神の気前良さに答えて生きる

2012-10-13 | 教会は初めてという人のために
神の気前良さに答えて生きる

 
マタイ20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。

さて、マタイ20:1-16の、このイエスのたとえ話は、こうです。
大きなぶどう園の農場主が、収穫時期だったので、多くの人手が必要だった。そこで、農場主は、町の広場、市場へ出かけて行って、人々を雇ったのです。
主人は、労働者を、雇うために、朝早くから、市場へと出かけます。

まず、早朝6時ごろです。次にまた、出かけて行って、9時ごろ、次にまた正午ごろ、次にまた3時ごろ、これで終わりかと思ったら、なんと、日没直前の5時ごろにも行って、働き手を雇ってきます。
一日5回も出かけました。
(当時の労働時間は、通常は、朝6時から夕方6時までだったようです)。

この主人は、朝6時に雇われた労働者と、一日1デナリの賃金を支払う、約束事がなされます。その他の時間に雇われた労働者たちにも、ふさわしい賃金を支払うことを約束します。
そして、日が暮れて6時、一日の労働を終えて主人は、最後に5時から雇った人々から順番に、賃金を支払った。すべての労働者たちが見守っていると、なんと、5時から働いた人、1時間しか働かなったんですが、1デナリを支払ったのです。
ほかの人々は、うわーこれでは、自分たちは、これは、1デナリ以上もらえるに違いないと、わくわくさせていましたが、3時、12時、6時と、順々に、1デナリを支払ったのです。

早朝6時から人は、一番早く来て、一番多くの時間を働いたのだから、きっと、そうとうボーナスがついてくるのではないかと期待していた。それで、支払の順番が、最後になったことも我慢していました。ところが、自分の番が来て、受け取った賃金は、1デナリ、ポッキリでした。
すると、不満が爆発します。→12節を読む。
マタイ20:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』

しかし、契約通り、賃金を支払った、農園主は、
マタイ20:13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
とはっきりおっしゃって、
マタイ20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
とおっしゃいました。
こういう話を、イエスがしてくださったのです。

さて、このたとえ話は、何を意味しているのでしょうか。その中心は、何でしょうか。
まず、このたとえは、これが正しい経済的なあり方、また、雇主と労働者の関係の手本として、語られたのではありません。

さて、ここで、このぶどう園の農場主は、神ご自身であり、イエス様、をさしています。

つまり、神とはそのような方であるということである。神は気前良いお方である、ということです。
ここに、このたとえ話の中心があります。
神の気前の良さは、人間の公平さについての考えを超越しています。自分の働きの大きさに、見合った額よりも、少ない額を、喜んで受け取る者はだれもいないが、自分の働きの大きさに、見合った額よりも、はるかに多い場合は、人は、喜んで、それを受け取ります。

当時のユダヤ社会では、労働者の最低賃金の保証もなく、労働者を保護する労働組もなく、雇用者は、労働者を、文字どおり「自分の思うように」していたのです。
ですから、このたとえに出てくる農園の主人は、当時の常識、慣習から言っても、非常に、「思いやりがあり、貧しい者への同情心に満ちた、心の広い、主人であることがわかります。(この話を聞いていた人は、そう思ったに違いない)。

神は気前良いお方である、ということです。ここに、このたとえ話の中心があります。

しかし、この神の気前の良さは、自分の働きに、契約通りに賃金を受け取ったにもあかわらず、朝早くから働いた者たちには、憤慨となり、神の気前良さが、非難されています。
午後5時からの賃金と、朝6時からの賃金と、同じでは、それを知った、朝6時から働いた人は、憤慨しても当然、主人を非難しても、人間的に見れば、当然のように思えます。

しかし、神は気前良いお方である、ということです。そして、ここに、神の救い、イエス・キリストの救いの本質があるのです。

このたとえの中で、「ぶどう園」とは何でしょうか。それは、人々の喜びの場、恵みの感謝の場です。=天国、を指しています。このぶどう園の主人、すなわち主イエスが、
マタイ20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』、と言われること自体、「神の救い、その恵みに導き入れられること」を、お示しになっているのです。

早朝6時ごろ、9時ごろ、また12時ごろ、また3時ごろ、夕方5時ごろ、・・これは、救いに導きいれられる人生の時期を示しています。
子供頃か、高校生か、青年の頃か、壮年か、熟年か、そして、老人になってか、
いづれにしても、主イエスは、その人を救い中に、招き入れ、天国という報酬を与えてくださるのです。

人生のたそがれ時になって、やっと救いにめぐり合うことができた人、それが、午後5時の人です。
でも、その報酬は、子供のころから救われた人と、同じ、天国の報酬がもらえるのです。これを、不公平と言えるでしょうか。
いえ、不公平ではなく、神の恵みが大きいと言うことなのです。

人生のたそがれ時になって、やっと救われても、神のための働きは、ろくにできないのではないか。人の目から見れば、その通りです。
しかし、主イエスは、思いやりがあり、同情心に満ちた、心の広い、お方なのです。この主イエスは、まことの神は、気前が良いのです。
一人一人を、比較はしません。

むしろ、私ちた見なくてはならないのは、忘れてはならないのは、主イエスは、朝早くから、救われる人を探し求め、救いに招いている、ということです。
ぶどう園の主人、イエス様は、朝早くから夜遅くまで、広場に来て、市場に来て、労働者を雇うために=天国への招きに、出かけてくれます。この広場、市場とは、この世の中です。今、私たちが置かれているこの世です。

主イエス・キリストは、昨日も今日も明日も働いて下さるのです。主イエスは、人生の夕暮れ時まで、取り残された者を助けるために、その人の生きがいのある働きの場を与えるために、さびしい広場、市場に、来て下さるのです。夕暮れの広場に、たたずむ、人々の心の底まで、思いやることのできる方なのです。

農園主に文句を言った人、朝6時から働いてきました。一日中労苦と暑さに耐えたことは、感動を与えるものです。しかし、与えられた救いに、文句を言っています。
天国の報いが、社会に貢献した量で決まるのと思っている人々が、天国が示されても、まだ、文句を言っている人々です。
ここに自己義認の姿があります。(自分で自分を正しいとする姿です、また、何が正しいかを自分で決める姿です)。

しかし、キリストの救いの本質は、そこにはありません。
実は、このぶどう園の主人のたとえ話は、放蕩息子のたとえ話、と似ています。

大きな農場主のお父さんに、二人の息子がいて、弟息子の方は、お父さんの農場に嫌気がさして、勝手に家を出て行った。しかも、自分の財産の分け前を、お金にしてもらっていってしまった。このお弟息子は、都会で、放蕩の末、食べるにも困って、そして、気が付いて、お父さんおところへ帰って行った。
お父さん、ごめんなさい、と言って、悔い改めて、お父さんお農場にもどったのですが、お父さんは、この弟息子を、咎めるどこか、帰ってきたことを大いに喜んで、しかも、自分から、豚の糞尿まみれで臭く汚い、この弟息子を、自分から、近づいていって、「良く帰ってきたね」と言って、抱きしめてくれた。
そればかりでなく、すぐに風呂に入らせて、きれいさせ、着物もすべて、新しいものを着せ、しかも、子牛をほふって、料理させ、お祝いをしてくれたのです。
この放蕩息子でも、農場主は、天の神様、イエス様をあらわしており、そして、イエスに救えわれるとは、こういうことだと、示している、お話です。

ローマ4: 5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
放蕩息子の話は、この言葉を、示しています。
そして、ぶどう園の主人の報いも同じです。

放蕩息子の話でも、お兄さん息子の方は、家から出ないで、一生懸命、働いていたが、放蕩して、自分の分け前の全財産を使い果たしてきた、弟息子へのお父さんの待遇が、良すぎるので、怒って家に入らなかった、とあります。
ここも、良く似ています。

ぶどう園の主人の報いも、放蕩息子の話での、お父さんの報いも、同じことを意味しています。
それは、まったくふさわしくないが、父のもとに帰ったら、とてつもない報酬が、与えられた、ということです。

これは、イエス・キリストの十字架の恵みが、とてつもなく大きい、ことをあらわしています。

キリストの十字架は、誰のためだったか。それは、優秀な人のためだだけではない。放蕩息子のためであもあり、人生の悲しみと嘆きの中で、死の力に呑み込まれ、信仰も望みも、なえて、しまっているような人のためでもありました。

あの創世記3章にある、人の罪の始まりより、あとに生まれた、私たちは、罪を犯すこともできるが、罪を犯さないこともできる自由が、罪によって、ゆがみ、今の私たちは、罪を犯さなくては、生きていけない人になっているのです。

しかし、主イエスは、私たちの罪をすべてその身に背負い、十字架の死によって罪を贖ってくださいました。ですから、誰でも、救い主イエスの姿を仰ぐとき、死のトゲである罪は抜き取られ、死は、キリストの復活によって、征服され、たとえ、私たちが死んでも、やがて、キリストのように復活します。死は、よみがえりへの通過点として、望みの道につながります。

主イエスに結ばれて死んだ者は、死を超える復活の命の望みの中にいます。天天国で、主イエスのみそばで、憩いを得ているのです。
キリストの十字架は、惨めで無力に見えます。しかし、神の目から見たら、な十字架の姿の中に、神の栄光を見るのです。

私たちは、誰でもすべての人が、主イエスを信じ受け入れるなら、その十字架の贖いのゆえに、罪と死の支配の中から救い出され、神の恵みによる愛と命の支配の中に移されていることを知るのです。

◎神の国、神の支配は、逆らう者を滅ぼし尽くすような激しさをもって現れたのではありません。もしそうなら、私たちは皆、自らの罪のゆえに滅ぼされてしまったはずです。
神の支配は、愛において現されました。逆らう者をも愛し抜き、罪人を義人へと造りかえる恵みの支配として現されました。十字架の愛において現れたのです。
「あなたがたもぶどう園に行きなさい」
ここに、主イエスの愛の招きがあります。救いへの招きがあります。神の選びがあります。

信仰をもってこの招きに答えましょう。その報酬は、天国と言うすばらしい神の御国へはいることの報酬が、与えられるのです。

マタイ20: 8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
マタイ 20: 9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
神とはこのような方であるということです。神は気前良いお方である、ということです。神が与える「報い」は、人の計算とは違います。
神は気前良いお方である、ということです。

では、私たちのこの、気前の良い神に答えて、この残された人生を、このとてつもない大きな恵みをくださった、神のため、主イエスのために、時間を使って行こうではありませんか。

アーメン。