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郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 南山田城跡  後藤又兵衛の城

2020-04-23 11:19:42 | 城跡巡り
【閲覧】4525(2015.4.15~2019.10.31)
 
               
 
▲南西から 中央の竹で覆われた丘が城跡
 



▲城跡の周りは道路として削り取られている。 西側の駐車のできるこの場所にはかつて家があったという
 
 

  
 ▲児童公園入り口                      




▲児童公園の南側から  
 


 
南山田城のこと  姫路市山田町南山田  
 
 南山田城は神東郡山田村(姫路市山田町南山田)にあり、後藤又兵衛の出生地とされる。100m四方の小丘の北側に三つの曲輪跡と土塁が残り、南側が南山田児童公園の広場となり、丘のふちは削り取られ道路や住宅地となっている。

 この城跡は、後藤又兵衛基次が居城したといわれ、基次の父基国が16世紀後半に築いたと伝えられている。北方2.5kmには後藤氏の本城春日山城がある。 
 近くにある福田寺(ふくでんじ)は後藤又兵衛及び一族のゆかりのお寺で、境内には父母の供養塔がある。
 
 

後藤氏の本領と蔭山荘
 
 播磨の後藤氏は鎌倉幕府の有力な御家人で、基任のとき、鎌倉幕府より安田・中村・曾我部(多可郡多可町)の三郷を与えられ代々本領として守っていた。基信は文明元年(1470)、赤松政則の宿老浦上則宗によって、本領と蔭山荘半済分を安堵されている。「後藤文書」

 この南山田城や春日山城は鎌倉期~戦国期に播磨国神東郡蔭山荘内にあった。この荘園は九条家領で、守護使不入地となり段銭※以下諸公事が免除されていたが、戦国期には有名無実化し、守護方の給人が置かれ、九条家の荘園支配は衰退化していった。荘域は姫路市砥堀・仁豊野と旧豊富村域・旧山田村域、船津町及び福崎町八千草を含む範囲と考えられている。
 
※段銭(だんせん):中世の頃の税の一種で国家的行事や寺社造営時に臨時的に土地の面積に応じて課税した。
 


 



 
▲城跡前の説明板
 


 
アクセス 
 

▲南山田城周辺図
 
 

 
▲南山田城周辺図拡大  by google earth
 
 

  播但有料道路(船津料金所)と東西に交わる81号線を東に進み、途中右折する。初めてでは少しわかりずらいが、近くになれば児童公園といえばすぐにわかる。北側には南山田の公民館がある。
  公園の左端にある後藤神社の横から上がればすぐで上部は一面竹林となっている。
 
 
 

▲後藤神社の右上から登る            


 
▲うっそうとした竹林の中                       ▲一段下に稲荷が祀られている
  



雑 感
 
 城跡は小丘にありこじんまりとして、周囲を歩いても時間はかからない。そのあと近くにある又兵衛ゆかりのお寺福田寺に立ち寄ると本堂にある又兵衛の位牌を見せていただいた。

 又兵衛ゆかりの地を巡って又兵衛には正方、又市郎という子がいたことを知り、400年たった今も末裔の方々がいて先祖の又兵衛への想いと誇りを持たれていることを感じた。官兵衛に仕えた播磨の武将を身近に感じ興味を覚えた。

 お寺で又兵衛のフォーラム開催のポスターを目にした。又兵衛が大坂の陣で憤死したのが慶長20年(1615)5月6日、ちょうど没後400年にあたる今年の命日に行われる。
 



 
◆後藤一族ゆかりの「福田寺」 (ふくでんじ)
 
  
 
 


  
▲後藤又兵衛の父母の供養塔   
 
  


◆加西にある後藤又兵衛の菩提寺「多門寺」 (加西市尾崎町)
 


▲元和2年(1616)又兵衛の子太良正方が寄付・開山したと伝える 
 

参考:『角川地名大辞典』、「web 落穂ひろい(ふーむ氏)」、他



【関連】
播磨 春日山城 


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