はんかくさいんでないかい。

八つ当たりブログである。だから誤爆はある。錯誤もある。情報の正確性も保証しない。でも、変なことは変だと言いたいのである。

経済合理性を欠く原発

2013年08月28日 | 日記

 原子力発電は単価が高い。こういうと経産省は猛反発するのだが、運転が40年の原発を廃炉にするのに、ほぼ百年の時間がかかる、ということを考えると、至極当然である。

 総括原価方式というのは、何のことやらサッパリ分からぬ言葉だが、要するに使った電力を消費者に電力料金として付回すことである。しかも、一定の割合で儲けて良いという話であるから、コストがかかればかかるほど、儲けも大きくなるという方式である。

 原発は巨大プラントで、一基あたりの施設建設費用は莫大なものとなる。それが全部電力料金として回収されるわけだ。節電節電と消費を促進させぬような宣伝をしながら、電力料金は節電の甲斐もなく、年々高騰する。節電しても高いまま、高止まりである。オカシイではないか。

 それもこれも、この総括原価方式というものがガンなのである。

 母数が100ならば儲けは3%dで3となる。これが母数が100万なら3万となるわけで、この母数をどう増やすかというのが、儲けを増やす近道である。火力発電は燃料コストがかかるのは間違いないのだが、建設コストは原発から比べるとさほどかからない。

 火力発電を増やすのは設備的にも容易であるし、運用のための燃料を除けば、そうした電力会社の発電施設を作るゼネコンや発電機を納入する電気系の会社は、さほど儲からない。そうした発電施設のコストも、すべて電力料金によって徴収される。経産省への申請は必要だが、その申請される額が「水増し」されていても分からない。経産省が「減額」しても、それを織り込み済みでの額が申請されてしまえば、何の役にも立たない。

 ここでモノを言うのが、経産省からの天下りの受け入れである。経産省の思い描いた電力料金の範囲よりも、少しだけ高めの申請をすることで、減額する経産省官僚の立場も立つ。そうした情報のやり取りが、実は天下りの受け入れによって容易となるわけだ。100円の値上げ申請が70円しか認めないと、世は「経産省良くやった」なのである。しかし、思うにこれは出来レースである。天下りの旧官僚は、申請許可が70円と知っているとする。本当は60円の値上げでもやっていけるのに、100円と申請し、経産省が70円に減額するのを見越して、10円の利益を実質的に確保する、というやり方である。

 送発電分離に大いに電力会社が反対するのは、このオイシイ仕組みを残しておくためである。送電と発電が分離し、単価の高い電力が売れなくなると、覿面原発は厄介者となる。

 東海一号炉は廃炉作業中である。廃炉の開始から30年近く経ているのだが、まだ原子炉建屋本体にまで解体作業は至っていない。どうやらあと70年ほど必要だという。つまり、廃炉百年である。百年も廃炉作業に多くの人員をかける作業が必要なのに、実は経産省の電力料金の計算は、こうしたコストを含んでいない。さらに福島第一原発の事故である。健全な原子炉でも廃炉に百年かかるとされているわけだ。事故収束なんぞしてもいない、爆発で吹っ飛んで肝心の炉心のありかさえ不明な状態では、廃炉が東電の行程通りに行かないのは自明のことである。

 廃炉前に汚染水問題が出てきて右往左往する姿は、とても東電の廃炉行程が上手く行くわけがないという、傍証でもある。何百年かかるか分からぬし、その行程で被曝限度量を越える作業員が続出するであろうことが容易に想像できる状態なのに、そうした事故収束のためのコストさえ計算に入れていない原発での「安い」と称する電力料金。どこに経済合理性があるのか、誰か説明してくださいよ。

 まやかしやデタラメが大手を振って罷り通るさまは、勝った勝ったと事実を公表しなかった大本営発表と変わらない。大本営発表を無条件に信じるのが愛国?莫迦言ってんじゃない。事実を直視して、その上で国を語り、どのようなウソの無い国を作るか、まじめに考えるのが愛国でしょ。