はんかくさいんでないかい。

八つ当たりブログである。だから誤爆はある。錯誤もある。情報の正確性も保証しない。でも、変なことは変だと言いたいのである。

地上波テレビを見なくなった

2013年05月24日 | 日記

地上波のテレビ番組は、ほとんど見ない。見るとしてもニュースとスポーツ中継なのだが、特に民放のスポーツ中継は見ないことが多い。サッカーの代表戦は民放の五月蝿い解説という名の観戦の邪魔よりも、NHK-BSが中心となる。

実は、物理的に地上波視聴が困難な時期が2年ほど続いた。特に3.11のときは、BSのNHKとインターネットテレビでのTBSのニュースバードでしかマスメディアからの情報が得られず、twitterでの情報に頼っていたことが多い。結果として、地上波無くてもいいじゃん、というレベルの放送しかしていないことがわかる。何一つ不自由しなかったのである。

地上波が見られない時期があってよかったのは、明らかに制作費をケチったお笑い番組ばかりが氾濫する、そうしたテレビの劣化が明白になったことだ。継続して地上波を日常的に見ているヒトには、その劣化する流れの中で、劣化そのものが認識できないまま、大宅荘一の言う「一億総白痴化」の進行に気付かない。つまり、テレビの劣化と同時に視聴者も劣化しているわけだ。

正直に言えば、カスやゴミみたいな番組ばかりが地上波に流れていて、そんなものを見るぐらいなら、有線テレビ経由で米国のドラマでも見ていたほうが、まだ良いと思ってしまう。更には、明らかにキリスト教が「世界宗教」だと思い込んでいるヒストリーチャンネルの番組の作り方と、日本が作る番組(NHKスペシャルなど)との差が見えて面白いのである。

地上波テレビが報じないという点では、福島原発事故の内実でもある話である。政党は脱原発や反原発を掲げても、反被曝や脱被曝を掲げない。以下の動画インタビューで、その実態が見えてくるのだが、地上波のテレビはほとんど触れない。もやは、メディアはメディアの役割を果たしていないのではないか。

グローバー報告書、保養による被曝回避、そして福島県人としての想い
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専門家というひとたち

2013年05月15日 | 日記
311震災に伴う原発事故。その結果として不安院と呼ばれていた原子力保安院に代わり、ほとんど当時の野田佳彦が独断で委員長を決めた原子力規制委員会というものができた。

科学的論理的知見よりも政治的思惑を明らかに優先させた関西電力大飯原発再稼動を決めた後である。ウンコを洩らした後でトイレに入りトイレットペーパーを探すという、世にも稀なアホ手順を全国民ならぬ全世界に晒して「偉いだろう」と踏ん反り返り、選挙に臨んだ結果、政権党だった民主党は大惨敗を喫する。

代わりになる政党が無かったからか、勝手に転んだ民主党を尻目に、自民党が大勝し、加えて暴走老人とヤンキー弁護士がタッグを組んだ「失言・放言大放出確定」の日本維新の会という、この党首二人以外はほとんど旧来の政党内部では役に立たなかった「地元では大物扱いされる政治家」などが加わる。

こうした人たちは、例えば原発政策については専門家任せである。専門家ならばどうにかなる、とでも思っているのか。工学ならばいざ知らず、例えば原子力の根源である量子力学には、我々が通常認識している因果律とは違う世界も存在しているわけだ。工学はその理学の結果を実生活に生かすということになる。量子力学とは、結局観察を目では出来ない世界だ。測定器による値から、姿を類推する。論理として「こうなるはず」だという結果を測定器で確認することで、その論の可否が問われるという、二酸化マンガンに過酸化水素を加えて酸素を発生させるというような、簡単な実験で済む話ではないのである。

工学はこうした理学系の結果を前提に、モノを組み立てるためのの技術である。だから、工学系の科学者やら技術者という専門家は、その前提を深く研究しているわけではない。でも専門家なのである。専門家という言葉が成立するためには、その専門領域に特化した学識や研究は必須ではあるが、それが世界とどう繋がっていくかについては通常認識しない。専門家であるが故に、その専門領域外のことには関心そのものが無い。専門的に知見が深まれば深まるほど、知見はせいぜい専門の周辺領域に限られる。

地震だったらプレートテクトニクス理論の人や、変動地形学の人、地震学の人、地質学の人などが関与するわけだが、それぞれ視点が違う。同じものを見ても上に滑る地滑りなど、重力を無視した発言をする人も出てくる。下から上に「地滑り」が起きるというのは、直近では岩手・宮城内陸地震がある。山間地を縫うように走っていた道路が、見事なまでに山が崩れたことにより被害が起きた。311以前の内陸性の地震であり、被害が東北の山間地域に限られたためニュースにはならなかったが、あれが直下型地震の怖さである。山が簡単に崩れる。当然、その上に構築されていた人造物などはひとたまりも無い。

こうした地震のメカニズムは、昨年だか地震学者が一同に介して「予知できない」という結論を得るに至った。いや、前々から地震予知などは不可能であると思っていた研究者は多かったという。ところが「地震予知のため」と称すると、ほとんど言い値の研究費が出てくるというのである。「無理だなぁ」と思う研究者だって「無理」だとは言わない元凶がここにある。結果、地震があるという前提で町を防災化したり、避難経路を細部にわたって決める、などという防災への費用は縮小され、311直後の東京都での帰宅困難者の増加が起きる。

専門家が専門家である由縁は、「分からない」ということが素人よりもハッキリと理由を持って「分からない」ことである。つまり、「どれほど分からないのかが分かっている」「人間の持つ知見の現時点での限界を知っている」ということなのだ。だから専門家には「どこまでわかっているのか」を聞くのが正しいのだが、マスコミは「結論」を求めたがるため、「わからない」という結論には我慢できず、結果として結論を持っているかのように振舞う「トンでも学説」に飛びつく。たとえ学術的にも技術的にも「わからない」が正解だとしても、その回答を忌避するわけだ。

でもねぇ、分からないことは分からないんです。どこまで分からないことを突き詰めるのが専門家という人達です。結論が出ていれば研究なんか続けるわけ無いんですよ。アインシュタインはニュートン力学を相対性理論で打ち壊した後、量子力学の不可解さに挑み、その統計学的手法に対し「神はサイコロは振らない」と言ったといいます。ところがアインシュタインの思いに反し、どうやらこの宇宙全体が神のサイコロの出た目によって生まれたというのが、標準の認識となっています。所詮、我々の存在なんぞは、その程度のものという言い方だって可能なんです。つまり我々の存在自体が「わからない」のです。だから、存在への意味を求める宗教が世界に広まるわけで、その宗教を基盤とした社会だって作られます。その基盤同士の争いが文明の衝突と呼ばれるもので、今やオスマントルコ帝国とビザンチン帝国の争いのように、キリスト教とイスラムが争う世界となっています。こんな地域に、しかもトルコなんて地中海の地震の巣なのに、日本は福島原発事故の原因特定もされず収束もされていないのに、原発を売り込むわけです。自宅の蔵で火事が起きているのに、我が家の蔵は大丈夫ですから蔵を買いなさい、と言い続けて売りまわっているということです。商人の倫理としても「最低」だろうと思うわけです。しかも専門家が何も結論を出していないのに、専門家でもない政治化が大丈夫だという。この安倍晋三の神経って、大飯再稼動を命じた野田佳彦と同じ構造だと思いますね。

暴論を吐く

2013年05月14日 | 日記
自民党は「防衛軍」を作りたいという。そもそも、軍隊って基本的にすべて「防衛」のために存在している。しかし、作られた当初は防衛であっても、それが権益の理解の差によって「自国」だけではなく、権益の生じる海外への侵攻に容易に変わる。日本の太平洋戦争がそれである。国際連盟で日本の都合が通らない事により、孤立化の道を辿った日本は、中国に侵攻した。この行為は中国にとっては侵略以外のナニモノでもない。

日本維新の会共同代表である橋下大阪市長は、侵略という言葉の定義について不明確だと言う。簡単である。侵略されたと思う側が、相手に対して侵略だと言えば、それが侵略なのである。定義云々の問題ではないのだ。

戦争が起きたとする。憲法が改訂されて国防軍が創設されるとする。召集されるのは若い人である。次いで働き盛りの人である。これが実に不条理である。ただ心理的には若い人は死とは対極にあるだけに、逆に容易に死を考える。だから、大儀などと言う言葉を持ち出すと、それに乗っかり簡単に特攻などの要員となる。恒常的に死を身近に感じる高齢者に比べ、死という概念そのものが、あたかも美しいものとして称揚されると、実感無き死に対する憧憬にも似た感情を持つ。

若い世代は、次の時代を作る大切な社会の資源である。生産をするためには必須な力である。むしろ、無為徒食の輩と化した高齢者こそが、実は特攻要因として、あるいは最前線で戦う消耗品としての戦闘員として向いているのではないか。今や日本式の正々堂々などという戦いは無い。無人誘導ミサイルなどが主となる。それは前線というものが意味を成さなくなったもとも言える。その気になれば、世界中どこにでも相手を殲滅するだけなら容易である。多少からだが不自由でも、ロボット化技術があり、老齢による体力の減衰を補完することも可能である。であれば、高齢者こそが兵士として論理的に向いているのではないか。75歳徴兵制度はいかがか。75歳まで病などで亡くなった方は、逆に自分の宗教とは無関係に靖国に祀られるなどという不幸を感じずに健やかなる死を迎えることもできる。勤労者に過重な負担となる高齢者問題も、一挙に解決するではないか。

格差社会

2013年05月02日 | 日記
ユニクロの柳井社長の発言が物議を醸している。格差がいよいよ広がる社会の、ある部分の肯定的発言である。では柳井氏が語る「世界標準」の「格差社会」とは、どのようなものだろうか。

それぞれの土地で生きていくだけの生活を送る人が増える一方で、一部の人たちが利益を得て、金持ちは益々金持ちになる社会である。

こうした金持ちの原資は、企業経営や、その企業の株式を持ち、運用などによって高収益を上げるという社会でもある。原資とその運用によって得られる利益は、莫大なものとなる。その側に居る人には、物質的金銭的にはまさに天国である。

で、天国があれば地獄もある。底辺にある労働者の多くは、困窮の度を増す。年収一億円の人と百万円の人とに分断され、日本が長く描いていた幻想の「中流」は消えてなくなるという話だ。

日本が起こした経済成長は、日本人が一丸となって作り出した「中流社会」が「消費」を支えたためでもある。つまり「消費」させるために多くの企業や、それに連なる政治家、官僚機構が一丸となって幻想の中流社会を作り出した結果とも言える。

それには日本人の特性、あるいは日本人社会の特性もある。右を見て左を見て前を見て後ろを見て右顧左眄しながら突出せず、同じように同じ歩幅で一歩を踏み出す、という社会である。それは軍国少年が軍国主義的教育を、敗戦により経済に振り向けた姿でもあった。戦後の高度経済成長は、かくして軍国主義の隠れた遺物として成就したのである。

世代が変わると考えも変わる。現在は戦後第三世代である。第二世代とも言える私たちの年代は、団塊の世代を中心として、そうした戦後軍国主義的全体主義経済社会の中で生きてきた。軍国主義的世界は、第二世代にまで引き継がれ、エコノミックアニマルと海外から揶揄されながらも、それなりの成果を挙げてきて、いわゆる3Cというような生活家電などが、ほぼ殆どの家庭に完備されるに至る。

実は、軍国主義的経済主義社会の目標は、この段階で達成されたと言える。軍国主義が南方戦線で戦果を挙げた第二次大戦初頭の成功体験が、結局のところ「一億玉砕」「欲しがりません勝つまでは」「兵隊さんは命がけ私たちは襷がけ」などという世界を、敗北が明らかになった時点でも「まだ日本はこんなものじゃない」といい続けてきた結果の敗戦である。なにやら現在の日本経済に対する政治家の発言も、どうやら似ているのではないか。大丈夫なわけ無いだろう、と戦後第二世代、団塊世代の直後の世代の私としては思わざるを得ない。責任ある立場の人間が、周辺環境とは違うことを言い始めた時点で「眉に唾して聴く」のが習い性となっているのである。

柳井氏の発言に話を戻す。困窮する人が増えると、結婚する率が下がる。子供という将来の消費者そのものが減る。更に、多くの第三世界で子供が増えるのは、家庭内での労働力という意味もあるが、婚外子の増加もあるという点がある。つまり、困窮のために女性は体を売る。真っ当な避妊もしないから、望まぬ妊娠・出産も増える。望んでいないから育てられなく育児放棄され、ストリート・チルドレンなどが増える。もちろん、こうした子供たちも自分が生き延びるために、犯罪を犯すようになる。こうした子供が成長しても、彼らが成功を収めるための手段は限られている。最も簡単な方法は、犯罪者の中で成り上がり、大物となっていくことだ。あるいは、そうした大物の周囲に擦寄ることである。こうした連中は消費者足り得るだろう。

そうはならない人たちは、多分子供も家庭も持たぬようになる。消費をしたくてもできない層となる。こうした層の中で様子が良い女性などは、いわゆる高額所得者の「愛人」となる。子供も生むだろうし、真っ当な「旦那」ならば、生まれた子供を認知し、養育する費用も出すだろう。しかし、多分そうはならない。高額所得者にとっては性欲を満たすためだけの様子の良い女性などは取替えが効く。そこで母親は困窮する。子供も同時に困窮する。で底辺には、婚外子が溢れ、ストリートチルドレンが溢れる。優良な消費者とはなりえない。

優良な消費者が減れば、企業は売り上げが減少する。多くの企業が売り上げ減少に直面する。単価を下げなければモノが売れないこととなる。付加価値などと言う話があるのだが、付加価値などという装飾を求める優良な消費者の絶対数が減る一方で、本質的な価値があれば低廉で良いという「企業にとってはありがたくない消費者層」が構築される。実は、この付加価値の否定というのが、現在の日本のデフレではないのか。

私の腕時計は八百円のカシオの腕時計である。セイコーの2002年ワールドカップ記念の腕時計も持っているのだが、電池が切れた。防水機能を持つ腕時計であるだけに、電池交換に札幌だとヨドバシカメラに行って千二百円程度の費用がかかる。防水機能を生かして電池交換するためには、なにやら町の電気屋さんや時計屋さんでは無理で、それなりの設備が必要だと言う。であるならば、使い捨てであっても八百円の腕時計で十分だ、というのが私の思いである。時間さえ分かればよいのである。貧者の発想とは、かくしてこうなるのである。効率的な考え方である。デザインなどは二の次である。時間がわかればよいだけの時計に、きらびやかな装飾は不要ということだ。こうした消費者が増えていて、しかも少子高齢化による人口減少が進む日本である。そこに加えて格差拡大社会である。未来って明るいですか?