郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 福原城跡

2020-02-27 09:41:43 | 城跡巡り
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 城郭仲間とともに福原城跡に訪れた。本丸や二の丸を一回りするのにもそんなに時間はかからない。城跡は低い丘の平山城で、広い本丸跡は畑地となり、その端に立つと佐用川の南北が見渡せる。この場所は城跡というより佐用川流域を治めてきた政庁的な役割をもった館跡のようにも思えた。


佐用郡周辺の城跡位置図





▼大坪橋から北に向かってのパノラマ写真  左の土手上が城跡




  
▲現在の鳥瞰 (google map)    

     
▲城図(上月歴史資料館展示説明より) 



昭和22年(1947)以降の変化 (国土交通省航空写真) 


▲1947年                                    ▲1975年 

城跡の東側、川沿いに国道が走る 




福原城跡のこと   佐用郡佐用町大坪字福原(現佐用町佐用)  

 佐用川西岸に突き出た丘陵に築かれた標高200m(比高約20m)の平山城。

南北朝の始めの建武年間(1334~38)赤松一族の佐用兵庫介範家が築いたため佐用城ともいわれ、その後福原氏が受け継いだ。福原氏は赤松36家衆の一人で、福原則尚のとき秀吉軍の播磨侵攻による戦いで落城した。




▼宇野氏・赤松氏略系図        





 ▼福原氏系図 (三日月町史より)

  

 



 

▲堀切跡と土塁(南から)     



▲同じ堀切跡(北から) 左に上がると社がある



  

  

▲南から社・本丸を望む        




▲本丸(畑地)から社を望む




 ▲土塁 この上に社がある 


     

▲土塁の上から南東を望む 下の畑地が本丸跡




▲北側の谷間 馬場跡や水堀跡が残る



秀吉軍の播磨侵攻での黒田官兵衛の動き

 黒田官兵衛は、天正3年(1575)6月、御着城主小寺政職の使者として、置塩(おじお)城主赤松則房、三木城主別所長治の叔父、別所重棟(しげむね)と共に秀吉を通じて信長に面会し、中国征伐の先導を約束している。

 天正5年(1577)10月織田信長は毛利攻めのために秀吉を中国征伐の総大将に任じ、播磨と但馬を攻め入るよう命じた。

   官兵衛は秀吉に姫路城を明け渡し、秀吉は姫路城を播磨攻めの本営とした。官兵衛は竹中半兵衛重治等とともに播磨の諸城に出向き織田方につくよう説得を重ね、その約束の担保としての人質をとっていた。同年11月3日に秀吉は播磨一帯を従えたことを信長に報告している。官兵衛自身も、信長に人質として息子松寿丸(長政)を差し出している。



中国征伐の先陣に黒田・竹中軍

 姫路に戻った秀吉は、すぐさま大軍を率いて佐用郡に向かった。佐用郡に織田方に従わない赤松一族がいることがわかったからである。佐用郡は美作・備前に近い交通の要衝であった。当時瀬戸内の制海権は毛利がもっていたため、織田方は毛利討伐には佐用を押さえ内陸部の道を確保する必要があった。秀吉は11月27日官兵衛と竹中半兵衛の3,000余騎を先陣として佐用郡の赤松一族の居城3城(福原城・利神城・上月城)を攻め入った。


その経過が秀吉自身の書状に詳しい。

 佐用郡内の3城のうちの福原城から城兵が出てきたので、黒田・竹中軍が先陣を切り戦闘となり、福原城の兵を数多く討ち取り、秀吉側近の平塚三郎兵衛が城主とその弟を討ち取りひとり残らず討ち果たした。 翌日の11月28日福原城より1里程先の七条という城(上月城)を押寄せ取巻いた。

 ただ、討ち取った福原城主が福原則尚であったかあるいは福原助就であったのか、その裏付けがとれていない。



▼秀吉書状(下村文書)     上月合戦(上月町)より



※黒田官兵衛は御着城主小寺政職に仕え、小寺の苗字を与えられ、一時期小寺官兵衛と名乗っていた



地域伝承

  城主福原則尚は、形勢不利と見て城に火を放って福原氏の菩提寺である高雄山福円寺に逃れ、12月1日一族従士50余人とともに切腹した。その首級を持ち去った従者が秀吉軍に捕まり、首実験されたあと朱詰にして柴谷山頂上に埋葬された。その200年後の明和8年(1771)3月福原の重右衛門が霊夢によって探り当て、旧城跡に葬られた。それが福原霊社で地元で首(こうべ)さんと呼ばれ、頭痛に効く神さんとして信仰されてきた。



▲福円寺にある福原則尚の墓(三日月町史より)


 佐用郡内には赤松一族の数多くの城跡とそれを守る武将たちの名が伝わるが、それを裏付ける資料や文献が極めて少ない。その分伝承や軍記物が残され、戦場での武将の動きまで詳細に語られている。

   ちなみに黒田家の伝記『黒田家譜』では、城主は福原主膳助就とし、その弟が伊王野(いわの)土佐守助光とし、彼らを打ち取ったのは、黒田家臣竹森新次郎次貞とある。

参考:『三日月町史』、『上月合戦(上月町)』、『日本城郭大系』 他



雑 感

「死ぬなれば花の下にと思いしに 師走の花の咲くべくもなく」

 この句碑は、昭和35年4月福原城主藤馬充則尚の400年祭の際、福原氏一族(岡山県勝田郡勝田町大町の子孫)が、福原霊社に建立したものです。勝田町には城主則尚の弟勘解由範仲の墓があるという。

 訳せば「死ぬのは春の花咲く桜の下がいいと思っていたが、師走で死んだのでは花を見ることさえできない」となるでしょうか。先祖が中世の佐用郡福原の地で無念の死をとげたことへの追悼の想いと、この地に名を残した誇りが一族に面々と受け継がれているのではないかと、この辞世の句碑から感じとりました


▼福原霊社 左端に辞世の句碑 

 

※お礼 取材のとき、この城跡近くに住むHさんに親切にお話を聞かせていただき、また資料もいただいたことをお礼申し上げます。


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