岡山県総社市にもう一つの宍粟(3)
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総社市の「鬼ノ城(きのじょう)」とたつの市新宮町の「城山城(きのやまじょう)」は同じ朝鮮系古代山城です。ではこの山城は誰が何のために築いたのでしょうか。
日本書紀に古代山城の築城の記録
7世紀に入って、東アジアは、戦乱の時代となりました。朝鮮半島では(660年)に、唐・新羅(しらぎ)連合軍の攻撃によって百済(くだら)は攻め滅ぼされ、それを機に、朝鮮半島に進出していた倭国は、白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)で、唐・新羅連合軍に大敗しました。
倭国は、敵国の侵攻を恐れ、その備えのために、西日本の要所に多くの朝鮮式山城を築城しました。そのことは「日本書紀」に記されています。一方、記録にはありませんが、朝鮮式山城と同種遺跡の古代山城(神蘢〈こうご〉石系山城)が16城あり、鬼ノ城・城山城もその中の一つです。
▲倭国防衛のために築かれた古代山城
吉備・播磨の2国を管轄した吉備大宰石川王
今日、これらの古代山城の残るのが、いずれも7世紀後半に大宰(おおみこともち)、総領によって管轄された地域です。大宰・総領は主として西日本(筑紫・吉備・周防・伊予)に派遣され、一国単位の国宰(くにのみこともち)(国司)に対し、複数の国をまたいで軍事的な役割を持った官職のようで、筑後の大宰府以外は大宝令制定に伴って廃止されました。
播磨国風土記の※揖保郡広山里条は、石川王という人物にまつわる地名説話を伝えており、ここでの石川王の官職は「総領」ですが、彼は「日本書紀」にみえる「吉備大宰石川王」(天武天皇8年<679>三月己丑条)と同一人物と考えられています。吉備大宰が吉備のみならず播磨を管轄しているとすれば、備中の「鬼ノ城」と播磨の「城山城」に共通点を見出せるのです。
※風土記の揖保郡広山里の条に、吉備太宰石川王が、もとは握村と呼ばれていた地名を広山里と改名したということが記されています。広山の里はたつの市誉田(ほんだ)町広山を中心とした地域とされています。
交通の要所 古代官道とみなされる美作道と山陽道
城山城(たつの市新宮町)の東から北へ播磨と美作さらに山陰地方を結ぶ美作道が通り、この道路には宍粟郡で産出される鉄の輸送路として機能していた官道の可能性があるという。さらに城山城の南尾根を進むと、その山麓には山陽道が東西に走っています。二つの歴史的重要な交通路に立地しています。
城山城の東のふもとの揖保川流域は6世紀に越部屯倉(こしべのみやけ)が設置され、大和政権の重要拠点となっていました。その設置に渡来系移住民の力があったことは、ドーム状天井をもつ馬立古墳群が物語ります。
※屯倉(みやけ):大化前代における朝廷の直轄領および直轄の農業経営地。
まとめ
吉備の宍粟・播磨の宍粟は、その古代の地はともに鉄を生み出す文化を有し、吉備の政権の勢力が播磨の加古川まで延びていたこと。両国が広域に統治され、それぞれに朝鮮系の山城が建てられていたことがわかりました。宍粟郡は「播磨国風土記「」には宍禾郡(しさわのこおり)と記され、もとは揖保郡に属し、大化の改新後に揖保郡から独立して一郡になったとも記されています。
このような背景を踏まえたうえで、大胆な仮説を立ててみました。
吉備の国が大きな勢力をもち全盛期には播磨の国の加古川まで勢力を延ばし、播磨西部の平野部に及んでいたことが古事記の説話で示されるとともに、播磨の豪族の中には、吉備との同族伝承が語り継がれています。
播磨国宍粟の豪族が吉備の国の一豪族と姻戚関係をもちその宍粟一族の村として残されたものか。もしくは、大和政権が国を支配するようになり、吉備大宰石川王が吉備と播磨を治め、吉備の国の開発や利権を求めて、播磨宍粟の山部(やまべ:朝廷直轄の森林資源や鉄を管理する職)の率いる集団もしくは、川入部として漁業を得意とする集団がこの地に呼び寄せられ、そのあと定住した可能性が考えられないだろうか。
参考:「風土記からみる古代の播磨」「兵庫の中の朝鮮」「日本の歴史 大王から天皇へ」「新宮町歴史資料」他