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郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「上本郷・下本郷」

2019-12-24 22:33:13 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「上本郷・下本郷」  三日月町(現佐用町)

【閲覧数】1139件(2010.9.30~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)






■上本郷(かみほんごう)

 志文川支流本郷川上流源流域に位置する山村。鎌倉・天満・添谷(そえだに)・大内(おおち)谷の4集落がある。東は山を隔てて、山崎町青木村と奥小屋村(新宮町)。
 
 元禄年間東本郷村が上本郷と当村に分村して成立。畑地が多く、近世を通じ大豆・葉煙草の生産が多い。「※播磨鏡」は特産として本郷煙草を記す。天満の天神山の山頂に中世の天神山城跡がある。大内谷の標高420mの山頂上に大内谷山城跡がある。添谷に熊野神社がある。土質よく杉・檜の植材に適し、良材を算出する。

※播磨鏡(地志播磨鑑):全17冊、平野庸脩(ようさい)著、近世播磨の代表的地誌、著者は印南郡平津村、医業の傍ら近郷の師弟の教育に努め、余暇に播磨地誌の著述を進めて40数年、本書を完成と伝える。播磨各郡内の神社・仏閣・寺院跡・名所旧跡・和歌・古城跡等について古書などを引用して詳細かつ正確に記述している。





■下本郷(しもほんごう)

 志文川支流本郷川下流域に位置する。角亀(つのかめ)川に流入する本郷川下流域の谷に位置し、両側は300m~350mの山地。小原(おはら)・湯浅口・湯浅・中村・仁増(にんぞう)の5集落がある。

 元禄年間(1688~1704)東本郷村が上本郷と当村に分村して成立。産物は本郷煙草が有名。洪水による田畑流出に悩まされた。当地への入口、小原の山の中腹に、高蔵寺がある。同寺の縁起によると、奈良期僧行基の開基といわれ、本尊千手観音像は行基が作って安置したという。2度の火災が発生。江戸時代森家の菩提寺となる。裏山一帯はツブラジイの自然林として貴重である。
 文化11年(1814)には中村の字小谷の東斜面より大型の銅鐸が出土。仁増の構は、大庄屋船曳家先祖が築いたもの。湯浅の久森家邸内にある推定樹齢800年、樹高18m、根回り9.9mの大ムクは県指定天然記念物。明治22年三日月村の大字となる。

 明治23年・25年と大洪水が続き、同25年には本郷川の耕地、堤防が流失し学校は休校となり、勅使が慰問に派遣され、下賜金を受けた。本郷川下の三日月の茶屋に大洪水記念碑が残る。




 
◇今回の発見
・本郷谷は煙草で有名だったこと、田畑流出に悩まされていたこと。本郷谷の奥は、山崎町青木村・奥小屋村(新宮町)に接しているということ。
・下本郷の中村で見つかった大型の銅鐸が行方不明(佐用郡誌、三日月町史)とされていたが、現在ニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵しているという。

※銅鐸については
○平田篤胤(あつたね)の「弘仁暦運記考」が国立国会図書館データベースで閲覧できます。その152ページに山崎町須賀沢で発見された銅鐸の記事の中に、本郷の銅鐸も同型と書かれています。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2532329/152



地名由来「乃井野」

2019-12-24 22:18:27 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
「乃井野」  三日月町(現佐用町)

【閲覧数】2,688件(2010.9.29~2019.10.31) 

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)





■乃井野(のいの)

 古くは納居納とも書いた。千種川支流志文川下流右岸に本村、左岸に徳平(とくひら)集落がある。中世に当地附近が石清水(いわしみず)八幡宮領船曳(ふなびき)荘となると、当地の日岡八幡宮は別宮として分神を祀ったという。徳平には、弥生時代後期の集落遺跡、中世の徳平城址がある。

乃井野村 
 江戸期~明治22年の村名。元禄10年(1697)三日月藩主森家が入封すると、小字清水にあった井上家の邸に入り、日岡八幡宮の敷地の一部を合わせて陣屋を築いた。今も御殿奥に一部石垣や、内堀・馬場跡などが残る。本乃井野は郭内と呼ばれ、明治初年の郭内図によると、表町を中心に、上に中の町・上の町・袋町・稲荷町・不動町・明星町、下に清水町・宿居(しゅくい)町・餌差(えざし)町・木鼠(きねずみ)町・下(しも)の町などがあり、今も町名が残る。藩士の数は約300で、大部分は郭内に居住していたが、地内の西脇(にしのわき)・徳平(とくひら)と三日月の田此(たこの)などにも居住した。藩校広業館は寛政7年(1795)5代藩主森快温(はやあつ)の時に創立、文学部150人、武芸部400人、遠くからも入学、寄宿生30人、職員30余人、廃藩まで85年間続き、多くの学者や人材を出している。その他幕末にできた藩の調練場である三方里(さんぽり)、旧藩の物見櫓(やぐら)、藩祖を祀る列祖(れっそ)神社などがある。明治22年三日月村の大字になる。


三日月町中心部と三日月藩関係の場所





◇今回の発見
乃井野には、三日月藩の陣屋の眼下に町が栄え、城下町特有の字名が今に残る。5代藩主の時に藩校を開き、多くの人材を輩出している。平成になり陣屋跡の大規模な発掘調査のあと、陣屋の長屋門が復元され当時をしのばせている。


▼陣屋からの三日月宿場風景  発掘調査中


「三日月」(三日月町)

2019-12-23 11:59:26 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
「三日月」(三日月町)


閲覧数】2,638 件(2010年09月28日~019.10.31) 

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)



佐用郡三日月町(現佐用町)の地名由来





三日月町(現佐用町)

 佐用郡(現佐用町)の東端に位置し、東は揖保郡新宮町(現たつの市新宮町)、西は南光町(現佐用町)、南は赤穂郡上郡町、北は宍粟郡山崎町宍粟市山崎町)に接する。山崎町大沢より発する志文(しぶみ)川が町域の西よりの谷を南流し、中央の田此(たこの)で、新宮町の二柏野(ふたつがいの)に発し北流する角亀(つのかめ)川と合流し、西に向きを変えて南光町に出て千種川に合流する。この角亀川に本郷谷を流れる本郷川が合流する。

 昭和61年から南部の上郡町・新宮町の3町にまたがる丘陵上に播磨テクノポリス(科学公園都市)の建設が始まった。三日月町の中央を古代~中世の美作道が通り、古代の中川(なかつがわ)駅、近世の三日月宿があった。江戸時代は佐用郡に属し、16村あった。明治22年町村制施行により佐用郡三日月町村・大広村が成立した。昭和9年三日月村が町制を施行し、昭和30年大広村を合併し、三日月町が成立。(2005.10 佐用町・上月町・南光町・三日月町の4町が合併し、新たに佐用町が発足。)


■三日月(みかづき)

 志文川支流と本郷川と角亀川の合流する地域。北条時頼の廻国伝説にかかわり、時頼が3か月当地に滞在したことによると伝える【佐用郡誌】。

□細月村(みかづきむら)
 三日月町の中央部東より、角亀川が北西流する谷間に位置し、三日月・茶屋・田此の三集落がある。美作道が通り、近世には三日月宿が置かれた。「播磨風土記」讃容(さよ)郡中川(なかつがわ)里の条にみえる弥加都岐(みかづき)原の遺称地とされる。仁徳天皇の時、奢っていた伯耆の加具漏(かぐろ)と因幡の邑由胡(おゆこ)らに狭井連佐夜(さいのむらじさよ)を遣わして、一族とともに捕縛させ、連帰らせた。途中水中に漬けて苦しい目に遭わせたところが弥加都岐原だという。

 江戸期より明治22年までは、細月村。三ケ月村、三日月村とも書く。年貢米などは揖保川筋の新宮村川岸へ道程三里半、網干浦へ津出しした。
 神社は磐筒男(いわつお)神社。寺は慶雲寺、明光寺がある。推定樹齢700年の、目通り11mのムクノキの古木がある (県指定天然記念物) 。明治22年三日月村の大字となる。


□三日月村
 明治22年~昭和9年は佐用郡の名自治体名。三日月、乃井野、春哉(はるかな)・志文(しぶみ)・真宗(さのむね)・上本郷(かみほんごう)・下本郷(しもほんごう)の7か村を合併して成立。昭和9年より三日月町の大字。








◇今回の発見 
 三日月の地名由来は、佐用郡誌の北条時頼(鎌倉期)の滞在説があるが、すでに、風土記でその名称があがっている。奈良時代の播磨風土記の弥加都岐(みかづき)原の伝承では、水漬け(みかづけ)の処罰の話しが上げられている。これは浸水しやすい土地柄を連想させる。

地名由来「西徳久・東徳久・平松」

2019-12-22 18:28:03 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「西徳久・東徳久・平松」  南光町(現佐用町)
【閲覧数】2,294 件(2010.9.24~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)






■西徳久(にしとくさ)

 千種川中流右岸。地名の由来は、峠の際にあることによると思われる。光田(こうだ)・横畑(よいこはた)・森光(もりみつ)・高下(こうげ)・萩原(はぎはら)・本明(ほんみょう)の6集落が河岸に点在する。江戸期においては、東徳久、下徳久とあわせて徳久村と称したという。寺院は慶長10年(1605)草創の西蓮(さいれん)寺がある。高下のごうろ山で明治20年(1887)に石材採取中、巨石の下から長さ42cm余の弥生時代の細形銅剣が発見された。この銅剣は県指定文化財で、現在東徳久天一(てんいち)神社に所蔵。

 明和元年(1764)、同5年(1768)・8年(1771)・9年(1772)は洪水。寛政年間(1789~1801)から明治19年まで洪水11、天明元年(1781)から同 (1784)年まで日照時間少なく洪水11回、干ばつ6回。洪水のたび護岸の決壊、田畑の流失で、農民の苦労が多かった。明治7年東西小学校を西蓮寺に設置、同9年3校を合併した有隣小学校を当地に置く。明治22年徳久村の大字となる。昭和30年から南光町の大字。

 明治25年前後から郡役所が畜産・養蚕を奨励、年ごとに盛んになり、昭和30年ごろまで続いた。ほかに婦女子はわら芯切りを副業として、生計を維持してきた。明治期後半から荷車・自転車が入り、大正期になると急増して生活が便利になった。大正12年電気架設、道路改修も行われた。
 



■東徳久(ひがしとくさ)

 千種川中流左岸。灌漑用水池が6か所ある。地名の由来は、峠の際にあることによると思われる。殿山西麓に矢能(やのう)、阿賀野(あがの)、保井(やすい)、鎌屋(かまや)・間村(まむら)・殿崎(とのざき)の6集落が円弧状に連なる。矢能集落西端の丘陵上には砦跡があり、附近に室町時代初期と推定される五輪塔2基がある。殿崎には中世の徳久城の跡があり、殿崎集落や北麓の平松集落に落城にまつわる伝承が残る。

 氏神は吾勝(あかつ)神社で、ほかに式内社の天一(てんいち)神社があり、参道には天神降臨の岩もある。寺院はない。

 千種川氾濫による災害よりも、台風と干害の被害が多い村であった。明和8年(1771)干害、安永9年(1780)氷害、寛政4年(1792)、文化12(1815)・13年、明治16年風害があった。明治22年徳久村の大字となる。昭和30年南光町の大字となる。

 明治25年頃から、郡の指導によって畜産・養蚕に意を注ぎ、繭は大正10年には明治28年の100倍の販売量に達した。またナシ・モモなど果樹栽培にも励み、大正10年ナシの集荷2,500貫(佐用町史)。一方、冬期の婦女子は副業として、わら芯切りに励んだが、時代の推移とともに副業は成立しなくなり、昭和30年頃に完全に姿を消した。
 平成4年から平成8年にかけ東徳久遺跡の発掘調査により、古代製鉄遺跡(炭窯跡)が発見され、製鉄操業が盛んであったことが裏付けられた。




■平松(ひらまつ)

 千種川中流域、城山山麓。地名はゆるやかな山麓の土地であることに由来するか。
城山の徳久城(柏原城)は羽柴秀吉にせめられて落城。地内には地頭の首塚があり、昔、武者姿の踊りが、首塚に奉納していたと伝える。
 神社は吾勝神社で、境内は武者踊りの場になっている。寺院はない。明治22年と徳久村の大字となる。昭和30年からは南光町の大字。

 明治30年前後から郡の指導によって畜産・養蚕に力を注ぎ、婦女子はわら芯切りを副業として、生計を維持してきたか昭和25年前後に副業はなりたたなくなる。江戸期以降度重なる天災に悩まされながら、克服して農業を維持してきた。大正12年電気架設。





◇今回の発見
・佐用郡は播磨風土記にも記載されるほどの古くから鉄の産地で、140か所以上の多くの製鉄遺跡が残る。さらに中世の砦・山城跡、宝篋印塔、五輪塔等の遺構が数多く残る地域であるということ。
・佐用郡は近代畜産・養蚕が盛んであった。そのうち東徳久・安川が繭産地の中心地としてあげられる。

地名由来「下徳久・林崎」

2019-12-22 18:23:51 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「下徳久・林崎」
【閲覧数】1,421件(2010.9.17~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)







■下徳久(しもとくさ)

 千種川中流域、南北に細長い谷間。地名の由来は、峠の際にあることによると思われる。地内重近(しげちか)には砦跡がある。旧美作街道が土井から現在の徳久トンネルのある小さい坂を登り、千種川を渡って重近へ入り、山道をたどって円応寺へ出ていた。重近の追分が因幡街道の分岐点であった。

 下徳久は、南北朝期に「下得久」として見える地名で、上津(うわつ)とも呼ばれ、その名称は徳久駅前の中学校を上津中学校として今に残る。江戸期の上津郷は、南光町の下徳久から南、三日月町の西部を含む13か村であった。もとは東徳久・西徳久と当地を合わせて徳久と称したという。氏神は八幡神社。寺院は法覚寺。

 千種川筋で洪水の被害が大きく、なかでも大田井は、民家に浸水することも稀ではなかった。明治5年法覚寺に徳林小学校設置。明治14年佐用坂改修、同22年と徳久村の大字となる。昭和30年からは南光町の大字。
明治25年前後から養蚕・畜産を副業に導入して生計の支えとし婦女子はわら芯切りをして家計を助けていた。昭和25年前後まで続いた
 明治23・25・29・年に洪水、同32年には千種川の大増水で溺死者があり、同年9月台風で家屋が倒壊、その他病害虫発生。大正3年、4年に佐用坂峠再改修により、東西の交通が至便になる。同11年電気架設。昭和10年姫津東線が開通、播磨徳久駅設置、駅前通りに商店街が形成された。畜産・養蚕は昭和25年頃から衰退していった。昭和38年・40年豪雪。同38・40・43・47・51年には大洪水があった。






■林崎(はやしさき)

 千種川中流左岸。東と南は山の尾根が突き出しており、林の先にあることが地名の由来か。

 享保14年(1729)大風洪水、延享2年(1430)洪水・大風、寛延3年(1750)暴風雨、明和7年(1770)日食、同年6月2日から8月10日までは雨なく百日照りといわれる。文化12年(1815)暴風雨洪水、天保7年(1836)雨天続きで凶作。文久3年(1863)には凶作で百姓騒動が起こる(佐用町史)。氏神は山王七神社。大広村から宇野峠を越えて当村を通過、佐用坂峠から佐用村に通じている。道路は、明治14年に峠を改修した。同22年徳久村の大字となる。

 明治30年前後から養蚕・畜産を副業にする人が多くなり、やがて農業経営の主軸をなして、昭和25年前後まで続いた。明治24年大地震が起こり、同26年、大正2年・13年豪雨、同16年台風で被害を受ける。




◇今回の発見
・徳久(古くは得久)は独特の味のある地名だが、その地名の由来は、「峠の際にある」ことによるとあるが、どうもしっくりしない。
・佐用郡東部では、千種川を古くは上津(うわつ)川と呼んだ。上津中学校にその地名が残る。
・千種川流域の度重なる洪水、干害、病害虫発生、暴風雨、地震、日食等の気象異変、そして凶作にともなう百姓騒動の詳しい記録が各村の庄屋の文書に残されている