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武本睦子あっちこっちポルトガル

ポルトガルあっちぶらこっちぶら報告です。

エンリケ航海王子の隠れ家

2013-11-10 | 各国いまどき報告

 先日、ポルトガルの南端ラゴスに行った時のこと。そこに住むKさんから「エンリケ王子が住んでいた村がこの近くにあるのよ」と伺った。

 エンリケ王子は、ポルトガルでは「インファンテ・デ・エンリケ(Infante d, Henrrique)」と呼ばれて、現代でも人々に親しまれ、愛されている。日本では「エンリケ航海王子」と訳されているから、その方が馴染み深いかもしれない。

 

ラゴスの広場に建ち海を見つめるエンリケ航海王子像

 エンリケ王子は1394年にアビス王朝初代国王ドン・ジョアオ1世の三男として生まれた。

 成人してからは南端のアルガルベ地方、ラゴスの領主となり、1438年サグレス岬に航海学校を作り、そこを拠点として、モロッコ遠征などをし、大西洋に船出をして未知の国「インド」にまで思いをはせた王子だった。

 エンリケ王子(1394年~1460年)が存命中は実現しなかったが、ポルトガルが世界へ乗り出す基礎を作った人物である。

 航海学校ができて60年後、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見し、その50年後、フランシスコ・ザビエルがインドのポルトガル領ゴアに滞在して、次にマラッカからジパング(日本)の鹿児島にたどり着いたのは1549年。

 エンリケ皇子がサグレスに航海学校を設立してから111年後のことだった。

 ところでエンリケ王子がサグレスで活躍していたのは、今から約570年前のことだから、夏の隠れ家があった村に行っても何も残っていないだろうけど、なんだかロマンを感じる。

 その村はラポセイラという。サグレスから10キロほど中に入った所にある。

 教会の前に車を停めて、村の道に入ったが、いったい何処に行けばよいのか判らない。

 観光地のように案内板があるわけでもないし…。あちこち歩き回ったがぜんぜん分からない。

 ちょうどお昼時、家の中にみんな引っ込んでいる時なので、外を歩いている人が見当たらない。

 小さな静かな村だ。

 その時、すぐそばの家から大きな声が聞こえてきた。そして入り口のドアが開き、70歳ぐらいのおじいさんが出てきた。

 ちょうど良かった…と思って声をかけたのだが、よく見ると彼は片手に深鉢を持っている。中にはスープが入ってるようだ。スープをどこかに持っていくために家から出てきたらしかった。

 ちょっとタイミングが悪いが、もう声をかけてしまったから仕方がない。

 「あの~、エンリケ王子の家があると聞いたのですが~」

 「えっ、インファンテ・デ・エンリケの家?ちょっと待って!おお~い」とおじいさんは今出てきた家の中に向かって声を上げた。

 「何だって~」と、こんどは女性の大声が中から返ってきた。

 すぐにドアが開いて、太った女性が出てきた。おじいさんの娘だろうと思う。彼女に同じことを尋ねると、「ああエンリケの家ね。この前の道をまっすぐ行って、右に曲がって~アーチの門があるからすぐわかるわよ」と、まるで親戚の家を教えるように簡単に言った。

 ちょうどそこへ老人夫婦がゆっくりとやってきて、私たちがエンリケ王子の家を探していると聞くと、今にも案内してくれそうな様子だ。

 道の向こうから小型トラックがやってきて、道路端にかたまっている私たちに声をかけてきた。

 「お~いマリーア、何してんだ~?」。娘の名前はマリアらしい。

 「この人たちがエンリケの家を探してると言うので、今教えてるとこよ」

 「ああ、エンリケの家ね。すぐそこだよ。じゃあな~」と言いながら行ってしまった。

ラポセイラ村の「エンリケ王子の道」の表示

 私たちもマリアさんたちにお礼を言って、教えてもらったエンリケの家を目指した。

 右に曲がって、左に折れて少し行くと、ぼろぼろに崩れた廃墟の壁に大理石のプレートが埋まっていて、そこに「Rua Infante d, Henrrique」(エンリケ王子の道)と書いてある。

 その小道を入って突き当たりを右に曲がると、そこも同じ名前の道になっている。

 小道は10メートルほどの短さだが、その角の古い家にアーチがついている。その横の狭い庭に石組みが見えたので行ってみると、古井戸の跡だった。

 「アーチがあるからすぐ判るよ」とさっきマリアさんが言ったのはこの家だろうか?

古井戸の跡

 でもこの家は「エンリケ王子の夏の家」にしてはいくらなんでも小さすぎるし、それに570年前に住んでいた家が残っているだろうか…。

 でも石造りだから、基礎や壁など部分的には残っているかもしれない。

 よく見ると、アーチの横の壁にちょっとした出っ張りが付いている。Kさんが言っていた「馬つなぎ」とはこれかもしれない。

 苔むしたその家の二階の窓にはカーテンが掛かっている。外から直接二階に上がる石の階段には雑草がいっぱい生えている。誰かが住んでいそうな、そうでなさそうな…。

 とにかく「エンリケ王子の道」というのだから、この家の建っている場所がそうのなのだろう。

エンリケ航海王子の隠れ家。アーチの横壁に「馬つなぎ」らしき出っ張りがある。

 エンリケ王子はラゴスの城からサグレスの航海学校までの道を、馬か馬車で通ったことだろう。現代は車で30分もかからない距離だが、エンリケの時代はいくら早くても一日はかかったと思う。

 真夏の太陽光線の厳しさは今も昔も変らない。ラポセイラは小高い丘にある村なので、きっとその当時も涼しい風が吹いていただろう。

 エンリケ王子は熱心なカソリック信者で、一生独身を通し、清貧な僧侶のような生活をしていたというから、案外この小さな村の粗末な家で夏のひとときをひっそりと過ごしたのかもしれない…。

 

 


ピクニックという名のレストラン

2013-09-23 | 各国いまどき報告

 私の住んでいる町から東に向って車で4時間ほど走るとスペインとの国境になります。

 その間に広がるのがアレンテージョ地方。あたりはなだらかな丘陵地帯で、コルク樫やオリーブ畑、そして牧場が広がっています。

 牧場には牛や羊がのんびりと草を食み、柵のあたりには山羊や黒豚などの姿も時おり見かけます。

 農道を走っていると、どこからかチリンチリンと鈴の音が聞こえ、やがてたくさんの羊の群れを連れた羊飼いと牧羊犬が姿を現します。そういう時は、車は停車。羊の群れが優先で、彼らが道を渡り終わるまでじっと待たなければいけません。

アレンテージョの黒豚飼いの絵皿

 時には黒豚の群れを引き連れて移動する「黒豚飼い」の姿も見かけることがあります。

 アレンテージョ地方はオリーブや美味しいビーニョ(ワイン)の産地ですが、黒豚の産地でもあるのです。

 スペインとの国境の町ヴァランコスは、黒豚を原料とした生ハムやチョリソ(ソーセージ)など町をあげて作っていて、代表的な産地として有名です。

 このごろはアレンテージョ地方のあちこちで「黒豚祭」と称して、町のレストランで黒豚のメニューを期間限定でやったりしています。

黒豚の絵柄のオリーブ入れ。「草原をさまよう黒豚」という名前を付けたくなる

 ギリシャ神殿の遺跡のある古都エヴォラに通じる国道114号線沿いに、湧き水の出る水汲み場があります。タンクをいくつも持ってわざわざ水汲みに来る人たちが順番を待っている姿を見かけます。きっと胃腸などに効き目のある冷泉なのでしょう。

その広場の奥にレストラン「ピクニック」があります。

小さいペットボトルをクルマにたくさん積んで水汲みにやって来たセニョール達

 

 今でもポルトガルの人々は、日曜日にはご馳走の入ったバスケットと敷き布を持って海辺や森に出かけるようですが、たぶん昔から、この湧き水場にも水汲みがてら、ワインとご馳走を持って遊びにきていたのではないかと思います。レストラン「ピクニック」と言う名前はそこから付いたのかもしれません。

レストラン「ピクニック」と水汲み場

 この店の名物料理は「ポルコプレート」(黒豚)。

 店内のショウケースには黒豚の肉が部位ごとに分けて飾ってあり、お客は自分の目で選んで注文できます。

 オリーブの実や豚の耳のサラダや強烈な匂いのする羊のチーズなどの前菜をあてにビーニョを飲んで、しばらく待たなければいけません。炭火でじっくりと焼くのに時間がかかります。

 「豚の耳のサラダ」(エスカペシェ・デ・ポルコ)は豚の耳を細かくスライスして、酢とオリーブ油とニンニクと香草を加えてマリネしたものです。コリコリとした食感でわりと美味しいと思いました。初めての時は…。でも、「豚の耳」と知ってからは、ちょっと私は敬遠です。

 アレンテージョを代表する料理は「カルネ・デ・ポルコ・アレンテージャナ」(豚肉のアレンテージョ風)。これは豚肉とアサリという意外な組み合わせをニンニクと赤ピーマンの塩漬けとオリーブ油で炒めたもの。いっしょに炒めたバタータ(ジャガイモ)がまた美味い。

 ポルトガルのジャガイモの美味しさといったら…。こんなジャガイモやドングリ、新鮮な野草などを食べながら、黒豚飼いに連れられて広々とした大地を歩き回るアレンテージョの黒豚は健康そのものです。

 

黒豚の炭火焼。べちゃとしたご飯も意外と美味しい

 やがて注文した黒豚の炭火焼が目の前に運ばれてきました。炭火の煙がほのかに染み込んで、燻製のようです。「うん、どれどれ、ちょっと硬いな…」、運動を充分にして育った黒豚の肉はとても引き締まっているのです。でも味は抜群! 

黒豚の霜降り部分

 もう一皿は霜降り肉なので、こってりと柔らかくてこれまた美味でした。

 


セトゥーバル・町の城壁

2013-05-03 | 各国いまどき報告

 私の住んでいる町は大西洋に面した港町、セトゥーバル。歴史は古く、ローマ時代の遺跡などがあちこちに残っている。


ポスティーゴ・ド・カイス(船着場のくぐり門)。昔は手前の道路が岸辺だったという。右の赤い建物は城壁を中心の支えにして前と後ろに建っている。

 旧市街のど真ん中にある観光案内所は床が分厚いガラス張りで、床下にはローマ時代のイワシの加工所遺跡があり、ガラスの床を通して見られるようになっている。
 風呂桶の3倍ほどの大きさの穴がずらりと並んでいるのだが、その中で大量に獲れたイワシを塩で漬けこんでいた。
 ローマ時代から近くに塩田があり、塩漬けのイワシを近郊や遠くは船でローマまで運んでいたという。
 ローマ時代の遺跡は旧市街の地下にはまだたくさん残っていることだろう。




旧市街の路地裏に残る城壁

 ローマ時代の後はゲルマン人や西ゴート族、そしてムーア人(イスラム)の支配が続き、その後、ポルトガル全土でレコンキスタ(国土回復運動1037~1249年)が起って、北部から南進してきたキリスト教団によってムーア人は追い出された。

 その後、セトゥーバルは村から町に発展し、14世紀ごろに町をぐるりと囲む城壁が築かれた。
 その城壁は旧市街に今でも部分的に残っている。
 といっても、長い年月の間、頑丈な壁を利用して建物が建て増しされ姿を変えてきたので、今では城壁なのか建物なのか見分けがつきにくい。


城壁を利用した建物。

 「セトゥーバルの歴史遺産を見て歩く」というのに参加して、いろいろなことが見えてきた。
 今まで何の気なしに前を通っていた「ムラーリャ(城壁)」というカフェ。そういう名前を単に付けただけかと思っていたが、実際に建物自体がそのものずばりの(城壁)だということも初めて知った。


 その隣の時計屋には電池の取替えをするのに時々行くのだが、店内に入っても、そこが昔の城壁をくりぬいた場所だとはぜんぜん気が付かなかった。
 その後ろには最近開店したアクセサリーの店がある。
 歩道に面したガラス張りのショーウィンドーは城壁の一部をくりぬいて壁をわざとむき出しにして商品を展示してある。壁の厚さは2メートルほどもある。もともとの城壁の幅はさらに店の内部を加えたほどはあったのだろう。

 サド湾に面した城壁もほとんどが建物になっているが、部分的に壁のまま残っている場所もあり、そこには岸辺に出る門があり、階段を降りると船着場になっていたという。
 今はそこが埋め立てられてルイサ・トディ大通りになり、車がビュンビュン走っている。サド湾の水辺は今では、はるか彼方。




旧市街から城壁をくりぬいた門を出ると、昔は水辺だったが、今はルイサ・トディ大通り



ルイサ・トディ大通りから城壁の門をくぐって旧市街へ。


 私たちがセトゥーバルに来てすぐに部屋を借りたのが城壁に囲まれたこの旧市街だった。
 旧市街の中でも最も古い一角ではないだろうか。
 そのころは貸し部屋などほとんどなくて、やっと見つかったのが築200年~300年も経った大きな建物の中の一部屋だった。その隣の部屋にはいかにも古そうな赤茶色の壁画が壁いっぱいに描かれていた。

 大家さんはこの家の他にルイサ・トディ大通りに面した18世紀の大きな建物も所有して事務所を構えていたが、それは14世紀の城壁を一部利用して建てられた物。
 その建物の1階の部屋を貸してもいいというので、見せてもらったのだが、外から見た時はかなり広いように思ったが、中に入ると縦には長いが、幅がかなり狭い。
 どうしてかと不思議に思って尋ねたら、その部屋の半分は城壁なのだという。
 どうりで小さな窓がひとつしかないはずだ。



大家さんの事務所がある18世紀の邸宅と14世紀の城壁「太陽の門」

 その部屋のある城壁の横には旧市街でも一番古い「太陽の門」があり、14世紀のころは門を出るとサド湾の船着場があった。
 その部屋には当時は門番が住んでいたか、船の出入りを管理する税関のような事務所だったかもしれない。
 大家さんに見せてもらった時その部屋を借りていたら、とても貴重な体験になっただろう。でも住み心地は悪そうだった。






「太陽の門」の内側から見ると城壁の厚みが分かる

 今は「太陽の門」から出て大通りを渡ったところに船舶関係の事務所があり、1階には自動車税を納める事務所もある。
 私たちは一年に一度その事務所に行って車両税を納めている。



昔は水の中だったルイサ・トディ大通り公園。両側が車道。


ポルトガルの石畳

2013-01-27 | 各国いまどき報告

 ポルトガルでは大理石や花崗岩、石灰岩などいろんな種類の石が豊富に産出されます。
 たとえば、アレンテージョ地方の一部ではオリーヴ畑の下に大理石のぶ厚い層があり、道路脇で大々的に露天掘りしている現場を見かけます。
 北部に行くと花崗岩が多く、ある所では大きな山全体が一個の花崗岩でできていて、その巨大さを目の前にして信じられない思いをしました。
 どちらも日本では見たこともない光景です。

 あり余る石材は人々の生活の隅々まで行き渡り、活用されています。
 大理石は、豪邸はもちろん、ごく普通の庶民の集合住宅でも入口の壁から階段、室内の床や窓枠、そしてキッチンの調理台などにふんだんに使ってあります。
 また花崗岩は日本にも輸出しているそうで、セトゥーバルの港からも船で運んでいると聞きました。
 その港の出口には石灰岩でできたアラビダ山がそびえています。


花模様と周りは大理石

 石の利用で特に目に付くのは、路地に敷きつめられた石畳です。
 どの町を歩いても広場や路地は石畳が隙間もなく敷かれています。
 作り方は町によっていろいろな違いがあり、たとえば、大理石の産地では歩道に大理石のクズ石が使われていて、それを初めて目にした時は「歩道に大理石!」と感激したものです。
 日本では大理石というと高価な美術品でしか見たことがありませんものね。

 でも大理石の歩道というのはやはり産地の周りだけで、ふつうは石畳の材料は固い石灰岩を用いています。
 白っぽい石を敷き詰めただけの石畳がほとんどですが、白い石と黒い石を使って、歩道や広場に模様を描いた所もあります。


リスボン・リベルダーデ大通りの歩道の石畳

 その代表的なものがリスボンのリベルダーデ大通り。
 広い歩道に描かれた豪華な模様は大規模で美しいものです。
 リスボンの他にも北の古都ポルトなど昔から商業で栄えた大きな町でも見られますし、私の住むセトゥーバルでは白、黒、茶色の三色の石を組み合わせて模様を描いています。
 公園通りは昔は砂浜だった所なので、石畳は波の模様をデザインしてありますし、商店街の細い路地などは通りごとに違う幾何学模様が描かれています。
 又、商店の入口の歩道にはその店の名前を看板がわりに石畳に入れてあったりします。


三色の石で幾何学模様の石畳

 石畳や広場に模様を描く風習を見て思い浮かべるのは、ローマ時代の遺跡に残っているモザイク画です。
 ポルトガルにはコニンブリガという大規模なローマの遺跡があり、そこには邸宅跡の床一面に色石を敷き詰めて細かい図柄を描いたモザイク画がいくつも残っています。
 フランスのアルルやスペインのメリダなどの博物館にもローマ時代のモザイク画は数多く保存してありますが、でも町の石畳は黒い御影石を敷きつめてあるだけでした。
 ポルトガルでは「モザイク画」の影響が脈々と現代まで伝わっていて、「石畳に模様を描く」という風習の中にそれが残っているのではないだろうか、…と考えたりします。


「帆立貝」は巡礼の道の道しるべ

 石畳は約6センチ四方の石を並べて、隙間に砂を入れて固めてあるだけなのですが、思ったよりもずいぶん丈夫です。
 それにとても臨機応変に応用がきくというか扱いやすい。
 先日もルイサ・トディ公園で開かれている骨董市に行ったのですが、店の人がテントの支柱にする鉄棒を石畳の隙間に入れてガンガンたたくだけで簡単に立ちました。
 もっと必要なら石を数個はがして支柱を立てても、後で埋め戻したら元どおりになるから何の支障もありません。


ポルトガルの象徴「ガーロ」(雄鶏)模様の石畳

 
 雨が降ると、アスファルトで舗装した道と違って、降った雨水は石畳の隙間から地中にしみこみ、地下水となります。
 土の上をすべて埋め尽くした石畳、その隙間にはどこからか飛んで来た野草が根を張り、黄色やピンクの小さな花を咲かせます。
 ふと目をとめるとそこはミニチュアの花の空間があり、気持が和みます。
 そんな効果も含めて環境に優しい作りと言えます。


石畳の隙間にけなげに咲いているミニチュアの花

 でも石畳も長年踏まれていると、型崩れがします。
 そんな時も簡単にその部分だけを新しい石に取り替えます。
 工事の様子を見ていると、模様の一部をやりかえる時は木の型枠を置いて、手の平に乗せた石をハンマーでコンコンとたたいて、型のラインに合った石を作ります。
 まるで薪を割るようにみごとにスパッと割れるので、「これが固い石なのだろうか?」と不思議です。


商店前の歩道の石畳に店名を入れているところ

 模様をはめ込む作業はかなり技術が必要で、熟練した職工か親方がやっています。
 他の作業員は白い石をはめ込む作業をしているのですが、彼らも手馴れたもので、仲間と夢中で喋りながら、次々に石を割っていくのです。
 石には「石の目」というのがあるので、そのツボをたたくと簡単に割れるそうです。 石をぽんぽんと軽くたたきながらていねいに並べた後、その上から砂をたっぷりと振り撒き、大きな木槌でドシンドシンと固めます。
 ちょっとした所なら一人で木槌を持ち上げて作業していますが、わりと広い場所では専用の機械でドコドコと固めています。


砂をまいて縦型の「かけや」で固めているところ。傷んだ部分を職人がたった一人で補修工事をしていた

 このところ2週間ほど悪天候が続き、各地で洪水の被害がでました。
 濁流が家の中まで流れ込み、道路は川の様になった様子がTVのニュースで映ったのですが、水が引いた後の道路の石畳はどこも崩れた跡もなく、しっかりとしていました。
 あんな簡単そうな敷きかたなのに、ちょっとやそっとでは崩れない頑丈な作りで、改めて感心しました。


ロスマリヌスとロスマニニョと蜂蜜

2013-01-06 | 各国いまどき報告

 我が家からサン・フィリッペ城(1582年築城)の後ろにアラビダ山が見える。
 「シェーラ・ダ・アラビダ」と言う。サド湾の入り口にそびえる山で、一帯が国立公園になっている。
 もともと海中のサンゴ礁が隆起してできた山なので、全体が石灰岩で、その上に雑木などが生えている。

 頂上に近い所には古い修道院がある。
 昔は修道僧たちがそこで自給自足をして、瞑想と祈りの毎日を送っていたそうだ。
 私も一度広大な敷地と建物の内部を見学したことがあるが、敷地のあちらこちらに人一人がすっぽりと入れる瞑想の場所が点在していた。そこからは眼下にサド湾が開け、碧い大西洋が広がっている。


アラビダ修道院全景


 
 アラビダ山の岩の上には、海から吹き上げてくる強風に耐えながら低い潅木がしがみついている。
 そんな中に小さな薄紫の花を枝いっぱいに咲かせる低木が無数に茂っている。
 ロスマリヌスという。ローズマリーのことだ。


アラビダ山で撮影したロスマリヌス=アレクリン=ローズマリー。デジカメで拡大するとまるでランの花のようだ。
 

 
 
 
 セトゥーバルのメルカド(市場)には蜂蜜だけを売る店が出ている。
 また近郊のアゼイタオの露店市には数軒の蜂蜜屋が出ているが、どちらも「アラビダ山で採れた蜂蜜」を売り物にしている。
 「アラビダの蜂蜜」は友人たちも知っていて、「蜂蜜の中でもあれはいいものらしいよ」などと言う。
 たぶん大昔からあの修道院で作っていたのではないだろうか…。


メルカドの蜂蜜屋さん

 
 ところが数年前にアラビダ山の広範囲が山火事に遭い、かなりの打撃を受けた。
 山への立ち入りもしばらく禁止され、同じ頃にメルカドの蜂蜜屋も時々見かけないことがあった。
 アラビダの山中に置いてあった養蜂箱もかなり焼けてしまったのかもしれない。
 その後、時々出ている蜂蜜屋の店先ではアラビダの蜂蜜は数がかなり減って、その代りにサド湾を渡ってトロイアからだいぶ奥に入ったあたりで採れる蜂蜜が多くなってきた。



トロイア産蜂蜜(左)とアラビダ産蜂蜜(右)



 ある日、スーパーで「メル・デ・モンターニャ(山の蜂蜜)」というのが目に付いた。
 立派なラベルが下がっていて、花の写真が付いている。
 野山でたくさん自生している野生のラヴェンダーだ。
 その下に小さくロスマニニョとある。


トロイアの松林に自生するロスマニニョ(野生のラヴェンダー)。



ロスマニニョ(野生のラヴェンダー)の大株が辺り一面に自生している(トロイア)。


 おかしいな?と思って辞書を引くと、「ロスマニニョ=ローズマリー」とある。
 でも蜂蜜のラベルの写真は確かにラヴェンダー? 
 ネットで徹底的に調べた結果、ロスマニニョは野生のラヴェンダーの写真が出てきた。
 そしてアラビダ山に自生している花はロスマリヌスと言うのだそう。これがローズマリーだ。ややこしい!

 メルカドの裏の出口にいつも野生のハーブや薬草を売っているおばさんがいる。
 その日、前を通ると、山から取ってきたらしい野草の鉢植えがいくつか並んでいた。 その中にアラビダのロスマリヌスの鉢がひとつあったので、念のため名前を尋ねると、彼女ははっきりと「アレクリン」と言った。
 アレクリン? 小さな薄紫の花はロスマリヌスとまったく同じである。

 その鉢植えを買って帰り、「アレクリン」を辞書で引くと、「ローズマリー、まんねんろう」と載っている。
 ロスマリヌスは=アレクリン=ローズマリーで、野生のラヴェンダーはロスマニニョ、ということになる。
 まったく異なる花なのに何故か名前はそっくり。
 そしてどちらの花にもミツバチが蜜を集めに来る。


我が家のベランダに置いた小さな鉢植えのロスマリヌス(ローズマリー)にもさっそく蜜蜂がやって来た。


 買ってきた「ロスマリヌス=アレクリン」の鉢植えをベランダに置くと、いつの間にか虫が飛んできた。
 ミツバチが一匹、夢中になって花から花へと飛び回り、蜜を吸っている。
 どうやってこのベランダのロスマリヌスの存在を知ったのか? 
 いったいどこから飛んで来たのか? 不思議!と思いながら、観察していた。



どんどん伸びる不思議なキャベツ

2012-12-07 | 各国いまどき報告


もしあなたがポルトガルを旅していると、田舎を走るバスや汽車の窓から、または町なかの庭の片隅に不思議な野菜を見かけることでしょう。
私も初めてポルトガルを旅した時、畑の縁や庭のすみっこや鉄道の線路脇など、ほんのわずかな土地にでも植えてある変な植物を見て、首を傾げたものです。


9月のコーヴ・グレガはすっかり伸びきっている。

それは1メーター以上にも高く伸びた棒状の茎で、てっぺんに広い葉っぱを数枚つけた、なんだかこっけいな姿でした。
棒状の茎には葉っぱをもいだ跡が段々に残っています。
最初見かけた時は、それが食べられる野菜であり、しかもキャベツの一種だとは知りませんでした。


花が咲いたコーヴ・グレガ。奥ではコーヴ・ポルトゲーサが育っている。


その後、ポルトガルに住み始めてメルカド(市場)の野菜売場に何回か行くうちに、見るからに硬そうな緑の葉っぱが束ねてあるのに気がつきました。
旅の途中で何度も見た棒状の変な野菜の葉っぱにそっくりです。
触るとゴアゴアと硬く、まるで観葉植物のようです。
常連客が次々と来て葉っぱの束を品定めしながら買っていきます。
店の人に「これはどういうふうに食べるのですか?」と尋ねると、「細かく刻んでソッパ(スープ)に入れたら美味しいよ」ということでした。


メルカドの棚にネギと一緒に並んだコーヴ・グレガ


日本では見たこともない野菜です。ひと束買うととても使い切れないので、どうしようかな?とためらっていると、「ここに刻んだのもあるよ」と横の棚を指差しました。 機械で細く刻んだものを測り売りしているのです。
「バタータ(じゃがいも)とセボーラ(玉ねぎ)とアホ(ニンニク)とこれを一緒にぐつぐつと煮込んだら、カルド・ヴェルデ(緑のスープ)ができるよ」
そうか、カルド・ヴェルデに入っていた菜っ葉はこれなのだ~とその時初めて知りました。


機械で細く刻んだコーヴ・グレガ


最近になって日本の健康食の本を開いていたら、「青汁」の材料「ケール」の写真が載っていました。
ケールはおおきくわけて、ツリーケール(背が高い)、パセリのような葉のちぢみケール、そして背の低いポルトガルケールと3種類あるそうです。
この3種類ともポルトガルで見かけます。
ちぢみケールはあまり見ませんが、あとのふたつはメルカドで売っています。
私はそのどちらもコーヴ・ポルトゲーサ、つまりポルトガルキャベツだと思っていました。
背の低いのがどんどん伸びてツリーケールになるのだろうと今日まで信じていたのですが、違う種類なのです。


これがコーヴ・ポルトゲーサ

背の低いのがポルトガルキャベツで、ということはポルトガル生まれ、じゃこのツリーケールは何というのかと友だちに尋ねたら、「コーヴ・グレガ」というらしいです。「グレガ」は辞書を引くと「ギリシャ」と言う意味があるので、「ギリシャ生まれのキャベツ」でしょうか? 
どっちにしても健康食品のケールです。
ポルトガル人は昔から健康に良い物を食べているのですね。

ポルトガルはソッパが美味しいので、私たちはレストランに行くとまずソッパを食べます。
数あるソッパの中でも「カルド・ヴェルデ」は素朴で飽きのこない基本的なソッパです。


カルド・ヴェルデ(緑のスープ)

そのヴェルデ(緑)の材料であるコーヴ・グレガはどんな場所でもすくすく育つ、とてもタフな野菜です。
作ろうと思えば植木鉢でも育つのではないでしょうか。
4人前のカルド・ヴェルデを作るのに葉っぱがせいぜい1枚か2枚あれば充分。
だから家庭では雨の多い冬の間に庭の隅に数本の苗を植えて、ソッパを作るたびに必要なだけの葉っぱをもいで使うのです。

コーヴ・グレガは育つたびに葉っぱを取られるので、茎は棒のようになり、それでもぐんぐん伸びて、春になると先の方がいくつもに枝分かれして白い小さな花が咲きます。
それはキャベツの花や大根の花に似ています。
その花も束にして売っていて、ソッパに入れたり煮物にそえたりします。
茎以外はほとんど食べられるとても重宝な野菜です。

6月から8月の間は全くといっていいほど雨が降らず、焦げるように強い太陽にさらされる過酷な気候ですが、それにもけなげに耐えて枯れることなく、栄養たっぷりの緑の葉っぱを提供してくれます。
焼きたてのどっしりパンとカルド・ヴェルデ、少しのチーズとチョリソ、そして赤ワイン。これだけあれば充分です。

別な種類の、背の低いコーヴ・ポルトゲーサを使ったものに「コジード・ア・ポルトゲーサ」(ポルトガル煮込み)という料理があります。
代表的な煮込み料理で、豚足と豚の耳、数種類のチョリソ、鶏肉、じゃがいも、ニンジン、カブやキャベツ、豆などとコーヴ・ポルトゲーサの葉っぱを数枚、これらを一緒にぐつぐつと煮込んであります。


コジード・ア・ポルトゲーサ(ポルトガル煮込み)を作ってみました。


伝統的な料理だし、それを手軽に作りたい人のために、スーパーの棚には豚足や豚の耳と数種類のチョリソなどをセットにして売っています。
また、レストランでは毎週木曜日に「コジード・ア・ポルトゲーサ」を出す店も多いです。
肉類もゴアゴアしたコーヴ・ポルトゲーサや他の野菜もふっくらと柔らかく、とろけるような味わいです。

ポルトガル人は健康食品「青汁」の材料ケールを日常の食事でなにげなく食べているのですね。
「どんどん伸びる不思議な野菜」は内側に不思議なパワーを秘めているのです。




フラミンゴ発見!

2012-11-25 | 各国いまどき報告


「えっ! フラミンゴがポルトガルにいるの?」 
 
 もう10年以上前になるでしょうか。
 私の住んでいるセトゥーバルを中心にした一帯が「コスタ・アズール」(青い海岸)と銘打って観光コマーシャルをTVで盛んに流した時期がありました。
 特産のワインやチーズの製造所、サド湾に生息するイルカや白いビーチの広がるトロイア半島、イワシを満載したカラフルな漁船、そしていっせいにピンクの羽根を広げて飛び立つフラミンゴの群れ!
 
 「フラミンゴ?」
 ポルトガルに、しかもこのあたりにフラミンゴがいるとは信じられない光景でした。
 「何かの間違いでは?アフリカのアンゴラやモザンビークはポルトガルの旧植民地だったから、あのあたりのフラミンゴを撮影したのでは…?」
 でもコスタ・アズールのCMにアフリカの風景を流すのも変だし…といつまでも疑問が消えませんでした。

 その年の秋に近くのパルメラ市で催された「ワイン祭」に出かけた時のことです。
 市の観光課の展示室でコスタ・アズールの観光ポスターが張ってあり、その中にフラミンゴが飛び立つ写真もありました。

 ここで尋ねるしかない!

 「フラミンゴはほんとにこのあたりにいるのですか?どこに行けば見られますか?」 「さあ~」
 数人の職員はだれもそんなことは知らない様子でしたが、そのうちの一人が「ひょっとしたらこれを見たら分るかもしれない」とレーザーディスクを持ってきました。
 それから1時間かけて2枚のディスクをみんなで見ましたが、フラミンゴの飛び立つ姿はあっても、それが何処かというのは判りません。
 諦めかけていた時、若い男の職員が入ってきました。
 彼は「たしかガンビアに来ると聞いた事があるよ」と言って地図で場所を示しました。
 冬の間にひょっとしたら来るかもしれないというのです。

 その年の12月にバスに30分乗ってガンビアに行きました。
 バスを降りてから1時間ほども歩いてようやく村に着きましたが、それからどっちに行ったらいいのか分らないままたどり着いたのは広大な塩田でした。
 塩田の向こうのサド川の岸辺あたりに無数の野鳥が群れているのが見えました。
 半日ほど双眼鏡で覗きましたが、遠くてはっきりとは見えません。
でもどれも白い鳥ばかりで、フラミンゴらしいピンクの鳥はいないようでした。

 その時は諦めて、それからしばらく経ってから再びガンビアに行き、今度は塩田とは反対の方に行きました。
 塩田の側に住む漁師が「あっちの方にローサ(ピンク)のフラメンゴ(フラミンゴ)が来るよ」と教えてくれた場所です。

 そこでも2、3時間双眼鏡を片手に探し回りましたが見つからずに、もう夕方で寒くなってきたので帰ろうと腰を上げた時、遠くに見える鳥の群れがいっせいに羽ばたいたのが目に入りました。

 羽ばたいた鳥の群れはだんだん近づいてきて、羽の裏が濃いピンク色で翼の先が黒いのがはっきり見えました。
 「フラミンゴだ!」

 とうとう念願だった野生のフラミンゴの群れを見つけたのです。
 あのポスターやCMの映像はやっぱり本当だったのです。


この時は白っぽいフラミンゴだけ

 その後、フラミンゴを別の場所でも見かけるようになりました。
 リスボンのテージョ川の中洲には広大な自然保護区があります。
 そこに冬になるとフラミンゴの大群がやってくるのです。
 
 テージョ川にバスコ・ダ・ガマ大橋が開通してからのことですが、橋を渡る時に周囲を見るとフラミンゴが餌を探している姿が見えることがあります。
 もともとそのあたりは塩田地帯なので、橋が開通した直後はすぐ近くにたくさんいたのですが、交通量がかなり増えてきたこの頃はフラミンゴは用心してかなり遠くで餌探しをするようになったので、小さくしか見えません。
 でも運が良い時はかなり近くで見えることもあります。

 今年も橋を渡っていたらすぐ近くに数十羽のフラミンゴが餌を取っているのが見えました。
 しかもピンクのフラミンゴの群れです。


鮮やかなピンクのフラミンゴの群れをついに発見!

 
 
 去年、橋の近くの干潟でフラミンゴの群れを発見したのですが、ひょっとしたらその場所にもいるかもしれないと思ってあまり期待しないで行ってみました。
 すると、「いた、いた~っ!」あっちにもこっちにもたくさんのフラミンゴがいました。
 しかも去年は白っぽいフラミンゴばかりでしたが、今年はほとんどがピンク色です。 中にはくっきりと鮮やかな真紅の翼のフラミンゴもかなりいます。
 みんな餌取りに夢中で、かなり近づいても大丈夫です。
 私も夢中でカメラのシャッターを押しました。


餌取りに夢中


 去年はずいぶん遠くにいたので、写真も遠景で小さくしか撮れなかったのですが、今年は反対にどんどんこちらに近づいてきたので、かなりくっきりと写真が撮れました。

 もう三百枚近く撮ったので、最後にいっせいに飛び立つシーン、真紅と黒の翼を広げて飛び立つ瞬間を撮りたかったのですが、脅かすわけにもいかないので、それは諦めました。


ガンガン音を立てても飛び立たないフラミンゴたち


 その時、近くにいた漁師がブリキの缶をガンガンとたたいて大きな音を出してくれたのですが、フラミンゴたちはビクともせずに夢中で餌を取り続け、一羽も飛び立とうとはしませんでした。


餌は小さなエビ(アミ)などをクチバシの先のブラシで濾して取る


 残ね~ん!でも身近にピンクのフラミンゴをじっくりと見ることができたので、満足、満足!


ポルトガルの温ったか食べ物

2012-11-02 | 各国いまどき報告


 寒くなると日本の温かい鍋物が恋しくなりますね。
 日本式の鍋物とはかなり違いますが、ポルトガルでも鍋物やソッパ(スープ)の種類がたくさんあります。
 その中でも日本人に馴染みやすいのはなんといっても「アローシュ・デ・マリスコス」でしょう。
 海老や貝類と米を一緒に炊いた鍋で、シーフード雑炊といったところでしょうか。


素焼きの土鍋で炊いたラゴスタと蟹入りの「アローシュ・デ・マリスコス」。これで一人前。とても食べきれない。

 
 店によっては小さなラゴスタ(伊勢海老)や蟹が入っています。
 もともとは海辺の町の料理です。
 たっぷりの海老や貝でダシを取って、その中に生の米を入れて芯があるかないかぐらいまで炊きます。

 米の分量は、人によって手の大きさは違うでしょうが、一人分が一握り。
たとえば家族が五人だと米の量は五握りというぐあいで、計量カップなどは使わずにとても大雑把なやりかたです。
 海老や貝でさっとダシを取ったあと、いったん引き上げてから米を入れるのだと思います。
 店によっては海老などがスカスカになっていたりするのは、たぶん出来上がるまで入れっぱなしのせいでしょう。
 
 家庭でもレストランでも米は洗わないで袋からそのまま鍋に入れるようです。
 そうはいっても、袋から出したそのままの米は一回や二回洗っても水が濁っているので、私はある程度洗わないと気になります。
 たとえばスペインの「パエリア」などは米を絶対に洗わないようにとよく聞きますが、自分でパエリアやアローシュ・デ・マリスコスを作る時はさっと洗った米をいったんザルに上げて水切りをしてから使います。
 でもレストランで食べる時はそんなことは気にならないから自分でも不思議ですね。「味が良ければすべてよし」です。

 同じように米の入った鍋物はその他にもいろいろありますが、深海魚のアンコウと米を炊いた「アローシュ・デ・タンボリル」や、タコと米の組み合わせ「アローシュ・デ・ポルヴォ」(タコ雑炊?)も美味しいです。これは大きなタコの足の輪切りがくたくたになるまで柔らかく炊いてあります。

 ポルトガルの鍋物はニンニクと玉ねぎとトマトをオリーヴ油で炒め、それにピメンタ(赤ピーマンの塩漬け調味料)を加えるのがまず味の基本で、出来上がりに塩と胡椒で味を調え、最後にサルサ(パセリ)かコエントロ(コリアンダー)を散らす…ということで、薄味なのにとっぷりと深みのある味です。
 でも自分で作るとなかなかうまくいかなくて、ついついコンソメを少し使ってしまいます。するとどうしてもレストランの美味しい味とはかなり違う味になってしまいます。
 そういう点ではソッパ(スープ)を作るのもとても難しくていつも失敗します。

 ポルトガルではソッパの種類がとても多くて、どれをとっても美味しいです。
 特に田舎のレストランで出るソッパはこくがあっていい味です。

 旅先では昼食はソッパとどっしりした田舎パンとだけで充分なのですが、レストランに入るとそういう食べ方はできないので残念です。
 ソッパから始まってメイン、デザートまで注文するのが普通なので、食べ終わるまでに1時間以上はかかるし、お腹ははちきれそうになるし。
 ポルトガルではとても太った人が多いのは、美味しくてたっぷりの量をいつも食べているせいでしょうか。

 ところで、この頃は大型ショッピングセンターがあちこちにできて、その中にポルトガルのソッパ専門のファーストフード店が出現しました。
 普通サイズのスープ椀ではなく、まるでラーメン鉢のような大きなお椀にソッパをたっぷり注いで、サンドウィッチとセットで売っています。
 これだけでお腹いっぱい。しかも種類が多いのでいろいろ選べるし味も美味しい。
 ソッパとパンだけで簡単なランチを取れることは嬉しいことです。
 それにしてもソッパの量が多いこと! 

 そのチェーン店に対抗してか、最近アメリカ系のファーストフード店でもいろんな種類のスープのメニューを始めたようで、今盛んにTVで宣伝しています。
 でも小さな紙のカップに入って、あまり美味しそうには見えません。

 海岸沿いのシーフード料理「アローシュ・デ・マリスコス」に対して、牧畜の盛んな内陸のアレンテージョ地方には「ソッパ・デ・ペードラ」があります。
 直訳すると「石のスープ」。
 数種類の肉やチョリソ(サラミ)などいろいろ入っていて、なかなかコクのある美味しいものです。


食卓用ステンレスのスープ容器に入った「ソッパ・デ・ペードラ」香りの強いコリアンダーを散らしてある。


 「石のスープ」とは変な名前ですが、たぶんもともとは硬くなった干し肉やクズ肉やチョリソなどそこらあたりの残り物を野菜と一緒に鉄鍋でぐつぐつと煮込んだのが名前の由来ではないかと思います。
 その後聞いたところによると、熱く焼いた石を鍋の中に放り込んで、その熱で調理をしたという由来もあるそうです。

 内陸の地方は冬になると冷え込みが厳しいので、アレンテージョの村の家々には巨大な煙突が付いています。


巨大なえんとつがずらりと並んでいるアレンテージョの村

 
 農家などでは台所の暖炉で一日中薪を燃やして家中を暖めているので、クズ肉や野菜を三本足の鉄の鍋に入れて暖炉の火の脇に置いておくと、いつのまにかじっくり煮込んだ「ソッパ・デ・ペードラ」が出来上がっているというわけです。
 ソッパはもともとそういう作り方をしてきたのでしょうね。

 
暖炉の脇に置いて「石のスープ」などを作る、三本足の鉄の深鍋


 何種類もの野菜や肉を煮込んだソッパは消化も良いし、栄養もたっぷりの料理です。寒い日にはポルトガルの雑炊やソッパを食べると身体がホカホカ温まります。


断崖絶壁エスピシェル岬で祭があった

2012-10-18 | 各国いまどき報告

 エスピシェル岬はセトゥーバル半島の南西の突端に位置し、常に大西洋の荒波に陸地を削られながら、太古の昔から海に向かってそそり立つ。
 崖の上の植物は海から吹き上げる強風に耐え、まるで高山植物のように土にはいつくばって必死で生きている。


断崖絶壁の上に建つノッサ・セニョーラ・ド・カーボ・エスピシェル教会


 岬の突端には石造りの頑丈な教会「ノッサ・セニョーラ・ド・カーボ・エスピシェル(エスピシェル岬の我らが聖母教会)」が大西洋に背を向けて建ち、両脇には小部屋に仕切られた二階建ての宿坊が続いている。
 教会全体がまるで大西洋に向かって開かれた大きな門のようだ。
 1410年ごろ、ここに漁師のための小さな礼拝堂が作られたのが始まりで、その後しだいに規模が大きくなり、たくさんの巡礼者がここを訪れ、宿坊に寝泊りして修行をしていたという。


たくさんの出店が立ち並ぶ広場


 今では宿坊や周りはすっかり寂れてその当時の面影はないが、教会だけは健在で、内部はフレスコ画の壁画や天井画などで豪華に飾られている。
 今も近在の人びとの聖母信仰に支えられていて、毎年9月にこの岬で「聖母様」を讃える祭りが開催される。
 教会の受付の人に尋ねたら、今年は26日から28日までで、28日がいちばん見応えがあるという。

 4時ごろから行列が始まるらしいので、その日はちょっと早めに出かけた。
 3時過ぎに着いたのだが、道路わきはすでに車でいっぱい。
普段は羊飼いと羊の群れしか見かけない荒地も今日は車で埋め尽くされていた。

 かなり遠くにやっと駐車スペースを見つけたのだが、そこにはアル中風の男が待ち受けて車を誘導する仕事をしている。
 彼にとっては稼ぎどきだ。
 気持ち程度の小銭を渡すととても嬉しそうにお礼を言われたので、かえってこちらが恐縮した。


先頭はバトンガールたち


 教会の入り口の広場にはいつもは観光客相手の移動売店が2軒しかないのだが、今日はまるで露店市のようにいろんな店が出ている。
 衣類や小間物雑貨の店やファルチューラス(揚げドーナツ)、炭火をかっかとおこし、もうもうと煙を出して薄切り豚肉を焼いてパンにはさむサンドイッチ屋、そして焼き栗屋、ビスケット屋や蜂蜜屋などたくさんあり、みんなぶらぶらと歩き回りながら買い食いをして楽しそうだ。

 次々にやって来る人々はまず教会に行き、入り口で軽くお祈りをする。
 中ではミサが行われていて、びっしり満席。
 教会の外ではボーイスカウトなどの子供たちが来年のカレンダーを売り歩いている。一冊2ユーロ、私たちも彼らの活動資金の応援のつもりで買った。
 消防団の鼓笛隊や地元警察のブラスバンドもすでに集まって、音合わせや雑談をしながら、ミサが終わるのを待っている。


とても楽しそうに太鼓を打ち鳴らす子供と消防団の鼓笛隊


 夕方5時を過ぎて、ようやく教会の中から司祭や関係者たちが外に姿を現わした。
 いよいよ行列の始まりだ。
 先頭はバトンさばきがぜんぜん揃っていないバトンガールたち、次に小太鼓を抱えた男の子を筆頭に消防団の楽隊、十字架などを持った3人の男たち、そして司祭に従って信者たちが神妙な面持ちで続く。


聖母像の神輿の先頭は十字架などを持つ3人の男たち


地元警察のブラスバンド


 花で飾り立てた神輿の真ん中には聖母像があり、杖を持った4人の年配の男たちが担いでいる。
 以前にもこの祭りを見たのだが、信者たちは真っ赤な長い布を羽織っていた。
でも今年はみんな真っ白の羽織を着ている。どうゆう理由だか分からない?


教会の裏に出て行列はエルミーダ(小さな礼拝堂)に向かう


 行列はゆっくりと広場を回り、それから教会の右脇のアーチをくぐって崖っぷちに向かった。
 崖っぷちといってもとても広い。
 その一角に小さなドームがある。
 それは「エルミーダ」と呼ばれ、「人里離れた場所にある小さな礼拝堂」という意味がある。
 現在ある立派な教会の原点になった礼拝堂で、断崖絶壁のギリギリの場所に建ち、はるか下の海を行きかう漁船からも拝める場所だ。


絶壁ぎりぎりにあるエルミーダ(小さな礼拝堂)でミサがはじまった


聖母像の神輿を担いで絶壁の上を行進。


 行列はここでマリア像の神輿を中心にして司祭の説教が続いた。
 それからまた太鼓と管楽器のゆっくりしたリズムに合わせて歩き始めた。
 この断崖はかなり手前に「ここから先は危険」と書かれた看板がいくつも立っている。


「危険」という看板のある起伏の激しい場所で後続を待つ。


 行列は「危険」という場所をゆっくりと進む。
 足元は固く乾いた土塊がごろごろ、上り下りも傾斜がそうとうある。
そんなところを子供や老人たちがぞろぞろと進んで行く。
 幸い強風や突風は吹いていないので、今日は危険なことはないが…。


危険な場所を老若男女の信者がぞろぞろと行進。


 行列はやがて教会の左のアーチをくぐって広場に戻って行った。
 そのあとたぶんブラスバンドや鼓笛隊の演奏やダンスなどをみんなで楽しむことだろうが、雨がポツポツと降り始めたので、私たちは帰ることにした。


絨毯の町アライオロス

2012-09-22 | 各国いまどき報告

 我が家から車で1時間半ほどの所にアライオロスという町がある。
丘の上には朽ち欠けた古城と教会がそびえ、丘の斜面には低い家並みがへばりつくように建っている。

 この町は昔から独特の絨毯を作ってきた。
 私たちが初めてこの町を訪れたのはもう十数年前になる。
その当時はローカルバスに乗って旅をしていたのだが、バスの窓から見えるこの町の景色が素晴らしく、さっそく降りてみた。

 バスは外回りの道路からぐっと下がって、町のバスセンターに着いたのだが、そこはちょっとした谷間にあたるらしく、バスの車窓から見えた古城はかなり急勾配。
 これは上るのがきつそうだと思いながら、それでも石畳の坂道をゆっくりと古城を目指して上って行った。

 道の両側には低い家が立ち並び、昼下がりの路地にはラジオかテレビの音が聞こえ、どこからかいい匂いが漂っていた。
 石畳の坂道は歩いて上るのはきつい。
頂上に着いたときにはぜいぜいと息を切らしていた。


アライオロスという町の城壁の一部と鐘楼

 古城は石造りの壁と塔が残っている。
その崩れかけた塔の日陰に数人の年配の女性たちが腰掛けて、声高におしゃべりをしながら手仕事をしていた。

 編み物をしているのだろうかと近づいてみると、「絨毯を作っているのよ」と言う。それは1メーター幅ほどの麻糸で織ったドンゴロスで、それを膝に置いて刺繍をしている。
 しゃべりながら赤や青の糸をつぎつぎと刺していくスピードはけっこう速い。
 ドンゴロスの生地に少しずつ模様が現れる。
でもこの生地を全部埋めていくのはきっと時間がかかることだろう。

 私たちは古城の周りを取り囲む城壁に上り、ぐるりと一周して、それから下の町に下りて行った。
 市役所のある広場から伸びた道が町のメインストリートらしく、色々な店が並んでいたが、中でも町の特産品アライオロス絨毯を売る店が数軒もあった。
 店の壁という壁に絨毯を吊るし、床にも所狭しと積み上げてある。

絨毯の柄や色使いは店によってそれぞれ異なる


 一軒ずつ見て歩くと、店によって絨毯の柄や色使いが少しずつ異なる。
 各店がそれぞれ職人をかかえているらしかった。
 古城の日陰で作業をしていた女性たちもどこかの店と契約しているのだろう。

 中でも老舗の風格を感じる店には昔作られた絨毯が数枚展示してあった。
 その頃のものは博物館級なのだそう。
 由緒ある貴族の館やポウサーダ(国営古城ホテル)などでは今でも使われているらしい。
 店に展示してある新品の絨毯。クッションなど小さいものからソファーなどの足元に敷く手ごろな大きさのものや居間の真ん中にドンと敷く大型のものなど、形やデザインは様々。
 でも大きいものは出来上がるまでに半年以上もかかるそうだ。

 時間と手間がかかるだけに値段も高い。
私たちにはちょっと手が出ないので、買うのを諦めたのを覚えている。
 アライオロスの絨毯を家に飾ったり使ったりするのは、ポルトガル人にとって一種の憧れではないかと思う。
 値段は高いけど小さなものでもひとつぐらいは欲しい…と。

 先日、アライオロスで絨毯祭りがあるというので、どんなものかと興味津々で出かけた。
 ところが町に着いても閑散として、観光客らしき人たちがちらほらと行ったり来たり。
 祭りの会場が何処だか、案内板が見当たらない。
 みんな同じところをうろうろ。町の人たちの姿もあまり見かけない。

 日にちを間違ったのか、それとも夕方7時ごろに始まるので今はシンと静まっているのだろうか…。
 絨毯祭りと一緒にガストロミア(郷土料理祭り)もやっているというので、それを楽しみにしていたのだが、どこにも見当たらない。


 ちょうど通りかかった町の人に「ガストロミアはどこでやっているのですか?」と尋ねたが、「さあ…、そこの広場にレストランがあるけど」と言う。
 しかたがないので広場でただ一軒だけ営業しているレストランで昼食を取った。
 その店で食事をしているのは私たちを含め、他所からきた観光客風だ。
 きっとみんなガストロミア目当てで来て、探しだせなかったようだ。

 でもこの店の料理もちょっと変わっている。
 黒豚の炭火焼に添えられていたのは、グリーンアスパラガスのスープにパンを混ぜ込んだもの。
もう一品は「ソッパ・デ・カサオン」(サメのスープ)、これはスープの中にパンが四切れ浸してあり、別皿のサメの切り身にスープとパンをかけて食べる。

黒豚の炭火焼とアスパラガスとパンの練ったもの



ソッパ・デ・カサオン(サメのスープ)

 食事を済ませた後、どうも納得がいかないので、町の外れまで歩いて行った。
 遠くの方にかすかに旗がひらめき、車も数台停まっている。
 ひょっとしてあそこかもしれない! 
でも車の修理工場の看板が見える。
「なんだ?」とがっかりしながらさらに進んだところ、工場の向こう、一段と低くなった所に体育館のような大きな建物があり、人びとが出入りしている。
そして祭りの大きな看板がようやくあった。

 中に入ると特設のレストランがあり、大勢の客が食事中。
 こんな所で隠れるようにガストロミアをやっている。
 街じゅうのレストランが店を閉めて町外れの会場で営業していたのだ。

 絨毯祭はどこで? 
 街なかを歩いても絨毯屋は全部閉まっていたので、この会場のどこかでやっているはずだと思い、探すと、壁で仕切られた会場の奥に、絨毯の店がそれぞれ特設展示をしていた。

アライオロス絨毯の特設会場


 食事を済ませた人たちが絨毯を品定めしている。


絨毯の品定めをする人びと


手の込んだ複雑な図柄の絨毯

 せめて写真だけでもと、パチパチ撮って「はっ」と気が付くと、壁には「撮影禁止」の貼り紙が。
というわけでせっかく探し当てた絨毯祭りは写真が思ったようには撮れなかった。





ポルトガルの闘牛

2012-09-20 | 各国いまどき報告


 ポルトガルの夏は闘牛と共にやって来るといったら少し大袈裟でしょうか。
 毎年5月半ばごろから10月半ばごろまで、あちらこちらの町で開かれます。

 ほとんどの町には専用の闘牛場があり、大きな町では月に数回、闘牛が開催されます。
 出場する闘牛士やフォルカドスや牡牛の写真入りポスターが街中の壁にベタベタと張られ、直前になると宣伝カーが「今晩の闘牛は牛6頭、闘牛士は~、フォルカドスは~」などと大音響で叫びながら街中を走り回ります。


廃墟の壁に張られた闘牛のポスター

 闘牛は夜10時から始まり、夜中の1時ごろまで続きます。
 出場する牛は6から7頭、闘牛士は4人から5人。
 そして、今まで男だけの仕事だった闘牛士の世界にも最近は女性の闘牛士が次々にデビュー。
 彼女たちは若くて美人ぞろい、そのうえ激しい闘志の持主だろうと思います。
なにしろ600キロもある牡牛と真正面から向き合って、何本もの槍を打ち込むのですから大変な精神力と体力がいることでしょう。
でも、女性が巨大な牛を相手に戦う姿はちょっと痛々しい感じ…がします。

 ところで、ポルトガルの闘牛はもともと貴族の農園での遊びから始まったものではないかと思います。
 たてがみや尻尾をリボンで美しく飾り立てられた、サラブレッドのようにしなやかで華奢な馬。
 貴族の衣装を身にまとった闘牛士がその馬にまたがり、筋肉隆々の牡牛と対決して背中に次々と槍を突き刺します。
 闘牛士がいかに華麗に馬を乗りこなすかがひとつの見所で、闘牛士はまず馬術の達人であることが条件です。
 地上で牡牛と対決して、いかに美しく牡牛を殺すかを見せるスペインの闘牛士とはこのあたりが全然違います。

 さて、馬上の闘牛士が牡牛をある程度征服したら、次に登場するのが素手で闘いを挑む8人のフォルカドス。
 闘牛士が貴族だとしたらフォルカドスは農民たちというところです。
 槍を何本も背中に突き立てられて呆然としている牡牛に対して8人が縦一列になり、先頭の男が牡牛に向かって挑戦状を大声で読み上げます。

 何度も挑発された牛は猛然と先頭の男を目がけて突進すると、男は正面から牛の顔に覆い被さり、他の男たちも手助けして彼が振り落とされないようにいっせいに牛に取り付きます。
 手負いの牡牛の突進力は強烈で、タイミングが悪いと跳ね飛ばされたり、周りの囲い板に押し付けられて頭突きをされたりしてとても危険です。
 先頭の男が振り落とされたら、もう一度再挑戦。
 それでも失敗したらまた挑戦して、自分の名誉にかけて戦います。

 うまく牛を押さえ込んだら、その中の一人が牡牛の尻尾をつかんでぐるぐる回り、牛が観念したらフォルカドスの勝ち。
 そこに馬に乗った牧童が二人、6頭の雌牛を引き連れて入ってきます。
 雌牛たちはのどかな鈴の音を響かせながら戦い敗れた牡牛を取り囲み、静かに場外へ連れ出します。
 ここで牡牛がまだ気力満々だったらちょっとひと騒動、雌牛に八つ当たりして大暴れ。
 でもたいていの場合、牡牛は急におとなしくなって雌牛たちについて行くのです。
 戦い終わって舞台から去って行く牡牛の後ろ姿にはなんだかホッとした哀愁が漂っています。


 …ここまでは闘牛場で行われる正式な闘牛の話でしたが、それとは別に、街中の通りに牡牛を放つ闘牛祭りがいくつかの町で催されます。
 
 そうした町は昔から有名な闘牛士やフォルカドスが出ている所で、町を上げて熱狂的な闘牛ファンで盛り上がっています。
 そのうちのひとつがアルコシェッテという町で、毎年8月の第2週に「闘牛祭」があります。


身を乗り出して観戦する人々。

 祭の間は一部の通りを閉鎖して頑丈な木の柵で囲い、道には砂をぶ厚く敷きつめてあります。
 闘牛場の前から街中を抜けて川岸まで通じる一本の道を全部砂で埋めてしまうのだから、そうとうな砂の量です。
 各家の入口は頑丈な板塀が立てられているので、牡牛が頭突きをしてもだいじょうぶ。
 牡牛に追いかけられた時に逃げ込む場所もかねています。

 祭の期間中は何回も牛を放つのですが、私たちは朝10時からのを観に出かけました。
 教会の前の大通りが今日の舞台で、もうすでに大勢の観客が両脇に陣取って声高に喋り興奮気味。
 柵の中には血の気の多い男たちが牡牛の放たれるのを今か今かと待ちかまえています。


儀式の始めと終りに登場する牧童たち。6頭の雌牛たちが後ろから走ってくる

 やがて花火のドンという音がして、闘牛場の方から馬に乗った牧童が二人、雌牛たちを引き連れてやって来ました。
 儀式の露払いというところです。
 彼らが引き返すといよいよ始まり。

 観客の中から「我こそは!」という男たちがぞろぞろと柵の中に入ってきます。
 解き放たれた牡牛はまるで弾丸のように勢い良く走ってきて、待ちかまえていた男たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ、高い柵の上に飛び上がったり、街路樹の枝にとっさによじ登ったり、すばやく逃げ場を確保。
 牡牛は勢い余って柵にあたり、尖った角でガンガンとゆすっています。


みんな必死で柵の上に飛び上る。

 いったん逃げた男たちの大部分は柵に片手をかけていつでも柵外に飛び出る姿勢をとっていますが、何人かはまた牛に近づいて挑発します。
 そして怒った牛がきびすを返して直前に来るまで持ちこたえて、ギリギリのタイミングでヒラリとかわしたり、家の入口に作られた防護壁の後ろにすばやく隠れたり、中には逃げ場を失って人の家の窓に頭から飛び込んだり…。


他所の家の窓だろうと何だろうと飛び込む。間一髪、牡牛の角は防護柵に突き刺さった。

 窓にはその家の人たちが並んで外を見ているので、外から飛び込む隙間はないはずなのに…。
 飛び込んだ男はどこかでしたたかに頭を打っているに違いないのですが、すぐにまた柵内に姿を表わすのです。よほどの訓練を積んでいるのですね。


牡牛を挑発する若者。

 ずぶの素人である彼らは何も持たず、素手で牡牛に挑戦するのですから、プロのフォルカドスのように正面から牡牛を押さえ込むのはとても無理です。
 しかも闘牛場では牛の角はカヴァーがしてありますが、路上の牛の角はカヴァーなどはなく、鋭く尖ったままでとても危険です。
 だから、牡牛の身体をちょっとさわるだけでもかなりの勇気がいることでしょう。

 柵の外には救急車が最初から待機しています。
 血の気の多い若者たちはそれでも牡牛を挑発して、ギリギリまで我慢して度胸試しをするのです。
 自分もいつかフォルカドスか闘牛士になれる日を夢見て。







葡萄の収穫祭ヴィンディマシュ

2012-08-28 | 各国いまどき報告

 セトゥーバルの郊外、パルメラでは恒例の葡萄収穫祭ヴィンディマシュが始まりました。
 8月下旬から9月初旬の6日間、様々な行事が行なわれます。
 町の高台にある広場を中心に周囲の道路は意匠を凝らしたイルミネーションが飾られ、路上には屋台がずらりと並び、移動遊園地もできています。

 セトゥーバルの近郊にはワインの酒蔵所が大小取り混ぜると10数軒以上あり、フランスやドイツのワイン品評会で受賞した高級ワインメーカーや、1本1ユーロほどの大衆向けワインを出荷する会社など様々です。
 そうした酒蔵所が高台の公園に模擬店を構えて自慢のワインを並べているので、あちこちの店を渡り歩いて試飲ができます。

 普通のワインの他に、セトゥーバルには「モシュカテル」というのがあって、食前酒やデザートワインとして愛飲されています。


左の3本はモシュカテル・セトゥーバル。右端は、2005年パリのワイン品評会で銀賞を受賞したパルメラワイン。


 モシュカテルは元々、ローマ人によってもたらされたそうです。
 紀元前2~1世紀ごろイベリア半島はローマ人に統治されていて、セトゥーバルに住み着いたローマ人達は塩田を開き、イワシの塩漬けなどを遠方の町に運んでいました。
 その頃にマスカットの苗木を持ち込んで、セトゥーバルのアラビダ山麓で栽培したのが「モシュカテル」の起源だそうです。
 甘くて香り高いモシュカテルは、夏の熱い太陽の下、冷やして飲むと格別の美味しさです。


2メーター四方の枡に運び入れた葡萄を踏み潰す男たち
 


 パルメラの葡萄収穫祭のハイライトは何といっても日曜日の朝に行なわれる「ピザ」(葡萄踏み)でしょう。
 サン・ペドロ教会の入口の階段に2メーター四方の浅い枡が作られ、そこに摘み立ての葡萄を次々に運び入れ、数人の男たちが素足で踏み潰していきます。
 葡萄の房は小さな粒がびっしりと付き、まるまると太っています。
緑の葉っぱが付いたままの葡萄を男たちがグシャグシャと潰すたびに豊富な果汁が桶の中に溜まっていきます。


教会の前で葡萄の収穫祭ヴィンディマシュ


 民族衣装を着た小さな子供たちが葡萄の入った網かごを手に教会の階段の下に座り、その様子を見あげています。
あどけない子供たちはまるで天使のよう。
 その間に、広場では民族服を着たグループが地区ごとに出て、フォルクロア(フォークダンス)が始まりました。
 葡萄摘みの農民の服装で、アコーデオンなどの演奏と甲高い歌声に合わせてクルクルと激しく軽快に踊ります。
 広場の周りには観客が大勢集まり、葡萄踏みの進行を見ながら、フォルクロアを楽しんでいます。


農民の服装でフォルクロア(フォークダンス)


 教会の階段の横には特設台があり、そこには数人の奇妙な服装の人たちが並んでいて、全員が黒い帽子を深々と被り、海老茶色の長いマントで身をつつんで神妙に何かを待っています。
 やがて葡萄踏みが完了して、枡の栓を抜くと、絞り汁がドバドバと勢いよくほとばしり、それを大きなジョウゴで受けて壺に入れました。
 今年の葡萄の初絞りです。
 その壺をマントの集団が待ち受ける台に運び、ガラスの試験管のような容器に移し替えました。


葡萄の一番絞り汁を甕に入れる


 マントの集団、彼らは葡萄の出来具合を調べる検定官なのです。
 団長が容器に入った一番絞りをおごそかに調べ、なにやらメモを書き付けました。
そして今年の葡萄の出来具合が発表されました。
 「糖度3.1」とアナウンスされたとたん、関係者や観客から歓声と拍手が起こりました。
その様子から、今年のワインは天候不順にも関わらず、上出来のようです。


葡萄の出来具合を真剣に計る検定官たち


 評価の終わった一番絞りの液は小さな樽に移されて、それを持った女性が教会の階段を登って、入口のドアの前で待ちかまえていた神父に奉納しました。
 受け取った神父は広場の人々に向かって短い説教をしたあと、教会の中に入って行き、それに続いてマントの集団や関係者や信者たちがぞろぞろと後ろに従いました。
 近郊から数台のバスを仕立てて信者たちが詰め掛けているので、かなりの人数です。これから特別なミサが始まり、ミサの様子はTVで実況中継されるとのことです。

 私たちは信者ではないので遠慮して、模擬店や露店の立ち並ぶ公園に向いました。


各ワインメーカーが出展している模擬店で一杯


 イルミネーションで飾り付けられた通りから楽隊の演奏が聞こえてきますが、どこにいるのだろうと見回すと、ずっと前を行く4人のおじさん達がそれらしき感じです。
 それにしても怪しい音色、怪しき音程です。
 駆け足で追いついてみると、4人はかなりの年のお爺さんたちです。
バグパイプ、大太鼓、小太鼓にクラリネットを持って、歩きながら真剣な顔で演奏しています。
音程は怪しいけれど、なんとも素朴でほのぼのとした感じです。


4人の楽隊


 高台の公園ではワインの模擬店が3軒だけ開いていますが、他の店は夜の8時ごろにならないと開店しません。
 それでも公園の木蔭ではのんびりとベンチに腰掛けたり、ぶらぶらと散歩する人たちもけっこういます。
 そんな中を4人の楽隊は「ピーヒャラ、ドンドコドン?」と演奏しながら行進していました。


夜9時過ぎから祭りは賑う


 祭の最終日は、夜中の1時にパルメラのお城から百連発の花火が打ち上げられます。今年も美味しいワインができそうで、良かった、良かった!




アレンテージョ地方の民芸陶器

2012-08-23 | 各国いまどき報告

 祭り時期になると遊園地やいろいろな露店に混じって民芸陶器の露店が並びます。
 このごろは祭の会場が郊外に移ってしまったのですが、それまでは町のど真ん中にある大通り公園で3週間ほども開かれていました。
その間、露店の商人たちは店の奥にテント張りの住居スペースを作って、食事をしたりシャワーを浴びたり、テレビまで揃えて一家総出で商売をしながら長期のキャンプ生活をしていたものです。

 売っている陶器は店によって少しずつ違うのですが、どれも素朴な暖かい温もりを感じるものばかりです。
 私たちは祭りが始まると毎日の様に出かけてはブラブラと歩いて出店を冷やかしながら、小さな物を買ったりしていました。

 毎年、見ているうちに産地の特徴がだんだん解ってきました。
特に気に入ったのが、アレンテージョ地方の民芸陶器です。
大皿に描かれた花模様は花には違いないのですが、摩訶不思議に図案化されて、しかものびのびとした線です。

その他にもたとえば、石に腰かけて休憩している羊飼いと犬が描かれた水差しとか、オリーヴ入れの器には夕日を浴びる黒豚とか、コルク樫から剥ぎ取ったコルクを肩に担いで家に帰る農夫とか、マタンサ(豚の解体作業)図とか、日本人の目から見てびっくりするような題材をまるでスケッチをするように、陶器に描いているのです。

 そうした陶器はどこで作っているのか、窯元に行ってみたいと思っていました。それが偶然見つかったのです。
 それはポルトガルに住み始めた最初のころで、スペインとの国境の近く、山頂にある砦の村モンサラシュに行った時のことです。


二百年の歴史があるサン・ペドロの窯元


 そのころ私たちはローカルバスを乗り継いで旅をしていたので、翌朝、バスを待っていた時、同じ民宿に泊まっていたポルトガル人で新婚旅行中のカップルに声をかけられて、彼らの車に乗せてもらって次の村まで行くことになりました。
 その時彼らはすぐ近くの村にちょっと寄り道をして陶器を買いたいとのことで、寄ったのがサン・ペドロという民芸陶器の村だったのです。

 軒先に絵皿や壺などを飾った数軒の古い家。
 そのうちの一軒の土間に入ると、二人の女性が小皿に絵付けをしている最中でした。
 それは露店で見かけて「いいな」と思っていた青い絵皿と同じ絵付けだったのです。私たちは小躍りして喜こびました。
 彼らは家族へのおみやげに大皿を買い、私たちは彼らに結婚祝いに大皿を買ってプレゼント。
もちろん自分たちのためにも大皿を一枚買ってリュックに入れて担いで帰りました。


最初に買った青い大皿(サン・ペドロ産)


 その後も何回も訪れましたが、粗末な古家はいつの間にか大きくて立派な家になり、今では道の両脇には10数軒の窯元が建ち並んでいます。


歴史の染み付いた古い窯跡が展示場になっている(サン・ペドロ)




絵付けをする女性たち(サン・ペドロ)



 サン・ペドロ村から車で1時間ほど走ったところにあるルドンドも私の好きな民芸陶器の町です。


ルドンドの窯元入口



オリーヴの実の収穫が描かれたオリーヴ入れ(ルドンド産)



野原で休憩している羊飼いと牧羊犬(ルドンド産)





 旧市街の広場にある大時計台をくぐると磨り減った石畳の道が一本あり、道沿いに窯元が一軒あります。
 入口に絵皿を掛けた看板が出ていなかったら、その家が窯元だというのが判らないほどひっそりとしています。
 ぽっかり開いた入り口から恐る恐る中に入ると、薄暗い土間の奥で主人が一人でロクロを回していて、さらに奥に進むと明るく広い土間には焼きあがった製品が所狭しと並べてあります。

 その店を出てすぐに古い石の門があり、これをくぐると町の外に出てしまいます。
 この門は旧市街を囲む城壁の一部で、「ポルタ・ダ・ラベッサ」(ラベッサ門)という名前です。
 ルドンドは美味しいワインの産地で、町を代表するワインにこの門の名前が付けられ、ビンのラベルにはこの門が描かれています。

 このラベッサ門をくぐって外に出た所に別の窯元がもう一軒あります。
ここは入口も窓も全部開け放っているので、道路からでも中の様子が見えます。
 女性たちが数人でお喋りをしながら絵付けをしたり、奥ではロクロを回して大きな皿や壺を作っています。
 出来上がった製品がいたるところに置いてあるので、「どうぞ中に入って」と女性たちがせっかく呼びかけてくれるのですが、うっかり触ると落としてしまいそうで、いつも外から覗き込むことになります。

 ルドンドの絵付けはサン・ペドロのよりももっと素朴で、焼きもあまいのですが、そんな中から勢いのある思いがけない味わいの陶器を発見できるのが楽しみです。
 絵付けをするのはほとんどが女性です。

 もともとは農閑期に家族で作っていたものでしょうから、その家の男たちがロクロを引き、乾いた製品にお婆さんやその家のおかみさんや娘たちが家事の合間に絵付けをしていたのでしょう。
 同じような柄に見えても作者の性格や個性が絵付けに現われて、大胆にのびのびと描いたものや、几帳面な描き方など様々です。
そして陶器の底に金釘で引っかいたようなサインにもそれが現われているようです。

果実柄大皿(ルドンド産)



 このごろ陶器市ではこうした手作りの製品がだんだん少なくなり、大量生産のガラクタ陶器が並べられているので、かなりがっかりしています。
 時々、産地の窯元を訪ね歩いて掘り出し物を見つける旅をしなくては…。




「アジの南蛮漬け」そのルーツは?

2012-08-06 | 各国いまどき報告


 私の住んでいる町から車で3時間ほど東へ走ると、もうスペインとの国境。
国境に近い町や村では人々の喋る言葉もどことなくスペイン風に聞こえます。
もともとこの辺りは国境のない時代が長く続いて、スペインのアンダルシア地方とポルトガルのアレンテージョ地方は一つ(行政区)だった時代もあるほどです。

 料理にも同じ様な物が見られます。
スペインとの国境まで30キロという町セルパに行った時のことです。
 セルパは内陸の町なので、冬は寒く、夏は猛暑という寒暖の差が激しい所です。
家の屋根には冬の寒さを防ぐために大きな煙突があり、家々のぶ厚い壁は夏の強い日差しを跳ね返すためにまっ白に塗られています。
 私たちが行ったその日も強い日差しに照り付けられて、頭がボーッとなりかけました。


大きな煙突と白く塗られたセルパの家


 こんな時は何か冷たい食べ物が欲しくなります。
路地を曲ると小さなレストランがあり、入口に張ってあるメニューを見ると、「ガスパショ」が目につきました。
 
「ガスパショ」はスペイン語で「ガスパチョ」と発音します。
 スペインのセヴィリアには夏の名物料理「ガスパチョ」があります。
簡単に言えば、冷たいスープ。
 数種類の野菜に香辛料やダシ汁を加えミキサーにかけたものです。
 私たちも以前7月のセヴィリアに行った時、毎日40℃を越える酷暑の中で町を観光したのですが、その時この冷たいガスパチョを食べてスーッと生き返る思いがしました。それはキュウリ味のドレッシング風のスープでした。

 その「ガスパチョ」をポルトガルのセルパで発見! 
リスボンやセトゥーバルでは見かけないメニューです。
昼食はその店に決定しました。
 
 扉を開けるとバル(バー)になっていて、カウンターの椅子には店の主人が暇そうに腰かけていましたが、私たちの姿を見て、のっそりと立ち上がりました。
 まだ12時になったばかりなので、私たちの他は誰もいません。
「ガスパショができますか?」と尋ねると、カウンターの奥の部屋に案内されました。

 食卓が六つしかない小さなサラ(食堂)です。
天井に目をやると、中心から四方八方に細木が張ってあり、そこには無数のキーホルダーがぶら下がっていて、その数の多さに驚きました。
 この店の主人のコレクションなのでしょうが、何から何まで手当たりしだいに買い集めたような感じで、中には吹きだしそうなものまであります。


天井にびっしりと飾ってあるキーホルダー。まだまだ下げる所があります。


 天井の真ん中からさがっている電球の笠は、小麦粉をふるうのに使われていたザルを廃物利用したものです。
その他にもいろいろな物が壁のあちこちに飾ってあり、それを見ているだけで退屈しません。
 うさぎの絵が描かれた時計には店の名前「Toca de Coelho」と書いてあります。
「兎の穴」という意味で、店を見回すとなんとなく合点したくなる雰囲気です。


 ところでメニューを改めて見ると、「ガスパショ・コン・カラパウフリット」となっています。
ガスパショに小アジの唐揚げが付いているのです。
 
 店の主人はテーブルにセットしてある皿をスープ皿に取り替えました。
そしてまずパンとオリーヴの実と羊のチーズが運ばれてきました。
パンはどっしりと焼き上げた田舎風のパン。
もちもちとねばりがあって美味しいので、次々と口にしてしまいます。

 きりっとよく冷えた白ワインと、つまみは刻んだニンニクを一緒に混ぜ込んだ塩漬けオリーヴ。
羊のチーズは匂いが独特なので、私はちょっと苦手です。
 
 ポルトガルのチーズは羊の乳を原料にしたものがほとんどです。
ポルトガル人に言わせると、匂いがきついほど美味しいそうで、露天市などのチーズ屋では買物客がいちいち匂いをかいで選んで買っています。
中には10歳ぐらいの子供が一人前に匂いをかいで真剣に品定めしている姿を見かけて、おもわず笑ってしまったこともありました。


冷たいガスパショと熱々のカラパウフリット(二人前)


 しばらく経つと料理ができあがり、店主はひとかかえもあるどんぶり鉢をデンとテーブルに置きました。
中にはキュウリやトマトなどザクザク刻んだ野菜とサイコロ状にカットしたどっしりパンもいっしょに入っています。
次に運ばれてきた小アジのフリットは揚げたての熱々です。
 取り皿にまず熱々のカラパウフリットを数尾置いて、その上に冷たいガスパショをかけて食べるのだそうです。
 ガスパショのことを店の主人に聞くと、味付けはニンニクとオレガノやローリエなどの香辛料と酢、塩胡椒、少量の水、オリーヴ油で和えるのだと教えてくれました。

 その後訪れた町、手作りの絨毯で有名なアライオロスでも、オリーヴ油の産地モウラでもガスパショが郷土料理のメニューとしてありました。
 
 どちらも夏の暑さが厳しいアレンテージョ地方にある町です。
 
 セヴィリアのガスパチョとは見た目がかなり違いますが、これをミキサーにかければドレッシング風になるから、基本的には同じです。


ガスパショには刻んだパンも入っている。パンを除けばまるで「アジの南蛮漬け」

 
 ポルトガルのガスパショは野菜やパンを刻んだままの状態です。これを小アジのフリットにかけると、何だか懐かしい料理ではありませんか? 
 これは日本の家庭でもよく作る「アジの南蛮漬け」そのものです!
 しかも「南蛮」と言えばポルトガルを指す言葉です。
 
 この「ガスパショ・コン・カラパウフリット」は、日本の「アジの南蛮漬け」のルーツかも…?


サルディーニャ(イワシ)の季節

2012-07-23 | 各国いまどき報告


 夏本番!ということはサルディーニャ(イワシ)の季節が真っ盛り。
 ポルトガルのイワシは美味い! 
でもイワシは一年中あるのではなく、6月ごろからメルカド(市場)に並び始め、9月にはほとんど姿を消してしまいます。

 6月の走りにはまだ型も小さくて脂もあまりのっていないのですが、7月ごろにはかなり大きくなって味も良くなり、値段もぐんと下がります。
 8月の声を聞くころにはイワシはぼってりと肥え太り、腹には卵や白子が詰っています。

 メルカドで見ていると、ポルトガル人はどういうわけか大きいものより小さなイワシを買う人が多いようです。
 私はいつもまるまると太ったのを選んで買います。
脂がこってりとのって、そのうえ腹わたがまた美味しいのです。
まるで鮎のように、青海苔の香りがします。
 鮎は清流の青海苔を食べて大きくなるそうですが、ポルトガルのイワシも大西洋の青海苔を食べているから、腹わたまで良い香りなのです。
 1キロ買うと12~3尾もあるので、その内の特にコリコリと活きの良い数尾を刺身用にさばいて、残りに塩をして焼き魚にします。

 以前は近所の人の真似をしてベランダで炭火をおこして焼いていました。
 パチパチ飛んだ火の粉が危ないので、濡らした布を床に敷き詰めて細心の注意をしながら炭火焼をしたものです。
 でも、長年住んでいるうちに周りの松の木がどんどん大きくなり、ベランダのすぐ近くまで枝を張るようになりました。
 夏になると全国で山火事のニュースが毎日の様に流れるし、「こりゃいかん」ということで、涙を飲んでベランダでの炭火焼をやめました。
そのかわり上に熱源の付いた電熱器を買って、キッチンで焼き魚をするようにしました。

 煙はほとんど出ないので室内で使うには重宝ですが、炭火焼きに比べたら味がぐんと落ちます。
 しかたがないなと諦めていますが、決して諦めないのが、下の階に住んでいるメルローおじさん。
 土曜日になると、いそいそとメルカドに出かけて魚を買ってきます。
そして二階から炭火焼のコンロや炭などの一式を抱えて下りて、玄関の外の駐車場で火を起こして魚を焼き始めるのです。
 うらやましい! 
 でも我が家は4階なので、下まで降りて炭火焼をするのは体力的にとても無理です。
そのかわり、時々レストランに出かけて炭火焼を味わうことにしています。


新鮮さを自慢する炭火焼おじさん

 セトゥーバルのレストランはほとんどの店が道端に大掛かりな炭火焼のコンロを常設していて、冷蔵ショーケースには様々な魚が飾られています。
 お客は店の人と自分の財布とに相談しながら魚を選んで注文します。
 あとはオリーヴ漬けをあてに、ワインやよく冷えたビールを飲みながら、プロが焼いてくれる魚が運ばれてくるのをゆっくり待つだけです。
プロの技術と炭火焼の煙が協力してできあがった焼き魚の味は、電気コンロで焼く魚の味とは雲泥の差です。



サルディーニャ(イワシ)の煙がもうもうと漂う

 今日は久しぶりに港に面したレストランに出かけてイワシを注文しました。
港の中には小さな漁船がたくさん見えます。
午前中の漁を終えた漁師たちはいったん家に帰って家族と一緒に昼ごはんなのです。

 レストランの前は広い石畳の舗道になっていて、そのほとんどを占拠するようにテーブルが並べられ、炭火焼の大型コンロと冷蔵ショーケースが常設してあります。



ほら、焼き上がったよ! 炭火焼の大型コンロ


 私達は店の中よりも外のテラス席の方が好きなので、いつも外に座ります。
巨大なパラソルが重なるように広げてあるので、強烈な太陽の熱とそしてカモメの糞の被害にあわなくてすむので安心です。
まったくカモメの糞はどこから落ちてくるか判らないから困ったものです。

 海からのさわやかな風に吹かれて冷たいビールを飲んで待つうちに、こんがりと焼けたイワシが運ばれてきました。
 大皿にぎっしり。
少し小ぶりだけど二人分で18匹もあります。


これで二人前。とても食べきれない!

 セトゥーバルっ子の自慢の食べ方に見習って、パンの上にイワシを一匹まるごと乗せて、骨を身からはずします。
イワシの脂がパンにしみこんでバターいらず、とても美味しい。
 イワシが新鮮だから頭から尻尾まで、腹の骨も一本残らずみごとに抜き取れます。
これはセトゥーバルの漁師の食べ方で、粋なセトゥーバルっ子はこうやって食べるのです。


パンに乗せてイワシをむしる

隣に座った老夫婦も私たちと同様イワシを注文して、ご主人はパンの上でイワシの身を手づかみでほぐしながら食べています。
 奥さんはというと、さすがにそこまではしないでナイフとフォークを使ってお皿の上でイワシの骨をはずし、パンは別にちぎりながら食べていました。
 やはり女性は「手づかみで…」というわけにはいきませんね…。