郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

岡山県総社市にもう一つの宍粟(3)

2019-10-21 21:14:15 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
岡山県総社市にもう一つの宍粟(3)
 
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  総社市の「鬼ノ城(きのじょう)」とたつの市新宮町の「城山城(きのやまじょう)」は同じ朝鮮系古代山城です。ではこの山城は誰が何のために築いたのでしょうか。

日本書紀に古代山城の築城の記録

  7世紀に入って、東アジアは、戦乱の時代となりました。朝鮮半島では(660年)に、唐・新羅(しらぎ)連合軍の攻撃によって百済(くだら)は攻め滅ぼされ、それを機に、朝鮮半島に進出していた倭国は、白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)で、唐・新羅連合軍に大敗しました。
 倭国は、敵国の侵攻を恐れ、その備えのために、西日本の要所に多くの朝鮮式山城を築城しました。そのことは「日本書紀」に記されています。一方、記録にはありませんが、朝鮮式山城と同種遺跡の古代山城(神蘢〈こうご〉石系山城)が16城あり、鬼ノ城・城山城もその中の一つです。



▲倭国防衛のために築かれた古代山城

 
吉備・播磨の2国を管轄した吉備大宰石川王

 今日、これらの古代山城の残るのが、いずれも7世紀後半に大宰(おおみこともち)、総領によって管轄された地域です。大宰・総領は主として西日本(筑紫・吉備・周防・伊予)に派遣され、一国単位の国宰(くにのみこともち)(国司)に対し、複数の国をまたいで軍事的な役割を持った官職のようで、筑後の大宰府以外は大宝令制定に伴って廃止されました。
 播磨国風土記の※揖保郡広山里条は、石川王という人物にまつわる地名説話を伝えており、ここでの石川王の官職は「総領」ですが、彼は「日本書紀」にみえる「吉備大宰石川王」(天武天皇8年<679>三月己丑条)と同一人物と考えられています。吉備大宰が吉備のみならず播磨を管轄しているとすれば、備中の「鬼ノ城」と播磨の「城山城」に共通点を見出せるのです。

 ※風土記の揖保郡広山里の条に、吉備太宰石川王が、もとは握村と呼ばれていた地名を広山里と改名したということが記されています。広山の里はたつの市誉田(ほんだ)町広山を中心とした地域とされています。

交通の要所 古代官道とみなされる美作道と山陽道





 城山城(たつの市新宮町)の東から北へ播磨と美作さらに山陰地方を結ぶ美作道が通り、この道路には宍粟郡で産出される鉄の輸送路として機能していた官道の可能性があるという。さらに城山城の南尾根を進むと、その山麓には山陽道が東西に走っています。二つの歴史的重要な交通路に立地しています。
 城山城の東のふもとの揖保川流域は6世紀に越部屯倉(こしべのみやけ)が設置され、大和政権の重要拠点となっていました。その設置に渡来系移住民の力があったことは、ドーム状天井をもつ馬立古墳群が物語ります。

 ※屯倉(みやけ):大化前代における朝廷の直轄領および直轄の農業経営地。

まとめ

 吉備の宍粟・播磨の宍粟は、その古代の地はともに鉄を生み出す文化を有し、吉備の政権の勢力が播磨の加古川まで延びていたこと。両国が広域に統治され、それぞれに朝鮮系の山城が建てられていたことがわかりました。宍粟郡は「播磨国風土記「」には宍禾郡(しさわのこおり)と記され、もとは揖保郡に属し、大化の改新後に揖保郡から独立して一郡になったとも記されています。

このような背景を踏まえたうえで、大胆な仮説を立ててみました。

 吉備の国が大きな勢力をもち全盛期には播磨の国の加古川まで勢力を延ばし、播磨西部の平野部に及んでいたことが古事記の説話で示されるとともに、播磨の豪族の中には、吉備との同族伝承が語り継がれています。
 播磨国宍粟の豪族が吉備の国の一豪族と姻戚関係をもちその宍粟一族の村として残されたものか。もしくは、大和政権が国を支配するようになり、吉備大宰石川王が吉備と播磨を治め、吉備の国の開発や利権を求めて、播磨宍粟の山部(やまべ:朝廷直轄の森林資源や鉄を管理する職)の率いる集団もしくは、川入部として漁業を得意とする集団がこの地に呼び寄せられ、そのあと定住した可能性が考えられないだろうか。 

参考:「風土記からみる古代の播磨」「兵庫の中の朝鮮」「日本の歴史 大王から天皇へ」「新宮町歴史資料」他





岡山県総社市にもう一つの宍粟(2)

2019-10-21 21:01:08 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
岡山県総社市にもう一つの宍粟(2)

               閲覧数4,947件(2011.6.287~2019.10.21)


発見! 岡山県総社市にもう一つの宍粟の地名 (その2)

 岡山県総社市宍粟と兵庫県宍粟市の宍粟は、播磨国風土記や正倉院文書に出てくる古い地名で、偶然ではなく、なんらかの繋がりがあったに違いないと考え、机上ですが、そのつながりを探ってみました。

奈良時代の吉備の国の宍粟

 吉備の国の宍粟は、高梁(たかはし)川中流域にあります。上流には鉄穴(かんな)流し跡地が広く分布しており、鉄を生み出す技術が朝鮮からもたらされたと考えられています。この高梁川は岡山でも有数の鮎漁の川で、宍粟市の揖保川のそれとまったく同じです。宍粟は高梁川の中流で大きく蛇行した河の左岸(北)にある集落です。かつてこの川流域で多くの川人部が生業を営んでいたのであろうし、村の背後の山々では猪・鹿の狩猟もさかんであったと思われます。高梁川の蛇行がもたらした肥沃な地には古くから稲作が行われてきたと考えられ、その温暖な地とその生活環境は宍粟の南部にとても似通ったところがあります。
賀夜郡白羽郷宍粟里の「賀夜」は、朝鮮半島南部に分立していた諸国の総称の「※伽羅(から)」「伽耶(かや)」に通じ地名にも渡来人の土着の証が残されています。
※任那(みまな)は伽羅(伽耶)諸国中の金官国の別名。「日本書紀」では諸国を総称して任那と呼んでいる。

▼5世紀の東アジア


総社市の北東に古代山城「鬼ノ城(きのじょう)」

総社市の北東には、古代の朝鮮式山城といわれている鬼ノ城があります。吉備高原の南端に位置し、標高400mの鬼城山に築かれています。城壁の長さは鉢巻状に2.8kmに及び、その巨大さに圧倒されます。ここに住んでいたといわれる百済の王子と称する「温羅(うら)」という鬼がいて、鬼ノ城を舞台に悪行をした伝説があり、それをモチーフとして桃太郎の鬼退治の話ができたといわれています。




 この城の眼下には造山(つくりやま)古墳群(墳丘の長さで全国4位)をはじめ多くの古墳が見られ、倭政権に対峙する大豪族または吉備政権があった可能性があります。

※鬼ノ城のこと
 鬼ノ城は昭和46年偶然の山火事によって山の全貌が見え、その調査が民間研究に始まり、本格的な学術調査が始まったのは昭和53年のこと。そして、昭和61年3月に鬼ノ城山が国指定史跡となりました。総社市は平成13年度より史跡整備に着手しています。

揖保郡新宮町(現たつの市新宮町)に古代山城「城山城」

 その同じ朝鮮式古代山城が宍粟市の南に隣接しているたつの市新宮町の「城山(きのやま)458m」にあることがわかりました。城山城は※嘉吉の乱の舞台となった中世の山城で有名ですが、この山城には朝鮮式と考えられる古代山城の門の礎石や石塁などの古代の遺構が残っています。※嘉吉の乱(かきつのらん):室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨守護赤松満祐(みつすけ)が室町幕府6代将軍足利義教(よしのり)を暗殺した事件。暗殺の後、播磨に下り、城山城で幕府方追討軍に敗れ自害しました。

▼城山城の礎石・石塁




 さらに、この山のふもとには、渡来人の関わったと考えられるドーム型の横穴式古墳「姥塚(うばづか)古墳」があります。古墳と古代山城の関係がどうなのかが注目されます。

▼姥塚古墳


・新宮町※馬立(うまたて)の山麓に22基の馬立古墳群がある。姥塚古墳はその代表

 では、誰が何のために、城山城をこの場所に築城したのかを見てみると、それがどうも岡山県総社市の「鬼ノ城」との結びつきが見えてくるのです。

参考 『風土記からみる古代の播磨』、『兵庫の中の朝鮮』他


➡ 岡山県総社市にもう一つの宍粟の地名(3)につづく

 



岡山県総社市にもう一つの宍粟(1)

2019-10-21 20:48:27 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
岡山県総社市にもう一つの宍粟(1)
                                                  閲覧数2,697件(20011.6.24~2019.10.21)


発見! 岡山県総社市に宍粟の地名 (その1)


宍粟の地名が、兵庫県の西隣の岡山県総社市にもあることを、昨年その近くを通ったときに宍粟と書かれた標識を偶然見つけました。宍粟市から山陽自動車道で120km地点の所要時間約2時間のところにあります。住所は、岡山県総社市宍粟(しさわ)で、総社市の北のJR伯備線豪渓(ごうけい)駅の周辺の地にあたります。







   その総社市の宍粟を地名辞典(岡山県)で調べたところ、
 [古代] 奈良期に見える里名。備中国賀夜郡日羽郷のうち。
地名は、宍は「しし」で肉と同意義、粟は沢(多)が変化したものという。(吉備郡誌)

  天平11年(739)の備中国大税負死亡人帳(正倉院文書)に次のように出ています。
「宍粟里戸主川入(部脱カ)麿口川入部大伴、拾束」

兵庫の宍粟は郡(こおり)で、岡山の宍粟は賀夜郡白羽郷の次の村単位なので、規模はちがいます。町と自治会(一集落)ほどの違いがあります。

宍粟の宍と粟
〇宍は「しし」で猪や鹿の肉を表し、この字がつかわれているのは宍道湖(島根)、宍喰(徳島県)、宍崎(高知県)、宍甘(岡山県)、宍戸(茨城県)など、数えるほどしかありません。
〇粟は禾とも書かれ、穀物の意味です。この岡山の宍粟の粟は、沢の変化したものと解釈している。

   古墳時代の4世紀から5世紀の吉備の国には新羅(しらぎ)・百済(くだら)・高麗(こうらい)の鍛冶・土木・工芸等の文化が渡来人によりもたらされた地域で、鉄を生み出す技術とそれをもつ種族が豪族として大きな力を蓄え、勢力を拡大し、倭政権(大和政権)に対峙する力を持っていました。


➡ 岡山県総社市に宍粟の地名(その2)につづく

 


地名の由来「山崎・一宮・波賀・千種・安富」

2019-10-21 16:35:10 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名の由来「山崎・一宮・波賀・千種・安富」
                                         
                                                          閲覧数2,072件(2009.11.19~2019.10.21)


   平成の大合併(平成17年4月1日)前の宍粟郡内の5町「山崎・一宮・波賀・千種・安富」の各町名の由来です。
 この各町は昭和の合併(昭和30年~35年)に誕生し、平成17年3月31日に宍粟市(安富町を除く)に移行しました。


山崎】 山崎町の町名の由来

    戦国時代末期、木下勝俊の領地として山崎村・山田村をあわせて山崎町が誕生した。重なり連なる山々の崎の意味で、古くからの古称である。明治22年町制施行にあたって町名とし、昭和30年7月20日に新町の名に移行した。



【一宮】 一宮町の町名の由来

   古代よりこの地に鎮座する伊和大神を祭神とする伊和神社は、播磨の「一宮」として世人に親しまれており、その由緒ある名を冠し昭和31年9月30日、新生の町の名とした。



【波賀】 波賀町の町名の由来

    昭和31年9月30日、西谷村・奥谷村が合併して生まれた新町の名称で、地域住民より募集してつけられた「波賀」の音韻は、「播磨風土記」の逸話に由来しており、平安鎌倉期にも荘園や城の名に用いられている。
波賀:揖保川支流引原川(ひきはらがわ)流域に位置する。


〔古代〕 波加村  奈良期に見える村名。播磨国宍粟郡(しさわのこおり)のうち「風土記」に宍禾郡雲箇里(うるかのさと)のなかに波加村が見え、神が国土占拠を争った時、天日槍命(アメノヒボコ)が伊和大神より先にこの地にいたったので、伊和大神はこれを怪しみ、「度(はか)らざるに先に到りしかも」と言ったため、波加村と名付けられたという。

〔古代〕 伯可荘 平安時代末期に見える荘園名。宍粟郡のうち。宝永5年の「宍粟郡誌」に、上野村他8か村を俗にはかの庄という、とある地域で、揖保川の源流の一つの引原川と、支流斉木川との合流点付近を中心とする。現在の波賀町南部を占める地域に成立した荘園。風土記に出てくる雲箇里に波加村、少し後の、平安時代には、荘園名として、伯可荘、俗にはかの庄と呼ばれていた。

〔中世〕波賀 戦国期に見える地名  (伊和神社文書、安積文書に波賀名の記載あり)

ひょうごの地名(吉田 茂樹著)には、「ハカ」というのは、風土記の説法は論外として「ハカ(崖地)」の意とみられる。崖地ことに崖くずれを生じた土地に用いられる古代の用法であった。とある。



【千種】 千種町の町名の由来

  「播磨風土記」の「草ヲ敷キテ神ノ座ト為ス、故「敷草トイフ」から「敷草」の地名となり、後「千草」、さらに明治22年の村制の施行で「千種村」となった。千種町は昭和35年1月1日の町制施行による名称である。



【安富】 安富町の町名の由来

   昭和31年7月1日、旧安師村・富栖村が合併して発足した新町で、両村の頭文字を一字ずつあてて命名。昭和23年4月1日設置の両村の組合立中学校にすでにこの名が冠せられており、町民になじみのある名であった。

                  
平成17年4月1日に宍粟郡5町のうち安富町を除く、4町が合併し宍粟市となる。各町名は大字として、住所に残る。

▼明治・大正・昭和の町村合併・再編図


一枚の写真「上水道配水池遠景(最上山)」

2019-10-21 14:57:36 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
最上山の上水道配水池遠景  
                 閲覧数2,079件(2011.8.3~2019.10.21)


宍粟市山崎町今宿の山崎上水道浄水場からの水が、この配水池まで送られ、麓の山崎地区へ配水されていた。

▼ 配水地からの南東部の展望 上方左の煙突は郡是製糸工場


※いづれも昭和10年代


▼配水池跡 今は墓地になり、門柱だけが残っている。