くない鑑

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いざ!石和(其の壱拾:真の勝者)

2005年03月21日 | 参陣記
信濃国埴科郡川中島。
現在の長野長野川中島の、その初見は室町中期,信濃村上氏領地としてでした。
それから1世紀・・・その村上氏の当主周防守義清は、他の北信の国人衆と同様、甲斐の武田晴信の圧迫を受け、遂に越後の長尾景虎の下へ奔る。
天文22年のこと。
これが長尾景虎と武田晴信、両勢力がこの地を舞台に、死力を尽くして5度、干戈を交えた一因であります。
その初戦は、北信国人衆の入越直後の同年4月から9月にかけてのこと。
川中島地方(長野盆地:善光寺平)の南端で展開されたこの合戦は、北信国人衆の旧地回復を持って終結する。
その秋、長尾景虎は上洛し、将軍足利義輝公と謁し、宮中に参内して後奈良院より天盃と私敵追討綸旨、いわゆる、かつての朝敵追討の綸旨(治罰綸旨)を賜る。
これは、その戦功を褒め、これを鼓舞して領国内外の敵(=私敵)を追討、鎮定せよ・・・というもので、これにより景虎は天皇家(朝廷)、将軍家(武家の棟梁)の双方より越後国内はもとより、隣国鎮定、即ち武田家追討(更に関東攻略)の“お墨付き”=大義名分を得たに等しいことと言える。
これを得た景虎が北信地方へ進軍したのはこの2年後、武田晴信との直接対峙したこの時は、犀川を隔てて対陣4ヵ月にも及んだ。(今川義元の仲介で和睦が成立して終結)

弘治3年2月
善光寺まで進軍した武田勢を駆逐すべく出陣した長尾勢は、再び干戈を交えるが、既に合戦場は川中島地方の北側にあり、この地での大勢はほぼ武田勢の掌中に帰し、その拠点を新たに築城した海津城に置く。
一方の長尾景虎は永禄4年3月
山内上杉家を継ぎ、関東管領職に就いて、この一連の儀式を出陣先の鎌倉で大々的に挙行し、名を景虎から上杉政虎と改め、この機に川中島地方からの武田勢一掃を図るべく、永禄4年9月、再び川中島へ出陣する。
これが、世に名高く激戦と伝わる第四回の合戦で、普通一般的に“川中島の戦い”といえば、この時のことを指し、今回この石和で、さらにこの縁の地で“再現”されるのも、この折の合戦である。
この折の合戦は、激戦の伝え通りに双方の被害は甚大で、武田方は、武田左典厩信繁・諸角昌清などの多くの大将級を失い、一方の上杉方は多くの兵士を損失した。
故にこの合戦の軍配は双方痛み分け、勝ちのないもの・・・と思われがちですが、軍配は共に「我にあり」と思っていたようです。上杉方の、その一端を窺うことの出来るのが史料の一つが「政虎宛戦賀書状」。上杉政虎に宛てられたこの書状の送り主は、関白近衛前嗣卿。弘治3年の上洛の折、種々の労を取り、あまつさえ、これと意気投合して現任関白の身でありながら越後へ下向した御方。
この時、関東の“首府”下総古河城に居て上杉勢の関東経略の一翼を担っていた前久卿は、その報に接して、家司西洞院左兵衛督時秀を使者にこの書状を送っています。その書きだし・・・

     この度、信州表において晴信に対し一戦を遂げ、大利を得られ、
     八千余騎討ち捕り申し候事、珍重大慶に候。

これを賀して、太刀と馬が献上されている。書中、八千云々というのは少々誇張かもしれないが、「大利」「珍重大慶」云々から、この合戦での勝利と収穫があった、と喜んでいることが窺えます。
なお、この書状は更に、後世特に有名になった合戦中の“出来事”の一文へと続きます。それが・・・

     自ら太刀打ちにおよばれるる段、比類なき次第、天下の誉れに候

これが、今回の“合戦”でも再現された謙信公と信玄公との一騎打ちの論拠の一つ・・・とされていますが、これはあくまでも逸話、俗説の域を出ないもの。
もし仮にそのような事実があったとするならば、これほど上杉勢の意気を高らかにするものはないはず。
それが一史料から、特に関東情勢不安定な折に、これは有効な一手とされるはずなのに為されていないところを見ると・・・そういう結論に辿り着くかと。ただ確実なのは、謙信公御自ら太刀を振るって奮戦されたこと。
これはこの合戦に限らず、多くの合戦で見られ、周知の事実だったようです。

ただ、この永禄4年9月の一戦で実質的な“勝利”したのは、川中島一帯を護った武田勢であり、この3年後の最後の合戦で武田勢は、さらに信越国境までその勢力を及ぼす。(但し、これが最後の“衝突”。)
一方の上杉勢は、この合戦の最中に武蔵松山口へ張陣した北条勢を駆逐すべく、大戦の傷も然程に癒えぬまま、再び自ら越山するが、この時は既に関東諸将の支持を失い、ここに関東経略も頓挫してしまう。
これを受けて、近衛前久卿は失意の中帰洛する。

時は流れて・・・
天正10年夏。武田・織田が相次いで天下の舞台から去り、これで実質空白地となった北信の川中島4郡(高井・水内・更級・埴科)へ進出してきたのは、その敵、上杉景勝。
嘗て、父が武田家と雌雄を決し、“回復”させることの出来なかったこの地に、実に30年越しの悲願を達成させる。
しかし、これも15年程。
会津転封によってこの地を離れざるを得ず、以後領主も次々と変わり、定まることが無かったが、これも元和8年に東信上田から真田伊豆守信之が埴科と他3郡一部13万石余で入封して以後、版籍奉還までの10代250年余真田伊豆守家が領するところとなる。
そして、その居城(政庁)を前代に引継ぎ、海津城改め松城城(正徳元年に松代と改名)に定めるが、ここは永禄4年9月の“川中島合戦”勃発の一因となった、当に曰く付きの城。
その城と地に、父祖伝来の地を離れ、かつてこの合戦に父祖一族の数多が参戦し、死を賭して護り抜いたこの地に入封した伊豆守信之の心境をもし聞くことが出来るなら、是非に。
強かに生き抜き、武田旧臣中随一の出世を遂げて、最後にこの地を得て真田家の礎を成した“勝者”として。

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