郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

但馬 城ケ腰城跡

2020-05-08 09:55:06 | 城跡巡り
【閲覧数】1,857 (2016.6.23~2011.10.31)




宮本城砦群の中どころにある城ケ腰跡を紹介します。



 

 ▲宮本城砦群 大屋町史より
 
 




城ケ腰城跡  養父市大屋町宮本字城ケ腰 
 

 城ケ腰城跡は宮本川右岸に沿って北から南に張り出した尾根先端部(標高230m、比高40m)に位置する。城域は幅約50m長さ約150mあり、尾根筋上に築かれた単郭式の小規模な城跡である。

 主郭は幅約9m、長さ約47mあり、両端に堀切を持つが、最初の堀切は幅13m、深さ6~7mと深く、背後のものは幅7.3m、深さ4m。東側と背後に3つの竪堀を備えており尾根筋の守りと東側面の防備を固めていることがわかる。

 城主は不明。この城は南北朝期に築かれ戦国期に補強・改修されたと考えられている。この城の役割は宮本川上流の建屋につづく街道を押さえていたと考えられる。高取城とは谷を隔てて並びにあり、互いに連携をとりあっていたにちがいない。城ケ腰城と高取城の背後には宮本高城が控えている。
 
 


 
  アクセス
 
 
 



 宮本公民館から宮坂橋を渡って御井神社に向かうと神社の参道入口に鳥居がある。その対面の石垣の横の道が腰ケ城跡の登城口になる。
 


   
▲登城口                         ▲上からの写真                   
 
 


坂を上ると小さな青色のお堂がある。そのお堂の手前のやや急な杉林を登っていく。
 
 

 
 ▲よく見るとお堂(札所)                           ▲お堂手前の杉林に這い登る
 


 
 ▲上部                                 ▲最初の曲輪跡
 
 

 少し登るとこんもりとした曲輪跡に至る。そこからなだらかな尾根筋を50mほど歩くと堀切が現れる。かなりの深さだ。
 
 

 
 ▲先に堀切が見える                            ▲堀切
 


その堀切の上部が主郭である。
 
   
  
▲主郭から南西を見る                            ▲尾根が奥に延びる
 
 

奥行きのある主郭の背後にも堀切がある。
 



 
▲主郭背後の堀切(上部から)                          ▲堀切(堀切底から)     




▲主郭の背後 尾根がつづく
 
 


雑 感
 
 この城の比高はわずか40m。尾根の先端にたどり着けばあとは尾根を進むだけ。長くなだらかな尾根筋上に築かれた山城なので、堀切がなければ城跡だとまず気が付かないだろう。
 あとから思い起こそうとしても、木々が生い茂り薄暗くただ細い尾根の距離を感じただけで堀切以外は印象が薄かった。

 この城ケ腰城と並びの高取城は尾根先端の低い城、そのためこの2城を統括・補完する城「宮本高城」が背後に陣取っていることを後に知ることになる。

 
次回は、宮本城砦群のもっとも高い位置にある宮本高城を紹介します。

 
※参考:大屋町史


城郭一覧アドレス


但馬 高取城跡

2020-05-07 10:00:29 | 城跡巡り
【閲覧数】972( 20116.6.10~2019.10.31)   
 
 


 大屋町宮本集落の北側、宮本川の東岸(右岸)の丘陵頂部から南方尾根上に城郭群が張り巡らされている。三つの尾根の先端部にそれぞれ城砦を設けているが、高取城跡は、宮本川と明延川の合流地点に近く位置し、明延川沿いに走る県道6号線に接する。
 


 
 
▲高取城跡全景 県道6号線沿いにある
 



▲宮本城砦の配置図  高取城跡は西(右)端
 


 
▲宮本城砦群
 
 


 
高取城跡  養父市大屋町宮本字高取
 
 明延川と宮本川の合流地点に近く、宮本集落の北側で宮本川右岸に迫る山麓の西先端部(標高320m、比高40m)に位置する。 城主は不明である。尾根上を二つの堀切・竪堀で切断し、主郭(9.6m×22.4m)の下に二つの曲輪をもち曲輪間の高低差は5m~6m、切岸も明確で今もなお原型を留めている。宮本城砦群にあっては見張りに重点に置いた小規模な城郭である。

 立地場所は、播磨(宍粟市一宮町)に続く明延の街道と、宮本川に続く養父市建屋(たきのや)への街道の分岐点に位置し、二つの街道を押さえていたのであろう。
 参考:大屋町史
 
 


アクセス

高取城縄張り図 (着色加える) 大屋町史より


 


 宍粟市からでは国道29号線を北上し、途中一宮町安積で右折し県道6号線を走り一宮町富土野峠を越えて、大屋町明延、須西、門野そして宮本に至る。約1時間と少しの場所である。城跡は県道筋なのですぐにわかるはず。駐車場は宮本公民館が利用できる。御井神社方面(宮本川沿いの道)を少しばかり行くと右手にある。宮本城砦の探索はここから始まる。
 


   
▲御井神社案内板        ▲宮本公民館
 


高取城跡への登城口は都石塚の記念碑の右横から登っていく。登山道はなく、急崖で足場が悪いがすぐに登れる。
 

 
 
▲都石塚の記念碑 ここから登城する             ▲登城口 
 

  
▲上部                           ▲凹凸が見える


 
▲堀切(上部から)                         ▲堀切
 
 
 
▲曲輪が段階状につづく
  


▲主郭の下の曲輪跡 主郭より広い
 


堀切から3つの小山状の曲輪を登っていくと主郭に至る。主郭の奥には岩塊がある。その先は高低差のある堀切が尾根筋を遮断している。その先は尾根筋が続き、高杉高城跡に続く。
 

 
 
▲主郭の先から下を見下ろす           




 ▲主郭              
 


▲主郭の奥の岩塊
 


 
▲主郭の背後に高低差のある堀切              ▲その先は尾根筋が続く
 
 

 
雑 感
 

 この高取城は小規模で単純ながら造りはしっかりしていてお気に入りです。
山麓からは樹木に覆われて今は何も見えないが、中世・戦国期には明延川の街道からこの城の曲輪の段は直ぐに目に入っただろうし、背後の山全体が城砦としてにらみを利かせていたに違いない。特に播磨一宮町の富土野峠からの侵入を意識していたのではないかと思う。
 

次回はこの高取城の並びにある城ケ腰城跡です。
 
 
◆城郭一覧アドレス



但馬 男坂城跡

2020-05-06 10:33:10 | 城跡巡り
【閲覧】829(2016.11.6~2019.10.31)     
 



▲男坂城跡全景  南から
 


 
 ▲鳥瞰   (by google)
 





 男坂城跡のこと   養父市大屋町宮垣天神山



 男坂城跡は、大屋川左岸(北岸)に張り出した尾根の先端部(標高130m、比高約30m)にある。男坂神社の本殿のある最上部に主郭(東西30m×南北28m)があり東に2段の帯曲輪と曲輪(41m×23m)跡が残る。主郭背後には尾根筋の侵入を防ぐための堀切があったが、近年の撹乱により破壊されている。城主は不明だが、対岸の三方城の三方氏の一族と思われる。

 尾坂城は三方城の出城・支城として三方城と川を挟んで、東の大屋口と北の琴弾峠からの侵入路を押さえていたと考えられる。 

 主郭には男坂神社が祀られている。住所地名が字天神山とあり、北裾を流れる谷川は天神川、大屋川に掛けられた橋は天満橋と天神さんゆかりの地名・名称が残されている。これは、江戸時代に出石藩封内明細帳に天神社とあり、もともと天神社として祀られていたものが明治3年(1870)に男坂神社に改称されたからである。
  参考:
 

男坂城縄張り図   大屋町史より
 



アクセス
 
 大屋川に沿いの県道6号(養父宍粟線)で宮垣集落に入れば北岸に尾坂神社があるのですぐわかる。北からの場合は琴引トンネルを抜け県道との交差点の左手すぐである。
 
 
 
   
▲神社(城跡)入り口               ▲真っ直ぐな石段
  
                                      
 
神社の石段が真っ直ぐ敷かれている。曲輪跡を貫いているので、縄張り図を見ながら進むと、両脇に曲輪跡が容易に確認できる。
 
 
 
▲石段途中 右手に延びる曲輪跡                  ▲本殿下の切岸
 
 
 
▲男坂神社
 


 
▲神社の背後 階段を降りた所に堀切があった         ▲埋められた堀切の先には竪堀跡が残る 
 
 

 
▲削り取られた尾根筋背後                                           ▲神社の背後が宅地化されている
 


▲背後からみた景色 南西部
 
 



▲昭和39年(1964)の航空写真(国土交通省)



雑 感


 男坂城跡の背後は住宅地が建ち並び道路が北に延びているが、城が機能していた戦国期にはなだらかな丘陵の尾根先端部の高台で、北の琴弾峠への道はこの城の前を通らなければならなかった。そのことは城の正面の東と北につながる琴弾峠の道を見張る最適な場所で、三方城を守るための好位置にあることがよくわかる。
 
 棚田の発達したのどかな但馬の深い谷合も昭和から平成にかけて県道が整備拡張され、この宮垣に琴弾トンネルが開通し、峠越えの道が役目を終えた。このトンネルによって大屋から但馬中心部へのアクセスが便利になり地域の生活圏が大きく広がった。昔は一度大雪が降るとバスが長く運休したことがあったが、道が整備され雪も少なくなったこともあって、今はそのようなことはほとんどないという。
 

 
[関連]
・三方城跡



但馬 三方城跡

2020-05-05 07:11:19 | 城跡巡り
【閲覧】1,910(2016.9.22~2019.10.31)


  
今回紹介する城跡は、大屋町にある十数城の中では城主が知られ、山裾に御屋敷跡を残している三方城跡です。
 
 


 ▲三方城跡の全景  (川を挟んだ北西部の男坂神社前から)
 




三方城跡  養父市大屋町宮垣
 
 三方城は、別名宮垣城とも呼ばれている。城跡は集落の南の尾根筋突端部(241.4m・比高140m)に築かれ眼下に大屋川が東西に延びる。城域は東西約80m、南北約170mある。

 山裾に御屋敷跡(38m×25m)があり、その背後の急峻な地に階段状に5段の曲輪跡を設け頂部に主郭(13m×15m)がある。周囲には複数の竪堀を設け、主郭の背後の大きな堀切と土塁を築いている。

 城主は日下部一族の三方氏で、弘安8年(1285)「但馬大田文※」に三方庄の下司として名が残る。以後南北朝時代の文和3年(1354)北朝に属していた赤松則祐家臣安積盛が大屋に攻め入り、また延文3年(1358)伊達朝綱が攻め入った記録が残り、当時三方氏は南朝に属していたことがわかる。応仁の乱(1467~78)のとき山名持家(宗全)に従い上洛した武将の中に三方左馬介・三方主膳の名が見える。明応7年(1498)山名俊豊から軽部庄(養父町)の公文分の代官職に任ぜられ、永禄3年(1560)に三方正秀が村落境界の明示を下している。(「山名俊豊文書」・「三方郷東西境注文」)

 天正5年(1575)の羽柴秀長の但馬侵攻での三方城及び城主についての動向については不明である。

 この城の位置は大屋谷の入口(大屋口)にあたり、養父の広谷からの街道と八鹿八木から琴弾峠を越える道が交わる地点で交通の要衝となっている。川を挟んだ男坂城とともに街道の押さえとして築かれたものであろう。 参考:大屋町史
※大田文(おおたぶみ):鎌倉期に作られた土地台帳(所有関係・田畑の面積等)
 
 


▲三方城縄張り図 大屋町史より
 



▲三方城跡周辺鳥瞰 城は大屋谷の侵入口に位置する   (by Google Earth)



大屋町宮垣の写真で見る移り変わり
 

 ▼昭和51年(1976)航空写真 (国土交通省 )        
 
 
▼ 現在 by google


  
県道が整備され、圃場整備で田が短冊状に整備された。男坂神社西が宅地化された。
平成14年に八鹿町八木に抜ける琴弾トンネルが開通した。
 



アクセス
 

▼位置図 登城ルート

 
 

 男坂神社前の天神橋を渡り、川沿いの道を左(東)に少し進むと、右手に六地蔵・いぼ地蔵があり、その近くに駐車する場所がある。


 

 


 近所の方に登り口を聞くと城山に向かって右の谷止めのある方から回り込んで登るのがよいといわれたので、それに従った。以前女の人がけがをされたと言われていた。
 (もう一つは、御屋敷跡の上方を直登することも可能だけれど、それも急なので注意が必要。)
 
 六地蔵・いぼ地蔵から西に進み途中、左に曲がり、谷止めのある谷に入る。フェンスを抜け谷止めを越えて、城山の斜面に取り付く。




   
▲家の近くでは擁壁がある      ▲左の道を登っていく
 

 

▲西の谷に入り、谷止めの上方を登る
 

 
城山の西側面から登るも、足元がゆるく頼りの木々も少なく、油断ができない。
 
 

 
▲かなり急な斜面を登る                   ▲植林の杉林に近づく
 
 

階段状に曲輪が配置され、その奥には大きな堀切がある。
 
 

 
▲主郭手前                        ▲石積みを見つける
 

 

▲主郭 東西(幅)15m×南北(奥行)12m
 



▲主郭の奥は切岸の段差がある        




▲切岸の下
 

  
▲大きな堀切、高さ7m(上部は主郭)    




▲堀切底 幅17m
 


  
▲城の背後には尾根筋が延びる       ▲竪堀跡
 
 

御屋敷跡
 

 御屋敷跡はいぼ地蔵の左を少し進み、愛宕神社に向かう。御屋敷跡はその上部にある。
 


 
▲竹林の中に入っていく        ▲愛宕神社
 



▲御屋敷跡 城主三方氏の広い御屋敷跡 
 



▲御屋敷跡の高台から見た風景 中央上部の森が男坂城跡のある男坂神社がある。
 
 
 
三方大蔵丞正秀之塔 (場所:地形図参照)


 


   天正5年(1577)羽柴秀長の第一次但馬侵攻によって、三方城(城主三方正秀)は落城し、秀長家臣木村常陸が在城している。

 しかし、この後、城主は生き延び、宮部善祥坊に従い、天正9(1581)年鳥取城攻めに参加し、落城後に城の修復に関わっていたが、相役らの遺恨を買って岩井温泉で襲われ果てた。その養子掃部正澄が首を持ち帰り宮垣村の大門の傍らに埋めた。村人は、宝暦10年(1760)三方大蔵丞正秀之塔と刻んだ供養碑を建てたという。「三方家由緒書」
 

 

雑 感
  
 三方城の形は勾配のある三角山で正面には大屋川が流れ、正面・側面とも勾配はきびしい。主郭の背後の幅広く深い堀切(箱掘ともいう)は実践的な戦いの経験から生まれたような気がする。万が一のときは尾根筋に逃げる手立てもあったようだ。
 
  大屋の城跡から 戦国の但馬史に興味を持ち始めている。但馬にもたくさんの城跡が残され、城周辺に残された武将たちの残像をたどる楽しみはこと欠かない。
 琴弾トンネルができる前、何度か琴弾峠のジグザグの山道を抜けたことがあった。夜間に鹿の集団に出くわしたこともあった。今はトンネル開通により大屋・八鹿が直結し便利になった。

 その八鹿には見ごたえのある八木城跡朝倉城跡がある。これらの城跡については以後、取り上げてみたいと思っている。






但馬 小代 城山城跡

2020-05-04 09:48:14 | 城跡巡り
【閲覧数】1,543(2017.8.12~2019.10.31)                                   
 
 
 
 養父市大屋町の諸城の探索によって、羽柴秀長の家臣藤堂高虎を苦しめた小代一揆の本拠地小代 城山城(じょうやまじょう)をいつかは見てみたいと思っていた。しかし城跡は但馬北西部の山岳の谷合にあるという。事前の下調べで、城跡は「ふるさと歴史公園」として整備され、城山頂上付近まで車で行けると知り、雪解けの桜の咲く4月中旬、いくつもの山越え谷越えの道を進んでいった。
 

 
 
 ▲矢田川東岸より
 




小代  城山城跡のこと   美方郡香美町小代区 
 

 小代区の中心部の矢田川と久須部川の合流地点の山上の標高396.7m(比高120m)にある。

 城の縄張りは主郭(東西約11m、南北22m)を中心に、四方に延びる尾根筋上に連郭式砦(曲輪)をもち、個々の曲輪跡は小さいものの、城域は東西510m、南北500mの規模をもつ。山麓の「字段の平」に城主居館があったと考えられている。

 城主は朝倉氏・八木氏・田公(たきみ)氏と伝わる。田公氏は天正五年(1577)羽柴秀吉の第一回但馬侵攻のとき、城山城を捨て因幡に逃走したという。
  小代一揆勢はこの城を本拠とし、藤堂高虎が攻め寄せたが撃退した(小代合戦)という伝承がある。
 


 
▲イメージ図 説明板より
 



▲小代 城山城図(一部着色加える) 説明板より
 


▲城山城周辺図 ( P:駐車場、赤丸:四方の砦)
 

 
▲城山方面からの小代を見る 
 

 
小代合戦
 
 小代合戦そのものを記録した一次史料はなく、地域伝承と藤堂家の年譜録と実録の記録が残るものの、その実態がはっきりしていない。
 
 地元伝承として、「七美郡誌稿」地元八木玄蕃著(明治時代)には、藤堂高虎率いる120騎が小代谷に攻め入り谷中の寺々を焼き払い古城山(城山城)を攻め寄せたが、太田垣、広井、小代大膳等は抗戦し、二方郡栃谷城の塩谷勢(50騎)の挟み撃ちになり、高虎勢は壊滅し、高虎はただ一騎で広井坂(一二峠)、天滝を越えて敗走した。
 余勢を駆って、一揆勢30人は大屋に攻め入り、横行に要害を構えて攻撃し、これに対し藤堂勢は、蔵垣・筏・栃尾館で抗戦し、勝利を収めた。

 その後、秀吉勢(堀尾吉晴ら)は七美郡に入り、「射添強盗」(いそうがんどう)を平定した。  ※射添は村岡町内にある地名
 
 藤堂高虎家に残る記録として、『公室年譜録』には、天正5年秀長の但馬攻めのとき、小代大膳・上月何某ら92名が抵抗した。秀長は藤堂高虎に鉄砲数艇をもたせ、小代勢掃討を命じた。小代勢が大屋に侵攻し栃尾館を包囲したが、藤堂勢が応戦し、一揆の大将富安丹後・瓜原新左衛門等を打ち取り、小代勢は退散する。その後小代の砦を攻略した。しかし小代勢は分散しながらも勢力を保持し、秀吉来但の時、謀略により高須(村岡町)で召捕り極刑に処した。
 
 もう一つ、『高山公実録』(藤堂高虎一代記 幕末編纂)に、藤堂高虎と小代一揆勢の攻防は天正8年~9年(1580~81)の2年間戦った。一揆勢は小代だけではなく宇津賀(兎塚)(村岡町)からも押寄せた。小代勢は「上月某・小代大膳などと申す者一類九十二人」、「横行と申す山中に一揆共山籠いたし、要害を構、小屋掛け居り申す」、「天滝を越え横行山へ突出て、蔵垣において数度御合戦」等の記述あり。・秀吉の来但の記録:播磨から明延を越え大屋に入り、栃尾加賀守屋敷に立ち寄り、栃尾氏に判物(大屋の内川の支配権)を与えた。さらに秀吉は栃尾屋敷から小代に直行し一揆勢を捕縛し高須で獄門磔刑に処した。と公室年譜録よりやや詳しく記述されている。『大屋町史』
 
 地元伝承と高虎家の記録とは時期や内容は一致しない点がある。地元伝承では攻め寄せた藤堂軍を撃退し、大屋まで追い込んでいるのに対し、藤堂家の記録では小代での敗退は触れられず、大屋に攻め入った小代勢を撃退させ、その後小代を攻略したという。

 いずれにせよ根強い小代勢の一掃は天正9年(1581)の因幡・鳥取城攻めの前の秀吉本隊の出動までまたなければならなかった。
 
 
 
▲但馬・因幡の主な城配置図
 
 


アクセス
 

 養父市大屋を抜け国道9号線から村岡区萩山の一二(ほい)峠を越えて小代に入った。
 小代の谷筋に入り、「ふれあい温泉おじろん」を目指す。おじろんから久須部川沿いに進むと城への案内板あるので、左折し登って行くと歴史公園がすぐである
 

 
 
 

 
▲久須部川                    ▲整備された城山への道 
 

 
▲駐車場 トイレあり         ▲城図と詳しい説明 
 

 説明板のある部分は南砦にあたり、ここから北の尾根筋上に歩道が設けられ、主郭につづく。途中堀切があるが歩きやすいよう小さな橋が設けられている。
 

 
▲歩道が整備されている        ▲堀切に敷かれた小さな橋 
 

最後の階段を登ると、主郭にいたる。城山をイメージした木の櫓が造られている。
 
 
 
 
 
東西南北の各砦の案内板がありわかりやすい。主郭の西側には数段の曲輪があり、さらに進むと西砦に至る
 
 
 
▲北・西砦案内板       ▲主郭の西側の1番目の曲輪跡 上部から


   
▲主郭の西側の2番目の曲輪跡
 

東砦へは急勾配だが、階段が敷かれているので楽に降りられる。
 

   
▲東砦案内板             ▲尾根筋に階段が敷かれている
 


▲東砦
   
               
 

 

雑 感
 
 城跡は公園化され、歩道が整備され櫓が建てられここが中世・戦国期の城跡であることを多くの人に見てもらいたい、知ってもらいたいという地元の人たちの思いが伝わってくる。
 
  東西南北に砦を配した堅牢な城山城。最も守りの重点においたのは北砦だろう。その北砦から山麓に降りたかったが時間の都合上できなかった。次回行く機会があれば、北砦と山麓の居館跡地などを探索したいと思っている。
 
 秀吉にとって小代の一揆勢の存在は毛利との因幡鳥取合戦の前にうるさい存在だったようで、配下の者に指示を出し、最終的に自ら鎮圧に出陣している。因幡・鳥取城合戦には山陰の海路と但馬内陸部の因幡に通じる街道を押さえる必要があり、すなわち但馬から因幡若桜鬼ケ城にいたる氷ノ山越えの歩行・兵站ルート確保には小代勢の排除が最優先だったと考えられる。

  その小代・村岡を拠り所とした小代一揆勢は強盗(がんどう)と呼ばれていたが、捕縛した一類への獄門磔という厳しい処罰は秀吉の怒りに触れたものだったようだ。

 『高山公実録』に秀吉が但馬大屋の栃尾屋敷に出向くのに、播磨宍粟郡一宮町富土野経由で明延から大屋に入ったとあるのは興味深い。



【関連】
・但馬 蔵垣城跡
・但馬 大杉城跡
・但馬 加保城跡
・但馬 田和城跡

◆城郭一覧アドレス