かった。昭生は一部屋、一部屋確かめていった。洗面所を覗いたり、ベランダに出たりした。しかし何処にも雪江の姿を探し出すことはなかった。居間に置かれた遺影が笑みを浮かべていた。

 昭生はベッドに凭れ掛かり目を閉じていた。

(お帰りなさい・・・)

(ただいま)

(朝帰りなんて、いけない人ね)

(これから羽田空港に行く。急いで支度をしなければならない)

(何処に行くの?)

(様似へ帰る)

(春先の様似は寒いわ。貴方、コートを忘れないでね)

(雪江も一緒に行くんだよ)

(私は・・・行けない・・・)

(今年の夏休みは様似で一緒に過ごす約束をした。アポイ岳でセセリ蝶を探し、色んな草花を見つけ、エンルム岬から海を眺めようって約束した・・・)

(まだ、花は咲いていない)

(今は夏だよ)

(いいえ、雪が降っている・・・)

(幾ら寒いと言っても夏に雪が降る筈がない)

(夏休みはもう終わっている・・・)

 疲れが出たのか短時間眠っていた。我に返った昭生の顔に、カーテンの隙間から朝陽が射し始めていた。窓を開けると冷気が流れ込み、家々の屋根は朝陽を受け一日の始まりを告げていた。しかし虚空に目を遣りながら、昭生は何も感じ取ることが出来なかった。戸締まりを済ませると直ぐ羽田空港に向かった。何処かで雪江が現れるかも知れないと思った。エレベーターから降りて来るのか、羽田空港で待っているのか、昭生の意識は混沌としていた。

 

 日高本線は大正二年に工事が始まり、昭和三十七年に様似まで開通した。単線だったが、海岸線と丘陵地帯の狭間を走る鉄道は難工事が続き、開通までに太平洋戦争を挟んで四十年の歳月を費やしていた。様似行き最終列車は十八時十二分丁度に苫小牧駅を離れ、様似には二十一時半過ぎに着く予定だった。暫く進むと右前方に苫小牧港が迫り、巨大な貨物船の船窓が暗闇の中に浮かび上がり幻想的な風景を見せていた。静内を過ぎると乗客は急に少なくなり、暮れてしまった海に雪江と始めて会った日のことが思い出された。

【・・・雪江は、最終のこの列車に乗ったのだろう。そして、一週間後千歳空港で再会した。あの日からまだ五年しか経っていない。機内で雪江の名刺を見ていた。支笏湖に居たとき、ふと雪江のことを考えていた。しかし意識することなく通りすがり人のように感じていた。況して、雪江に思いを寄せるなど考えもしなかった。必然と訊いたとき、偶然と答えた雪江だった・・・雪江に出会うまで俺は人並みの恋をしなかったのだろうか。否、人を好きになったことや別れもあった。しかし空港で再会したとき激しいショックを受け、胸裡を熱く切ないものが急激に走り抜け、体内から奮い立つような戦慄を覚えた。やっと愛する人に巡り会うことが出来たと思った・・・仕事に対しても同じように確かに自分の感性を信じていた。あれは何処の現場だったのか、始めて手掛けた仕事だったのだろう。木陰で休んでいた俺の遙か前方に子栗鼠がいた。じっと俺のことを伺っていたのだろう、しかし安心したのか徐々に近付いてきた。そして、小さな声で”好きだ・・・”と、言った。一瞬夢を見ていたのかと思ったとき、子栗鼠は振り返って林の中に消えていた。あの子栗鼠と出会うことがなければ、仕事に対して矜持を持つことはなかった。人間もひとつの生命でしかなく、子栗鼠との共存を視野に置かなくてはならないと、その時感じた。それからの俺は自分の感性を信じて仕事を進めてきた・・・】

(貴方に会うことがなければ、例え羽田空港を発ったとしても、この列車に間に合わなかった。泊まる所もなかったし、お母さんに最後のお別れを言えなかった)

(雪江、一緒に来ていたんだ・・・)

(様似に行くのね・・・二人で始めて様似に行ったときも、こうして向かい合っていた。貴方は様似に着くまで海を見つめていた。そして、私の内面で呼吸している海を綺麗だね、って言った。貴方に愛されていることがとってもとっても嬉しかった)

(雪江のことを少しずつ分かり掛けていたのだろう)

(夕陽が海に消え沖には漁り火が見え隠れしていた。貴方は始めて見る光景だと言った。様似の磯ではアブラコ、コマイ、ソイ、時にはマコガレイが釣れると言っても、貴方の知っていたのはマコガレイだけだった。ねえ貴方、これから帰る様似のこと知っている?・・・様似町は古くはシヤマニと言い、砂馬荷、沙馬荷、射摩尼と書かれていた。アイヌ語のエシャマニ、エシャマンペッ【カワウソのいるところの意】シヤンマニ【高山のあるところの意】シヤマニ【シヤマニというアイヌの女性がいた】サンマウニ【寄り木の多いところの意】などと言われているけれど、色々由来があるみたい。蝦夷地名考并里程記(えぞちめいこうへいりていき)には故事相分からずとなっていて、本当はどれが正しいのか分からない。そして、明治三十九年に様似村になり、昭和二十七年に様似町になった・・・)

(色々知っているね)

(だって、様似は私の故郷よ)

(アイヌの言葉を知っている?)

(エシャマンベツは様似川、エゾシモリは北海道、アポイヌプリはアポイ岳、私にも遠いアイヌの血が流れているのかも知れない)

 終点の車内放送で我に返った。昨夜からの疲れが襲ってきたのだろう、静内を過ぎた頃から寝入っていた。様似駅は霙混じりの西風が吹き付けていた。昭生は暫くの間駅前に立っていたが、思い直したように歩き始めた。

 翌朝は快晴だった。午前中アポイ岳に登り、午後から様似参道を歩いた。山道は所々残雪が覆い、未だ春の訪れを感じさせることはなかった。この季節、登山客は無く、頂上からは様似の町並みが太平洋に抱かれるように拡がっていた。二日目、様似高校に行った。瀟洒な白い三階建の校舎は住宅地の外れにあり、その奥に様似川の源流が流れていた。校庭に立ち、窓辺に佇む女生徒の姿に、帰らぬ雪江の面影を見ていた。小さな声で、「雪江・・・」と呼び掛けても、誰も振り返ることはなかった。その後、様似町のあらゆるところを記憶に留めて置くかのように歩いた。三日目、広大な太平洋に切り立ったエンルム岬から一日海を眺め、眼下に拡がる紺碧の海に雪江の姿を探していた。

(貴方が来てくれることを願っていた)

(生きるには意味が必要だろう。しかし俺には何も無い)

(貴方、悲しまないで欲しい。私は貴方のなかで語り、愛し、共に生きている。何故、死ぬことを考えているの・・・死んではいけない。貴方が自らの命を絶つことになれば私には悲しみしか残らない。生きる意味は日々のなかで作られ、貴方と私が出会った時のように気付かない一瞬のなかにある)

(雪江の歩いた道を、立ち寄った書店を、見ていた景色を、そう全てを感じていた。でも、既に失われていた)

(出会いがあって別れを迎える。貴方と私はその時間が少しだけ短かった。貴方に済まないと思っています。料理を拵えて帰りを待つことも、洗濯物を干すことやお掃除も出来なくなってしまった。貴方の為に何も出来ないことが辛い)

(俺には最早必要がない)

(貴方・・・そんな言い方はいや)

(海が悲しいね)

(貴方の側に帰りたい)

 海上から立ち上る霧に乱反射した光は上空高く舞い上がっていた。昭生はエンルム岬に沈む残光に雪江の姿を見ようとした。しかし、ゆっくりと踵を返すと旅館に戻って行った。そして翌朝、様似町を発った。雪江の生家に寄ろうかと思ったが、玄関先から眺め、そして直ぐに立ち去った。

 日高本線一四六キロが四十年の歳月を費やし、悪戦苦闘の末竣工したことを思い出していた。崖を切り開き、海岸すれすれに走る二両列車は間もなく苫小牧駅に到着する予定だった。様似町に着いたとき、雪江の思いに抱かれたまま逝くことを考えていた。しかし単に死にきれなかったのか、雪江が居なくとも生きようとしたのか、様似の海と町が一縷の望みを与えたのか分からなかった。しかし、生きることの意味を見出すことがどれ程困難なことか、失った悲しみを身に染みて感じていた。

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山に越して エンルム岬 12-5

2015-03-06 14:46:45 | 中編小説

 五

 家々の軒先には春まで融けない雪が残り朝から粉雪の舞う芯から冷え込む日だった。この時期、周辺の別荘は五、六軒に一軒の割合で灯が点っていたが余計寒々しさを与えていた。昭生は早い夕食を摂ろうと思いレストハウスに上っていった。前年の夏、雪江と向かい合っていた同じテーブルだった。一人で摂る夕食は侘びしく、暮れかかる高原の先に遠く町の明かりが滲んでいた。

(乾杯!)

 と、言って雪江はワイングラスを重ねてきた。

(素敵な所ね)

(気に入った?)

(とっても、私、様似と東京しか知らないんだもの)

(来年も来るとしよう!)

(いいえ、来年は北海道に行く。様似に帰ってアポイの火祭りを見るの、水中花火がとっても素敵よ)

(何方でも!)

(貴方って優しいのね)

(何も出ないよ)

(ワイン、もう少し如何?)

(でも、飲み過ぎたようだ)

(一緒だもの、大丈夫)

(雪江に出会うことがなければ一生独りで居たのかも知れない)

(嘘、付いている!)

(結婚することなど考えたこともなかった。毎日仕事に追われ、一日一日の大切なことを忘れていた)

(そう言うことにして置きましょう)

(必然と思う?)

(いいえ、偶然だった)

(そうだね)

(ねえ貴方、明日は富士五湖を廻って帰りたい)

(良いよ)

(私の言うこと、何でも聞いてくれるのね・・・)

「お客様、如何なされました。フォークを落とされています」

 と、ボーイに声を掛けられ我に返った。

「少し酔ってしまった」

「新しい物にお取り替え致します」

「もう帰るから・・・有り難う」

 昭生は支払いを済ませると、すっかり暗くなった道を別荘に戻って行った。

 

 大泉の別荘に来て既に三ヶ月が過ぎていた。朝夕の冷え込みは相変わらず厳しかったが、日中の温かさに木陰の雪も融け始め、夜になると唐松林に霧が立ち込める日もあった。寒さを感じることは無かったが、開け放した窓から霧が流れ込み、昭生の髪や身体に纏わり付いていた。深夜、静寂と反響のない暗闇に雪江の姿を求めていた。

(貴方、少し痩せたかしら?)

(そうかな?)

(しっかり食べないと駄目よ。そして、元気を出さないと!)

(ホテルで食べて、時々は町で買い物をしている)

(貴方のことが心配・・・)

(あの日、雪江を置き去りにして地球の果てに行く夢を見ていた。『行かないで』と叫んでいたのに、俺は機材と共に船に乗り込んでいた)

(いいえ、貴方は私の許に帰ってきた。貴方に抱かれ、その腕の中で仕合わせを感じていた)

(間違いに気付いたとき、船は桟橋を離れていた)

(もう良いの、貴方・・・言わないで!)

(雪江が居なければ・・・)

(貴方は、私にとって永遠の愛であり夢だった。でも、愛することは過去を越えなくてはならない)

(越える?・・・)

(そうしなければ生きることは出来ない)

(過去を越えることは出来ないだろう)

(いいえ、越えなくてはならない)

(此処で過ごした三ヶ月間は何の意味も持っていない。確かに今の仕事をやり遂げる大切さを知っている。一生懸命働くことで展望を切り開く必要がある。しかし、日常が意味をなさない)

(貴方の言う通りかも知れない。でも、私は貴方を失いたくない)

(暫くこのままで居たいと思う)

(貴方を信じています)

(一度、様似に行きたい・・・)

(本当?嬉しい!)

(一緒に行こう)

(様似は素敵な所よ。アポイ岳がまだ真っ白な雪に覆われている四月の終わり、大凧や連凧が大空に舞い上がる。五月の連休が終わる頃、アポイ岳の雪も消えかかり、ヒダカソウ、アポイアズマギク、サマニオトギリなど色とりどりの高山植物が春、夏、秋と咲き乱れる。八月はアポイ山麓で採火式が行われ、エンルム岬の火文字から夏の火祭りが始まる。そして、秋の終わりに冷たい雨が降り始め北風と雪の季節を迎える。私の命を育んだ様似の町は、自然の優しさと厳しさが四季折々に同居する。私は、来る日も来る日も自然と対話していた)

(雪江の自然に対する思いを知っていた)

(いいえ、貴方の優しさに触れたとき、その優しさに吸収されてしまうと思った。そして、何時しか貴方を様似の自然と置き換えていた。逞しく生きている貴方が好きだった。そして、貴方の、翳りのある眼差しの中に未来に対峙する姿を見ていた・・・そう、東京での生活は貴方に出会う為のプロローグに過ぎなかった。それまでの私は、曖昧模糊とした目的のない日常を送っていた。美容師の免許は取れたけれど、毎日毎日基本的なことの繰り返しに夢は消えかかり、腕を上げなければと思いながらも少しずつ心は蝕まれていた。そんなとき貴方に出会うことが出来た。私は弱虫で、何時も貴方に甘えたかった)

(一緒に海釣りに行きカレイを釣った。襟裳岬で海風に飛ばされそうになった。日高山脈から吹き下ろす風を日高しも風と教えてくれた。それが仕合わせだったのだろう)

(ねえ貴方、知っている?アポイ岳にはナキウサギや高山蝶のヒメチャマダラセセリもいるの。昭和四十八年に発見されたセセリ蝶の一種で、中国東北部やシベリアに分布する小さな蝶よ。カンラン岩と言う特殊な土壌条件に咲く、食草キンロウバイに産み付けられた卵が、幼虫となり、主食としながら成長する。セセリ蝶は日本にも四〇種類いるって聞いたけれど、この蝶はアポイ岳しかいない)

(見たことはあるの?)

(標本では見たけれど、幻の蝶を一度は見たかった)

(帰ったときアポイ岳に登ろう!)

(早く夏になれば嬉しい)

(もう直ぐやって来る)

(エンルム岬から沈む夕陽を眺めてみたい。岬に居ると、海の中に一人取り残されたような錯覚を覚える。拡がる海原が真っ赤に染まり、始め光の中に吸収され、やがて闇の中に拡散する。高校生の頃何時も眺めていた・・・夏の観光シーズンが終わる秋口から様似はまた蘇る。紅葉した様似山道を歩くと小鳥の囀りに誘われる。山道は現在から二百年も前に造られた様似への道で、冬島から幌満まで七キロの道程を言う。明治三十四年に海岸道路が出来て廃道になったけれど、それから八十年近く経って整備された・・・そう、太平洋は夏の軽やかな青から紺碧に色を変え、海辺から人影が消える。様似の海を見ることが出来れば、私は蘇ることが出来るのかも知れない。貴方と一緒に暮らせるようになりたい。連れて行って、様似に帰りたい)

 昭生は寒さに震え目を醒ました。そして、闇に目を凝らして暫くの間じっとしていた。夢を見ていたのだろうか、部屋はしっとりと濡れ雪江は霧に捲かれ消えていた。雪江の頬には涙が伝わり落ちていた。生きることを奪われた悲しみの涙なのだろう。雪江の生まれ育った様似に行くことで、生きる方向が見えてくるかも知れなかった。途中で投げ出した工事のことや、心配してくれる友人の為にも仕事をしなければと思った。しかし、行き着く先に雪江の姿は消えていた。

 矢崎伸吾に会ったが結局会社には退職届を送った。十一年間働いた会社だった。将来を嘱望され地道に積み上げてきた仕事だったが戻る気力は失われていた。生活が苦しくなることも、将来のことも、昭生にとって何方でも良いことだった。それは厭世観でも逃避でもなく、大切な人を失ったときに起こり得る神経耗弱のような状態だった。自分が何故居るのか、何をしてきたのか判断出来ず、周囲の情況や家族や係累も関係がなかった。

 意識的であれ無意識的であれ、人は自分の生きてきた環境、教育、思考過程、知識の集約として考え行動する。しかし現在の昭生にとって、それらは何の意味もなさず、飲食と、呼吸と、睡眠が生きていることの支えに過ぎなかった。昭生にとって、意識できる意識を取り戻すには、『直ぐ手術をしていれば助かったかも知れない。それに、お腹の中には幼い命が芽生えていた』と言った、医者の言葉を越えなくてはならなかった。

 昭生は帰り支度を済ませそのまま朝を迎えた。考えることがあるように思ったが分からなかった。未だ小鳥の囀りも聞こえない薄暗い朝靄の中、高原を下りて行った。

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山に越して エンルム岬 12-4

2015-03-01 10:52:16 | 中編小説

 四

  志田川雪江の死亡診断名は心筋梗塞後の心破裂とされた。心室中隔穿孔で心タンポナーデを起こして急死したと思われる。しかし穿孔部を閉鎖する手術をしていれば助かっていたのかも知れなかった。心タンポナーデとは、心膜内に血液が溜まり、心臓の拍動が出来なくなった状態で、心拍出量の減少した状態を言った。要するに血液を心臓から送ることが出来なくなって呼吸停止になったと思われる。

『直ぐ手術をしていれば助かったかも知れない』と、医者は言った。そして、逡巡していたようだったが、『それに、お腹の中には幼い命が芽生えていた』と付け足した。最後に言った医者の言葉が昭生の心のなか深く残っていた。

 告別式が終わり、弔意客が引き上げ、知人が帰り、そして係累が帰っていった。静まり返った部屋に昭生一人が残された。為す統べなく簡単な身支度を済ませると深夜マンションを後にした。行き場など無かったが一人で居ることに耐えられなかった。雪江が死んだと言う事実は変えようがなく、死に追いやったのは自分が帰らなかった為であり、昭生に理解出来たことはそれだけだった。車の中で寝泊まりしながら西伊豆まで来ていた。海を眺めながら、内面に拡がる虚無感に支配されていた。数日間西伊豆で過ごし、そして海を離れた。

 

 山梨県の北麓に拡がる森林地帯、小海線の清里駅から西に五、六キロ離れた所に通年利用できる貸別荘がある。近くには幾つかのスキー場が有り時節柄若者達で混み合っていた。しかし鬱蒼とした唐松林に囲まれた別荘周辺は、八ヶ岳からの風花を運び、日中晴れていても朝夕冷え込み厳しい冬を感じさせた。此処に来てから二ヶ月が過ぎていた。西伊豆を離れたことは覚えていたが、茫然自失のままその間の記憶を失っていた。しかし幾つかの情景は影絵のように残っていた。唯、具体的な事柄になると確証は無かった。残されている何枚かの領収書や、伝票の日付を見て日々が過ぎたことを知った。

 会社には休職願いを出していた。仕事も遣りっ放しのままだったが、現在の昭生にとって論理的に処理出来る状態では無かった。葬儀後一度もマンションに帰ることは無く親しい人にも会っていなかった。新聞を読むことも、テレビを観ることも、ラジオを聴くこともなかった。周囲の情況を理解せず、社会から隔絶されたような厭世観の漂う生活を続けていた。

 昭生は暮れて行く林間を眺めていた。視野の向こうに何も映ることはなく悔恨だけが堂々巡りしていた。しかし外界から遮断され、冬の厳しさに耐えることで心の平常さを保とうとしていた。

【・・・何故、雪江の魂の叫びを聞くことが出来なかったのか、『帰ってきて、早く』と、そう叫んでいた。あの時、直ぐ帰っていれば死ぬことはなかった。仕事は中途で止めることが出来た。信頼出来る矢崎が一緒だった。彼奴に後のことを頼み現場を離れることが出来た。雪江に必要だったのは俺であり、他に頼る人は誰もいなかった。二日間暗いベッドの中で、痛みに耐え、苦しみながら俺の帰りを待っていた。これまでにも辛いことや苦しいことがあった筈である。しかし電話を掛けてくることなど滅多になかった。たった一度きり、望みを託して、助けを求めてきたのに、俺は仕事を優先させていた。俺は、俺自身の生きることへ優柔不断さ、感覚として捉えることの出来ない先見性のなさ、的確な行動を躊躇う人間性の欠如、そして、何よりも愛することの深遠さを失っていた。雪江、独り寂しく苦しかっただろう・・・】

(貴方・・・ただいま、遅くなってご免なさい)

(お帰り、こっちにおいで!)

(直ぐ近くで待っていたのに、先に行ってしまうんだもの、いけない人ね)

(雪江が何処に居たのか分からなかった。それに、仕事があって、今日中に仕上げたかった)

(終わったの?)

(少し残っている。でも、明日も頑張るよ)

(最近、身体の調子が良くないの・・・)

(無理が重なったのだろう、少し休むと良い)

(昨日もベッドで横になっていた。そして、貴方と過ごした日々のことを考えていた。楽しいことが沢山あって、とっても嬉しかった)

(もう会えないような言い方だよ)

(だって、私は死んでしまった。二度と貴方に会うことはない)

(死ぬ筈がない。そんな言い方は止めな!)

(いいえ、貴方はそのことを受け入れなくてはならない)

(大丈夫だよ、雪江の身体のことは一番良く知っている)

(そうね、貴方の雪江だもの。でも、出張から早く帰ってきて!貴方の居ない部屋で待っているは辛い)

(そう言えば、出張している間に雪江が亡くなったと誰かが言っていた。しかしそんなことが有る筈がない。早く帰るから待っているんだよ)

(いいえ、本当のことよ)

(雪江の言っていることが良く分からない)

(私のことを大切にしてくれた人は貴方しかいない。貴方の優しさに、力強さに、温かさに触れることが出来た。そう、貴方と過ごした日々は掛け替えのないときだった)

(雪江、待っているんだよ。もう直ぐ、もう直ぐ着く)

(貴方、夢を見ているの?ねえ、二人が空港で出会ったとき、私のこと慌て者だと思ったでしょ?)

(可愛い人だと思った)

(嘘付きは嫌い)

(ジェット機の小さな窓から暗闇を眺めていた。その時、雪江のような恋人が出来れば良いなと思った)

(本当?・・・嬉しい!・・・私も貴方のことを考えていた)

(でも、再会することはないと思っていた。東京の街を歩いても、地方を歩いても、同じ人に二度と巡り会うことはない)

(そうね、色んな人が通り過ぎ、そして過去になる。そのことを寂しいと感じることもある。でも、人間は後戻りすることのない時間と空間を生きている・・・ねえ貴方、あの時、その日の内に仕事があったとしても、屹度、搭乗券を譲ってくれたでしょ?)

(そんなに優しくないよ)

(羽田に居たの?)

(そうだよ)

(優しい貴方が好きだった)

 深夜になっていた。眠っていたのか醒めていたのか分からなかった。脈絡のない夢を見ていたのだろう、朦朧とした意識のなかから雪江は忽然と消えていた。

 

 二月の初旬、北風の吹き荒れる日の午後だった。ロッキングチェアーに掛け、昭生は窓外に目を向けていたが、呼び鈴の音に振り向き矢崎伸吾が訪ねてきたことを知った。

「先輩、心配していました」

「どうして此処を?」

「実家のお母様に聞きました」

「そうか、心配を懸けて申し訳なかった」

「梓湖の工事も順調に進んでいます」

「途中で放り出したままになっていた。これからは矢崎君が中心になって進めて貰いたい」

「何度電話を掛けてもマンションにいないし、会社には休職届が出ていることを知り驚きました。早くお会いしなければと思っていたのですが、済みませんでした」

「暫く休もうと思っている」

「先輩の指示がないと工事が心配です」

「何を言っている。矢崎君一人で十分出来るだろう、会社にもそう言ってある」

 と、言った声も力強くなかった。

「いつ頃から出社して戴けますか?」

「考えてはいるが体調も今のところ良くない。このままでは会社に迷惑を掛けるばかりで・・・いっそ辞めようかと考えていた」

「何を仰るのですか・・・」

「これ以上休む訳にもいかないだろう。然りとて現在の状態では先が見えてこない」

「河川設計は先輩以外出来ないと思います」

「有り難う、頑張ろうとはしているが・・・」

「奥さんのことが?」

「あの時、矢崎君の言うことを聞いて帰っていれば良かった」

「早く仕事に戻って元気を出して下さい」

「札幌の工事のことも気に懸かっていた。出来れば後のことは君に任せたい。札幌支所の伊藤友矩君に連絡を取ってくれないか、彼は仕事熱心で色々手伝ってくれるだろう、信頼できる相手だ」

「分かりました。今日此処に来たのは会社からの指示もありました。長野から戻って、社長室に呼ばれ、梓湖での志田川さんのことを訊かれました。社長も部長も心配をなされ、暫く待つから出て来るようにと言っておられます」

「申し訳ないと思っている。宜しく言っておいてくれ」

「分かりました。それでは失礼します」

 矢崎伸吾は夕暮れの高原を下りて行った。半日という時間のずれが人生の歯車を狂わせていた。しかし、その時間は取り戻せることの出来る時間ではなかった。

マンションに帰り着いたとき、雪江の頬はまだ微かな温もりを残していた。通夜が始まるまでの間、柩に寄り添い離れられなかった。死亡届も、死体火葬許可証も破り捨てていた。死後硬直した雪江の見開くことのない瞼と、頬の冷たさは、記憶からも掌からも消えることはなかった。

 窓を開けると凍て付くような冷たい風が流れ込み、林立した林の間から外灯に乱反射した雪が舞っていた。そして、静まり返った虚空に耐え切れなくなった枝の雪が落ち、カサカサと泣いていた。

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