郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

昭和の街角「馬力とボンネットバス」

2019-10-30 18:26:55 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
昭和の街角「馬力とボンネットバス」

                閲覧数1,104件(2009.11.17~2019.10.30)

  こんな時代もあったねと・・・昭和の時代を切り取った一枚の写真


▲昭和30年頃の山崎東和通り 馬力(荷馬車)とボンネットバス


▲懐かしい馬力(荷馬車)


 馬力は、毎日一宮町から山崎町間を往復し、地域の注文の品を買いつけ配達する仕事。「常便さん」と呼ばれ地域住民に親しまれていた。
 馬には一定のところで、えさを与えていた。立ち去ったあとには、馬糞がてんこもり。残された糞は乾いて風で飛ばされて無くなる。そんな長閑な時代でした。飼葉桶(かいばおけ)に、切り藁(わら)と糠(ぬか)をまぶして熱湯をかけたものなどを餌にしていたようだ。

 国道29号線や南光・山崎線が整備される前は、狭い街中をバスが走っていた。街中の道は城下町の名残りが残り、 鍵型道路(鍵の手) 、食い違い道路で見通しが悪く、家のひさしに当たることもあった。


※「宍粟のあゆみ」、「絵で見る郷土史やまさき」、「目で見る 宍粟の100年」より

ここにもあった三丁目の夕日「昭和27年頃の山崎町(商店街)鳥瞰図発見‼」

2019-10-30 13:02:00 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
ここにもあった三丁目の夕日
「昭和27年頃の山崎町(商店街)鳥瞰図発見‼」

                 閲覧数2,023件(2009.12.8~2019.10.30)




▲これは、「宍粟1952 宍粟地方事務所編」に紹介されていたもので、店並み調は山崎小学校児童調とあります。

 山崎町版「三丁目の夕日」さながらの店並み。記憶の片隅に追いやられていく当時の思い出を再び取り戻してくれます。戦前戦後生まれの諸兄には、非常になつかしい商店街図です。

 山崎町史(近現代第6章商工業の推移)にもこの図が出ていることがわかりました。しかし、図が小さくて字が読めない。その意味で、実質の初公開となるでしょう。
※見やすくするために、鳥瞰図と街並みのみにしています。

宍粟郡民病院

2019-10-30 12:17:56 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
宍粟郡民病院    宍粟市山崎町鹿沢

                                                       【閲覧数】1,432 件(2009.12.1~2019.10.30)


昭和期の組合立宍粟郡民病院


▲ 昭和50年に博愛病院が買収され、組合立宍粟郡民病院として開設された。 この写真は玄関が南にあるころの写真です。



▲ 博愛病院の頃 昭和23年


宍粟郡伝染病棟(昭和59年に廃止)



平成17年(2005)の公立宍粟総合病院


写真:「宍粟のあゆみ」より

地名の由来「北魚町・大歳町・鴻ノ町・旭町」

2019-10-30 11:44:34 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名の由来「北魚町・大歳町・鴻ノ町・旭町」



■北魚町(きたうおまち)

【近世】江戸期~明治4年頃の町名。城下町のほぼ中央に位置する。神社は、恵比寿神社。初戎には、近郷からの参詣客でにぎわう。寺院は、浄土真宗本願寺派明源寺。
 地名の由来は、魚をあつかう職業町。文化14年(1817年)の町家配置図には、魚屋の他、油屋、紺屋等の名のつく町屋が並ぶ。

■大歳町(ださいちょう)  大才町とも書く

 文化14年(1817年)の町家配置図には、城下町北部山麓の東面に5寺があり、大歳町はその前(東側)に位置する。町場が発展していく中で、庄能から分離し成立したようである。庄能の小字に「大歳(おおとし)」がある。上寺の小字にも「大歳廻り(おおとしまわり)」がある。小字の読みが「おおとし」になっているが、読みが「ださい」と変化したものと推測される。西には、千年藤で有名な大歳神社がある。
 地名由来は、地図にもある大歳神社に由来するのではないかと思われる。

■鴻ノ町(こうのちょう)

 同町家配置図にある城下町の北の番所、富土野町の北隣りにあたり、畠地とある。大歳町と同じく、庄能から分離し成立したようである。庄能の小字に鴻野、鴻野口がある。

■旭町(あさひまち)

 この旭町も、同じく庄能から分離し成立したようである。北部は現在の庄能(庄能南)に接している。