はんかくさいんでないかい。

八つ当たりブログである。だから誤爆はある。錯誤もある。情報の正確性も保証しない。でも、変なことは変だと言いたいのである。

2013年の末に

2013年12月31日 | 日記

 暮れも押し迫り、年末のご挨拶を書こうと思っていたら、大滝詠一さんの訃報が飛び込む。はっぴいえんどの「風街ろまん」を聴きながら、大滝さんの、あるいはかっての自分の、そのはっぴいえんどなどの時代を振り返る。
 世はグローバルスタンダードの時代だというのだが、世界の各地、先進国でも発展途上国でも、時として反グローバリズムの動きも発生する。
 現在のグローバリズムは、米国中心のリバタリアン的グローバリズムであり、特にグローバルスタンダードを標榜する企業の多くが、自社技術や販売方法だけが唯一の方法であり、他はとるに足らないという傲慢さ。その傲慢さが違う文化を持つ企業や市場を周辺化し、疎外して行く。
 しかし、グローバル企業とは言っても、その金城湯池を確保し続けるのは容易ではない。移ろいやすい消費者の動向というものがある。実はグローバル企業には致命的な弱点がある。消費者そのものの動向の変化に、なかなか追随できないという点だ。
 そうした追随できない部分を解消するために、グローバル企業の多くは、自身が周辺化した企業の技術や文化を、逆に収奪するような形で取り入れる。
 オリジナルを作成した側は苦情を言い立てる場合もあるが、多くの場合はグローバル企業が得る利益から見ると、ほんの雀の涙程度の金で解決するか、長時間訴訟で相手の費用切れによる和解に持ち込むか、更には権力者と合同して相手を黙らせる、更には自分たちの正当性だけをメディアを通じて喧伝する。
 つまり、資力と権力と宣伝力という、持っているものだけが利用できる力によって、相手を捻じ伏せて、その意を正当性の有無とは無関係に、押し通してしまうのである。
 こうした構造的な不公正は、逆に公正を求める通常の人にとっては、到底理解できないし、承服もできるものではない。
 発展途上国の多くでは、権力が権力者に集中し、その周辺に賄賂がばら撒かれることで、不公正がなされている。ところが、グローバル企業の多くは、国家構造と密着するような形で入り込んでいて、自身が権力の中枢とイコールであるために、それ以外の周辺化した企業や技術・文化を平然と収奪する。しかも、その不公正が場合によっては合法化されるだけではなく、積極的に収奪をすることが称揚される。
 問題の根は深い。現在の世界の政治構造と経済構造の中枢がイコールであるが故に、そこに切り込む改革などは腰折れにならざるを得ない。改革を期待して政治家を選択する選挙民の期待に、改革を志す政治家の多くは雁字搦めとなり、身動きが取れなくなる。オバマの改革が米国民の期待を裏切る結果となったのは、社会構造が、政治構造が、更には司法の構造が、すべてその改革を阻害する既得権者の保護、言い換えればグローバル企業の優位さそのものを保持するためのものだからである。
 今や日本もTPPというワケノワカラヌもの、このグローバルスタンダードという名のリバタリニズムに巻き込まれようとしている。弱肉強食ならば良い。実は予め強者が決まっている中での戦いなのに、それが「公正」であるかのように装う。その不公正にこそ、世界の各地で反グローバリズムの狼煙が上がっているのである。それに無頓着なこの国の政治家の、見事なまでのアホさかげん。そのグローバリズムが、各省庁の省益や庁益を疎外しないと信じ込んでいる官僚機構。こうした「予め結果が分かっている指名入札のような自由主義」を称揚する竹中平蔵のような経済学者。もはや、なんだかなぁ、などとボヤくレベルにすら至らない。
 長く「なにか変だ」と思っていた。多分、この項では、その「変」のすべてを解消するほどの内容は記していない。まだまだ正体不明の「変」が、この世界、この日本には横溢していて、時としてそれが「普通」だと感じたり「当たり前」だと思ったりしている。
 核抑止力というのは、ヤクザが縄張りでショバ代をとるのと、原理的には大差ない。他のヤクザの縄張り荒らしを封じ、自分の縄張り内の店舗を守ると称して、ヤクザの資金源であるショバ代を請求するのと同様に、核抑止力に守られた国の市場利益の一端を、抑止力を行使する核大国に委ねる。抑止と均衡の理論は、関東の大暴力団連合と関西の大暴力団連合が全面戦争をして共倒れになるのを防ぐ理屈と変わらない。
 要するに暴力が基本。それを背景に経済の中心を握り、所持する暴力装置が巨大であればあるほど、その国家の商法やそれに伴う制度が敷衍される。それがグローバリズムの正体だろうと思うのだ。そんなもん、「理」に則っているわけでも何でも無い。まぁ、背景に持つ暴力装置が「理」だと強弁できるのではあろうが、反論を許さない「理」などは、もはや「理」ですらない。


頭を打つ

2013年12月28日 | 日記

体のあちこちにガタがきている。脳梗塞の後遺症もある。瞬間的な糖尿病であるし、高脂血症気味でもある。高血圧である。腎臓が弱っている。胆嚢は炎症を起こしたので切除している。その切除跡、腹膜の回復が遅れてヘルニアを二度発症している。胆嚢切除のための腹腔鏡手術跡が裂けてのヘルニアであり、二箇所開けた腹膜の穴から時を置いてヘルニアが発症した。左目の眼底出血を二度起し、二度目は手術が必要となる。硝子体の戦場と網膜のレーザー焼付け治療と白内障の手術を一度に行う。子供の頃には動脈間開存症という大動脈と大静脈に余分なバイパス血管が残っていたので、それを塞ぐという手術を、札幌医大胸部第二外科で受ける。診断を下したのは、そのほとんど一年後、あの心臓移植手術を行った和田寿郎教授である。執刀医はあの移植手術後、和田教授のスポークスマンをしていた当時講師だった小松医師である。

最も最近行ったのが、前述している眼科の手術である。現在は、その回復期である。そのため、今メガネを作成しても、度が合わなくなることは確実だという事なので、現在はもう45年ぶりぐらいにメガネをかけぬ生活をしている。毎日起きている間は5時間毎に、三種類の点眼薬を目に挿す。三種類は同時ではなく順序があって、なるべくそれぞれ5分程度の間を置くことが望ましいとされている。

そんなわけで、椅子に座って上を向くことが多い。そうした時に、脳梗塞を病んでから時折起きるフラつきが生じると、普段ならば踏ん張って回避できる後方への椅子ごとの転倒は起きないのだが、間が悪いとこれが重なる。普段はなんとかなるのだが、今朝はどうもちょっと違った。

ということで、今朝は椅子ごと転倒し、後頭部を打つ。それなりに腹筋で頭を強打するのを防ごうとするのだが、何しろ腹筋はヘルニアによる手術で、ほとんど役立たない状態に近い。モロに今朝は後頭部を打つ。

こうして後頭部を打ったのは、あの東日本大震災が起きる二ヶ月前の2011年の1月下旬、路上のアイスバーンで転倒し、右手の骨を折った時以来だ。あの時も後頭部を帽子はかぶっていたが強打している。リュックを背負っていたが、リュックに入れてあった安物デジカメもお釈迦になる。

腕は折っていないし、物品も破損は無いのだが、こうも簡単に体のバランスが採れないようでは困るのだ。コケるのは仕方がないにしても、コケ方が悪い。今の時期は足元が悪いから、逆に注意して歩く。2011年のように注意して歩いていても、腕を折ることはあるのだが、問題は夏場のクッションが無いようあ路面で転んで頭を打って頓死するようなときである。

オレ自身は、葬式も不要だと思っているし、墓も不要。墓地埋葬法とか、そんなワケノワカラヌ法律がなければ、火葬の時間をちょっと眺めにして、骨の形状が残らぬように灰にしていただき、密かにどこかにばらまいてくれれば良いと思っている。海でも山でも勝手に散骨をしてくれ、という気分である。誰にも知らせる必要はないし、知らせる相手も特に居ない。

先天的なポンコツなのであるから、それを跳ね返そうという気力は沸かなかったのである。ポンコツはポンコツなりの生き方をしていたら、ポンコツの生き方そのものになったから、それじゃぁ死ぬ時もポンコツで十分だ、と思うだけなのだ。これを「負け犬の考え方」というヒトがいる。ワタシの亡くなった父親もそうだった。でもねぇ、「勝ち負け」だけでしか人生を測れない、そんな秤しか持たないのは、ちょいと寂しいと思う。成り上がりたいヒトは成り上がっていい。同時に、ポンコツ人生をポンコツのまま終えてもいいのである。ヒトはそれぞれ。快、不快はあるだろうけど、それはそれ。あと45億年もすると、地球そのものが太陽に飲み込まれ無くなるのよ。


積極的平和主義の謎

2013年12月25日 | 日記

安倍晋三首相が語る積極的平和主義というのが理解できなかった。普通に考えるならば、例えば個人同士の喧嘩があったとして、それを見てみぬふりをせずに仲裁に入るのが、積極的平和主義のように思える。ところが安倍晋三の言う積極的平和主義というのは、どうやらそうしたものでは無いらしい。

喧嘩は周囲が迷惑するものだ。喧嘩なんかしないでくれと思うのは普通であるし、できれば仲裁したいと思うことも多い。ただ、先日の南スーダン内紛でPKOで駐留している韓国軍への弾薬供与が、実は安倍晋三の語る積極的平和主義に資すらしいのである。

これは見方を変えれば、公共の場で喧嘩している当事者を、全員射殺して「平和になった」とうそぶく態度であって、ヤクザが繁華街の雑踏に腹を立て、「やかまし、手前ら皆静かにしないと皆殺しだぞ」と凄んで銃を乱射し、雑踏のに賑わいを沈め、沈黙させて「静かで平和になった」と嘯くのに似ている。

どうやら、我らが安倍晋三サンは、こうした強権を背景に、皆を静かに従わせることが「平和」だと勘違いしているようだ。

紛争のあるところ、至るところにしゃしゃり出て、お前ら平和にしないと痛い目みるぞ、と脅すのが、どうやら積極的平和主義の正体のようである。

そこには雑多な意見、言論での対立、論争による解決という、民主主義国家のとるべき平和への態度が微塵も感じられない。多種多様な意見が並行して存在し並立しながら、その中で議論を戦わせながらも、世を動かすのが、民主国家のシステムというものだが、どうも安倍晋三サンはそう思っていないようだ。

国会でのねじれで「決められない政治」がマスコミの話題となる。ところが、東日本大震災の復興関連法案、官僚の明らかなサボタージュによって遅滞してはいるが、震災関連では子供被災者支援法は、党派を超えて賛成多数で容易に可決・成立している。ねじれが決められない政治を生んでいるのではない。決めようと決めまいと実は本質的にはどうでもいいことが、ねじれによって決められていないだけだったのである。決めなければいけないことは、ねじれ国会であろうと「決まった」ではないか。

決められない政治を廃し、自民党独裁であるかのような体制になった途端、誰もが「聞いてないよ」という武器輸出三原則の事実上の撤廃。つまりは、問答無用なのである。それが積極的平和主義の正体だ。衣の下からかいま見える鎧。特定秘密保護法という「僕ちゃんは知っているけど、皆には知らせないもんね」というワケのワカラヌ法律の制定。

その先にあるのは、どうやら軍靴の響きだけのように思える。


杤山修 原子力安全研究協会処分システム安全研究所長 2013.11.25

2013年12月09日 | 日記

杤山修 原子力安全研究協会処分システム安全研究所長 2013.11.25

日本記者クラブの会見で、原子力安全研究協会のシステム安全研究所長は安全性を語る。しかも、その語る年月の単位が数万年のオーダーで語る。数万年はおろか、数千年でも保持できるとは思えない。国や社会制度がそんなに続くはずが無い。

忘れ去られることを前提に案出されたのが地層処分であるのだが、残念ながら日本で地質年代が古い地質構造は、実はそれほど安定しているわけではない。どちらかといえば、千年という短い単位で大地震が起きるという、不安定な地層なのである。

ここで語られていることの多くは、日本という国土に於ける「安定した地層」が、果たして本当に存在するのか、という話である。カナダの十億年を超えながら固定し続ける地層などが、果たして日本にあるのだろうか。このあたりの問題点に対する回答は、実は何も答えていないように見える。具体的に「どこ」が日本という狭隘で不安定な地質を持つ国土で示されるのかには、一切答えていない。ただ地層処分は高濃度放射性廃棄物の廃棄方法として有効だ、というだけである。


Linuxが使えるようになり始めた。

2013年12月07日 | 日記

Lenovo G540のWindows7が壊れたのを機会に、同機をUbuntu13.10マシンに切り替えた。やたらと重いという印象だけが強かったunityデスクトップだが、それなりのチューンナップがあったのだろう、それなりの速度となる。

同じLenovoでもIdeaPadS206という機種では、32bitのlubuntu13.10にしている。これは、OSのインストール時に、どうしても内蔵のWi-fiアダプタが発見できないためである。発見できないどころか、64bit版を入れようとすると、ハードウェアスイッチが切れていると断られてしまう。そもそも、この機種にはそんなユーザーが任意に設定できるハードウェアスイッチなんぞは、表面には見当たらない。そんなわけで、32bit版のlubuntuではあるが(不思議なことに32bit版だと無線LANアダプタが発見でき、ネットワーク環境も問題無いのである)、十分な速度が確保出来ている。

多くのLinuxの問題は、日本語入力環境の脆弱性である。G540のUbuntuではMozc、S206のlubuntuではAnthyと分けて使っているのだが、Mozcの問題は単語登録の「厄介さ」である。Anthyもデフォルトでは単語登録ができない環境だったのだが、色々とSynapticというパッケージマネージャを使って部品を登録することで、辞書登録が可能となった。Mozcはまだ厄介な方法での登録しかできないようで、このルック&フィールの問題は残っているのだと思う。

使えないために厄介だと思っていたプリンターは、「Linux MG3230」という単語をぐぐっただけで、ドライバが簡単に入手できた。ファイルブラウザのアーカイブマネージャから簡単にインストールもできる。debian用のファイルであれればダブルクリックで選ぶだけでインストール選択が可能となる。

当面、個人的的な利用方法だけならば、高い金を支払ってWindowsOSを8.1などにする必要すらない。ウィルス関連のソフトも、それなりにあって、Windows並の設定が可能だと言える。

設定が面倒臭そうという弱点はある。それが苦にならないならば、一旦設定をしてしまうと、少なくともWindows並の安定感は確保できる。相当無茶な使い方をしない限り、であるけども。