山に越して

日々の生活の記録

 山に越して 閉ざされた時間 23-1

2015-05-22 10:09:20 | 長編小説

閉ざされた時間           

 目次

   

  一   視覚

  二   密閉

  三   真空

  四   流域

  五   放逸(ほういつ)

  六   軽薄

  七   流露

  八   遺物

  九   異物

  十   蒼茫

 十一   乱倫    

 十二   乾き

 十三   死海

 十四   不安

 十五   畏怖

 十六   分裂した聖域

 十七   繋縛(けいばく)

 十八   降下

 十九   流星

 二十   不快

二十一   修正

二十二   境界

二十三   そして、閉ざされた時間(終章二十三時)

  

 

 一 視覚

 

 覚醒したのか、睡魔のなかにいるのか、意識が確実に蘇って来ないことに不安を覚えた。未だ夢の中であれば目覚めることを必要とし、既に覚醒しているのなら、何処に居るのか、何をしようとしていたのか、眠っていたのか、起きていたのか、平成何年何月何日なのか、午後なのか、午前なのか、自分の置かれている情況や時間さえ定かでない。工藤雅生は必死に考えようとした。自分が置かれている情況を考えることで現況が解明され確認出来ると思った。しかし蘇生した意識が戻らない限り先に進むことは出来ない。雅生はもう一度周囲を見渡した。見ることに依って、距離感と忘れていた意識が戻るのではないかと思った。暫く時間が経った。そうか、伊集院綾が帰ったのだ。ついさっきまで布団に丸くなっていたが急に帰ると言った。そうであるなら確かに眠りに就こうとした時なのかも知れない。

「帰るわ」

 と、綾は言った。声に張りは無く混濁しているようだった。

「終電は通り過ぎた」

 と、雅生は言った。

「電車に乗ろうと思っていない」

「此処に居るのが嫌になったのか?」

「違う」

「帰るにしたって方法がない」

「歩いて行く」

「丘を越えるにしても十キロ以上ある」

「構わないわ」

「送っていかないよ」

「始めから期待していない」

「夜道は危険かも知れない」

「送っていかないと言いながら、そう言う言い方はないと思う。私を愚弄する積もり」

「悪かった。何故か分からないがもう会えないような気がした」

「そうね、明日の約束をしている訳ではないし、明日が来ることなど可笑しくて信じられないでしょ?」

 時間は既に一時を回っていたが、手早く身支度を整えると綾は帰って行った。

 その時から始まっていた。

 雅生は閉ざされた時間の中で堂々巡りをしていた。狭いアパートの中から外に出ることも無く常時自分自身を自覚している苦しさがあった。しかし雅生の意識は未だ曖昧だった。綾が帰ってからどの位経ったのか、本当に綾とアパートの一室で一緒に居たのか不安だった。何故、急に綾は帰ろうとしたのだろう?

 その瞬間、辺りは一瞬真っ赤に燃え上がった。朝焼けの光だと思ったが陽炎のようにユラユラと揺れている。熱風を受け、窓がピシッピシッと鳴いた。座り込んだまま居眠りをしていたのかも知れない。光は軈て激しい轟音に変わっていた。ガラス戸の向こうはメラメラと音を立てながら盛んに燃え、火の粉が飛び散り、コールタールの焼け爛れた悪臭が辺りに拡散している。燃え尽きるなら燃え尽きてしまえと雅生は思った。なまじ残滓が有れば人間は欲を抱くものだ。綺麗サッパリと燃え尽きてしまえば考え方もまた変わる。雅生は、「燃えろ、

燃えろ」と有らん限りの声で叫んだ。闇と炎の競演ほど刺激的で嗜虐的なものはない。燃え尽きようとする炎の中に真実がある。

「燃えろ、全てを灰にしてしまえ。そして、灰は風に吹き飛ばされ空中に拡散しろ。後には何も残すな。形ある物は必ず消滅する運命にある。崩壊するだけでは済まない。跡形もなく消えてこそ素晴らしいのだ」

「雅生も時には良いことを言うな」

「当たり前だ。見ろ、ガスに引火しただろう、今激しい爆発音がした。全てが焼き尽くされたとき人間は始めて真実を知る。そして、生きることの原点に還る」

「人間の原点かな、それとも執着への原点かな?」

「どちらでも良いではないか」

「負け犬の言葉を吐くではない。地上に生きる人間は選ばれた者だけである。炎の中から生き返ることが出来ぬなら死ぬが良い。おや、炎の中に一人の男が踠いている」

「あの中に人間が居ると言うのか?」

「確かにいる。悲鳴を上げているではないか」

「悲鳴を?」

「そうだ。多少の金品に執着する余り眺めることを知らない。炎の中に飛び込んだあの男は建物と一緒に消滅するだろう。選ばれていない人間としては当然のことだ」

「経営者か?」

「そうだろう、工場の隣に邸宅を構え住んでいた。物欲は人間の精神を堕落させ、見境を無くさせることに気付かない。とどの詰まり、斯う言う結果になる。雅生、呉々も言って置くが、お前は他に迎合することなく自分の本質のみを見極めるが良い。そうする時にのみ生きるに値するのだ。然もなくば、あの男のように炎に呑み込まれることになる」

「欲望は終末を迎える?」

「人間の五感は単に欲望を満たす為に存在する。操っている積もりでいても、実は欲望に操られていることを知らない。精神の内なる呟きを聞くのだ。本来的に必要なことと不必要なことを見極めるのだ。そうすることに依って雅生自身が現実に存在することが出来る。現実を確乎とした眼で見ることが出来る」

「現在の俺は欲望に操られていると言うことか?」

「そう言うことになる。全てを焼き尽くすあの炎を見よ。全てを失うことによって始めて真理が見えてくる。中心から拡散するのでは無く炎は中心に向かって収斂して行く。そして、燃え尽きたとき其処には何も残らない。無に帰するのだ」

「男は助かるだろうか?」

「無理だろう。所詮欲望の固まりに過ぎない男は、炎の中心に消滅してこそ誠実であったと言える」

「お前は何故、俺に語る」

「さて、私が誰で在るかと言う問いであるが、私はお前自身である。お前の生き血を吸いながら生きている。しかし二十四時間後に消滅する。それ以上お前の裡に居たとしても意味を持ち得ない。お前にとって必要なことを語るだろう。そして、綺麗さっぱりとお別れだ。二十四時間は永遠の時である。その時間が工藤雅生の生涯を決定することになる。しかし時間など本当は意味を持つことはない。唯、時間と共にしか生きられない人間には必要だが私には必要がない。時間を超えることの出来ない苦しみ、時間に拘束される苦しみ、時間に追われる苦しみ、時間こそが人間の生き方を規定する。そして、何時しか時間と共に朽ちて行くのである。しかし、何れにせよ時間を支配するときが来るだろう。そして、永遠の時を得ることになる。永遠の時、即ち死の時である」

「永遠の時、それは死の時?」

「その通り。全ての生命は無から生じ無に帰する。それが真理である。炎に焼かれているあの男を見よ。あの男は、これから永遠の時を得ることになる。苦痛など屁とも思わないのである。無の空間に還元されることに依って、人間としての存在から逃れることが出来る。苦痛も快楽もない正に無の空間である」

「お前は何故俺の裡に居る?」

「雅生、お前の意識外のことである。そんなことに一々構うことはない。残された時間は僅かである。お前は二十四時間後には一人で生きることになる。そして、全てを失う。何も無い空間で何も考えることなく、唯、時を送るだけである。視覚に写る事象は、お前の内面に値しないのだ。見よ!生きている人間どもを!彼等の一人一人が視覚に操られ生きている。彷徨っていることを知らず、日々に追われ、日々に埋没しているのだ。無為を無為と認識することも無く、虚空に彷徨う死人の群である」

「ひとつ聞きたいことがある?」

「何だ」

「何故、二十四時間後に消える?」

「好い加減にしろ。馬鹿野郎とは、お前の脳細胞にピッタリと当て嵌まる言葉ではないか。何の為に生きようとしているのだ。日々生きていたとしても何の価値がある。一日、二十四時間が他の物に取り替えられることはない。二十四時、それは存在しない時間でしかない。人間共にはたった一日あれば十分である。それ以上の時間は不必要な頽廃に支配された時間でしかない。お前が存在の軽佻さに気付いたとき始めて分かるだろう。しかし滓頭の脳細胞が果たして理解出来るだろうか、疑問だ」

「お前に愚弄される覚えはない」

「逃れられると思うのは間違いだ。自己の愚昧さから逃れようとするとき、人間は居丈高になるか分かった振りをする。最も愚劣な行為を日々している。雅生、お前がそれだけの人間でしかないと言うならそれで構わないだろう。理解されようとするのではなく、理解していくのだ。自分の行為の限界を知るのではなく、仮令、凡庸な精神のままであっても存在の原点に還るのだ」

「愚昧な日常とは、俺の精神の起点である」

「お前のことを馬鹿にしている積もりは更々ない。雅生、ぼやいても仕方のないことで限界は誰にでもある。しかしそれは生理的な限界であって知的な限界ではない。知的な限界を超えようとするとき生理的な限界をも支配できる」

 未明のけたたましいサイレン音が鳴り響いていた。鼓膜を突き破らん限りの高周波は雅生の目の前で止まり放水が始まった。しかし火勢は弱まることは無くより激しさを増している。複数のサイレン音からして消防車は数台来ている筈である。しかし一台きりしか見当たらない。旋盤工場に向かって放水は懸命に続いていたが、水は上空高く飛び散っていた。地上の引力を利用して工場の真下に落下させようとしていたのか、しかし水は落下して行く間に霧散した。

 地表面のあらゆる場所は同じ条件下で存在しない。何故、そんな単純なことに気付かないのか不思議だった。馬鹿の一つ覚えと同じように、一定の条件下でしか反応出来ないよう日頃から訓練されている為である。しかし消防士にとって、単に消火することのみが与えられた責務である。加勢は弱まることはなかった。始め透明な水のようであったが消防車は真っ黒い汚泥を放水し始めた。尿や糞、川底に溜まったヘドロなど辺り一面に撒き散らした。周囲はあっと言う間に悪臭に満たされ、密閉されている部屋にも関わらず、異様な臭いで雅生は窒息しそうになった。しかし、悪臭の中で幼い頃味わった懐かしい臭いを感じた。田舎道を歩いて行くと左右に馬鈴薯畑が拡がり転々と肥溜めがある。しかし人に出会うことも、人家の影も無く、燦々と午後の日が照り返している。其処で時めくような臭いに包まれている。しかし、一体何時の時代に生きていたのだろう、今時、何処に行っても肥溜めなど有る筈がない。

 軈て真っ赤に燃え上がった工場は鎮火した。そして、辺りは又真っ暗闇に閉ざされ、一つの残骸も無く工場は消失した。見物客もいない火災現場にいても仕方が無いのだろう、消防士は手持ち無沙汰のまま帰っていった。しかし消防車には運転手しか乗っていない。消火作業をしていた連中は何処に行ったのか現場には誰も見当たらない。崩れ落ちる材木や壁の中に埋もれたのだろうか、それとも始めから消防車の中には誰も乗り込んでいなかったのか、雅生は不可思議な情景を見ていたのだろうか・・・。綾が帰り、火災が起き、誰かが語り掛けてきたような気がしたが定かでなかった。