ジャパリ星雲 トキワの国

好きな時に好きなことを語るブログ

それでいいのか、フジオプロ

2023-07-18 21:07:00 | 赤塚不二夫
本件は、実際に起こっていること自体は些細なことかもしれません。

しかし、「おそ松くん」という作品や赤塚不二夫先生本人の尊厳にも関わってくる重大な事案であると考えています。


結論から述べると、
現在、赤塚不二夫公認サイトでは

故人である赤塚先生の意向に反する一方的な設定改変を行った上で、かつその内容を「赤塚先生お墨付き」ということにして掲載している

可能性が非常に高いです。



本文をお読みいただく前に。

こちらの記事では、以前の記事と同様の問題を取り扱っています。

内容自体も大まかには共通していますが、記事としてはこちらの方がより「決定版」となるようまとめてあります。

最初に皆様にお願いがあります。

今回の記事や、前回の記事を見て、この件に関して「良くない」と思ってくださった方は、赤塚不二夫公認サイトの問い合わせ用メールアドレス宛に、意見を送っていただきたいのです。(※利用規約〈このサイトについて〉のページに記載あり)

伝われば、声が大きくなれば、変わることもあるかもしれません。
私は既に、メールを送っています。


私は解決するまで、この問題について発信を続けます。

前置きここまで。




「赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ‼︎」(以下、公認サイト)は、故・赤塚不二夫先生が立ち上げた事務所・フジオプロが運営する、赤塚先生や赤塚漫画のことを取り扱うオフィシャルサイトだ。
そこにはコンテンツとして、作品に登場するキャラクターたちの紹介もある。


2023年に入ってからのことだ。
その中で、「おそ松くん」の六つ子6人分の紹介文が、それ以前まであったものから、大幅に書き換えられていたのだ。


具体的にどう変わったかは、アーカイブから比較してもらうのが手っ取り早いが、以前までは6人分にそれぞれちゃんとした説明があったのに、現在はやたらと「無個性」「違いがない」「順番不明」を強調した内容になっていることがおわかりいただけると思う。

これが、大きな問題を孕んでいるのである。
それも、単なる賛否では片付けられない、倫理的な問題までもが含まれているのだ。

私は、このままではいけないと強く考えている。
この件の問題点について、一つずつ説明していくので、長文になるがお読みいただきたい。


①赤塚先生の名前の不適切な利用

②六つ子のキャラクターに対するぞんざいな扱い

③六つ子各人はちゃんと"違う"

④「おそ松さん」に支配されゆく「おそ松くん」




①赤塚先生の名前の不適切な"利用"


順を追って説明した方がわかりやすい部分もあるが、問題の大きさを伝わりやすくするため、最も大きく問題視しているものから説明する。
後述する問題点も、最終的にはこのポイントに帰結する。

書き換えられた文章のうち、「おそ松」の紹介文に、赤塚先生の発言を引用したかのような部分がある。

"『もともと「六つ子」という設定が面白いだけでそれぞれの性格なんか知らないよー』と赤塚センセイ。"
というものだ。

これより後に説明する問題点は、(問題があることに変わりはないが)最終的には多かれ少なかれ「賛否」や「解釈違い」というポイントに行き着く部分がある。
今のフジオプロはこういう方針・解釈でいく、という表明をファン各々がどう捉えるか、ということだ。

しかし、そこに赤塚先生の名前を出されるとなると、話は大きく変わってくる。"今のフジオプロ"はそういう方針、で済ませられる話ではなくなるからだ。

大前提として、本当に赤塚先生はこんなことを言ったのか?という問題がある。これは、いつ、どこでの赤塚先生の発言なのかが、一切わからない。

後述するが、赤塚先生は作品中で六つ子のキャラクターをちゃんと書き分けていたし、六つ子の性格が設定として記された資料もあり、中には赤塚先生がはっきり「六つ子の性格は全員違う」ということを明言しているインタビュー記事もある。
私が確認できる限りでは、赤塚先生はきちんと六つ子を一人一人区別していたことが見てとれるのだ。

そんな赤塚先生が、「それぞれの性格なんか知らない」などと真逆な発言をすることは考えにくい。

よって、この発言はサイトの運営者(=現フジオプロスタッフ)によって捏造されたものである可能性が高いと言わざるを得ない。
おそらくは、実際には赤塚先生はこのようなことを言っていないのだ。

とはいえ、私も赤塚先生の発言などを全て把握しているわけではないし、実際にそういう発言があったという可能性を完全には否定できないのも事実。
時期や場合などによって発言に食い違いが生じるということも、ありえない話ではない。
しかし、どちらにしてもこの状況は褒められることではないのだ。


◆発言内容が真実だった場合
赤塚先生が本当にどこかで「六つ子の性格なんか知らない」と発言していたのだとしても、連載当時にはちゃんと設定が存在し、赤塚先生が「六つ子の性格はそれぞれに違う」と考えていたこともまた、紛れもない事実なのである。
それを尊重せずに、片方の見解に完全に偏らせて、持論の強化のため"印象操作"のように赤塚先生の名前を使うのは、やはりいいことではない。

本当にそのような発言があって、それを使うのなら、まずその発言のソースを明らかにするべきである。

その上で、赤塚先生が「六つ子の性格はそれぞれに違う」としていた事実を無視してでも、その発言を採用・使用するのに足る妥当性・正当性を示すべきなのだ。

◆発言内容が捏造だった場合
ある意味、最悪のパターン。

故人の発言を捏造することが、いいことであるはずがない。
それ以前に、意図的に堂々と嘘を書くことが良くないということなんて、小さな子供でもわかることだろう。

名目上「公認サイト」ではあるが、本質的には「公式」であり、その言葉通り信頼できる情報源として多くの人が参考にするだろう。内容が別サイト等に転載されることもあるかもしれない。その中で、「赤塚先生がそう言うんなら、そうなんだろうな」という風に、あの紹介文に納得する人も出るだろう。というか、おそらくは書き手はそれが狙いで赤塚先生の名前を出している。
しかし、発言が捏造なら前提条件が大きく間違っており、公式が積極的にデマを拡散させようとしているという構図が出来上がっていることになってしまう。

記述を正当化するために、でっち上げてでも赤塚先生の名前を錦の御旗として使っているわけで、それは非常に卑怯なことだと思う。

"今のフジオプロの方針"を強いて挙げるなら、そんな風に「故人の名前を都合のいいように利用する」ということにもなりかねない。

そして、あの発言を捏造とするなら、やはり赤塚先生の正しい見解は「六つ子の性格はそれぞれに違う」としていた方ということになる。
つまり、

事実を捏造してでも故人である赤塚先生の名前を都合のいいように利用して、
その結果として赤塚先生の本来のご見解が蔑ろにされてしまう

というのが、現在起こっているありのままの状況となるのだ。

赤塚先生のご見解と相反する見解を、あろうことか赤塚先生の名前を使って正当化させようとしているのだ。

"公認サイト"が、それでいいのだろうか。


②六つ子のキャラクターに対するぞんざいな扱い

根本的に、キャラクターへのぞんざいな扱いが残念でならない。
もっとマシな書き方はいくらでもあるだろうに。
きちんと紹介されているほかのキャラクターの文章と比較しても、異質な内容になっているのは明らかだろう。

六つ子に「六つ子であること」以外に価値を認めないような、投げやり・愛がないと思われても仕方のないような文章にしてしまうことは理解に苦しむ。
個性がない、特徴がないだなんてことは殊更に強調するようなことではないだろう。
聞いたこともないような変な"鉄則"に縛られて、アイデンティティを認められないのが六つ子なんだろうか。

うちの子って何の特徴も個性もないんです〜
とか、
うちじゃ『目立っちゃダメよ』って教えてますんで
だなんて言う親がどこにいる、というような話だ。

他のキャラにも同様の形式の紹介文を適用してみれば、よりわかりやすいかもしれない。
例えば「バカボン」だと、

これといった特徴もなく、一人では何もできないので、引き立て役としてひたすらにパパに付き添うだけ。それが宿命。

といった感じの紹介文になるだろう。
…いかがだろうか?


「性格的にも各々に違いがない」というスタンスでいくだけならまだいい。後述の設定などはともかくとして、見方次第ではそういう結論に至っても致し方ない部分はある。
しかし、それでも、例えば「6人揃ってワンパク」だとか、「ケンカもするけど、いざとなると結束は強い」だとか、六つ子の魅力や特徴はいくらでもあると思うし、いくらでも書きようはあると思うのだ。
どうしてあんな風な、徹底して魅力を感じさせないような文章にしてしまうのか。

私は赤塚作品や赤塚キャラ全体に愛着があり、勿論「おそ松くん」も大好きな作品であり、その主役たる六つ子たちも当然ながら大事なキャラクターたちだと思っている。
そんな六つ子が、公式な資料でこんな風にぞんざいな扱いを受けるようになってしまったことに、はっきり言って心を痛めている。


③六つ子各人はちゃんと"違う"

「おそ松くん」の六つ子は、本当に何の特徴も個性もなく、それぞれに違いなんてないようなキャラクターたちだったのだろうか。
これについてははっきり「ノー」と言わせていただく。

漫画を読めば、強弱はあれどそれぞれにキャラ付け・書き分けがされていることがわかるはずだ。
全員同じに見えて、実はちょっとずつ違うというのが六つ子の魅力のひとつ、というのがファンとしての見解だ。

そうした「六つ子の性格面での違い」は、ファン側が勝手に解釈しているものではなく、設定として正式に存在する。
(以下、文字数削減のため根拠として大きいもののみ掲載する。より詳細に知りたい方は、前回の記事をご覧ください。)

1964年、少年サンデー誌上で始まった『おそ松くんニュース』というコーナーでは、第1回目にてまさに「六つ子の性格は?」という読者の質問があり、それに対して「それぞれの性格なんか知らないよー」などと投げ出されることなくきちんと一人一人説明されている。

一松 いちばん、まじめ。
チョロ松 調子がよく、すばしっこい。
十四松 おとなしい。
カラ松 のんきもの。
トド松 あわてん坊。
おそ松 あばれん坊だが、人にすかれる。

これは作中描写と照らし合わせてもほぼギャップのないもので、この回答のために適当に考え出されたものではないと見ていい。
この記事は、竹書房文庫「おそ松くん」第1巻の巻末『ハッスル通信』にも再録があったし、「CRおそ松くん」での紹介文もこれを参考に書かれていた。埋もれているようなことはないはずだし、間違いなく明確な設定である。これを使っても何の問題もないのに。

そして、赤塚先生が直接六つ子の性格について語っているインタビュー記事もあるのだ。
「週刊平凡」1966年2月17日号から、抜粋の上引用する。
尚、「芥川」とはインタビュアーの「芥川隆行」氏である。

芥川 赤塚さんはそれぞれちがった性格を、つかんでるんでしょう?六人の。
赤塚 ぼくのなかでは、六人の性格もぜんぶちがうし、それぞれイメージ持ってるわけです。ですから、それぞれの事件にあったひとりを登場させるわけです。
たとえば、動物をやっつけようってことになると、乱暴なカラ松にやらせますし、かわいそうだからやめようよ、というのは十四松、自然に性格がでますね。








ご覧の通り、赤塚先生は6人の性格が違うと明言しているのだ。


設定などはともかくとして、実際の作品中では六つ子のキャラ付けは曖昧な部分も多いのは否めないため、解釈や見方次第では「違いがない」と捉えられても致し方なくはあるが、徹底してそういう扱いにしてしまうことは早合点だ。

そして、性格に関して正式に設定や言及が存在している以上、正反対の扱いにすることは正しい情報を発信しているとは言えないし、赤塚先生に対してもキャラクターに対しても敬意が足りていないと言うしかない。


④「おそ松さん」に支配されゆく「おそ松くん」

書き換えられた文章が、どう見ても明らかに、「おそ松さん」を意識したものになっているのも、非常に鼻につく。

やたらと個性がないことを強調し、順番が不明だとか書かなくてもいいようなことをわざわざ書き…。
そしてそれが、上記の問題点に繋がってしまったとも言えるわけだ。

僕は基本的には「おそ松さん」は好きだ。
しかし同時に、快く思わない気持ちも、開始以降ずっと抱いてきている。
自分に縁もゆかりもない作品なら完全に「好きにやってくれ」と思うが、おそ松さんは思い入れも敬意もある「おそ松くん」、そして赤塚不二夫先生が関わった作品だから。どうしても、色々気になる面が出てきてしまう。
でもやはり、「おそ松くん」と「おそ松さん」が別の作品であることも間違いなかったし、おそ松さんはおそ松さんで好きにやってくれれば、という気持ちもなくはなかった。
しかし、「おそ松さん」がこんな風に「おそ松くん」に影響を及ぼしてくるのなら、さすがにどうなんだと思ってしまう。

「おそ松さん」は「おそ松くん」とは別物だとして割り切ろう、という気持ちも、この一件を前に打ち砕かれるのである。
この一件があるうちは、おそ松くんとおそ松さんをいい意味で切り離して考えることもできない。

そもそもとして、おそ松さんが始まる前は、六つ子について「見た目が同じ」と言われることはあっても、「性格まで同じ」と言われることは、まずなかったはずだ。

「おそ松くん」では、六つ子は同じに見えて1人ずつ少しずつ違う、というスタンスだったのに、「おそ松さん」でオリジナルかつ明確なキャラ付けがされたために、「おそ松くん」の六つ子が性格面まで同じに"見えるようになってしまった"ということだと思うのだ。

本来ならアニメ側を従わせる立場にあるはずの原作サイドが、一派生作品に過ぎないはずの「おそ松さん」側に合わせられていくような、どんどん支配されていくような感じがして、いい気持ちがしない。



以上、今回の問題点について、改めてまとめた。
私は自分の文章力・表現力に絶対の自信があるわけでもないので、ちゃんとわかりやすく伝えられているかもちょっと自信がない。ちゃんと、伝わっただろうか。

はっきり言うと、この件に関しては、私は怒っていると言っていい。改めてこの記事を纏めるにあたっても、所々感情的になってしまった。推敲も行なって極力ソフトにすることを心がけたが、それでも一部過激に感じる部分があったら、そこは申し訳ないと思う。

書き換え前の文章も全く問題がなかったわけでもなく、作品中で読み取れないような違和感のある内容が含まれていたりもしたので、書き換えの意図自体は理解できないわけではないのだ。しかし、すべての内容に違和感があったわけではないし、あくまでも「公認サイトでの解釈」として納得がいったし、愛を感じないというようなことはなかったし、なんであれ「6人はそれぞれ違う」という確実に確認できる赤塚先生の意向に沿ってもいた。どちらの方が良いかは、言うまでもない。
ただ、書き換え前の文章でも、そこに現在と同じように赤塚先生の名前が出されていたら、それはそれで裏付けを求めることはしただろう。そういうことだ。

赤塚先生の遺した作品や資料は膨大であり、その全てを把握するのは困難を極める…というか不可能に近いと言っていいだろう。今回紹介した資料でも、「おそ松くんニュース」はともかく、「週刊平凡」の方は目に触れなくても無理はない。
公認サイト上の利用規約でも、内容の正確さを保証はしない旨が書かれているし、ある程度の間違いや誤解はやむを得ないと思う。
しかし、赤塚先生の名前を持ち出して意図的に嘘をついているのだとしたら、「知らなかった」などやむを得ないような話ではなくなる。
だからこそ、この件ははっきりしてもらいたいし、なんとかすべきだと思っている。

この問題が解消されない限りは、少なくともこの件に関しての「おそ松さん」やフジオプロさんに対しての不信感が消えない。
公認サイトで何か動きがあっても、(でもこの人たち、ああいうことしちゃうような人たちだからなぁ…)というような感情が頭をよぎってしまう。




閲覧者の皆様
今一度申し上げます。
この件について良くないと思ってくださった方は、公認サイト宛にメールで意見を送ってください。ご協力をお願いします。




フジオプロさん。
赤塚先生に、赤塚先生の作品に、赤塚先生のキャラクターに愛があるなら、何かしら動いてください…。




(2024/2/11 加筆)
(2024/6/7)
(2024/8/9)

「STAND BY ME ドラえもん2」感想

2023-05-06 15:39:00 | ドラえもん
以下の文章は、2020年11月23日、劇場公開された当時にふせったーにて公開した感想をそのままコピペしたものです。ブログをやっていなかった頃は主にふせったーからこういった感想を発信していましたが、その間の内容をできる限りブログの方に写していきたいと考えています。今回はその第1弾という扱いです。レンタルで久しぶりに視聴したタイミングなので、好機です。

では、以下コピペです↓




良かったです。 



今回も前作と同じく、複数の原作によって構成されていますが、一番大きな違いは1本の映画としてより洗練されていることだと思います。 
前作は全体として一応1本の物語ではありつつ、使用原作が多く次から次へととってかわっていく形式でいわばオムニバスのようなものであり、悪く言えばツギハギ的でした。僕は前作も好きですが、今思えば「原作の名作回を詰め込めば、そりゃ面白くもなるわな」という気持ちがあります…。しかし今作は、全体となる「STAND BY ME ドラえもん2」のストーリーの各所に原作回が組み込まれるといった形式(途中で気づいたんですがこれは大雑把にはアニメのサザエさんの手法に近いかもしれませんね)になっており、原作の占める割合こそ低くなっているものの1本の映画として筋がしっかりして、価値や見応えがアップしていたと思います。その他にも前作で気になった点が改良されていたりもしており、個人的には「前作より好き」と断言していいです! 

以下、箇条書きで思いつくままに書きます 

・魔界大冒険の如き伏線とその回収。なんとなく描写的にタマシイム・マシンか?と思ったらその通りだった。最初の流れを見た時、伏線だから後々回収されるだろうと思いつつちょっと何が起こっているのか理解が追いつかなかったが、意外と早く回収され納得いった。しかしあの流れの中でタイムマシンってどうなってるのかな…?とかまだちょっと混乱中… 

・冒頭に明らかに「ぼくの生まれた日」の要素があったからこれも含まれるんだなと思ったが、相当後になってからだったな。誕生日という設定はやっぱり大山版映画からの拝借だろう。 

・少年のび太が結婚式の代理をするシーン。個人的イメージとしては、のび太としずかは結婚するとはいっても「のび太の"幸せな未来"の象徴」「友達として現代でも一緒にいることの延長」というようなイメージがあったが、やっぱり「結婚する」っていうのは重要な意味があることなんだなと気付かされたかな。大人のび太は後から戻ってくるが、少年のび太が代理した部分は歴史上残ることになるのか。 

・プリンスメロンホテルのエスカレーター付近は神戸駅を思い出した 

・「おばあちゃんのおもいで」パートは、かなり原作に忠実(一部、「赤いくつの女の子」を思わせる部分もあった)。細かい部分までほぼそのままで、過去の一部アニメで不満だった改変部分も原作そのままやってくれたので嬉しかった。おばあちゃん、原作では後の「パパもあまえんぼ」とかも含めて理屈ではないものから小学生ののび太を信じ受け入れていてその部分はここでも変わらないけど、ここでは理屈としても信じざるを得ない状況に導かれたとも言えるね。ただ、花火は夏しか売ってないってくだりはありつつ服装が半袖だったから夏かそれにほど近い時期なんじゃないの…?とは思ってしまった 


・子供のび太の声はリアルキッズか。他の仲間のキャストはずっと変わらない中、のび太だけは三世代でみんな違う。子供時代については全員オーディションも行ったが、イメージの殆ど変わらないジャイアンたちはそのままに、メガネの有無等で雰囲気が変わっているのび太のみ子役が演じることとなったらしい。 

・途中の不良3人組、原作のどっかで見たような気がするんだけど…黒おびのび太でもなかったし…どこだったかなぁ…?しかしあいつら、ポジションとしては重要だけど、スクーター(だよな)に乗ってるのび太に追いついたり、ちょっと執着しすぎじゃないかとか、ジャイアンたちが加勢するとわりと簡単に引き下がるんだなとかわりとツッコミどころはあった、笑えるレベルだけど。 

・そう!前作での不満点だったジャイアンとスネ夫の扱いについても今回は改善されていた!河原のシーンはもう言うまでもないだろう。ここはやっぱり嬉しかった。のび太をぶん殴ってもいいのはなぁ、俺たちだけなんだよ! 

・小ネタも今回探すと楽しいなぁ、ラーメン富士がカムカムキャットフードのあの店というのはわかったけど、あの店員さんは原作のおっちゃんではないなと思ったら、パンフレットの対談によるとあれは勉三さんだったらしい…‼︎小ネタ、まだまだ気付いてないの多いはず、もっとよく見たい。結婚式の参加者の中にも原作の名物キャラがいたりするんじゃないの…?知らんけど 

・手塚治虫のお札っていうのも僕としてはいろんな意味でめちゃくちゃ嬉しかったポイント!!!(小並感) 

・最後、のび太の記憶が消えちゃった。これで、大人ののび太が名前の由来を知らないのに説明がついて納得したけど、ちょっと寂しさもあるかなぁ… 

・声のゲスト出演も全員違和感なく溶け込んでた。大人ののび太、やっぱりハマってるわ…前作より板についてきた感じもするし。 

・前作は各エピソードは感動的ながらそれをいっぺんにやることでそれぞれが薄れる、軸がブレるといったところは難点だったけど今回はやっぱり軸がしっかりしていることで自然に感動できるのが良い。僕のピークはやっぱり「挨拶」のところ、本当に潤んじゃったもん… 


前作は大ヒットしたが、それと同時に否定派も根強かったと思う。今になって、その気持ちがわかってきたような気がする。その人たちが否定する根拠となったであろう要素が今作では多くが解消されているので、より勧めやすい作品になっていると思う。 

だいたい書けたのでこの辺でとりあえず締めます。 
良い作品を観させてもらいました!

「おそ松くん」六つ子"無個性"問題

2023-04-22 20:01:00 | 赤塚不二夫
とても良くないことが起きているかもしれない。




少し前のことだ。
いつものように「赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ‼︎」(以下、公認サイト)を見ていたのだが、「え?」と思ってしまったのだ。

公認サイトでは、「キャラ検索」のコーナーと、作品ごとの個別ページにて、作品に登場するキャラクターの紹介がある。

そこの、「おそ松くん」の六つ子の紹介文が、大幅に変わっていたのだ。
以前までは一人一人にちゃんとした説明があったのに、ひたすら「無個性」「順番不明」な内容になっていた。


内容が変わることなんてよくあることじゃないの?と思われるかもしれない。
しかし、僕はこれに対して、大変よろしくないものを感じた。
しかも、単なる好き嫌いなどにとどまらない、由々しき問題を含んでいる可能性すら浮上してきた。


先にかいつまんで簡潔に述べておくと、
故人である赤塚先生の言葉が捏造されている可能性があり、しかもその上で赤塚先生のご意向が蔑ろにされている可能性さえあるのだ。


今回は問題提起として、それらについて語り、説明していきたいと思う。

できるだけ知ってもらいたい内容ではあるが、フジオプロさんや「おそ松さん」に対して厳しい言葉が並ぶことになる。そういったものを見たくない方は、決して無理はなさらないでいただきたい。


また、より理解を深めてもらうためにも、今回知り得た情報などは極力省略せずに書くので、結構な長文になる。全ての情報が重要なわけではないので、飛ばし飛ばしに読んでもらっても問題はない。重要なのは証拠よりも結論である。



1.六つ子は本当に無個性なのか
2.赤塚先生は本当にこんなことを言ったのか
3.「おそ松さん」に支配されゆく「おそ松くん」
4.純粋に、紹介文として




1.六つ子は本当に無個性なのか

そもそも何故このような書き換えが行われたのか?なんとなく想像はできる。
元々の紹介文は、1人ずつ個別にちゃんとあったものの、中には実際の作品では読み取れないような、名前からその場で考え出したかのような内容が含まれていたのも確かだった。自分もその一部に違和感がなかったと言えば嘘になる。それを見つめ直して、より実際の作品に合わせた内容にしようとしたんだろう。

しかし、それにしたってこれは極端ではないだろうか。
六つ子に対して「六つ子であること」以外に価値を認めないような、投げやり・愛がないと思われても仕方のないような文章にしてしまうのは、理解に苦しむ。


「おそ松くん」の六つ子は本当に無個性だったのか?各々に差異はなかったのか?
これについてははっきり「ノー」と言いたい。

主に連載前半の頃は結構書き分けられていた。全員同じに見えて、一人一人に少しずつ違いがあるのが六つ子の魅力のひとつだと思っていたのに、それを否定するような声明が公式に出されてしまうのは残念と言うしかない。我々が六つ子に感じていたそれぞれの魅力は何だったんだ?

そうした六つ子の性格の違いは、読者側が勝手に感じているものではない。当時、正式に回答されているのだ。

1964年、少年サンデー誌上で始まった「おそ松くんニュース」というコーナーでは、まさに「六つ子の性格は?」という読者の質問があり、それに対して「性格設定なんてないよ」などと投げ出されることなくきちんと一人一人説明されている。

一松 いちばん、まじめ。
チョロ松 調子がよく、すばしっこい。
十四松 おとなしい。
カラ松 のんきもの。
トド松 あわてん坊。
おそ松 あばれん坊だが、人にすかれる。


これは作中描写と照らし合わせてもほぼギャップのないもので、この回答のために適当に考え出されたものではないと見ていい。
この記事は、竹書房文庫の巻末「ハッスル通信」にも再録があったし、「CRおそ松くん」での紹介文も一部これを参考に書かれていた。埋もれているようなことはないはずだし、間違いなく明確な設定である。これを使っても何の問題もないのに。

そして僕は、赤塚先生が直接六つ子の性格について語っているインタビュー記事を昔フォロワーさんに見せていただいたのを覚えていた。
これを機に確認をとったところ、「週刊平凡」1966年2月17日号とのこと。
以下、抜粋の上引用する。
尚、「芥川」とはインタビュアーの「芥川隆行」氏である。

芥川 赤塚さんはそれぞれちがった性格を、つかんでるんでしょう?六人の。
赤塚 ぼくのなかでは、六人の性格もぜんぶちがうし、それぞれイメージもってるわけです。ですから、それぞれの事件にあったひとりを登場させるわけです。
たとえば、動物をやっつけようってことになると、乱暴なカラ松にやらせますし、かわいそうだからやめようよ、というのは十四松、自然に性格がでますね。
おそ松 六人のなかで、ぼくがいちばん好かれるんだね。
イヤミ ミーざんす‼︎(胸をはって…)


そう。赤塚先生は6人の性格が違うと明言しているのだ。


連載後半、イヤミやチビ太らの活躍に押されるようになるとそれぞれの書き分けが少なくなるのは事実。しかしこれは違いが消えたわけではなく、区別する隙が少なくなっただけだと思う。現に引用した記事が出た1966年というと、もうイヤミやチビ太たちも目立つようになっている頃である。

連載が終わってかなり経ってから出た「ニャロメの血液型大研究」(1984)でも、六つ子たち自らによる「六つ子はみんなA型だけど、性格はみーんな違う」という旨の台詞がある。

まだちゃんと読んだことのない身で語るのもなんだが、赤塚作品としてはかなり末期の作品にあたる「シェー教の崩壊」(『ビッグゴールド』1996年1月号)では、一部で有名なとあるシーンにおいて、「チョロ松」がピックアップされている。ここで「チョロ松」が選ばれているのは偶然ではないと思う。妙に暴走しやすい傾向のあったチョロ松がこういったシーンをやるのは六つ子の中だと個人的にもしっくりくる。かつて赤塚先生も語った、「それぞれの事件にあったひとりを登場させる」というのは晩年まで健在で、随分経ってからも赤塚先生は六つ子をきちんと区別していた、と考えていいように思う。


1997年に開催された「まんがバカなのだ 赤塚不二夫展」、現在は図録で出展作品を確認できるが、これの「キャラクター名鑑」ではイラストと文章で赤塚キャラたちが紹介されている。こちらでも六つ子は、各々一言ずつではあるもののそれぞれの特徴とともにきちんと区別されて紹介されている。文章自体は赤塚先生ではなく監修などを担当した綿引勝美氏によるものとみられるため、その内容がどこまで赤塚先生のご意向に沿ったものかは不明瞭だが、「赤塚先生の晩年まで、六つ子はきちんと区別されていた」という裏付けにはなるだろう。
そしてこちらの内容だが、実は公認サイト上で元々あった六つ子それぞれの紹介文と、結構合致する部分があるのだ。先程僕は「名前からその場で考え出したかのような内容」と評したが、あれは実際には公認サイト上で本当にその場で考えられたようなものではなく、赤塚先生の生前からある程度合意のあった内容で、あながちいい加減なわけでもない…と考えることもできるのだ。



サイト上の紹介文を改訂すること自体が、悪いことだとは思わない。
しかし、だからといって「ハイ‼︎無個性無個性‼︎」で片付けてしまうのは、断じて違うと言わざるを得ない。
赤塚先生に対しても、キャラクターに対しても、敬意が感じられない。
「設定上」に過ぎないのだとしても、一人一人の違いを認めていた方が、ずっと良かった。

というか、赤塚先生ご存命時からある「公認」サイト上で、赤塚先生の没後にこう言った書き換えを行うこと自体、いかがなものかと感じるのは僕だけだろうか。
キャラクターの紹介文がサイト上でいつからあるものなのか、というのは今となっては確かめることができないことではあるが…。

…余談的に追加で言わせてもらえば、サイト内で改訂を行うなら、「もーれつア太郎」のページでなぜか一度きりしか当時していないブタ松の妹がいて
レギュラーである×五郎がいないこととか、そういう明らかにおかしい部分をなんとかするのが先ではないだろうか…。




2.赤塚先生は本当にこんなことを言ったのか


僕が一番重く受け止めているのがこれだ。

書き換えられた紹介文のうち、「おそ松」の項目において、"赤塚センセイ"の言葉として「それぞれの性格なんか知らない」と書かれているのが非常に気になっていた。

これは、いつ、どこでの発言だろうか。
赤塚先生は、本当にこのような発言をしたのだろうか。

前項で述べたように、赤塚先生はちゃんと6人を区別して描いていたし、はっきり「六人の性格もぜんぶちがう」と明言していた。
そんな赤塚先生が、「それぞれの性格なんか知らない」なんて真逆の発言をするとは、とても思えないのだが。
鬼籍に入られて10年以上経って、突然こういった発言が発掘されるというのも不自然である。


こうなると疑わしくなるのが、この発言が捏造されたものであるという可能性だ。

つまり、赤塚先生はこんなこと言っていないのに、さも言ったかのように書いてあると。


故人の言葉を捏造することそれ自体が良いことではないのは言うまでもなかろう。

もし本当にそうだとしたら、記述を正当化するために、でっち上げてでも赤塚先生の名前を錦の御旗として使っているわけで、それは非常に卑怯なことだと思う。
そんな風に故人の名前を都合のいいように利用するのが今のフジオプロということにもなりかねない。

そして、そうして齎される結果が、実質的に赤塚先生のご意向に背くことにもなるのだ。

断言ができないのも事実ではあるが、発言のソースが不明な上捏造だと考えられる根拠がいくつも存在する以上、その体で語るしかない。

もし仮に、本当にどこかで赤塚先生がそういった発言をしていたのだとしても、それは「後年になって忘れていた」というだけのことである。
少なくとも連載当時には赤塚先生は「六つ子はそれぞれ性格が違う」としていたのが紛れもない事実である以上、それを尊重せずに一部のみを切り取って印象操作のように赤塚先生の名前を使っていることにかわりはなく、どちらにしたって褒められることではない。
そして先に述べたように、後年になって忘れていたということさえ考えにくいというのが実情である。


3.「おそ松さん」に支配されゆく「おそ松くん」


書き換えられた文章が、どう見てもあきらかに「おそ松さん」を意識したものになっているのも、非常に鼻につく。

やたらと「無個性」を強調し、順番が不明だとか書かなくてもいいようなことをわざわざ書き…。
そしてそれが、上記2項目の問題にも繋がってしまったわけだ。

僕は基本的には、「おそ松さん」は好きだ。
しかし同時に、快く思わない気持ちも、開始以降ずっと抱いてきている(この辺りも、いずれこのブログでまとめたいと思っている)。
自分に縁もゆかりもない作品なら、完全に「好きにやってくれ」と思うけど、おそ松さんは思い入れも敬意もある「おそ松くん」、そして赤塚不二夫先生が関わった作品だから。どうしても、色々気になる面が出てしまう。
でもやはり、「おそ松くん」と「おそ松さん」が別の作品であることも間違いなかったし、おそ松さんはおそ松さんで好きにやってくれれば、という気持ちもなくはなかった。
しかし、こんな風に「おそ松さん」が「おそ松くん」に影響を及ぼしてくるのなら、さすがにどうなんだと思ってしまう。


そもそもとして、おそ松さんが始まる前は、六つ子について「見た目が同じ」と言われることはあっても、「性格まで同じ」という風に言われることは、まずなかったはずだ。


六つ子の性格はそれぞれに違う、という描写や説明が多々あったことは前述の通りである。


1988年から放送されたリメイク版アニメ「おそ松くん」の本編中で、六つ子が「無個性集団」と揶揄されることがあったのは例外として挙げられるかもしれない。
具体的にどう「無個性」なのかは一切言われていないので憶測の域を出ないが、まずルックス面は間違いなく無個性であるし、キャラクター面についてもこれはイヤミら強烈な個性のあるキャラに押されて主役としての地位が危うくなっている六つ子の、あくまでイヤミたちと対比しての「キャラの薄さ」を言ったもので、「一人一人に差異がない」という意味合いはないと考えている。
平成版おそ松くんの六つ子は、原作の連載後期に近いイメージとなっているため、性格面のことを言っているのだとしてもやむを得ないし、あくまで"揶揄"したものである。



これがわかりやすく表れた例がある。
おそ松さんの情報公開の直前あたりの時期に出たムック「赤塚不二夫80年ぴあ」では、六つ子について「兄弟を見分けることは出来ないが、個々にキャラクターが違う」とし、各々の説明がある(ただしその内容は当時の公認サイト上のものに基づいている)。
対して、おそ松さん放送翌年に出た「Pen + いまだから、赤塚不二夫」では、「性格的な違いは、ほとんどみられない」と、急に性格が同じという面に触れるようになっている。見た目が同じであることについては触れさえせず、なぜか性格のみに着目している。


「おそ松くん」では、六つ子は同じに見えて1人ずつ少しずつ違う、というスタンスだったのに、「おそ松さん」でオリジナルかつ明確なキャラ付けがされたために、「おそ松くん」の六つ子が性格面まで同じに"見えるようになってしまった"ということだと思うのだ。


本来ならアニメ側を従わせる立場にあるはずの原作サイドが、一派生作品に過ぎないはずの「おそ松さん」側に合わせられていくような、どんどん支配されていくような感じがして、いい気持ちがしない。


4.純粋に、紹介文として


理屈抜きにして、純粋にキャラクターの紹介文として味気ないし、変な文章になってはいないだろうか?

鉄則だのなんだのと言って、変なものに縛られてアイデンティティが認められないのが六つ子なのだろうか。
そんな「鉄則」こそ、作品中では見受けられないものだが…




以上、ざっと今回の問題点についてまとめた。一部、感情に基づくものも含まれてはいるが、ご理解いただけたらありがたいのだが…。

今のところ、公認サイトには意見や問い合わせなどを送る専用のフォームのようなものがないようだ。その分、ブログ上にてこうして自分の意見・感情を書かせていただいた次第である。もっと他にできることすべきことがあるかもしれないが、ひとまずはブログを選んだ。


やはり、恩恵も計り知れないほど受けているフジオプロさんに対して、こういった言葉を並べるのに心苦しさがないと言えば嘘になる。
しかし、お世話になっているからこそ、好きだからこそ、駄目だと思うことにはちゃんと駄目だと言うことも重要だと考えて、こうして書くことを決めた。
今後の動向次第では、自分もそれなりの対応はしたいと考えている。


「公認」としつつも本質的には「公式」であり、影響力も大きいのだから、こういった問題点はなんとかしてもらいたいものだ。



この件以外にも、赤塚作品の未来は明るいだろうか…と感じてしまう件は、複数ある。
本当に、良い方向に向かってほしいものだが…。

「グリッドマンユニバース」感想

2023-04-07 20:49:00 | 特撮
3月24日、映画「グリッドマンユニバース」が公開された。
現時点で僕は2回鑑賞している。
「電光超人グリッドマン」も「SSSS.GRIDMAN」も「SSSS.DYNAZENON」も視聴している僕にとってやはりとても大事な作品であるこの映画、感想を書いておきたい。
思いっきりネタバレなのでご注意を。





最初におことわり
本作は設定・概念・描写が非常に壮大かつ複雑で、自分も全てを完全には理解・把握できていない。一部で解釈違いなどを起こしていないとも限らない。ご了承ください。





さて今回の映画は「普通」
…というのは冗談で、どんな言葉を使うのが一番良いかわからないが、とにもかくにも、ここまで完璧に仕上げてくるとは、誠に恐れ入った。ここまで満足度の高い映画は珍しい。それほど素晴らしい作品だったと思う。
お祭り作品としても、一連のシリーズの集大成としても、ヒーロー・ロボット・SF作品としても、ラブコメとしても…とにかくよくできていた。

今回の映画はSSSS.GRIDMANとSSSS.DYNAZENON、両作品の共演かつ一連の作品の集大成的存在となることが大きな見所となっているが、シリーズ作品とはいえ世界観の異なる両作品をいかにして繋げるか、TVシリーズで区切りのついているポイント等の扱いはどうなるか、そもそも両作品ともTVシリーズで綺麗に完結しているだけにあそこからどう広げるか…など気になる点もいくつかあった中、それらを納得の展開で見事にクリアした上、相変わらず非常に面白く見応えがあり、高いクオリティを保っていた。期待に応えるばかりか理想を大幅に超えてくる…そんな作品だった。


グリッドマンユニバースとは、グリッドマンを中心にした一連のメディアミックス全体を表した言葉でもあり、この映画における「SSSS.GRIDMANとSSSS.DYNAZENONの共演」という作品性を表した言葉でもあり…この映画における事件の中核となる文字通りの"グリッドマン"の"ユニバース(宇宙)"を表した言葉でもあった。このグリッドマンユニバースの設定は、いかにもこの映画のために考案されたような無理矢理感・蛇足感のあるものでは全くなく、これまでの作品を観ていれば自然と結びつく、納得のいくものであった。戦いの中でグリッドマンを勝利へ導く「仲間」という重要なポイントは、SSSS.GRIDMANやSSSS.DYNAZENON、ひいては電光超人グリッドマンの頃から共通する普遍的なテーマであり、これまでの積み重ねを感じることもあり、非常に心に沁みた。

両作品の共演で、メインキャラクターたちが一堂に介して寝泊まりや食事を共にしたり、学園祭の準備に集まったりしているあの感じも、なんとも言えない高揚感をもたらす、好きな雰囲気だ。



様々な世界や概念が複雑に交差するSFストーリーや、大迫力でこれだけでも何度も劇場に足を運ぶ価値があるというほどのバトルシーンなどが見所なのはもちろんのこと、登場人物間のドラマも重要な要素だ。蓬と夢芽の関係のその後だったり、ガウマさん(レックス)と「ひめ」の再会だったり(本当に果たすとは思っていなかったので驚いた上に嬉しかった)、ちせは大事な友達ゴルドバーンのことを変わらず気にかけていたり…そしてやはり最大のイベントは裕太の六花への告白だろう。これは予告編でも使われるほど重大なポイントだ。蓬と夢芽がTV本編で行くところまで行ったのに対して、裕太と六花は裕太からの好意が明示されたきりだったのでこちらもきちんと決着をつける意図があったんだと思うし、決着をつけてくれて嬉しかった。本筋の事件と独立したイベントになっているのではなく、怪獣少女アノシラスが少し語ったように今回の事件解決への糸口ともとれるイベントとなっているのも上手いと思った。
この映画では両者ぎこちなさを隠せない感じで幕を閉じたが、ボイスドラマを聴く限りは順風満帆とはいかずともそれなりに悪くない関係を続けているようで、安心できる。それはそうと、これまでも存在が仄めかされていた六花の「お兄ちゃん」が、こんな形で本格登場するとは。


今回の映画で気になっていたポイントのひとつが、「響裕太本人」が登場することだった。「SSSS.GRIDMAN」の響裕太は「裕太に宿ったグリッドマン」であり、裕太本人は最終回で目覚めてほんの僅かに登場しただけ。裕太本人が出るのは今回初めてであり、一体どんな風になるかちょっと想像がつかなかったが、実際観てみると確かに初めて見る「本当の裕太」なんだけど殆ど違和感もなかったし、TV本編での記憶がないことに対する寂しさのようなものもあまり感じさせず、寧ろグリッドマンとの絆を感じさせるもので、よくまとまっていた。

そして…これも非常に気になっていたポイントであり、公式・ファン双方の動向を見ても最大のネタバレ要素と言っても過言ではないのが、やはり新条アカネの存在だ。
実を言うと、僕のSSSS.GRIDMANでの推しキャラクターがこのアカネである。そのため、今回の映画でもやはり出てほしいと思っていたのが本音だった。
しかし、「SSSS.GRIDMAN」はアカネの現実世界への帰還と共に終わっており、それはとても綺麗な幕引きだった。そのため本来ならばもう裕太たちの世界に現れることはないはずで、また彼女がそこに現れるとなるとTV本編での展開を蔑ろにしたり余韻をぶち壊しにしたりすることにもなりかねない。それでもやっぱり出てほしい…そんな気持ちの中で揺れ動いていた。
とはいえやはり、全く登場しないということはないような気がしていた。何かしら納得のいく形で出番があるだろうと信じていた。そしてこの映画はそんな期待にもバッチリ応えてくれたのだ。
アカネは現実世界にいることには変わりないが、世界の危機のために一時的に力を貸すという形で登場してくれたのだ。登場が危ぶまれていた中だったが、ある意味では最も美味しいポジションだったと言えるかもしれない。変身?した姿も純粋に非常に魅力的だったし、かつて自らを利用していたアレクシスを逆に利用するという展開にも度肝を抜かれた。そう、今回については形はともかくとしてアレクシスも味方として戦ったことになるのだ。
アンチとのやりとりにもすごく重みを感じたし、今回直接的にアカネと関わったのがアンチとアレクシスのみというのも良い落とし所だと思った。
その上、事件収束後はアカネが現実世界でちゃんとうまくやっていることも示してくれて…アカネの扱いという点でも大満足だ。

アレクシスは本当に消滅したのだろうか。また現れる可能性についても示唆されていたし、このあたりがまたキモになってきそうだ。


「電光超人グリッドマン」との繋がりについても触れておきたい。電光超人グリッドマンは両アニメの原作であり、物語としての原点でもある。今回は物語的な繋がりはあまり強くなかったのだが、反面小ネタとしての原作要素が満載で、さりげない興奮ポイントが目白押しだった。なんなら開始後すぐの段階で「これを出すんだ⁉︎」と思ったほどで、その後も「あっ、アレは‼︎」がたくさん出た。自分も原作は3周は視聴した人間なのでその点でもかなり楽しかったが、原作39本分のネタがあったそうなので、僕でもごく一部しか見つけられていないのだ。
そしてSSSS.GRIDMAN、SSSS.DYNAZENONに引き続きまたも小尾昌也さんも出演。少ない出番ながらポジションとしては重要で、台詞にもしっかりファンサービスがあった。
「電光超人グリッドマン」のアニメ作品としても、本作はとても優秀だった。


ざっと感想を書いてみた。
僕はやっぱりグリッドマンが好きだと実感したし、この作品のスタッフ・キャストの皆さんには本当に信頼と感謝しかない。ありがとうございました。
相当に楽しませてもらったが、まだまだ理解できていない部分もあるし、何回でも観られる作品だと思う。まだまだ観たい。期間中、あとどれくらい観ようかな。

グリッドマンユニバースは非常に好評なようだし、さらなる続編の可能性も公式に示唆されている。もっともっと楽しませてもらいたいし、もっともっと応援していきたい。

「タヌえもん」10周年

2023-03-31 18:37:00 | 日記
僕が「タヌえもん」と名乗るようになって、そろそろ10年になる。

2013年のこのくらいの時期に、この名前を使い始めた。具体的な日付はわからないが、少なくとも3月であることは間違いなく、かつ下旬である可能性が高い。

もう、そんなに時間が経ったのだ。早いものだ。
10年前は、こんなに長くこの名前と付き合うことになるとは思っていなかったはずだ。

元々このHNは、「うごくメモ帳」(以下うごメモ)で投稿などの活動を本格的に始めるにあたってつけた名前である。当時、自分独自の名前として思い浮かんだのがそれだったのだ。
因みにそれ以前、実際に投稿などを始める前に使っていた名前は「メフィラスせいじん」である。これはDSiの「コメント」の欄を「ひきょうもラッキョウもあるものか!!」にしていたことが由来。

「タヌえもん」の由来はかつて描いていた漫画にある。小5〜中学頃までにかけて描いていた漫画にそんな名前のキャラクターを登場させていた。
ドラえもんを元にしたキャラで目の周りを黒くしていたので、「う〜んタヌキっぽいしタヌえもんでいいや」くらいの気持ちでつけた。
数年後、それを自分のHNとして採用したのだ。
そして7年前、Twitterを始める時にも同じくこの名前にした。うごメモの自分と同一人物であることを示したかったということもある。実際この試みは成功で、うごメモが現役だった頃はもちろん、うごメモが終わって暫く経ってからも何度か「うごメモ見てました」などと言ってくれる方とTwitterで遭遇しており、嬉しいものである。

「タヌえもん」は、今やすっかり僕の二つ名として定着したと思う。何かしら名前が必要な時は、とりあえずこの名前を使っていると言っても過言ではない。


HNは、今や第二の本名とまで言われている。
また、自分の意思ではつけることも変えることもできない本名と違い、HNはいくらでも自分でつけることも変えることもできる名前である。
そんな名前として、僕は「タヌえもん」を選び、使い続けてきた。
そんなにこの名前を気に入っているのか、と言われれば、実はそういうわけでもなかったりする。

先述の通り、そもそもはこの名前は自分の名前として考えたものではないし、実際につけたのがここまで昔の話になると最早あまり自分でつけたという感覚がない。実を言うとこの名前を使っていく上で気になっている点も複数ある。

なぜこの名前を使い続けているのか、その理由はいくつかあるが、つきつめて言えば「ほかに"これだ!"という名前が思いつかないから」となる。そんな感じで使い続けていつのまにか10年、というのがホントのところだ。長く使っていて、変えにくくなったということもある。

しかし、である。
名前そのものを特別気に入っているから使っているというわけではないのは事実であるが、別方面でこの「タヌえもん」という名前に愛着や思い入れが根付いていることもまた事実である。

10年使い続けてきたこの「タヌえもん」という名前には、たくさんの思い出がつまっているのだ。
この名前で、いろんなことをしてきた。
たくさんの方々にこの名前で呼んでもらって、この名前で覚えてもらって…。
そんな中で、自然とこの名前に対する思い入れも確実に深まっていったのだ。


皆さん。
これからもタヌえもんをよろしくお願いします。
これからも僕は「タヌえもん」であり続けると思います。






…他にいい名前を思いつかない限りはね(笑)