【閲覧数】3,859件(2011.12.26~2019.10.31)
こうづきじょう
上月城跡 佐用町上月
▼南から

▼東の山麓より

上月城のこと
佐用町上月は、兵庫県佐用町の西の岡山県境近くにあり、古くから播磨・美作(みまさか)・備前の国境にあった要衝の地に位置しています。その地に上月城と呼ばれる城が2つあります。ひとつは、大平山(たいへいやま)にあるもの、もう一つが、最後の戦いの場となった荒神山の上月城で、ここで紹介する城は、この荒神山の城です。
▼東からの鳥瞰 by google

南北朝以来、室町、戦国の各時代において中世山城が数多く築城されましたが、上月町(現佐用町)だけでも20箇所も確認されています。ただ、それらの築城の歴史ははっきりしていません。
上月氏は赤松一族であり、初代上月景盛から盛忠、義景、景満と伝承されていますが、上月氏の一時期の所領は確認できますが、上月氏と上月城とのかかわりを示すものは見当たらないといいます。
古くから赤松家は播磨・美作・備後の守護職として君臨してきましたが、嘉吉の乱以降、この佐用の上月は山名氏、赤松、尼子等の攻防が繰り返され、天正5(1577)の織田方の秀吉の毛利攻めで、上月城とその周辺で激しい戦いが繰り広げられました。
▼上月城の周辺の城

▼上月城周辺の地図

秀吉にとって、上月城は毛利攻めの最重要拠点でなんとしても落とさねばならない城であり、逆に西の覇者である毛利はそれを許さぬ構えを見せていました。
織田の天下統一の動きの中で、播磨と美作の境にあたる上月城とその周辺での合戦は、短期間に3度も壮絶な戦火をまじえ落城した城として語り継がれ、当時の模様は最後に勝利した秀吉の記録文書にその子細が残され、また毛利家の文書・吉川家の文書等にも残されています。
(参考:「上月合戦~織田と毛利の争奪戦~ H17」)
アクセス
国道373号線でJR上月駅南の踏み切りを渡り、少し南を進んだところに、右(西)山裾に上月城跡と看板が掲げられています。
山麓には、上月歴史資料館が建てられています。車はそこに駐車します。その前の谷川を渡り、登っていきます。
▼上月城跡図 本丸案内板より(一部加筆)

▼ 登山口

登山道は上りやすく整備されています。中腹から東に均整のとれた山が見えます。これが仁位(にい)城跡のある仁位山です。
▼登山道

▼東に見える二位山

途中から北東に上月の町並みが一望できます。また目の前には初期上月城跡のある大平山が、そびえています。
▼上月の町

▼北に並び立つ大平山の上月城

さらに進むと、堀切があります。堀切を登ると、左手に段差のある曲輪が2つあります。
▼堀切 南から

▼堀切 横から

▼最初の曲輪

▼本丸の切岸

この上に、本丸があります。北に向かっておむすび状の形で直径約30mの広さがあります。本丸には、南に向かった墓碑3基が建てられています。
▼本丸


この本丸の南東に曲輪が数段伸び、その先にヤクラ丸があります。今は木々が生い茂って見難いが南方面の展望の好位置にあります。
▼本丸の南

▼ヤクラ丸

本丸から西に続く道を降り、なだらかな細長い尾根筋を進むと二の丸があります
この二の丸の北側に解説板があり、山並みの中に見える利神城を示すイラスト図が紹介されていました。播磨天文台はわかりますが、うす曇のため私の目では利神城はわかりませんでした。
▼利神城(佐用町平福)が望める場所

▼利神城のイラスト 播磨天文台は見えたが・・

細長く延びた二の丸を下っていきます。その先には急な階段が用意されていて、そこを降りてすぐに、堀切があり、少し進むともう一つあります。後方(東)の守りのための大掛かりなものです。

▼二ノ丸の下の堀切


その堀切を抜けると、次の山に抜ける自然道があり、柊神社を通る全長7キロ(3時間コース)の案内板があります。そこに書かれている目高の築地跡は、城の周辺の守りで築かれたものと言われています。
その築地跡は、気になりましたが、次の機会にまわすとして、ここから下山のコースを選びました。
▼下山コース

▼柊神社を通るルートコース

谷あいの杉林の中の登山道を下っていきます。帰りの道筋は城山の北の山麓を引き返すことになり、左下には寄延、目高から流れる谷川に沿いの道に沿って歩きます。
途中、水の手とよばれている谷筋を見ることができます。
▼目高・寄延から流れる谷川

▼城山の北面の水の手

登山上り口の近くには、合戦で亡くなった武将を弔う供養碑が祀られています。
▼登山口近くの供養碑

雑感
秀吉の毛利攻めで、3度も戦いの場となった上月城。上月の円光寺前の佐用川に「戦橋(たたかいばし)」があり、この地に「戦(たたかい)」という地名が今に残っています。それは羽柴軍と宇喜多の援軍との激戦を示した地名だという。
上月合戦には、敵味方双方の多くの武将の命が散りましたが、上月城内に避難していたであろう村人や女子供に対して秀吉による多くの虐殺がありました。そんな歴史も知った上で、2度目の登城をしましたが、そんな悲惨な思いは今の山城からは感じ取ることはできませんでした。
【関連】
上月合戦①
上月合戦②
福原城
上月の地名由来
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