郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「漆野・西下野」

2019-12-17 09:33:51 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「漆野・西下野」

【閲覧数】1,165件(2010.3.23~2019.10.31)



■漆野(うるしの)
千種川上流域の屈曲部に形成された丘陵と後背山地に立地。地名の由来は、往古より漆の木が多く、特に才ノ谷は群生地で良質の漆を生産していたことによると伝える。地内の光福寺に播磨随一の※大イトザクラがあり、樹齢推定300年、根回り4.87m、目通り3m余、高さ13mの大木で、通称播磨一本堂のシダレザクラとして知られている。


光福寺の大イトザクラ



【近世】漆野村
全面積の9.3割が山林で、耕地面積0.7割の中で畑地が6.6割を占め、米麦作のほかは大豆・稗(ひえ)・蕎麦(そば)を作り、副業として薪炭作りや漆の採取などで生計をたてた。

 神社は松尾神社(明治42年中三河の大森神社へ合祀)。寺院は浄土真宗本願寺派光福寺で、播磨一本堂の名で知られる。堂寺は永禄9年(1566)創建、開基は教善という。寛永18年(1641)大火のため消失、元禄9年(1696)再建。寺の縁起によれば、第7世残真が、聖徳太子の夢告をこうむり、千種町の西土井久にあるケヤキの大樹1本で寺を再建したので播磨一本堂という。大樹の幹にあった太子の木像を、本堂に祀ると伝える。寺内で見渡せる40数本の柱はすべて四方柾で心部を使ったものはない。

【近代】漆野
従来米麦・大豆作などと薪炭作り、漆取などで生活をたてていたが、明治中期頃より優良種牛導入による蓄牛の品種改良・増殖と養蚕に力を入れた。近年までは漆の木の樹皮に傷をつけ、樹液を竹の筒に受けて採集する風景も見られたが、桑園になるような所は漆の木を伐採し桑畑の栽植に変えたため、現在はほとんど漆の木の姿は消えた。また、クヌギの補植を奨励し、薪炭・材木生産による林業を期した。





■西下野(にししもの)
千種川上流の河谷に位置する。地名の由来は、三河谷の下にあり、原野が多かったことによると思われる。なお、西を冠したのは郡内の同地名と区別するため、地内字金屋で計5基のたたら場が発見され、炉の周辺から出土した多数の土器などから8世紀初頭の製鉄遺跡であることが確認された。山腹西向緩斜面を断面L字形・平面角丸方形に掘削した基盤面をもち、また柱穴の確認により約25㎡の平坦面に堀立柱の覆屋があり、炉を設けていたと推定される。

【近世】下野村 江戸時代には、耕地の6割は畑地で、耕地面積は当地の7%、多くは水田となりにくい原野であった。文政8年(1825)作州・播州の百姓一揆では、三河谷の百姓たちが当村の庄屋へ詰めかけ、田の中にて多人数で薪を持ち出し、11~12ヶ所で「火を焚き飯を致しなすよう彼是申す所」を中心人物3~4人召し捕られて鎮定(庄屋公私用日記)、

 神社は若王神社(明治43年中三河の大森神社に合祀)。旦那寺は主に漆野村の光福寺。ほか地内の観音堂がある。正業は米麦作や、畑作の大豆・稗・蕎麦のほか、タバコの生産も行われていた天明3年の文書にある。また作間稼に薪炭をつくり下徳久の久崎から高瀬舟で出荷した、明治8年西下野と改称した。
 ※明治8年に宍粟郡内に下野が2か所あり、三河谷の下野を西下野と改称し、山崎蔦沢谷の下野は東下野と改称した。

【近代】西下野 従来米麦・大豆・タバコ作りと薪炭作りを主としてきたが、明治中期頃より種牛優良種の導入による品種改良・増殖と養殖に力を入れた。特に養蚕業は明治33年山崎町の製糸工場が、大手の郡是製紙に買収され、事業が拡大されるに伴って飼育家数・飼育量ともに増大した。また林業にも力を入れ、大正6年クヌギの補植を奨励した。





◇今回の発見
・漆野は、漆の群生地があった所で、近くで漆の採取が行われていた。漆器は、日本の伝統文化の一つ。その細工には蒔絵(まきえ)・沈金(ちんきん)・螺鈿(らでん)などがあり、山崎には蒔絵師による伝統文化が今も続く。
・西下野遺跡は、古代製鉄跡の創業年代が不明のものが多い中で、土器(奈良時代初期)とともに見つかり、年代判定ができた数少ない例という。
・千種川では、下徳久の久崎から高瀬舟が出ていたという。


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