神の啓示について
ノンクリチャンの中にも、クリスチャンの中にも、ときどきですが、「私は神の啓示を受けました」と言う人がいるようですが、しかし「神の啓示を受けた」という言葉を簡単に使っていないでしょうか。
「これは神の啓示によって示されたことです」と誰かが言った場合、人は一切そのことに口をはさむことができなくなります。人は神ではなく、神は絶対のお方です。神のなさることに人が異議を唱えることはできません。つまり、「神の啓示を受けた」といういう言葉の重みは、絶大なものがあります。それは「神の導きを受けた」と、言うべきところを、「神の啓示を受けた」と、言ってしまっていることはないでしょうか。
そこで、神の啓示について正しく理解していただくために、聖書から考察してみたいと思います。
(1)人間だけで神を知ることはできない
神を知ろうとするのは、人間の側の行為ですが、神がいることは分かっても、人間の有限な頭脳では、無限の神というお方が、どういうお方かを知ることはできません。 パウロという人は、一世紀の頃ギリシャ文化と学問の都アテネに行ったとき「知られない神に」と刻まれた偶像(祭壇)があるのを、見つけたと言っています(使徒の働き17章23節)。これは人々が、自分たちが拝んでいる対象が、どんなものか知らないで拝んでいる、結果になっていることの良い例でしょう。
しかし、神はご自分の方から、ご自身を「あらわ」されたのです。すなわち神は、ご自分から人に、お語りになり、御自身を啓示なさいました。人間が地上に存在する前から、神は活動しておられました。また、人間が神を探求する前から、神の方で人間を探し求めておられました。「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1:1)「なぜなら神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。」(ローマ1:19)「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(ヘブル1:1)。
(2)啓示ということば
Revelationレバレイション は「啓示」とも「黙示」とも訳されることばです。 このことばは、新約聖書の原語のギリシャ語のアポカルプシスの訳語です。アポカルプシスは「啓示」「顕現」 「出現」の意味があります。 アポカルプシスは、アポカルプトウ という動詞から来ており、アポカルプトウには、 「被いを取り除く」「現す」「露見する」「明るみに出る」「啓示する」言う意味があります。 また、アポカルプシスは、「黙示」とも訳されることばです。 「イエス・キリストの黙示。これはすぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。」(ヨハネの黙示録1:1) 。このように、アポカルプシス=啓示は、神が隠されていた事柄をあらわにする行動、 ないしは、そのようにして神の側からあらわにされた事柄、をさすことを意味する言葉であると言えます。
ガラテヤ1:12、2:2、エペソ1:17、3:3、ローマ1:17、18、ルカ2:32、 ローマ16:25、26、ルカ10:22、マタイ11:27、1コリント1:7、1ペテロ1:7、5:1、ルカ17:30などを開いて見て下さい。「啓示」と訳されているところと、「現れ」と訳されているところが出てきます。どちらも、アポカルプトウ (啓示する)ということばが使われています。
また、アポカルプシスに対応する、旧約聖書のことばは、へブル語のガーラーで「あらわにする」「耳を開く、知らせる」、(受け身形で)「啓示されたもの」、(はかりごとを)「示す」「現れる」「離れ去る」という意味があります。「ペルシャの王クロスの第三年に、ペルテシャツァルと名づけられていたダニエルに、一つのことばが啓示された。」(ダニエル10:1)
(3)一般啓示(自然啓示)
神の啓示は人間の理性によって理解できるものです。一般啓示は全世界どの地でも、すべての民族、どの時代の人々にも示されている啓示のことです。 これは自然、歴史、良心の中に見いだされます。
①自然における神の啓示
「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」 (詩篇19:1)「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1:20)
②歴史における神の啓示
腐敗した諸国家が今日まで続いていないこと、彼らはより正しい国家に滅ぼされているという事実を見るときに(近代の世界大戦を含む)、そこに神の意志、みわざの現れを、見ることができます。「高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。」 (詩篇75:6、7) 世界の歴史を見るときに、そこに神の摂理と啓示を、見いだすことができます。さらに詳しくは、神はイスラエルの歴史の中に、特にご自身を現されたことがわかります。
③良心に現れた神の啓示
人間の中にある良心の存在は不十分ですが、人間の中に残る「神のかたち」の部分 です。すべての人間の中に善悪の感覚があり、識別力があり、自分の道徳的基準に一致しているかを判断し、反していることを避けさせる行動に駆り立てるのは、人間の中にある良心です。このことの中に、神の啓示があると言うことできます。「彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明しあったりしています。」(ローマ2:15)
しかし、一般啓示だけでは十分ではありません。神が存在すること、神が偉大なお方で栄光に満ち、万物を支配し、無限の力を持っていることは一般啓示から分かっても、 神の本質、性質、意志(みこころ)を知ることは出来ません。また、神を人格的に知り、神と親密な交わりを持ち、直接的な助けを頂くためには、もっと実際的な啓示が必要となります。
(4) 特別啓示
一般啓示は明瞭であっても、それを受け取る人間の心が、罪により「神のかたち」がそこなわれていることにより、自然界の姿を通してあらわされている神のみわざが、見えない状態になっています。また、一般啓示には、罪を犯した人間の救いと、救いのために必要な知識は含まれていません。そこで、神の霊(聖霊)の働きによって、預言者や使徒といった特別な人々を用いて、すなわちイスラエル民族を通して、神の意志を伝えた神の啓示が、特別啓示です。これを超自然啓示ともいいます。そしてこれは、おもにイエス・キリストの人格と生涯のうちに現されています。
①神は語られた・・旧約の預言者とイエス・キリスト
「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(ヘブル1:1)。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)
これらのことばは、特別啓示には、歴史的進展が、あることを示しています。旧約時代、 神はイスラエル民族の歴史を通して、神の啓示の媒介者としての預言者たちをとおし て、罪の赦しとあがないの計画を語りました。「いろいろな方法で語ら」と言う中には、 神の行為による啓示(奇跡のわざ)も含まれています。
旧約聖書の中には、「預言する」「夢を見る 」「幻を見る 」という表現がよく出てきます。これはヘブル語本文でよく見られるparallelismパラレリズム(並行法)です。
すなわち、これらは、それぞれ違う種類のわざではなく、三つとも神の啓示を指してい るます。旧約聖書の中には啓示の手段として、夢、幻、神のことばを語る預言、があ ります。しかし、旧約聖書における啓示の手段としての夢は、ヨセフ物語(創世記37, 40,41章)ギデオン(士師7:13以下)、ソロモン(列王上3:5,15)などでは評価することが出来ますが、大預言者(イザヤ、エレミヤ、ダニエル等)においてはほとんど啓示の働きをしていません。
啓示の手段としての幻、の場合に留意すべきことは、幻を見た者が、その視覚的経験を常に(へブル語)ラーアー「見る」という語を用いていることです。幻をうける事に対して、ラーアー「見る」という語が、用いられていることが、証明しているように、明かに預言者たちはそれを、自分の意識がはっきりしない恍惚現象として理解したのではなかったということです。
旧約聖書のおける啓示で、最も重要なのが、言葉による啓示です。すなわち、預言者 が預言したものは、神が預言者に与えられた言葉の啓示であった。預言者の使信のほとんどが、「主はこう言われる」という言葉をもって始まり、また終わっています。(イザヤ1:2、11、20、3:16、エレミヤ1:14、2:5、アモス1:3、6、等等)
そして、新約の時代に、時満ちて神は、約束の贖い主(救い主)イエス・キリストを遣わしました。このイエスの受肉、生涯、十字架、復活、昇天、再臨の出来事そのものが神の啓示です。すなわち、イエス・キリストは「受肉した神のことば」なのです。(ヨハネ1:14、18、14:9)「この終わりの時には、御子によって、私た ちに語られました。」
②神のことばの啓示である聖書
旧約聖書は、預言者によってなされた、イエス・キリストの到来の約束の啓示であり、新約聖書は、イエス・キリストによって与えれた、約束の成就と、救いの完成の啓示です。
聖書は完結した、救いのための神のことばであり、今日、神は聖書を通して、私たちに当時と全く同じ、神のことばを語っておられるのです。
聖書が完結された今、聖書によって、人に対する神の啓示(語りかけ)は、十分であるため、今は、聖書の完結以前のような預言はないと言っても良いと思われます。従って、今日では聖書が神の特別啓示の唯一ものと言うことができるのです。(しかし、これは個人的に経験する、神の奇跡がなくなったと言うことではありません。奇跡のわざは啓示ではなく、主のみわざです)
「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」(2テモテ3:15)「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」(ルカ24:27)「あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どうりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」 (1テサロニケ1:13)
イエス・キリストの救いの約束と成就に関する、さまざまな客観的事実は「むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られ」た、神のことばの啓示によって、その意味と目的を知ることができるのです。
神のことばの啓示が、神の働きと守りによって文書化されたのが聖書です。そして、 その完結された聖書は教会に与えられました。聖書の啓示は事実と解釈の統一としての神にことばです。以下は、福音が聖書の示す通りに成就したことが分かります。
「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、・・です。」(1コリント15:3-4)
聖書の啓示は、その内容の意味は、人間の側の思いや考え方に左右されるものでは なく、客観的な事実であり、これを人間は自分に都合の良い、自分勝手な解釈をして はならないのです。
(5)特別啓示である聖書があるから神を知ることができる
この聖書に啓示されている、イエス・キリストの特別啓示こそ、人間の救いの道であり、信仰をもってキリストを受け入れる者は、罪赦されて義なる者とされるのです。そして、イエス・キリストの救いにあずかって、全く新しい人に造り変えらるとき、自然啓示を、神の自然啓示として、ありのままに見ることができ、その意味も新しい意味を持ってくるのです。
神の啓示の中心は「聖書」です。神はそのわざのすべてを聖書を通して明らかにしておられるので、私たちは聖書を通してのみ神について、論じることが出来ます。したがって、神学とは、聖書のみことばを通して、神御自身を知ることであり、神がある事柄をことをどう考えているかを学ぶことです。またそれは、聖書から神の語りかけを聞くことでもあるのです。私たちは、聖書を通して、神が人に知らせていることを、学ぶことが出来るのです。 ですから誰でも聖書を読んで、学ぶ時、そこに啓示されている神の意志、みこころは何かを、聖書が書かれた当時と同じように、知ることができるのです。
(6)神を知るとする努力
神は私たち人間を探しだそうとしています。ですから、人間の側でも神を知ろうと努力することは必要なことです。自分で考えることは大切なことです。あきらめることなくです。「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミヤ29:13)「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」 (マタイ:7)
「神に近づきなさい。そうすれば神はあなたがたに近づいてくださいます。」 (ヤコブ4:8)
神に近づくとき(神を求めるとき)大切な私たちの態度は、神に対して、無関心にならないこと、偏見を捨てること、高ぶらずに謙虚になることです。「これらのことを、賢い者や知恵ある者には隠して、幼子たちに現して(啓示した)くださいました。・・・これがみこころにかなったことでした。」(マタイ11:25-26)
参考文献
1)ジョン・ストット著・有賀寿訳『これがキリスト教です』すぐ書房、1995(原 書1958).
2)ヘンリー・シーセン著・島田福安訳『組織神学』聖書図書刊行会、1961(原書 1949).
3)宇田進・鈴木昌・蔦田公義・鍋谷尭爾・橋本龍三・山口昇編『新キリスト教辞 典』いのちのことば社、1991.
4)佐竹明『ヨハネの黙示録上』新教出版社、1978.
5)岩隈直『新約ギリシャ語辞典』山本書店、1982(初版1971).6)名尾耕作『旧 約聖書ヘブル語大辞典』聖文舎、1982.
ノンクリチャンの中にも、クリスチャンの中にも、ときどきですが、「私は神の啓示を受けました」と言う人がいるようですが、しかし「神の啓示を受けた」という言葉を簡単に使っていないでしょうか。
「これは神の啓示によって示されたことです」と誰かが言った場合、人は一切そのことに口をはさむことができなくなります。人は神ではなく、神は絶対のお方です。神のなさることに人が異議を唱えることはできません。つまり、「神の啓示を受けた」といういう言葉の重みは、絶大なものがあります。それは「神の導きを受けた」と、言うべきところを、「神の啓示を受けた」と、言ってしまっていることはないでしょうか。
そこで、神の啓示について正しく理解していただくために、聖書から考察してみたいと思います。
(1)人間だけで神を知ることはできない
神を知ろうとするのは、人間の側の行為ですが、神がいることは分かっても、人間の有限な頭脳では、無限の神というお方が、どういうお方かを知ることはできません。 パウロという人は、一世紀の頃ギリシャ文化と学問の都アテネに行ったとき「知られない神に」と刻まれた偶像(祭壇)があるのを、見つけたと言っています(使徒の働き17章23節)。これは人々が、自分たちが拝んでいる対象が、どんなものか知らないで拝んでいる、結果になっていることの良い例でしょう。
しかし、神はご自分の方から、ご自身を「あらわ」されたのです。すなわち神は、ご自分から人に、お語りになり、御自身を啓示なさいました。人間が地上に存在する前から、神は活動しておられました。また、人間が神を探求する前から、神の方で人間を探し求めておられました。「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1:1)「なぜなら神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。」(ローマ1:19)「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(ヘブル1:1)。
(2)啓示ということば
Revelationレバレイション は「啓示」とも「黙示」とも訳されることばです。 このことばは、新約聖書の原語のギリシャ語のアポカルプシスの訳語です。アポカルプシスは「啓示」「顕現」 「出現」の意味があります。 アポカルプシスは、アポカルプトウ という動詞から来ており、アポカルプトウには、 「被いを取り除く」「現す」「露見する」「明るみに出る」「啓示する」言う意味があります。 また、アポカルプシスは、「黙示」とも訳されることばです。 「イエス・キリストの黙示。これはすぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。」(ヨハネの黙示録1:1) 。このように、アポカルプシス=啓示は、神が隠されていた事柄をあらわにする行動、 ないしは、そのようにして神の側からあらわにされた事柄、をさすことを意味する言葉であると言えます。
ガラテヤ1:12、2:2、エペソ1:17、3:3、ローマ1:17、18、ルカ2:32、 ローマ16:25、26、ルカ10:22、マタイ11:27、1コリント1:7、1ペテロ1:7、5:1、ルカ17:30などを開いて見て下さい。「啓示」と訳されているところと、「現れ」と訳されているところが出てきます。どちらも、アポカルプトウ (啓示する)ということばが使われています。
また、アポカルプシスに対応する、旧約聖書のことばは、へブル語のガーラーで「あらわにする」「耳を開く、知らせる」、(受け身形で)「啓示されたもの」、(はかりごとを)「示す」「現れる」「離れ去る」という意味があります。「ペルシャの王クロスの第三年に、ペルテシャツァルと名づけられていたダニエルに、一つのことばが啓示された。」(ダニエル10:1)
(3)一般啓示(自然啓示)
神の啓示は人間の理性によって理解できるものです。一般啓示は全世界どの地でも、すべての民族、どの時代の人々にも示されている啓示のことです。 これは自然、歴史、良心の中に見いだされます。
①自然における神の啓示
「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」 (詩篇19:1)「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1:20)
②歴史における神の啓示
腐敗した諸国家が今日まで続いていないこと、彼らはより正しい国家に滅ぼされているという事実を見るときに(近代の世界大戦を含む)、そこに神の意志、みわざの現れを、見ることができます。「高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。」 (詩篇75:6、7) 世界の歴史を見るときに、そこに神の摂理と啓示を、見いだすことができます。さらに詳しくは、神はイスラエルの歴史の中に、特にご自身を現されたことがわかります。
③良心に現れた神の啓示
人間の中にある良心の存在は不十分ですが、人間の中に残る「神のかたち」の部分 です。すべての人間の中に善悪の感覚があり、識別力があり、自分の道徳的基準に一致しているかを判断し、反していることを避けさせる行動に駆り立てるのは、人間の中にある良心です。このことの中に、神の啓示があると言うことできます。「彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明しあったりしています。」(ローマ2:15)
しかし、一般啓示だけでは十分ではありません。神が存在すること、神が偉大なお方で栄光に満ち、万物を支配し、無限の力を持っていることは一般啓示から分かっても、 神の本質、性質、意志(みこころ)を知ることは出来ません。また、神を人格的に知り、神と親密な交わりを持ち、直接的な助けを頂くためには、もっと実際的な啓示が必要となります。
(4) 特別啓示
一般啓示は明瞭であっても、それを受け取る人間の心が、罪により「神のかたち」がそこなわれていることにより、自然界の姿を通してあらわされている神のみわざが、見えない状態になっています。また、一般啓示には、罪を犯した人間の救いと、救いのために必要な知識は含まれていません。そこで、神の霊(聖霊)の働きによって、預言者や使徒といった特別な人々を用いて、すなわちイスラエル民族を通して、神の意志を伝えた神の啓示が、特別啓示です。これを超自然啓示ともいいます。そしてこれは、おもにイエス・キリストの人格と生涯のうちに現されています。
①神は語られた・・旧約の預言者とイエス・キリスト
「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(ヘブル1:1)。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)
これらのことばは、特別啓示には、歴史的進展が、あることを示しています。旧約時代、 神はイスラエル民族の歴史を通して、神の啓示の媒介者としての預言者たちをとおし て、罪の赦しとあがないの計画を語りました。「いろいろな方法で語ら」と言う中には、 神の行為による啓示(奇跡のわざ)も含まれています。
旧約聖書の中には、「預言する」「夢を見る 」「幻を見る 」という表現がよく出てきます。これはヘブル語本文でよく見られるparallelismパラレリズム(並行法)です。
すなわち、これらは、それぞれ違う種類のわざではなく、三つとも神の啓示を指してい るます。旧約聖書の中には啓示の手段として、夢、幻、神のことばを語る預言、があ ります。しかし、旧約聖書における啓示の手段としての夢は、ヨセフ物語(創世記37, 40,41章)ギデオン(士師7:13以下)、ソロモン(列王上3:5,15)などでは評価することが出来ますが、大預言者(イザヤ、エレミヤ、ダニエル等)においてはほとんど啓示の働きをしていません。
啓示の手段としての幻、の場合に留意すべきことは、幻を見た者が、その視覚的経験を常に(へブル語)ラーアー「見る」という語を用いていることです。幻をうける事に対して、ラーアー「見る」という語が、用いられていることが、証明しているように、明かに預言者たちはそれを、自分の意識がはっきりしない恍惚現象として理解したのではなかったということです。
旧約聖書のおける啓示で、最も重要なのが、言葉による啓示です。すなわち、預言者 が預言したものは、神が預言者に与えられた言葉の啓示であった。預言者の使信のほとんどが、「主はこう言われる」という言葉をもって始まり、また終わっています。(イザヤ1:2、11、20、3:16、エレミヤ1:14、2:5、アモス1:3、6、等等)
そして、新約の時代に、時満ちて神は、約束の贖い主(救い主)イエス・キリストを遣わしました。このイエスの受肉、生涯、十字架、復活、昇天、再臨の出来事そのものが神の啓示です。すなわち、イエス・キリストは「受肉した神のことば」なのです。(ヨハネ1:14、18、14:9)「この終わりの時には、御子によって、私た ちに語られました。」
②神のことばの啓示である聖書
旧約聖書は、預言者によってなされた、イエス・キリストの到来の約束の啓示であり、新約聖書は、イエス・キリストによって与えれた、約束の成就と、救いの完成の啓示です。
聖書は完結した、救いのための神のことばであり、今日、神は聖書を通して、私たちに当時と全く同じ、神のことばを語っておられるのです。
聖書が完結された今、聖書によって、人に対する神の啓示(語りかけ)は、十分であるため、今は、聖書の完結以前のような預言はないと言っても良いと思われます。従って、今日では聖書が神の特別啓示の唯一ものと言うことができるのです。(しかし、これは個人的に経験する、神の奇跡がなくなったと言うことではありません。奇跡のわざは啓示ではなく、主のみわざです)
「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」(2テモテ3:15)「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」(ルカ24:27)「あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どうりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」 (1テサロニケ1:13)
イエス・キリストの救いの約束と成就に関する、さまざまな客観的事実は「むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られ」た、神のことばの啓示によって、その意味と目的を知ることができるのです。
神のことばの啓示が、神の働きと守りによって文書化されたのが聖書です。そして、 その完結された聖書は教会に与えられました。聖書の啓示は事実と解釈の統一としての神にことばです。以下は、福音が聖書の示す通りに成就したことが分かります。
「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、・・です。」(1コリント15:3-4)
聖書の啓示は、その内容の意味は、人間の側の思いや考え方に左右されるものでは なく、客観的な事実であり、これを人間は自分に都合の良い、自分勝手な解釈をして はならないのです。
(5)特別啓示である聖書があるから神を知ることができる
この聖書に啓示されている、イエス・キリストの特別啓示こそ、人間の救いの道であり、信仰をもってキリストを受け入れる者は、罪赦されて義なる者とされるのです。そして、イエス・キリストの救いにあずかって、全く新しい人に造り変えらるとき、自然啓示を、神の自然啓示として、ありのままに見ることができ、その意味も新しい意味を持ってくるのです。
神の啓示の中心は「聖書」です。神はそのわざのすべてを聖書を通して明らかにしておられるので、私たちは聖書を通してのみ神について、論じることが出来ます。したがって、神学とは、聖書のみことばを通して、神御自身を知ることであり、神がある事柄をことをどう考えているかを学ぶことです。またそれは、聖書から神の語りかけを聞くことでもあるのです。私たちは、聖書を通して、神が人に知らせていることを、学ぶことが出来るのです。 ですから誰でも聖書を読んで、学ぶ時、そこに啓示されている神の意志、みこころは何かを、聖書が書かれた当時と同じように、知ることができるのです。
(6)神を知るとする努力
神は私たち人間を探しだそうとしています。ですから、人間の側でも神を知ろうと努力することは必要なことです。自分で考えることは大切なことです。あきらめることなくです。「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミヤ29:13)「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」 (マタイ:7)
「神に近づきなさい。そうすれば神はあなたがたに近づいてくださいます。」 (ヤコブ4:8)
神に近づくとき(神を求めるとき)大切な私たちの態度は、神に対して、無関心にならないこと、偏見を捨てること、高ぶらずに謙虚になることです。「これらのことを、賢い者や知恵ある者には隠して、幼子たちに現して(啓示した)くださいました。・・・これがみこころにかなったことでした。」(マタイ11:25-26)
参考文献
1)ジョン・ストット著・有賀寿訳『これがキリスト教です』すぐ書房、1995(原 書1958).
2)ヘンリー・シーセン著・島田福安訳『組織神学』聖書図書刊行会、1961(原書 1949).
3)宇田進・鈴木昌・蔦田公義・鍋谷尭爾・橋本龍三・山口昇編『新キリスト教辞 典』いのちのことば社、1991.
4)佐竹明『ヨハネの黙示録上』新教出版社、1978.
5)岩隈直『新約ギリシャ語辞典』山本書店、1982(初版1971).6)名尾耕作『旧 約聖書ヘブル語大辞典』聖文舎、1982.