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ジャニー喜多川という“傀儡師”に操られた国

2023-05-04 23:12:56 | メディア
ジャニー喜多川という“傀儡師”に操られた国 外国人記者が問う「日本はなぜ少年たちを守れなかったのか」

Illustration by Vincent Lefrançois
ジャニー喜多川の小児性愛は何十年も前から公然の秘密だった。「パンドラの箱」の中では何が起き、どんな思惑がうごめき、なぜその蓋は開けられなかったのか。このスキャンダルを長年追ってきた英誌「エコノミスト」の元東京特派員デイビッド・マクニールが問題の核心に迫る。 【画像】ジャニー喜多川のマンション内部

いったい何百人が被害に…

芸能の世界の“傀儡師”ジャニー喜多川。その喜多川から性的虐待を受けたという最初の告発と直近の告発の間には、人の一生の半分ほどの歳月の隔たりがある。 1988年、元フォーリーブスの北公次が、自分やほかの10代の少年研修生が喜多川の性の餌食になったとスキャンダラスに告発した。フォーリーブスは喜多川の芸能プロダクション「ジャニーズ事務所」の最初期に人気を博したグループの一つだ。 北公次のその著書『光GENJIへ』を皮切りに別の告発も相次いだ。元ジャニーズの中谷良が出版した『ジャニーズの逆襲』でも少年たちへの虐待は書かれた。1990年代にも、『ひとりぼっちの旅立ち──元ジャニーズ・アイドル豊川誕半生記』を著した豊川誕など、さらに数名の研修生が同様の虐待を受けたことを公にした。 北公次の告発から三十数年後の今年4月、元ジャニーズJr.のカウアン・オカモトが日本外国特派員協会で会見を開き、高齢になった喜多川から何度も標的にされ、フェラチオされるなど性的被害を受けたと明かした。 オカモトの話によれば、彼がジャニーズJr.にいた4年間で、喜多川のマンションに泊まった男の子の数は100~200人ほどおり、その「ほぼ全員」が被害者だったという。注目すべきは、オカモトが2012年2月、15歳でジャニーズJr.に入ったとき、この芸能界のドンに性加害の疑惑があるとは知らなかったことだ。 オカモトは4月12日の会見でこう語った。 「ほかのメンバーはわからないですけど、僕は入ってからネットで調べて知ったというかたちです。とくにニュースになっていなかったですし、知る由もないという感じです」 当時のオカモトは、ほかのジャニーズJr.のメンバーと同じで未成年であり、親の許諾なしに芸能事務所には入れない。もっともオカモトは母親も何も知らなかったと強調したうえで、もし知っていたらジャニーズ入所はなかっただろうと語った。 民主主義国家では、マスメディアが権力を監視する番犬という公的な役割を果たすことになっている。権力者が弱者に虐待や犯罪行為をしていたらメディアがそれを糾弾して当然なのだ。 数十年前、仮に日本の大手メディアがジャニーズ事務所に立ち向かっていたら、数百人の子供を年配の小児性愛者の虐待から守れたのではないか──。



裁判で「クロ」は確定していた
私のようにこの一件を追ってきた多くの人にとって最も不可解なのは、喜多川のスキャンダルに関して、臭いものに蓋をするようなところがあることだ。 これは何度も公の場で告発されてきた話だ。にもかかわらず、どうしてこのことを知らずにいる人がいるのだろうか。 告発がピークに達したといえるのは1999年だった。雑誌「週刊文春」が一連の記事で、喜多川がかつて彼のもとにいた子供10人以上に対し、レイプや虐待をしていたと報じたのである。 この一件は国境を越え、当時は世界で最も影響力があった米国の「ニューヨーク・タイムズ」紙にも、きわめて批判的な記事が掲載された。衆議院でもこの疑惑について質問が出た。 喜多川は名誉棄損で発行元の文藝春秋を訴えた。裁判では週刊文春の取材に応じた12人のレイプ被害者のうちの2人が証言したが、2002年に出た東京地裁の判決は、文藝春秋に損害賠償として880万円を支払うよう命じるものだった。喜多川の勝訴だ。 しかし、この判決は翌2003年7月、東京高裁によって覆され、性的虐待の報道は真実だという結論が出された。裁判長の矢崎秀一は、このとき「被害者の少年たちの証言は具体的で詳細なのに、事務所側は具体的に反論していない」と指摘した。喜多川は上告したが、2004年、最高裁はこの上告を棄却した。 この裁判の結末は、喜多川にとって壊滅的なものになりえた。ところが、判決が覆ったという続報を伝えた大手メディアは少なかった。当時、法廷で証言をした週刊文春の編集者の矢内浩祐はこう振り返る。 「この話が訴訟まで発展しても、マスコミはほとんど報じませんでした。ニューヨーク・タイムズ紙が報じれば、外圧で何か変わるかもしれないとも思いましたが、何も起きませんでした。新聞では少しだけ報じられましたが、テレビでは一秒も報道しなかったと思います」


 
 

 

 

 

鈴木雅之や松本潤もコメント&選曲。

2023-05-04 22:48:33 | 山下達郎大好き
鈴木雅之や松本潤もコメント&選曲。『今日は一日“山下達郎”三昧 レコード特集2023』NHK FMで今日12:15スタート
5/4(木) 8:00配信
1コメント1件
(写真:PHILE WEB)
NHK FMは、音楽番組『今日は一日○○三昧』の企画として『今日は一日“山下達郎”三昧 レコード特集2023』を本日5月4日12時15分より放送する。 「FOR YOU」「RIDE ON TIME」「SPACY」など、5月よりRCA/AIR YEARS時代の作品のリマスター版レコード・カセットテープをリリースしている山下達郎。昼から夜まで、レコードの魅力を通して氏の音楽の世界をじっくりと深く味わいつくすという。 今回、山下達郎本人がリマスターするレコードを語り尽くすスペシャル企画が実現。ゲストはEPOや渋谷龍太(SUPER BEAVER)、クリス松村、進行は杉浦友紀アナウンサーと、「山下達郎三昧」にふさわしい面々が集まった番組となっている。 加えてコメントゲストとして鈴木雅之、菅田将暉、Taka(ONE OK ROCK)、松本潤が参加。それぞれ1曲ずつ選んでくれているほか、意外な交流エピソードも聞けるとのこと。番組は2部制で、第1部は12時15分から18時50分まで、第2部は19時20分から21時30分まで放送される。



 

昭和の伝説的女優・原節子の素顔

2023-05-04 22:33:12 | メディア
昭和の伝説的女優・原節子の素顔 泥まみれの野菜を抱え大家族を支えながら、ピカピカの民主主義を演じた〈dot.〉
5/4(木) 17:00配信
12コメント12件



 
昭和の銀幕スター・原節子
昭和の銀幕スター原節子は、日本人離れした美貌と高い演技力で、数々の巨匠作品に登場した。しかし、人気絶頂のなかで突然、表舞台から去り、95歳で生涯を閉じるまでその姿を見せることはなかった。『あの時代へ ホップ、ステップ、ジャンプ! 戦後昭和クロニクル』(朝日新聞出版)から一部抜粋し、謎めいた大女優の軌跡を素顔とともに紹介する。 *   *  *  8月15日の敗戦は、さまざまな“変化”を女性たちにもたらした。女優の原節子もその例外ではなかった。 


 


 当時、原は25歳。女手で大家族を支えていたため、住まいのあった東京・笹塚から京王線に乗り、多摩川あたりまで野菜の買い出しに出かけた。沿線には大映(現・KADOKAWA)の撮影所があり、たまたま同じ電車に乗り合わせた女優たちは泥まみれの野菜を抱えた同僚の姿を見て「気の毒に」と気兼ねしたのだろう。原がいくら話しかけようとしても、女優たちは知らん顔をしていたという。  東京郊外だけではなく、福島あたりまで出かけ、2斗(約36リットル)ほどの米を背負って帰ってくることもあった。  おかしかったのは、きれいに身支度を整えて出かけたときには、列車の中で女優・原節子であることを悟られることがなかったのに、なりふりかまわずに出かけたときにかぎって、「原節子だ」と囲まれ、かえって往生したことだ。  原の出演した戦後第1作は、昭和21年2月公開の「緑の故郷」だった。続けて、同じ渡辺邦男監督作品「麗人」に主演。この作品を批評した文章で使われた“永遠の処女”は、“女優・原節子”を形容する言葉として、スクリーンを遠ざかってから亡くなるまで、生涯を未婚で通した女優に対するオマージュの意味をこめて使われている。  昭和21年10月になると、黒澤明監督の戦後第1作「わが青春に悔いなし」が公開された。黒澤監督には珍しい女性を主人公にしたこの作品で、原は戦中・戦後の混乱期に自らの意思に忠実に生き、自己を確立するという新しい時代の女性像を演じて演技派女優としての評価を得た。

 

 この作品のできる数年前まで、日本の映画界は男優を中心に戦意高揚の国策映画をつくっていた。女優はそえものにすぎない。その反動が、敗戦後の映画界を大きく変えた。男優に代わって、女優が民主主義の到来をスクリーンで強烈にアピールするときがやってきた。そのひとりが原節子だった。  原は、黒澤監督の「わが青春に悔いなし」以後も、つぎつぎに巨匠の作品に出演した。吉村公三郎監督「安城家の舞踏会」(昭和22年)では、敗戦で自棄になった没落華族の中にあって勇気をもって生きようとする明るく健気なヒロインを演じた。さらに木下恵介監督「お嬢さん乾杯」(昭和24年)、今井正監督「青い山脈」(同年)、そして女優・原節子の晩年に大きな影響をおよぼした、小津安二郎監督「晩春」(同24年)に出演した。  戦前の原は、とかくその美貌と育ちの良さばかりがマスコミでもてはやされた。いわく「洋風の近代的な美貌と優れた肉体、知的な感覚」、いわく「大きな眼と均整のとれた姿態、清らかな美貌」。  そうした肉体的な魅力は、戦前、海外の映画人にも認められた。ドイツとの合作映画「新しき土」(昭和12年、アーノルド・ファンク監督)に主演。この作品を見たフランスのジュリアン・デュビビエ監督からは「使ってみたい」と言われ、ハリウッドのプロデューサーからは「3年間辛抱する気があるのなら、スターにしてあげよう」と声をかけられたこともあった。  しかし、日本では、そうした海外での評価、洋行帰りといったことが、逆に関係者の反感をかったらしい。ことあるごとに“大根女優”と陰口をたたかれた。その“大根”も、戦後になってイメージを徐々にではあるが好転させていく。  小津監督のもとで、原は「麦秋」(昭和26年)や名作「東京物語」(昭和28年)ほかに出演、女優人生を一気に花開かせた。そして昭和37年、原は東宝作品「忠臣蔵」を最後にスクリーンから去っていく。  引退宣言はなかったから、映画界に決別した理由はいまだに謎のままである。結婚が噂された、小津監督が亡くなったのは、その翌年のことだった。このとき、原は、弔意を表すのに芸名の「原節子」ではなく、本名の「會田昌江」を名乗ったという。