この稿を書くにあたり、もう一つの重要な動機がありました。高校生の頃に読んだ『風姿花伝』において、謎として残していたことを、見返るつもりになったことがそれです。
『風姿花伝』を手に取ったのは、十七歳のとき。街の書店で釘付けになりました。高校生の私にとり、たいへんに衝撃的な内容だったからです。『風姿花伝』は、世阿弥が十五世紀の初頭から二十年ばかりかけて書いた演劇論です。私は当時、現代劇でも能でも、演劇にはさしたる興味がなくて、専らこれを、人生の書として読みました。それは今でも変わりません。能をほとんど観ないのに、『風姿花伝』を語るのはどうも気がひけて、触れずに置こうとしていましたが、自分の価値観にもっとも大きな影響を与えたものが、『風姿花伝』であったことは疑いようがありません。ここに書きつけることは、能楽論としての検証ではなく、古典研究としてもおおいに不足した内容に違いありませんが、どのような影響を受けたかをしたためるのでなければ、この稿は完成しないと思った次第です。
応仁の乱が1467年。勘合貿易の開始が1401年ですから、15世紀の初頭から二十年といえば、室町幕府の全盛期であり、安定期でもあったでしょう。しかし中世という時代の特徴は、非常に大雑把ではありますが、源平の争乱以降、田畑を焼かれた庶民が根拠地を失い、ある者は山に逃げ、ある者は海に逃げ、生きていくために賊となった時代でもありました。上流の階層では、武士政権が貴族という階級を絶えず監視下に置き、安定期とはいっても、国を挙げて愛と平和を謳歌するような時代でなかったことは、確かです。
このことは、世阿弥が演劇論に挙げている「物」、演じるべき対象を見ても明らかです。世阿弥は、女、老人、直面(ひためん)、物狂い、法師、修羅、神、鬼、唐事(外国人)というふうに、時代や社会の軋轢において生じた悲劇のシーンにおける登場人物の属性を項目としており、ここに近現代の庶民が好むような、こころが正しくて優しい王子様、気立てがよくて美しいお姫様、昭和時代の中流サラリーマン家庭の象徴のようなサザエさん一家、もしくは核家族の象徴としてのクレヨンしんちゃん一家、ドラえもんやフーテンの寅さんのような愛されキャラクターが登場しません。そして、身分や階層は所作ではなく、装着する仮面によって表現されます。
私は、この頃には、すでに短歌の実作を始めていました。そして、習作時代を終えて、自分の文体を獲得する時期に入っており、自己の内面を表現することへの恐れの前に、立ち止まっていた時期でもありました。歌人として何をすべきかということ、人としてどうあるべきかという、人生の、一生ものの二つの問いの答えを書物に求め、出会ったものが『風姿花伝』であったといえます。
何を表現すべきかということ。
その答えとして、内面に、本質に着眼せよとの明確なミッションを与えられたと自分は感じました。もう一つの、人生をいかに生きるべきかの答えとしては、誰であっても年老いれば老人であり、女は女であり、心を病めば狂い、衝突すれば修羅となり、神には祈り、鬼には恐れを抱くという普遍を示されたと感じました。身近の世間より、もう一つ外回りの世間として異邦人の存在が置かれ、身分や階層を表す仮面は、役割の謂でもあると考えました。人がその役割を演じるとき、仮面の下のそのものの本質は、所作となり、佇まいとなって、何物かであるところの「もの」になる。それはつまり、他でもない、そうであるしかない何物かであり、そうであるしかない何物かになったときに、本物なのです。これらのことは、十七歳の私が膚身に感じていた、現実の風景、まのあたりに見る世間、社会の実態と一致しました。
今ではすっかり綺麗になったと聞きますが、私が生まれ育った街は、大阪の場末の歓楽街であり、そこで実家は、昭和の初年頃から蒲鉾店を経営していました。午後の早い時間の飲食店は、非日常を日常とする人々の楽屋裏です。母や祖母に連れられて、駅頭に高齢女性を性的対象として目がける男性をカモにしようと美人局が待ち構えるのを、住宅街にまで街娼が「立ちんぼ」をしにくるのを、酒に憑かれた男が路上に反吐を吐き、喚び、人を殴り、公共物を損壊した、その傷痕を一瞥しつつ、非日常の楽屋裏へ、家業の蒲鉾を届けに行ったものでした。自分が通う幼稚園のバスがポルノ映画館の前で停車し、園児の一人を下ろして、その園児はポルノ映画館に吸い込まれるように入っていったのも、よく覚えています。なぜなら、その街に暮らす子供たちの親は、性風俗産業の従事者であったり、ポルノ映画館やラブホテルの経営に従事していたりするのです。つまり、現実と虚構の反転した空間のなかで、私の人生は、始まっていたのでした。
『風姿花伝』より、世阿弥の言を引きます。
この頃よりは大かたせぬならでは手立あるまじ。
「麒麟も老ては土馬に劣る」と申すことあり。さりながら、まことに得たらん能者ならば、物数はみなみな失せて、善悪見所は少なしとも花は残るべし。
(「第一年来稽古条々 五十有余」)
公案を極めたらん上手は、たとへ能は下がるとも花は残るべし。花だに残らば面白きところは一期あるべし。されば、まことの花の残りたる為手にはいかなる若き為手なりとも勝つことはあるまじきなり。
(「第三問答条々」)
いずれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲く頃あれば珍しきなり。……ただ花は、見る人の心に珍しきが花なり。
されば、この道を極め終りて見れば、花とて別にはなきものなり。奥義を極めて、よろづに珍しき理を、我れと知るならでは、花はあるべからず。
(「第七別紙口伝」)
十七歳の私には、演劇論としてではなく現実の人生論として、『風姿花伝』が必要だったのです。そして、私が最大の衝撃を受けたのは、もっと大変素朴なこと、それは、自分がいつかは年老いるということでした。自分が白髪のおばあさんになる日を待ち構えて想像できる女子高生が、あるものでしょうか。自分一人はいつまでも老いないもののように思っていられるから、安穏と幸せなのです。私もその一人でした。
すべての花は時分のもの。必ず滅びる運命にあるが、「まことの花」であれば残ると世阿弥は説きます。おなじ生きるのであれば、「まことの花」を身に付けたいと十七歳の私は、切に願いました。では、どうすればよいのだろう……? どう生きればよいのだろう? 学歴をつける? お金持ちと結婚する? キャリアウーマンになる?……1983年当時の、十七歳の女の子の成功の要件なんて、まだそれぐらいしかありませんでした。どれとも違う。ゼッタイ。
現在、佐藤正英氏の『風姿花伝』(筑摩書房)校注訳を見ていますが、世阿弥の、「まことの花」についての述べ方が、「毎月抄」で定家が有心体について述べる際の語り口に通じるようにも思います。世阿弥は、「まことの花」がどういう表れ方をするものかを規定しておらず、具体的な所作についても規定していません。つまり、要件化していないのです。定家も、有心体を要件化しておらず、ひたすら精神の保ち方として述べるばかりです。要件化していないことで、それについて考える人が多く現れ、後代に引き継がれたのだと、世阿弥は考えたのかもしれませんが、いずれにせよ、物まね条々を掲げた世阿弥が、和歌の十体を十分に意識したことは想像に難くはなく、そもそも世阿弥は、猿楽能を学ぶ者は、他のことと掛け持ちしてはいけない、ひたすら猿楽能を学べといい、掛け持ちしてよいのは和歌だけであると、『風姿花伝』において断言しています。他を禁じて和歌の嗜みだけを許すのは、『風姿花伝』美意識が和歌の美意識を吸収し、成立したものであることの証左でしょう。しかも世阿弥は、新古今から藤原清輔、古今から小野小町の歌を挙げ、「まことの花」とは何か、これらの歌から考えてみよと述べてもいます。「まことの花」の要件化が意図して避けられたことは、「秘すれば花」の著名な言がこれを裏付けますが、秘伝化についても和歌は先行し、古今伝授は一子相伝でした。定家はこれを神事化し、後代に続くブランド化に成功しています。世阿弥が「まことの花」について要件化を避けたことの背景に、和歌のこうした伝統が息づいているといえるでしょう。
さて、『毎月抄』に話を戻します。『毎月抄』は、定家が初心の人に書簡として授けた実作論として著名ですが、ここで定家は、定家なりの「十体」を説いています。和歌の美意識のさまざまなありようを「十体」として要件化するのは、定家が始めたことではありません。しかし、「定家十体」が殊に注目を浴びるのは、わけがあります。定家が、それまでの時代に見つけられない「鬼拉」の体、もしくは「拉鬼」の体を掲げているからです。これがいかなる和歌の体であるかが、研究の進んだ後代にも、はっきりしないのです。
「鬼」の語は、古今集の時代には、世阿弥が述べるような「強く恐ろしいもの」という意味ではありませんでした。古来、中国で「鬼」とは、亡くなった人の霊をさします。現代の日本語でも、亡くなった人を「仏」と呼ぶことがありますが、それと同じニュアンスでした。ひいては『古今集』の時代の「鬼」とは、日本においては、自然霊を指しました。
そして、定家が『毎月抄』に述べる「鬼拉」の体の、「鬼を拉ぐ」の部分を古今集の時代の言葉の意味のままにとらえたら、言葉として成り立たないことは自明です。「拉ぐ」とは、「かっさらう」「ぶっつぶす」ぐらいの強烈な意味なのです。自然霊をかっさらうとか、ぶっつぶすとか、そのようなことが和歌の美意識であるなどとするのは、まったく意味が通じません。同時代の『今昔物語集』の「鬼」にまつわる説話からも、新古今の時代の「鬼」の語には、人智を超えた恐ろしいものの含意があったことがうかがえます。
そして、世阿弥が物まね条々に定義した「鬼」の意味は、佐藤氏が同著において補説として掲げるところを併せ見ると、現代語の「鬼」にずっと近い意味です。「鬼」の体について言えば、猿楽能の美意識が和歌の美意識の系譜にあると前提できるうえは、定家が『毎月抄』で掲げた十体のうち「鬼拉」の体との関連を考えてもよいのではないかと私は見ています。つまり、『毎月抄』で示された「鬼拉」という言葉のなかの「鬼」の意味は、世阿弥が「物まね条々」で示した「鬼」に通うのではないでしょうか。
古今から新古今までざっと300年。定家の時代から世阿弥の時代までざっと200年。そして世阿弥の時代から現代まではざっと600年あるにもかかわらず、世阿弥の時代から現代まで、「鬼」の語義に、変容はほとんど見られず、ほとんど現代語の語義として定着を見ています。すると、『古今集』の時代の「鬼」から定家が掲げた「鬼拉」の体の時代にいたるまでの、「鬼」の語義の変容は、有意に大きいといえます。
この変容に、古今の時代の遣唐使の廃止と、新古今の時代の黎明期にあった源平の争乱が、認知環境の変化として大きく影響していると、私はこれまでにも仮説を立てますが、日本史の視点から見た場合、文化のよりどころとしていた国(当時は唐)との外交の遮断、そして社会の階層を大きく塗り替えた源平の戦乱が、言語に及ばなかったはずはないということを、最終に近いこの章でも、強調しておきます。
次の最終章で、「有心体」について述べてから、筆を置きたく思います。十七歳だった私が、「まことの花」を身に付けたいと切に願い、そののち歌人として成長するなかで、「有心体」という言葉にいきあたり、自分自身が歌人としてどう生きればよいのか、見出した答えを、最終の章に書き記しておくつもりです。
『風姿花伝』を手に取ったのは、十七歳のとき。街の書店で釘付けになりました。高校生の私にとり、たいへんに衝撃的な内容だったからです。『風姿花伝』は、世阿弥が十五世紀の初頭から二十年ばかりかけて書いた演劇論です。私は当時、現代劇でも能でも、演劇にはさしたる興味がなくて、専らこれを、人生の書として読みました。それは今でも変わりません。能をほとんど観ないのに、『風姿花伝』を語るのはどうも気がひけて、触れずに置こうとしていましたが、自分の価値観にもっとも大きな影響を与えたものが、『風姿花伝』であったことは疑いようがありません。ここに書きつけることは、能楽論としての検証ではなく、古典研究としてもおおいに不足した内容に違いありませんが、どのような影響を受けたかをしたためるのでなければ、この稿は完成しないと思った次第です。
応仁の乱が1467年。勘合貿易の開始が1401年ですから、15世紀の初頭から二十年といえば、室町幕府の全盛期であり、安定期でもあったでしょう。しかし中世という時代の特徴は、非常に大雑把ではありますが、源平の争乱以降、田畑を焼かれた庶民が根拠地を失い、ある者は山に逃げ、ある者は海に逃げ、生きていくために賊となった時代でもありました。上流の階層では、武士政権が貴族という階級を絶えず監視下に置き、安定期とはいっても、国を挙げて愛と平和を謳歌するような時代でなかったことは、確かです。
このことは、世阿弥が演劇論に挙げている「物」、演じるべき対象を見ても明らかです。世阿弥は、女、老人、直面(ひためん)、物狂い、法師、修羅、神、鬼、唐事(外国人)というふうに、時代や社会の軋轢において生じた悲劇のシーンにおける登場人物の属性を項目としており、ここに近現代の庶民が好むような、こころが正しくて優しい王子様、気立てがよくて美しいお姫様、昭和時代の中流サラリーマン家庭の象徴のようなサザエさん一家、もしくは核家族の象徴としてのクレヨンしんちゃん一家、ドラえもんやフーテンの寅さんのような愛されキャラクターが登場しません。そして、身分や階層は所作ではなく、装着する仮面によって表現されます。
私は、この頃には、すでに短歌の実作を始めていました。そして、習作時代を終えて、自分の文体を獲得する時期に入っており、自己の内面を表現することへの恐れの前に、立ち止まっていた時期でもありました。歌人として何をすべきかということ、人としてどうあるべきかという、人生の、一生ものの二つの問いの答えを書物に求め、出会ったものが『風姿花伝』であったといえます。
何を表現すべきかということ。
その答えとして、内面に、本質に着眼せよとの明確なミッションを与えられたと自分は感じました。もう一つの、人生をいかに生きるべきかの答えとしては、誰であっても年老いれば老人であり、女は女であり、心を病めば狂い、衝突すれば修羅となり、神には祈り、鬼には恐れを抱くという普遍を示されたと感じました。身近の世間より、もう一つ外回りの世間として異邦人の存在が置かれ、身分や階層を表す仮面は、役割の謂でもあると考えました。人がその役割を演じるとき、仮面の下のそのものの本質は、所作となり、佇まいとなって、何物かであるところの「もの」になる。それはつまり、他でもない、そうであるしかない何物かであり、そうであるしかない何物かになったときに、本物なのです。これらのことは、十七歳の私が膚身に感じていた、現実の風景、まのあたりに見る世間、社会の実態と一致しました。
今ではすっかり綺麗になったと聞きますが、私が生まれ育った街は、大阪の場末の歓楽街であり、そこで実家は、昭和の初年頃から蒲鉾店を経営していました。午後の早い時間の飲食店は、非日常を日常とする人々の楽屋裏です。母や祖母に連れられて、駅頭に高齢女性を性的対象として目がける男性をカモにしようと美人局が待ち構えるのを、住宅街にまで街娼が「立ちんぼ」をしにくるのを、酒に憑かれた男が路上に反吐を吐き、喚び、人を殴り、公共物を損壊した、その傷痕を一瞥しつつ、非日常の楽屋裏へ、家業の蒲鉾を届けに行ったものでした。自分が通う幼稚園のバスがポルノ映画館の前で停車し、園児の一人を下ろして、その園児はポルノ映画館に吸い込まれるように入っていったのも、よく覚えています。なぜなら、その街に暮らす子供たちの親は、性風俗産業の従事者であったり、ポルノ映画館やラブホテルの経営に従事していたりするのです。つまり、現実と虚構の反転した空間のなかで、私の人生は、始まっていたのでした。
『風姿花伝』より、世阿弥の言を引きます。
この頃よりは大かたせぬならでは手立あるまじ。
「麒麟も老ては土馬に劣る」と申すことあり。さりながら、まことに得たらん能者ならば、物数はみなみな失せて、善悪見所は少なしとも花は残るべし。
(「第一年来稽古条々 五十有余」)
公案を極めたらん上手は、たとへ能は下がるとも花は残るべし。花だに残らば面白きところは一期あるべし。されば、まことの花の残りたる為手にはいかなる若き為手なりとも勝つことはあるまじきなり。
(「第三問答条々」)
いずれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲く頃あれば珍しきなり。……ただ花は、見る人の心に珍しきが花なり。
されば、この道を極め終りて見れば、花とて別にはなきものなり。奥義を極めて、よろづに珍しき理を、我れと知るならでは、花はあるべからず。
(「第七別紙口伝」)
十七歳の私には、演劇論としてではなく現実の人生論として、『風姿花伝』が必要だったのです。そして、私が最大の衝撃を受けたのは、もっと大変素朴なこと、それは、自分がいつかは年老いるということでした。自分が白髪のおばあさんになる日を待ち構えて想像できる女子高生が、あるものでしょうか。自分一人はいつまでも老いないもののように思っていられるから、安穏と幸せなのです。私もその一人でした。
すべての花は時分のもの。必ず滅びる運命にあるが、「まことの花」であれば残ると世阿弥は説きます。おなじ生きるのであれば、「まことの花」を身に付けたいと十七歳の私は、切に願いました。では、どうすればよいのだろう……? どう生きればよいのだろう? 学歴をつける? お金持ちと結婚する? キャリアウーマンになる?……1983年当時の、十七歳の女の子の成功の要件なんて、まだそれぐらいしかありませんでした。どれとも違う。ゼッタイ。
現在、佐藤正英氏の『風姿花伝』(筑摩書房)校注訳を見ていますが、世阿弥の、「まことの花」についての述べ方が、「毎月抄」で定家が有心体について述べる際の語り口に通じるようにも思います。世阿弥は、「まことの花」がどういう表れ方をするものかを規定しておらず、具体的な所作についても規定していません。つまり、要件化していないのです。定家も、有心体を要件化しておらず、ひたすら精神の保ち方として述べるばかりです。要件化していないことで、それについて考える人が多く現れ、後代に引き継がれたのだと、世阿弥は考えたのかもしれませんが、いずれにせよ、物まね条々を掲げた世阿弥が、和歌の十体を十分に意識したことは想像に難くはなく、そもそも世阿弥は、猿楽能を学ぶ者は、他のことと掛け持ちしてはいけない、ひたすら猿楽能を学べといい、掛け持ちしてよいのは和歌だけであると、『風姿花伝』において断言しています。他を禁じて和歌の嗜みだけを許すのは、『風姿花伝』美意識が和歌の美意識を吸収し、成立したものであることの証左でしょう。しかも世阿弥は、新古今から藤原清輔、古今から小野小町の歌を挙げ、「まことの花」とは何か、これらの歌から考えてみよと述べてもいます。「まことの花」の要件化が意図して避けられたことは、「秘すれば花」の著名な言がこれを裏付けますが、秘伝化についても和歌は先行し、古今伝授は一子相伝でした。定家はこれを神事化し、後代に続くブランド化に成功しています。世阿弥が「まことの花」について要件化を避けたことの背景に、和歌のこうした伝統が息づいているといえるでしょう。
さて、『毎月抄』に話を戻します。『毎月抄』は、定家が初心の人に書簡として授けた実作論として著名ですが、ここで定家は、定家なりの「十体」を説いています。和歌の美意識のさまざまなありようを「十体」として要件化するのは、定家が始めたことではありません。しかし、「定家十体」が殊に注目を浴びるのは、わけがあります。定家が、それまでの時代に見つけられない「鬼拉」の体、もしくは「拉鬼」の体を掲げているからです。これがいかなる和歌の体であるかが、研究の進んだ後代にも、はっきりしないのです。
「鬼」の語は、古今集の時代には、世阿弥が述べるような「強く恐ろしいもの」という意味ではありませんでした。古来、中国で「鬼」とは、亡くなった人の霊をさします。現代の日本語でも、亡くなった人を「仏」と呼ぶことがありますが、それと同じニュアンスでした。ひいては『古今集』の時代の「鬼」とは、日本においては、自然霊を指しました。
そして、定家が『毎月抄』に述べる「鬼拉」の体の、「鬼を拉ぐ」の部分を古今集の時代の言葉の意味のままにとらえたら、言葉として成り立たないことは自明です。「拉ぐ」とは、「かっさらう」「ぶっつぶす」ぐらいの強烈な意味なのです。自然霊をかっさらうとか、ぶっつぶすとか、そのようなことが和歌の美意識であるなどとするのは、まったく意味が通じません。同時代の『今昔物語集』の「鬼」にまつわる説話からも、新古今の時代の「鬼」の語には、人智を超えた恐ろしいものの含意があったことがうかがえます。
そして、世阿弥が物まね条々に定義した「鬼」の意味は、佐藤氏が同著において補説として掲げるところを併せ見ると、現代語の「鬼」にずっと近い意味です。「鬼」の体について言えば、猿楽能の美意識が和歌の美意識の系譜にあると前提できるうえは、定家が『毎月抄』で掲げた十体のうち「鬼拉」の体との関連を考えてもよいのではないかと私は見ています。つまり、『毎月抄』で示された「鬼拉」という言葉のなかの「鬼」の意味は、世阿弥が「物まね条々」で示した「鬼」に通うのではないでしょうか。
古今から新古今までざっと300年。定家の時代から世阿弥の時代までざっと200年。そして世阿弥の時代から現代まではざっと600年あるにもかかわらず、世阿弥の時代から現代まで、「鬼」の語義に、変容はほとんど見られず、ほとんど現代語の語義として定着を見ています。すると、『古今集』の時代の「鬼」から定家が掲げた「鬼拉」の体の時代にいたるまでの、「鬼」の語義の変容は、有意に大きいといえます。
この変容に、古今の時代の遣唐使の廃止と、新古今の時代の黎明期にあった源平の争乱が、認知環境の変化として大きく影響していると、私はこれまでにも仮説を立てますが、日本史の視点から見た場合、文化のよりどころとしていた国(当時は唐)との外交の遮断、そして社会の階層を大きく塗り替えた源平の戦乱が、言語に及ばなかったはずはないということを、最終に近いこの章でも、強調しておきます。
次の最終章で、「有心体」について述べてから、筆を置きたく思います。十七歳だった私が、「まことの花」を身に付けたいと切に願い、そののち歌人として成長するなかで、「有心体」という言葉にいきあたり、自分自身が歌人としてどう生きればよいのか、見出した答えを、最終の章に書き記しておくつもりです。