はんかくさいんでないかい。

八つ当たりブログである。だから誤爆はある。錯誤もある。情報の正確性も保証しない。でも、変なことは変だと言いたいのである。

勘違いしていたのだなぁ・・・

2013年06月29日 | 日記

病院の受付で番号で呼ばれ激怒したままブログでその激怒を表明し、その稚拙な論拠にブログ炎上してしまい、弁明の記者会見をしたうえ、批判に耐えられなくなり自死した地方議会議員が出た。

多分、この議員氏は「オレの言うことの何が間違っているのか」と言う思いだったのだろうし、皆同じ思いをしていて賛同してくれるものだとばかり思っていたのだろう。ところが違った。

効率化は病院でもスーパーマーケットでも、実は日常的に行われているし、名前を呼ばぬ病院だって出てきている。同姓同名などが多い場合もあっての事であり、カルテを間違えたりすると大変なことになるからだ。実効的な意味を考えず、単に番号で呼ばれるのがケシカランというのは、マイナンバー法案などが検討されている時代に、形式的なものに拘りすぎとも言える。

この議員さんが勘違いしているのは、他にもある。議員は基本的に代弁者である。選挙区の人の意見を代表するという立場である。偉いわけではない。むしろ、自分の意見よりも、選挙民の意見を集約する役割を果たすのが筋だ。指導者ではないのである。地方議会に於いては、知事、市町村長などの行政のトップ、つまり指導者は別にいるわけだ。その指導者の行為を、住民の側に立ってチェックするのが議会の役割であり、議員の役割である。なにやら指導者とチェック係である議員とを混同している政治家が多い。

国会が「国権の最高機関」であるのは、すなわち指導者に対するチェックを最高の国権でチェックするための役割を果たしているわけだ。

で、ここで問題となるのが議員内閣制である。例えば内閣の大臣は行政の長となる。しかも、同時に議員である。本来ならば議員の立場、国権の最高機関の一員の立場で行政を「監督」する必要があるわけだ。暴走する科挙政治、つまり官僚政治をチェックしながら、選挙民の声を政策として行政に反映させる、という厄介な役割を果たす必要がある。

これを両立させるためには、類稀な能力が必要となる。全部が出来るのスーパーマンなどは存在しないだろう。だからこそ、大臣というか閣僚は、諮問機関などを作る。ところが、その諮問機関の人員選定には、官僚が大きな役割を果たす。既存の政策を推し進めるのに有利な人選を行い「第三者による諮問機関」だと言う。実は大臣は、こうした人選で、必ずしも規定の政策に阿ることのない「識者」を選べるかどうかで、その質が見極められるのではないか。

民主党の失敗は、官僚制度打破を謳いながら、その実政策決定や政策事項が官僚支配から脱していない点にあった。特に財務大臣から総理大臣になったドジョウ総理は、見事なまでに財務官僚の手先となってしまう。

現在の自民党の幹事長は、いわゆる軍事オタクである。であれば、防衛大臣のときに、防衛省官僚と折り合いが良かったかといえば、逆にあまり良くなかったという。なまじ防衛問題、軍事問題に知識があるために、防衛官僚の描き出す絵に対してダメだしが出来たためだ。つまり、官僚のロボットにならなかったのである。それでも指導力はあった。

民主党政権で厚生労働大臣となった消えた年金問題告発議員は、官僚のロボットにはならなかったもの、指導力が足りずに官僚のサボタージュを生み、ボンコツ・ハト総理と供に地位を去る。

他人をどう使うか、という点では、民主党政権はヘッポコのポンコツそのものであり、それが原因となって政権を追われる。他人を使う方法や、官僚への「指導」方法を熟知していた小沢一郎は、肝心の民主党内からもスポイルされる。そうしたスポイルするような構造そのものが、民主党の力の限界を示していたわけだ。

ふと思うと、今の自民党政権が「勝った」選挙は無い。先の都議選も、投票率は見事なまでの低空飛行である。これは、政治不信というよりも、いよいよ本格的に見放され始めたのだ、と思ったほうが良い。与党は利益共同体だから、まだ求心力を持つのだが、野党に堕ちた民主党には遠心力が限りなく大きくかかる。他の野党は、政治不信台風に吹き飛ばされている。与党だって安閑としてはいられない。アベノミクス効果が続けばよいが、これが米国のFRBの一声で局面が変わってしまう脆弱さを内包するため、果たしてどこまで続くか、その効果が多くの庶民に実感できるほど続くか、経団連のような大企業ではなく、商工会議所のような中小零細企業にまで行き渡るのか、先行きは不透明なのである。


睡眠薬代わりに読む本

2013年06月25日 | 日記

錬金術の世界

錬金術は実は科学の父であるといえる。ただし、厄介である。物質の生成は超新星爆発などの莫大なエネルギーの結果だ、というのが現在の科学の到達点である。それだけに、核分裂を起爆剤として起きる核融合という、そうした制御ができなければ、物質の生成は不可能ということになる。

金という希少金属を作ろうとする、いわば強欲な思いが、科学の出発点なのだ。浮き世離れした科学者、というステレオタイプは誤っていて、むしろ今日の御用学者のように、研究費捻出のため、あるいは学会での立場を強めるため、学会内政治に奔走する姿こそが、まさに錬金術師を祖とする科学者の本来の姿なのかもしれない。

挿絵は悍ましくも楽しいが、内容は寝るのに最適だ。


発言できる人は幸いである。

2013年06月24日 | 日記

東日本大震災、それに伴う福島第一原発事故、それらの被災者の方々には、同情を禁じえない。メディアなどを通じて被災者が語る被災地の現状は辛酸を極め、語られる思いは重く、私の軟弱な心を切り裂く。

それでも、メディアなどを通じて被災の現状を語れる人は、壊れかけの心を奮い立たせる強さがある。語れるだけの強さを持っている、とも言える。ただ、私が気になるのは、被災地の復興商店街にも顔を出さず、テレビなどのインタビューも頑なに拒む人たちである。そうした人は多いのではないか。未だに癒えぬ被災の思いを、心の内に封じ込め、悶々としながら仮設住宅の中で、孤独に住まっているのではないか、ということである。

誰もが皆意見を何かに向かって言えるわけではない。地域の集会に参加する意欲を持つわけでもない。打ちのめされ、打ちひしがれたまま、たまの見回りの人たちに「大丈夫だよ」などと応えながら、その実ちっとも大丈夫じゃない人は、少なからずいるのではないか。

札幌で生活保護対象となる姉妹が、働き手の姉が病で急逝し、知的障碍を持つ妹が、その姉の死に伴い餓死するという事件が起きた。この姉は、実は市役所の支所などに、ある程度の相談をしていたのだが、相談に来なくなったから大丈夫なのだろうと行政は判断し、放置した結果、病で急逝した姉はともかく、助かるはずの妹も飢えて亡くなるということが起きた。

生活の苦しさを丁寧に担当者が受け止めれば、姉の病も何とかなったのかも知れない。ただ、この二人は、姉は遠慮や世間体などのシガラミから、大声でSOSを言えず、妹は知的障碍を持っていたがために、生きるすべを失ったのである。

このような「発言ができない」人というのは、実は一定数必ず存在する。言わない方が悪いという言い方もあるのだろうが、言いたくてもモノを言えぬ人というのは、ある割合で必ず存在する。

それは、どのような場面でも同じだ。だからこそ、代弁者が必要となるし、そうした人々が容易に集える「場」を作ることが必要となる。引っ込み思案でも出てこられる場、闇雲に明るいだけではなく、ただ静かにそこに集える場、というものが必要なのだ。寄添い心開くまで待ち続け、息の長い、しかも押し付けがましくない忍耐に満ちた行動がひつようなのだ。そこで始めて声を出せない人が声を出す環境が整うのである。実は支援は道半ばなのだ。


環境保護活動家の偽善

2013年06月22日 | 日記

下川町という町がバイオマス発電の拠点、モデルケースとして報道ステーションで取り上げられた。間伐材を原料とするバイオマス発電が林業の再生を生み出しているという。

私の高校時代の二年先輩のH氏の家業は、下川町で間伐材を使って割り箸を生産していた。ところが、環境保護を唱えるアグネス・チャンのような馬鹿に、割り箸が環境破壊の元凶扱いされ、家業は傾き、廃業を余儀なくされた。そうした逆風と国際的な木材流通の結果として下川町の林業は、一時期は開店休業となり、山林は荒れ果てて、そのため野生動物の食材そのものが失われ、野生動物が人里まで進出してくるなど、野生動物と人間社会との共存が難しくなった。里山が失われるなど、いわゆる結界として存在していた野生と人里との分水嶺が保持・保全できなくなったのだ。

林業は農業以上に山林の保水能力を保つために必要なのだ。山林を保全するためには、植林も必要なのだが、その植林を有効にするためには間伐という作業も必須である。ところが、このアホ極まりない「割り箸環境破壊論」を唱える環境保護活動のために、林業そのものが「悪辣」なものとして捉えられてしまった。

むしろ、割り箸などは国産に主眼を置くようにしたほうが良かったのである。この国内の割り箸生産が、アホ環境活動家の影響もあって減衰するのと期を一にして、中国や東南アジア製の割り箸が大挙輸入され始めた。中国産や東南アジア産の割り箸は、実は間伐材ではない場合が多い。結果として中国や東南アジアでは森林が失われることとなり、山林の保水能力は減衰して、大きな環境異変が起きている。

割り箸は使い捨てだから、見た目にはもったいない。しかし、山林の保全に役立つものだったのに、単に見た目の使い捨てだけに主眼を置いて、排撃しやすい「見た目」からの「環境保護運動」の標的となってしまった。この「見た目」を気にするあまり、事態の本質を理解せずに、割り箸悪人説に単純に乗っかったのがマスゴミと称されるマスコミである。

しかし、福島第一原発事故以降、エネルギーとしてバイオマスなどがいきなり持ち上げられる。見事なまでの掌返しではないか。

原発が環境政策に有効だ、などという意見は、事故が起きる前からうそ臭いと思っていたら、やはり原発は海水を発電量の倍の熱量で温める装置であると分かった。エルニーニョ現象を見るまでも無く、気候変動には海水温が重要な役割を果たす。日本列島では日本海側に特に原発が林立していると言って良い。もともと比較的暖かい海域で生息するエチゼンクラゲが、今や津軽海峡の北にまで生息域を北上しているのは、海水温の上昇が原因なのではないか。台風の巨大化もしかりである。

二酸化炭素は確かに温室効果があるだろう。ただ、それ以上に直接的に気候変動に影響するのは、海水温であるのは明白ではないか。その海水温を、我々が消費する原発エネルギーの倍の熱量で暖め続ける原発が、環境に良いはずがない。

何かといえば二酸化炭素の排出量を環境保護論者は語るのだが、それは大気温の上昇が海洋の温度にまで影響し、海流の変化が気候変動を起こしているという理屈からである。であれば、直接海を暖めている原発が、環境にやさしいわけがない。

二酸化炭素の増量が心配だとするならば、なぜ世界各地で植林運動をしないのか。更に言えば日本の山林に植林されるのは、建材として利用が容易な樹木ばかりである。二酸化炭素をより取り込むであろう木々はほとんど無視され続けている。栃木や群馬の山間部は、植林された杉ばかりが、間伐されずに密集して生えている。結果、その密集度が高く、木々の隙間が無いために地表にまで陽光が届かない。結果として上空からは緑で覆われた山々も、地表から見れば、下生えの植物すら育たぬ「緑の砂漠」となっている。

しかも、こうした建材に向く樹木は、根が比較的浅い。保水能力という点からも減点ではないか。

日本列島は植生という点でも、世界で稀有なほど多様である。ところが、そうした多様性は、利用する際の利便性と相反する。利便性だけを求め続けた結果、例えば東日本大震災前に起きた岩手・宮城内陸地震では、山体崩壊などが起きる事態となった。多様な植生そのものを否定し、単純化してきた日本人の姿が、ある意味重なって見える。

環境保護論者の方々は、産業そのものには目を向けない。ただ、時として単純な「見た目」から、その「善悪」という二元論で物事を判断し発言する。ところが、自然の世界は単に「善悪」とか「好悪」のような「白黒」が付くものではない。多様な視点から多様な議論が必要なことを、切って捨てるような言い方で切って捨て、相手を打ち負かした気になっている人も多い。自然の循環というのは、そんなに簡単なものじゃないのである。


西尾正道さんの講演動画

2013年06月21日 | 日記

独立行政法人北海道ガンセンター名誉院長の講演を聴いていて思うのは、セシウムがカリウムの同属であり、カリウムは米国では死刑に使う薬剤であり、心臓を止めて人を死に至らしめる物質である、という事実である。

思い出して欲しいのは、福島第一原発での収束作業にあたっていた作業員が、何人か亡くなっていることである。死因は熱中症から心筋梗塞を引き起こした、という発表ばかりである。

カリウムが死刑に使われる薬剤であり、その同属であるセシウムが、しかも電離放射線を強く出す、放射性セシウムが事故によって大量に放出されたという点である。

http://youtu.be/x82gFW2ls58

ここで語られる言葉の多くは、長年臨床の場で、ガンに対して放射線治療を実践してきた医師の本音である。ICRPの根拠無き様々な問題を切って捨てる。