ネタばれせずにCINEるか

かなり悪いオヤジの超独断映画批評。ネタばれごめんの毒舌映画評論ですのでお取扱いにはご注意願います。

生きる

2023年04月01日 | 誰も逆らえない巨匠篇

『称賛されるために何かをすれば失望することになる。ほかならぬ自分の満足のため、夢を実現するためにやるのだということを学ばなければならない』とは巨匠黒澤明の言葉だが、別にエゴにしがみついてわがまま放題に生きろと言っているわけではないだろう。人間誰かのために生きるのは実は割と簡単だ。愛する女性のため、子供のため、あるいは死んだ親の恩に報いるため....利他に徹した生き方をとかく日本人は美化して賞賛したりするけれど、本当は違うんじゃないか。巨匠黒澤は市役所で<何もしないこと>に徹している市民課課長の死を通じて反論しているのである。

余命6ヶ月の胃癌に罹患していることを間接的に告げられた渡邊(志村喬)は、次の日から市役所を無断欠勤し、余生をどう過ごすべきか答えを探し求めるのである。人の死に興味津々のメフィストフェレスこと(芥川龍之介を彷彿とさせる)小説家(伊藤雄之助)、市役所をやめて実家の工場を手伝うことにしたとよ(小田切みき)、遺産相続のことしか頭にない息子(金子信雄)夫婦....小説家の男と酒を飲んで夜の街を遊び歩いても、とよと夜な夜な飲食店を梯子しても、息子夫婦に末期癌であることを打ち明けようとしても、なかなか核心をつく答を得られなかった渡邊だが、とよの何気ない一言をきっかけに“生まれ変わる”のである。

ここまでの映画前半の展開は、トーンもダークでボソボソとした志村喬の口調のように映画の焦点がボヤけていてはっきりしない、退屈にさえ感じられるのだ。地域住民から陳情があった水溜まり処理のため、これから渡邊が市役所内を駆けずり回るのかなぁと思いきや....ここでなんとお話は5ヶ月後、渡邊の葬式へと一気にジャンプするのである。水溜まり跡地として公園を建設するため市役所内を調整して回る渡邊の活躍を、職員の回想シーンの中でカットバックさせていく編集のうまさ。本作の白眉はこの映画後半の編集にあるといっても過言ではないだろう。

渡邊の葬式に参列した、自分の出世と保身にしか興味のない助役(中村伸郎)と官僚主義を絵に描いたようなコメツキバッタたち。突如としてヤル気なし男の渡邊課長が変身した理由を、あれやこれやと想像するのだが、彼らにはどうしても理解できないのである。それはなぜか。自分のために生きることをとうの昔に諦めてしまっているからである。たとえ目的があったとしても、それは自分であって自分ではない。他人の目に映った自分の姿を本来の自分と勘違いしているだけなのである。ゆえに大抵の人は仕事にのめり込めばのめり込むほどに自己を見失い、称賛を得られないとわかった時、今までの人生がまったく無意味だったことに気がつくのだろう。

自分のために生きる。渡邊の死から何も学ぼうもしない市役所職員を反面教師にして、巨匠黒澤が我々日本人に学ばせようとしたことは、単純なようでいて非常に難しい。人生の大半は自分が本当に満足できる生き方とは何かを探す旅といってもよいからだ。大量のモノや情報が社会に溢れかえり、ただ消費されるためだけに無駄に生産され糞のようにたれ流され消えていくポストモダンの枠組の中では、尚更探し出すのが難しい。むしろ我々の身近にあるモノや情報は、それを探す時間を人間に与えないために存在しているのではないだろうか、そんな風にさえ感じられるのである。

生きる
監督 黒澤明(1952年)
オススメ度[]


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ホイッスラーズ/誓いの口笛 | トップ | プロジェクト・グーテンベル... »
最新の画像もっと見る