郷土の歴史と古城巡り

播磨 上月合戦 ②

【閲覧数】2,326件(2012.1.12~2019.10.31)




上月合戦 ② 

 秀吉は播磨で毛利方の城である上月城を攻略し、尼子勝久に城を与え、戦後処理を済ませると、一旦は自身の居城である長浜に凱旋帰国しました。 


軍記物による伝承(再度の上月落城)

 このあと山中幸盛鹿助(ゆきもりしかのすけ)は12月下旬に城の守りを部下に命じ、京都にいる尼子勝久を迎えに出かけ、それを察知した、毛利の宇喜多直家はその隙に城を落とし、上月十郎が城を守っていたが、3月秀吉は尼子・山中と再開し、上月奪回に乗り出し城を取り囲み攻撃し、宇喜多の援軍も間に合わず落城したとあります。これは、「備前軍記」などに記されているもので、それを裏付けるものがありません。 


~ 播磨の情勢 ~  

◆天正6年(1578)3月、三木城の別所長治が、織田に反旗を翻し、毛利方に寝返ります。この城は京都と姫路を結ぶ重要な街道筋に位置し、西播磨の織田軍の動きを封じられることになり、三木城の攻略が急がれました。

◆4月12日秀吉軍野口城(加古川)を攻め落とします。



1)毛利軍尼子の守る上月城を包囲


◆4月18日、吉川元春(毛利元就の二男)軍3万が上月を包囲しました。

◆4月28日、上月攻口で合戦が行われ、宇喜多軍も参戦しました。宇喜多直家は、この合戦で毛利氏に人質を差し出しています。

 城攻めの様子が吉川元春の書状に記されています。それは最初の上月城の秀吉の攻めを仕返しするかのように、帰鹿垣(かえりししがき)をはじめ、乱杭(らんくい)、逆虎落(さかさもがり)、荒掘等を設け、厳重な攻撃態勢を敷きました。

 そのときの合戦図が『諸国古城之図 浅野文庫』(下図)に描かれており、城の曲輪や掘りとともに、城を取り巻くいくつもの毛利の陣所が記されています。上月城の南の大亀山に毛利の本陣が置かれ、そこから上月城に大筒を発砲したとあります。


▼ 上月 諸国古城之図



2)秀吉軍の援軍高倉山に着陣

▼羽柴秀吉高倉山に着陣



◆5月4日上月城が毛利に包囲されたことを知った秀吉は、荒木村重とともに上月に向かい、高倉山に着陣します。織田信長は、3人の息子、織田信忠、北畠信雄(のぶかつ)、神戸信孝(かんべのぶたか)と弟の織田信包(のぶかね)など一門衆を播磨に差し向けます。このことからも、信長の上月を守ることの重要性を認識していたことがわかります。


3)援護の秀吉軍高倉山麓で苦戦 

◆6月21日高倉山の麓で合戦が始まり、秀吉軍は大敗したようです。この合戦での戦功のあった武将に毛利から感状が出ています。

◆6月26日秀吉軍は、信長の命により三木城攻略のため高倉山を撤退しました。これにより上月城は孤立無援となりました。


4)上月城開城

◆7月5日、山中幸盛が降伏を申し入れ、尼子勝久と弟助四郎が切腹によって上月城は開城となりました。

◆7月10日、山中幸盛は備前松山へ連行され、途中高梁川の合の渡(あいのわたし)付近で殺害されました。このようにして、約2ヶ月の籠城の末、尼子氏のお家再興の夢は潰(つい)えました。 


▼山中幸盛銅像(月山富田城太鼓壇公園内)



▼山中幸盛最期の地 合(阿井)の渡 (岡山県高梁市)


        

5)上月と播磨のその後 

 上月城がその後どのようになったのかは、史実としては明確ではありません。ただこのあとの戦局は美作北部や西部、そして備前・備中国境付近へと進みました。この上月の落城により2年後の天正8年(1580)4月、東に隣接の宍粟郡(宍粟市)山崎町の長水城主宇野祐清(すけきよ)、政頼親子に秀吉軍の矛先が向かいます。赤松一族である宇野氏はこの上月の有様を一部始終知った上で、毛利につくことを最終的に決断したと考えられ、上月城と同じ落城の悲劇の道を歩むことになります。

 天正10年4月からの備前高松城(城主清水宗治)の水攻めの最中の天正12年(1584)本能寺の変により信長が暗殺されました。信長の跡を継いだ秀吉と毛利氏の戦いは、毛利方の中村頼宗が美作岩屋城(岡山県久米町)から撤退するまで7年以上も続きました。  参考:『上月合戦~織田と毛利の争奪戦~』


雑 感

 上月合戦のあと、三木城は2年近くの籠城の末、天正8年(1580)2月に落城、同年5月播磨で最後まで抵抗した宇野氏長水城が落城しました。翌年の天正9(1581)10月鳥取城が落城しています。

 吉川元春の上月開城の様子を記した書状に、宇野一類が現形(げぎょう)したというくだりがあり、長水城主宇野氏は上月の落城によって現形すなわち毛利方につく旗色を明らかにし、そのことは宇野氏が最初から毛利についていたわけではなかったことが伺われる。

 長水軍記によると落城したあと宇野政頼は新免宗貫を頼って竹山城(岡山県大原町)を目指したとあり、それが定説のようになっていますが、竹山城主は上月城合戦に人質を差し出して、秀吉の味方になっており、さらに織田信長から所領を安堵されています。よって落城のあと敵方に身を寄せることは考えられないことになります。
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