この町に住み始めたころ、路地を歩いていると小さな食堂の店先に
「HA CHOCO FRITO」の張り紙が目に付きました。
「チョコ?」とは何だろう?
フリットは揚げ物のことです。
すぐに頭に浮かんだのは「アイスクリームの天ぷら」です。
チョコアイスの天ぷら?
でも、どう見てもこの店には不似合いなメニューです。
それから気を付けていると、その張り紙はあっちの店でもこっちの店でも目に付きました。
黒板に手書の看板。読みは「ア・ショコフリット」、Hは発音しません。
アディガ(一杯飲み屋)だったり、セルベジャリア(ビアホール)の店先であったり。
セルベジャリアのメニューはレストランとほとんど変りはなく、しかもたいていの場合値段が安い、大衆食堂といったところでしょうか。
ある日、セルベジャリアの張り紙を見て思い切って注文しました。
「チョコフリットを」と言うと、ウェイターは少し首を傾げてから、「ああ、ショコフリットね、オーケー」とうなずきました。
「チョコではなく、ショコ」と読むのだったのです。
いったいどんなものが出てくるかと少し不安でしたが、運ばれてきた料理はアツアツ揚げたてのイカの唐揚げでした。
私たちがよく行く店「CAIS(埠頭)56」のショコフリット
お皿に山盛りのショコフリットはカラッとパリパリ、一口食べるとジュワーッとイカの甘味が広がりました。
ショコとは紋甲イカのことでした。
身は厚く3センチほどもあります。それでいてとても柔らかいのです。
「う、うまい!」
それ以来、すっかりショコフリットのファンになりました。
これで二人前。とても食べ切れないほどのボリュームがうれしい。
自分でも作ってみようと思って普通のサイズのショコを使って唐揚げをしましたが、お店のようにカラリとはできません。
それに普通サイズのショコではジュワーッとした感触は味わえないのです。
お店で出すようなぶ厚いのはそうとう大型のショコだろうと思います。
メルカド(市場)の魚屋には大きなショコを並べている店があります。
見たところ長さが50センチ以上もあり、重さも10キロはあるかもしれません。
店で出てくるショコフリットはたぶんこれくらいの大きなものを料理しているのでしょう。
メルカド(市場)のショコ専門店。値段は、普通のショコも巨大ショコも1キロが5ユーロ。
自分たちでこんな大きなショコを買ってもとても食べきれないし、第一さばくのがひと仕事です。
それにイカの唐揚げなどを家ですると大変です。
突然パシーッとはねて、あたりが油だらけ、下手をするとやけどをしてしまいます。
やはりショコフリットは外食するのが一番です。
セトゥーバルには漁港がふたつありますが、そのうちのひとつコメルシオ港には対岸のトロイア半島とを結ぶフェリー乗り場があります。
フェリーは年中無休で車と乗客を運んでいます。
夏は、普通の乗客に加えて、トロイアのビーチに行く海水浴客がフェリーに乗るために詰め掛けて大にぎわい。
港の前の道路沿いにはそうした客を相手にレストランが軒を並べています。
ほとんどの店が海老や蟹の茹でたものや魚の炭火焼などを出しています。
レストランといっても元々はセルベジャリアや軽食を出すバルなど、昔からある大衆食堂です。
その中で食事時になると行列のできる店が2軒あって、どちらもショコフリット目当ての客がやってきます。
特に土曜、日曜などは席が空くのをかなり待つほどです。
美味しくてしかも安いので、電話で注文して取りにくる人も多いです。
私たちがよく行く店は「埠頭56」、もう一軒の店は「ショコフリットの王様」という名前で、どちらもよく流行っていますが、「王様」の方がやや多いのは、ネーミングのおかげでしょうか。
ところで不思議なことに、普通のレストランのメニューではショコフリットは見かけませんし、ショコフリットに限らず、揚げ物、フライなどの料理もほとんどありません。
たぶん、もともとはバルやアデェガなどでビーニョ(ワイン)やセルベージャ(ビール)のつまみに出していたのではないかと思います。
首都リスボンの大衆食堂では太刀魚の天ぷら風がありますが、ショコフリットは見たことがありません。
反対に、セトゥーバルでは「太刀魚の天ぷら風」は一度も見かけません。
リスボンとセトゥーバルは車で40分ほどで行き来できる近さなのに、どうしてかな~と首を傾げてしまいます。
近頃ますます「ショコフリット」と掲げた店が増えて「セトゥーバル名物ショコフリット」になる勢いで、今では近郊の町でもメニューに加える店が現れ、前を通ると店の壁に「HA CHOCO FRITO」(イカの唐揚げあります)の張り紙を見かけます。
ショコが描かれた看板と三枚のナンバープレートに焼き付けたユニークな看板
ポルトガルの初夏から夏はカタツムリの季節です。
日本はちょうど雨の多い梅雨どき、紫陽花の花が雨に濡れ、葉っぱの上にはカタツムリの姿が…日本の初夏の風物詩ですね。
でも今回はカタツムリを食べる話をお伝えしましょう。
カタツムリ料理といえば、フランスのエスカルゴはあまりにも有名ですね。
大きなカタツムリにパセリ入りのガーリックバターを上から詰めて、オーヴンで焼くものですが、一人前6個が専用の皿で出される高級な前菜です。
カタツムリのことをフランス語ではエスカルゴ、ポルトガル語ではカラコイスと言います。
ポルトガルの食べ方は素朴で簡単、バターを使わないので健康にも良いし、しかも庶民的な食べ物です。
食堂やバルの店先には「カラコイスあります」という紙が張られ、道端のテラスでは人々がキーンとよく冷えた生ビールを片手に、小皿に盛られたカラコイスをつまんでいる姿を見かけます。
小指の先ほどの小さなのを虫ピンでひとつずつかきだすのはけっこう面倒な作業ですが、次から次に手が伸びて、食べ出したら止まらない…。
一日の仕事を終えた人々が夕食前のひと時を楽しんでいる姿…ポルトガルの夏の風物詩です。
露天市でも、大中小と3種類のカラコイスとオレガノの乾燥花束を売っている。
街角ではカラコイス売りの店が出て、荷車に山のように積み上げたカラコイスを量り売りしています。
積み上げた山の真ん中には香りの強いハーヴ、オレガノの花束が挿してあり、カラコイスがびっしりとよじ登っています。
種類は小さなものや、日本でよく見かけるカタツムリとそっくりなものや、もっと大きいのまで数種類あります。
1キロで3ユーロ
その中でもみんなが好んで食べるのは小指の先サイズのカラコイス。
街角や露天市の出店にも3キロとか5キロ入りのアミ袋詰めがいくつも置いてあり、この袋入りを買っている人をよく見かけます。
親戚一同が集まって、まずカラコイスを当てにビールやワイン、次にイワシの炭火焼で土曜の午後を楽しむのでしょう。
木蔭のテーブルでビールとカラコイス
日本の夏は湿気ムンムンで青草が勢いよく繁っていますが、ポルトガルはこの時期、全くと言ってよいほど雨が降らないので、道端や空地の草はすっかり枯れて黄色い枯れ野原になっています。
乾燥しているうえに強烈な太陽に何もかも焦がされるので、ほとんどの植物は地上の葉を枯らし、地中でじっと身を潜めて雨期が来るのをひたすら待っている状態です。
枯れ草には小さなカラコイスが無数に鈴なりの状態で付いていて、ビニール袋を持ってそれを取っている人たちもときどき見かけます。
家に持ち帰って一週間ほど何も与えずに断食をさせてから食べるそうです。
調理する時はニンニクとオレガノの花を必ず一緒に入れて煮ます。
カラコイスの季節にはいつもオレガノの乾燥花束を売っているのは、他のハーヴよりカラコイスとオレガノの相性が良いからでしょうね。
オレガノのことを知ったのは、ポルトガルに住み始めて間もないころに、近所にある教会のアズレージョ(装飾タイル)を見に行った時のことでした。
私たちと入れ違いに出て行った老婦人が、わざわざ引き返してきて、手に持っていた乾燥花束から数本引き抜いて、それを私たちにくれました。
「カラコイスを煮る時には、この花をひとつまみ入れるととても美味しくなりますよ」と言いながら…。
突然のことでびっくりしたのですが、たぶん私たちが彼女の持っている乾燥した花束を「あれは何の花束だろうか?」と興味深そうに見ていたからかもしれません。
その花束がオレガノと言う名前で、カラコイス料理には欠かせないというのは初めて知りました。
それまで私は「カタツムリはぜったいに食べたくない」と敬遠して、街角でカラコイスを満載している屋台の前は足早に通り過ぎていたほどでした。
なにしろリアカーの中では何千、何万というカタツムリがうごめいているのですから。
でも乾燥花をせっかく頂いたのだからそれを使ったカタツムリ料理はどんな味がするのか、「一度食べてみよう」という気になりました。
そうはいっても生きたカタツムリを自分で料理するのはちょっと…ということで、道端のテラスに座ってビールのつまみに注文しました。
やがて運ばれてきたお皿には小さなカラコイスが山盛り。
お皿の横に添えられた虫ピンを使って食べるのです。
ニンニクとオレガノの香りが調和して、全然くせもなくあっさりとしてとてもカタツムリとは思えない味です。
私は海の貝類が好物でよく食べるのですが、それと同じくらい美味しいのです。
調理された小指の先ほどのカラコイスが山盛り。これで二人前。
メルカドでは海の貝類がいろいろと売っています。
親指の先ほどのベビー赤貝や小さな巻貝、そしてアサリなどの二枚貝など。
ポルトガル人も大好物で、みんなたくさん買っています。
そうした小さな貝類もニンニクと一緒に煮ます。
カラコイスと同じような調理です。
ポルトガル人にしたらカラコイスは陸上で取れる貝であって、海の巻貝もカラコイスも同じ貝類だという感覚で、カラコイスの季節を楽しんでいるのだと思います。
カラコイス専門店の看板
でも、私にとって大きな違いがありました。
「美味い、美味い」と言いながらカラコイスの山を崩していくうちに、ふとお皿の縁に目が留りました。
「ぎょえ~、ツノ、ツノ!」
ツノ出せ、ヤリ出せ、頭出せ~♪ 料理されても、まるでリアルなカラコイスを3匹見つけた。
小さなカラコイスが一匹、二本のツノを出して固まっていたのです。
とたんに「ツノ出せ、槍出せ、頭出せ~♪」というカタツムリの唄が私の頭の中で聞こえてきました。
それ以来、やっぱりカラコイスは苦手です。
カラコイス売りのリアカー。今日はもう売り切れです。
ポルトガルは北から南まで長い距離を大西洋岸に接していて、しかも断崖絶壁の所が多いので、大西洋からの強風が崖下から吹き上げてきます。
そうした所には昔から風車(モイーニョ)が建てられ、西風を利用して粉引きをしていたようです。
丘の上に立つポルトガルの風車。てっぺんには風見鶏がつけてある。
風車は今でもあちこちに数多く残っています。
大半は廃墟になっていますが、いくつかは今でも立派に現役として使われています。
パン作りが趣味のマリーナは材料の小麦粉は風車で引いた粉でないと駄目だと言って、わざわざ遠くの風車まで粉を買いに行くほどです。
幌は帆柱に巻きつけられている。
セトゥーバルの周りにもけっこうたくさんの風車が残っていて、そのいくつかはリメイクされて快適でおしゃれな住居として生まれ変わっています。
中にある石臼と粉引きの設備を取り除くと、一階にひとつ、二階にひとつの小部屋ができるスペースになります。
知人も廃墟となっていた風車を買取り、同じ敷地に豪邸を建てて住んでいます。
風車の中は可愛いインテリアで飾られ、とても居心地の良い喫茶室になっていて、女主人が友達を招いてお茶会をしたり、時には母屋の家族から離れて一人静かに自分の時間を過ごす隠れ家になっています。
10棟ほど立ち並ぶうちの3棟の風車。
ほとんどの風車は小高い場所にあるので、そこからの眺めは抜群です。
旅に出て風車を見かけた時、そこを目指して行くとその町全体が見晴らせます。
ある町では丘の上の風車にたどりついて景色を眺めていると、どこからかビーニョ(ワイン)のいい匂いが漂ってきました。ホロリと軽く酔いそうなビーニョの香りです。あたりを見ると風車の脇の小屋でビーニョの仕込みをやっていたのです。
また、別の村では風車の中から二人の男の言い争う声が聞こえてきたので、何だろうと思ったら、風車の持ち主と小麦を持ってきたお客の会話でした。
「前回に粉引きをした代金をまだもらってない…」とか、「いいや、わしはちゃんと払った…」とかいう内容です。
それを聞いて私は「お~、この風車は今もちゃんと現役で働いているんだ!」と妙な感動をしたものです。
夕方にたどり着いた村の風車では小さな孫を連れたおじいさんと出会いました。
「この風車はついさっきまで動いていたんじゃが、もう今日の仕事は終ったよ。毎日夕方5時で閉めるんじゃ」とのこと。
残念! 帆を開いてゴーゴーと回る風車を目の前で体験できるチャンスだったのに!
崖上に立つ赤い帽子の風車。
羽根に付いている素焼きの壺は風車が回転すると、音を鳴らすそうです。
回転の止まっている羽根の小壺に耳を当てると、ヴォーヴォーと、まるでオーヴォエのような低い音が聞こえました。
動いている時はいったいどんな音が出るのかな?
帆を拡げて風車が回りだすと、羽根に付けられた素焼きの壺が音を鳴らす。
風車が毎日動いているということは、この村の人々や村のパン屋は風車で引いた粉でパンを焼いているということです。
たぶん薪を焚きつけた昔ながらのカマドで焼いて…。
もしパンの底が黒く焦げていたら、それは薪のカマドで焼いたものです。
朝から夕方5時まで現役で働いている風車。
小さな町や村のレストランでは、ねばりのあるどっしりとしたパンが出てきます。
パンとビーニョと塩漬けのオリーブの実がまず始めに出されるので、「メインの料理が入らなくなるからパンは控えめに…」と思っても、パンの美味しさに釣られてついつい手が出てしまうのでご用心!
そうしたパンはたぶん風車で引いた粉を使ったパンなのです。
アーモンドの実はいつもなにげなく食べてますね。
でもアーモンドの花はどういう花かご存知ですか?
私もポルトガルに住み始めてしばらくしてから知りました。
それまでも春になると桜に良く似た花が咲いているのをあちこちで見かけたものですが、それがアーモンドの花だとはなかなか気がつきませんでした。
ある日、郊外に行って線路沿いの道を散歩していると、道端に生えている木の枝に淡いピンクの花がちらほらと咲いているのを見つけました。
それまでは遠くからしか見かけなかったのが、目の前で手に取って見ると日本の桜の花によく似ていますが、桜よりはすこし花びらが細長いのです。
ちょうど通りかかったおじいさんに尋ねると、「アメンドアだよ」という答が返ってきました。
「アメンドア」とは「アーモンド」のことだったのです。
アーモンドの花
我が家のベランダからは城壁の跡が見えます。
昔の地図を見ると城壁が町全体を取り囲んでいたのですが、今もその一部が少し残っています。
我が家は城壁の外にある小高い丘の上に建っています。
毎年、1月も半ばを過ぎると、遠くに見える城壁に植えられた木々がうっすらとグレーピンクに変ります。
最初は目をこらさないとなかなか判らないのですが、それが日を追うごとに少しずつピンクに色づいていきます。
やがて林全体が淡いピンクの雲みたいになって、まるで桜の森を遠くから眺めているような気分です。
春を実感する時ですね。
道端のアーモンドの木
日本では桜並木の下で花見となるところです。
私も城壁のアーモンド林の中を散歩したいな?と思って出かけたのですが、城壁の周りは家が建ち並んでいるので近づくと家に隠れて、アーモンド林の花はさっぱり見えません。
やっとそれらしき入口を見つけたのですが、ぴったりと門が閉ざされていました。
城壁の上は個人所有の土地だったのです。
我が家のベランダから遠目に花見をするしかなさそうです。
でも町の外に出ると、道端や民家の庭先に1本、2本とアーモンドの木が植わっています。
花が咲いているのを見かけたら車を停めて写真をパチリ。
アーモンド林の壮観さはありませんが、一本の木に咲いた花をじっくり観賞するのも良いものです。
でも時にはうるさい番犬がしつこく吠えることもあるので、せっかくの気分がぶち壊しというハプニングも起こります。
他所の家の前でウロウロしている者には吠えるのが番犬の仕事だから仕方ないですね。
アーモンドの木は桜のように大木になります。
郊外を走っていると、大木が十数本も並んで薄桃色の花をいっぱいに咲かせている風景に出会うことがあります。
昔はその何倍もの木が植わっていたアーモンド畑の名残りです。
ポルトガルの最南端に位置するアルガルヴェ地方はとりわけ気候温暖なところです。
もともとアーモンド栽培が盛んで、いたるところアーモンドの花が咲き乱れていたそうです。
それはほんの十数年前まで見られた風景なのですが、今はそのほとんどが宅地造成されて、ホテルや別荘の建ち並ぶリゾート地になってしまい、アーモンドの林はどこにも見あたりません。
アーモンドのリキュール酒
でもアルガルヴェの名物は、アーモンドの実から作ったリキュールや、実を粉にした材料で作ったお菓子です。
初めてアルガルヴェを旅した時に、そのお菓子をショーケースで見かけた時は驚きました。
まるで和菓子にそっくりなのです。
桃やリンゴなど小さな果物の形、そしてその横には大きな一匹の魚をかたどったもの、たぶんお祝いの席に飾るのでしょう。
日本でも結婚式の引き出物に鯛をかたどった落雁をもらったりしたのを思い出しました。
材料は違いますが、ポルトガルと日本に見た目がそっくりなお菓子があるとはほんとにびっくりです。
ひょっとしたら中国のお菓子がルーツではないかとも思えますが。
アーモンドの粉で作られたアルガルヴェ地方のお菓子
かなり前のことですが、まだ自分の車がなく、汽車で旅をしていたときの事です。
アルガルヴェの駅のひとつから籠をかかえたお爺さんが乗り込んできて、乗客に声をかけながらなにかを売り歩いています。
私たちの席にきて籠に掛けてある布を取ると、そこには素朴なお菓子がいくつか入っていました。
その中に奇妙な形のお菓子があり、何だろうかとよく見るとそれは干したイチジクに切れ目を入れてその中にアーモンドの実を差し込んであるだけのものでした。
なんとも素朴極まりないお菓子です。
あまり甘くなさそうなのでひと包み10個入りを買いました。
干しイチジクは思ったよりかなり甘かったのですが、アーモンドの味が甘さを抑えて、なかなか美味しかったのを覚えています。
アーモンドの花咲くころに我が家のベランダあたりにツバメが一羽やってきます。
毎年必ず一羽だけ姿を見せるのは不思議です。
たぶん皆が来る前に、去年の10月に引き上げた時と変りがないかどうかを偵察に来ているようなのです。
その一羽がどこかへ行って一週間ほどすると数羽のツバメがやってきてすいすいと楽しそうに空を飛び回り、それから徐々に数が増えていきます。
アーモンドの花が咲き、ツバメの偵察係りが姿を現すと、ポルトガルはもう春本番です。
春になるとランプライヤの話題がTVのニュースでたびたび流れる。
ランプライヤとは八目うなぎのこと。
この時期、海から川に産卵のためにさかのぼってくるところを河口付近で待ち構えて捕るという。
ポルトガルでも北部の名物料理で、みんながランプライヤを食べにレストランに押しかける。
この料理は期間限定で4月までしか出さないそうだ。
ミーニョ料理の専門店
先日友人から、リスボンでもランプライヤを出しているレストランがあるので、ぜひ一緒に行こうという強力な誘いがあった。
前々からいったいどんな味がするのか興味があったので誘いに乗って出かけた。
そのレストランは北部ミーニョ地方の郷土料理を専門にしている店。
といっても高級レストランではなく、どこにでもある安食堂といった感じの店構え。
中に入るとまだ時間が早いのに、テーブル席は半分ほどお客が座っている。
ランプライヤ料理は米と一緒に炊いたリゾットで、値段が一人前25ユーロとかなり高い。
先月一度食べた友人は、「ランプライヤ鍋は一人前にして、他の料理を取ってみんなで分けた方がいい」という。
味がきついので3人前も取ったらとても食べきれないのだそう。
そこでランプライヤ鍋を一人前とバカリャウのフリット(タラのフライ)と豚肉のステーキにした。
北部ミーニョ地方はヴィニョヴェルデという発泡性のワインが特産で、ランプライヤ料理も赤のヴィニョヴェルデと一緒に食べるという。
注文が終わるとさっそく自家製の赤ヴィニョヴェルデが出てきた。しかもグラスではなく、湯呑のような茶碗に注いで飲むのがミーニョ風。
白い陶器の茶碗は縁が赤く染まった。かなり渋くて酸っぱい。
茶碗で飲む赤ヴィニョヴェルデ(発泡性のワイン)
お昼を過ぎると店は急に立て込んできて、満席になった。
会社員や役人風、それに警官も4人いて、一人は女性警官。
どのテーブルもランプライヤ鍋と赤のヴィニョヴェルデが並んだ。
私たちの席にも運ばれてきた。
鍋の蓋を取ると、紫色に染まったリゾットのなかに薄黒い切り身が入っている。小さい切り身がふた切れだけ。しかたがないので3人で少しずつ分けた。
ランプライヤ鍋。一人前がこんな鍋で出てきた。かなりの量がある。
紫色に染まったリゾットはかなり酸っぱい。赤のヴィニョヴェルデとランプライヤの血と一緒に炊き込んであるそうだ。
ランプライヤそのものはふっくらと柔らかく、味はこってりと脂が乗っているが、臭みはなく思ったよりあっさりしていて意外だった。
煮魚にした鯖の腹身に似ている。
しかし骨の部分はとても骨とはいえない、軟骨よりももっと柔らかく、たとえばよく煮込んだ筋を食べるようなプチプチとした感じ。
ランプライヤはうなぎといっても原始的なうなぎだからな~と思っていた。
以前、うなぎのぶつ切りと米を一緒に煮込んだリゾット「アローシュ・デ・エンギイア」を食べたが、うなぎの骨はかなり硬かった。ここがランプライヤとは大きく違う。
アローシュ・デ・ランプライヤ(ランプライヤのリゾット)
他の席では食べ終わって、ヴィニョヴェルデも一本飲み干して、コーヒーの後でアルコール度の強いアグアデンテを飲んでいる。
葡萄の絞り粕から作った蒸留酒で、沖縄の泡盛や熊本の球磨焼酎などとそっくりな味で、アルコール度も50パーセントほど。
店主がビンを持って常連客たちにお代わりをサービス。私たちにも勧めたが、あわてて断った。
警官たちはくいくいと飲んでいる。
あんなに飲んで、まさかパトカーの運転はしないだろうな~と心配になる。たぶん歩いてパトロール勤務だと思うけど…。
帰宅してからさっそく「八目うなぎ(ランプライヤ)」について調べてみた。
それによると日本にもいて、新潟や青森など東北地方に生息、干物などにして食べるそうだ。
フランスのボルドーでも米と一緒に赤ワインで煮込んだ料理があるらしい。
ポルトガルのミーニョ地方とほとんど同じ調理法だ。
そして「八目うなぎはヤツメウナギ科に属し、魚ではない」と書いてある。
魚ではない?どういうこと? たしかに原始的な生き物だというけれど…。
読み進めていくと驚くべきことが~。
「八目うなぎは歯がない。強力な吸盤が口にあり、それで大型の魚、たとえば鮭などに取り付いて身体に傷をつけ、その魚の体液や養分を吸い取って生きている。その様子は大型のヒルが吸い付いていると思えばよい」
「ぎゃ~ぁ!」
知らずにとはいえ、食べてしまった~。
そういえば友人が美味しそうに食べる私たちを見ながら、「いや~、平気で食べてる!すご~い」と騒いでいたのを思い出した。
う!
でもランプライヤは栄養価が非常に高く、特に目の病気には良いとかで、「ランプライヤの季節」を待っている人も多いようだ。
ローカルバスを乗り継いで、レゲンゴス・デ・モンサラシュの町に着いたのは夜7時を過ぎていました。
冬の一日は短く、あたりはもう真っ暗。しかもバスの終点はとても寂しそうな所で、そこが町のどのあたりなのか見当がつきません。
初めての町に暗くなってから着いたので、とても不安です。
運転手に町の中心を尋ねて、その道を歩いて行き、角を曲った時に、小さな灯りがポッとひとつ見えたので少し安心しました。
そしてその灯りの奥から歌声が聞こえてきたのです。
朗々と響き渡る力強い男性合唱。田舎町の暗がりの中での意外な出来事で、ひどく印象に残りました。
濃霧が一時的に晴れた、レゲンゴス・デ・モンサラシュの中心広場。
趣味の人達が集まって合唱の練習をやっているのだろうか、それにしては独特な歌い方だと思っていたのですが…。
それから何年か経ったある日、TVのドキュメント番組を見ていたら、あの時耳にしたのと同じ歌声が流れてきたのです。
20人ほどのおじさん達が腹の底から発声する合唱、伴奏はいっさい無いアカペラです。時々高い声のソロが入り、また低い力強い合唱に戻る。
場所も私たちがあの夜聞いたのと同じ町、レゲンゴスでした。
番組はそのほか、別のいくつかのグループも紹介していました。
アレンテージョのレゲンゴスを中心にした周辺の町や村に合唱隊があるというので、それぞれに取材。
ある場面では、居酒屋でテーブルを囲んだ数人が映りました。
その中の一人が歌い始めると、誰ともなくそれに被せるように引継ぎ、自分流にアレンジして歌いだす。それに他の数人がハモって大きな流れの合唱になり、それからまた誰かがソロを引き継ぐ。
とても素朴だが、味わい深い。まるでブルースの掛け合いを聞いているようです。
2時間ほどのドキュメントを見終わって、すっかり興奮してしまいました。
これは絶対に彼らのCDが欲しい!とあちこちのレコード屋を探し回ったのですが、見つからない。
ある時、露天市のレコード屋でそれらしきカセットテープを見つけて買いましたが、それは伴奏の入った、どちらかというと素朴な民謡で、祭りのフォークダンスの時に歌う甲高いフォルクロアだったのでがっかり。
それ以後も目指すCDはどこを探してもないので諦めていたのですが、ひょっとしたらレゲンゴスの町のレコード屋では売っているかもしれないと思いついて、久しぶりに行ってみました。
でもレコード屋らしき店は見あたりません。
せっかく3時間もかけて来たのにこのまま家に帰るのはもったいない。
最後の手段で、町の観光局に行って「あちこち探したけどどこにも売ってない、どこに行ったら買えるでしょうか?」と相談しました。
すると係の人はどこかに電話をかけたあと、奥に引っ込んで、しばらくして戻ってきた時、手にはCDが握られていました。わざわざ倉庫に行って探してくれたのです。
そのCDは何かの記念に作ったものらしく非売品なのを、特別に無料で頂きました。感激!
おかげでやっと念願のCDを手にすることになりました。一曲ずつ歌詞カードも付いています。
レゲンゴスの郊外、スペインとの国境にあるモンサラシュ村。小高い丘の頂上にあり、遠い昔、周りから攻めてくる敵を発見するために衛兵が見張りをしていた砦の村。
そのモンサラシュ村と周辺の景色、そのあたりに代々住む人々、それらを愛してやまない気持を切々と歌った内容です。
やっと手に入れた念願のCD。
CDで聞いていると、どうしても彼らの生の歌声を聞いてみたくなりました。
そんな時、それは去年の1月6日でしたが、クリスマス最後の日の催しとしてレゲンゴスの町でコンサートがあったことをニュースで知りました。でも後の祭り。
彼らのコンサートがそのあとどこであるのかという情報も分からないし、しかたなくそれから密かに一年間待って、いよいよ今年、泊りがけで出かけました。
その前に観光局に電話して、確かにその日に間違いなくコンサートがあるということと、開始時間が夜の9時30分だということをしっかり確かめてから…。
ポルトガルに住んでいて困ることは、何かの催し物などに行きたいと思っても、開始時間が夜の9時、または9時半だということ。
たとえばサッカーは夜9時から、闘牛などは夜の10時からしか始まらない。
早寝早起きの私たちにはとても不便な習慣です。
でも今回は一年間待ったコンサートだし、泊りがけだから、どんなに遅くなってもだいじょうぶ。
会場は中心の広場に面した公会堂で、ホテルも道を挟んだ向かいです。
部屋を決めたあと、モンサラシュ村にも行きましたが、すごい濃霧。モンサラシュもレゲンゴスも昼間からまっ白な濃霧にすっぽり覆われて、幻想的な雰囲気が漂っていました。
山頂の砦の村モンサラシュは昼間も濃霧に包まれていた。合唱隊の唄はこの村を中心に歌っている。
レゲンゴスに戻ったのは夕方。チケットが売り切れたら困るので、前もって買いたいと思って公会堂の入口を何度も覗きましたが、ドアはぴったり閉まって、いつまでたっても人の気配がありません。
しかたなく諦めてレストランでゆっくりと夕食を取り、会場に行くと、入口のロビーはいつの間にかたくさんの人。
その中にはソフト帽を被り、腹帯を締める正装をしたおじさん達が数人いました。
その中の一人にチケットはどこで売っているのかと尋ねたら、「無料ですよ」とのこと。
コンサートはバックスクリーンにモンサラシュ村やレゲンゴス周辺の風景がスライドで映され、詩の朗読と交互におじさん合唱隊がアカペラで歌いました。
それは力強く、堂々として素晴らしい。やはりわざわざ遠くから生の舞台を見に来て良かったと思いました。
砦の村モンサラシュでのスライドをバックに、コンサートが始まった。
しかもおじさん達の顔は一人一人とても個性的で興味深い。家でCDを聞くだけでは分からないことです。デジカメでパチパチ。でも舞台の照明が暗いのとフラッシュをたけないので、写りが良くないのがとても残念! 次は昼間に何処かでやってくれたらいいのにな~とひそかに願っています。
総勢23人のおじさん合唱隊。メンバーは年配の人ばかり、若い人はほとんど見かけない。
過日、アレンテージョのおじさんアカペラ合唱団を見に行った時、バックスクリーンにモンサラシュ周辺がスライドで映された。
それを見て「あれっ」と気になった一枚の映像。
真中に大きな石がすっくと立ち、それよりも低い石がその周りを円形に囲んで立っている。
それはストーンサークル、正式にはクロムレックというらしいが、かなりスケールの大きいものだ。
そのスライドはモンサラシュ周辺だけを取材したものだから、クロムレックがどこか身近に存在するということだ。
それから気になっていろいろ調べてみた。
有史以前の巨石文化遺跡はイギリスのストーン・ヘンジやフランスのブリュターニュ地方カルナックの巨石群が有名だが、イベリア半島の方がもっと古いらしい。
ポルトガルに、しかもモンサラシュ周辺にも紀元前5,000~2,000年ごろの遺跡があるという。
エヴォラの近くにあるアルメンドレス遺跡群はイベリア半島で最も古いそうだ。
イベリア半島に残る巨石群のなかで最も古い、紀元前5,000年のアルメンドレス巨石群(エヴォラ近郊)。イギリスのストーン・ヘンジより更に2,000年古い時代に、このあたりで精霊巨石文化が栄えていた。森の中にあるので全体の遠望写真が撮れなくて残念。
以前からあちこちにアンタ(古墳)があるのは知っていた。
モンサラシュの麓にも簡単な石組みのアンタがひとつだけある。
そのあたりはオリーヴ畑やコルク樫の森が広がり、あちこちの木の根元に大きな石が寄せ集まっている。
角の丸くなった石がほとんどだ。ということは地中から出ていた石を掘り出したのではなく、あたりにころがっていた大石を木の下に集めたような感じである。
たぶん下草刈りなどの作業にじゃまになるので木の下に集めたのだろうが、その数はおびただしい。
原っぱの真中にまるで組み立てたような塊もある。ひょっとしてこのあたり一帯にたくさんのアンタ(古墳)群があったのではないだろうか。
残っているたったひとつのアンタはおおよそ5メートル四方のもので、巨石で壁を囲い、屋根には平たい大石を乗せてある。今の状態からは想像もつかないが、そこからは200個以上の壺など副葬品が発掘されたそうだ。古代の有力者の墓だろうと思える。
モンサラシュの麓、コルク樫の森にあるアンタ(古墳)。多くの副葬品が発掘された。
ところでアンタ(古墳)以外にクロムレック(ストーンサークル=環状列石)がどこかにあるというので、それを探しに再びモンサラシュ周辺に出かけた。
ツーリスモ(観光局)が発行している全国地図には城や教会などの見所が載っていて、アンタのマークもかなりの数付いている。
でもどれも同じマークなので、全部がアンタだと今までは思っていたのだが、その中のどこかにクロムレックがありそうだ。
モンサラシュの麓には別の村がある。
いつもはそれを右に曲がるのだが、地図上のアンタのマークを目指して左に曲がった。少し行くと角家の壁に茶色い表示板を見つけた。「メニール・デ・ブリョワ」とあるから、アンタとは違うものがあるようだ。
そこからしばらく走った牧場地帯に続きの表示板があった。
矢印は牧場の中を指している。
入り口は簡単に整備されて牧場の中に向かって通路があり、通路を進むと突き当たりは円形になっていて真中に大きな石が立っている。
石は先の方が少しカーヴした刀の先に似た形で、高さは4メートルほど。これがメニール(メンヒル=巨大な立石)だろう。
周りには腰を下ろせるほど低い石が円形に取り囲んでいる。
でもここはスライドで写った遺跡とは違うようだ。あれはもっと規模が大きかったと思う。
メニール・デ・ブリョワと、遥か彼方の小高い丘の上に見えるモンサラシュの城塞村。
地図を見ると、モンサラシュにもっと近い場所にもマークが付いている。
元に戻って、モンサラシュ村への上り口で標識を見つけた。
標識に従ってまっすぐ行くと、巨大な看板があり、クロムレックの写真が載っている。スライドで見たのと同じものだ。こんな所にあったのだ!
すこしはなれた丘の上にたくさんの石が立っているのが見えた。
車はそれ以上行けないので、野原の中を歩いた。
周りには背の低い蓼(たで)のような草が生い茂り、まるで赤い絨毯を敷き詰めたように丘を染めている。その間にいろんな種類の花が咲き、背丈10センチほどのアヤメも混じっている。
谷間からモンサラシュの入口に移されたクロムレック(ストーンサークル=環状列石)遠望。
クロムレックの真中に立つメンヒルは4メートルほどの高さ。
それをぐるりと囲んで少し低い巨石が50個ほども円を作って立っている。壮観な眺めだ。
クロムレックは原始時代に神事を執り行なった場所ではないか…と言われている。
真ん中に立っているメンヒルは子孫繁栄のシンボルだという。
太陽が沈みかけてメンヒルを照らし、メンヒルの影が東側の石まで伸びている。それは巨大な日時計とも思える。
モンサラシュ村入口のクロムレック。真ん中に、高さ4メートルのメンヒル(巨大な立石)が立っている。
こんな石器も転がっていたが、いったい何に使われたのか?
入り口の看板の説明を読むと、このクロムレックはもともとは丘の麓の谷間にあったという。
それがモンサラシュの谷間を流れるグワヤキル川をせき止めてアルケイヴァダムを作ったために、谷間一帯が広大なダム湖になってしまい、このクロムレックの立っていた場所もダム湖の底に沈んでしまった。
クロムレックはまるごと今の場所に移されたそうだ。
でも他にもまだ発見されていない古代の遺跡があったかもしれない…と思うととても残念な気がする。なにしろ巨石文化時代の遺跡があっちにもこっちにもごろごろある地帯だから…。
画商の知人から今年も「アンティック祭り」の招待状が送られてきた。リスボンの主だった古美術店が元修道院を借り切って、毎年秋に開催する大規模な祭りだ。
その知人も店を出しているので挨拶がてら見に行った。展示してある物は高価な物ばかりで、当然、私は鑑賞するだけだが、眺めるだけで楽しい。
それに会場になっている元修道院が素晴らしい建物。
リスボンの町外れにあり、周りはごたごたした下町の古い家並みが建ち並ぶ一角で、家々の窓には色あせた洗濯物がはためき、石畳には犬の糞が散乱。そして修道院自体も外見はどこにでもある古ぼけた印象を受ける。
それが一歩中に入ると、薄桃色のアラビダ大理石をふんだんに使った重厚な石造りで、しかもかなり広い!
中庭とその周りを囲む回廊、その奥に続くいくつもの小部屋が会場になっている。使われているのは修道院のほんの一部だと思うが、それでも全部を見て回るとくたくたになる。
薄桃色のアラビダ大理石でできた重厚な階段
中庭は吹き抜けで、昔は屋根がなく、雨ざらし陽ざらしだっただろうが、今はモダンなガラスの屋根が取り付けられている。
回廊の壁には古いアズレージョ(青いタイル絵)が張られ、長い年月を経てあちこち欠けたりしているのも、この修道院の古さ、歴史を感じる。
二階の回廊の天井は赤煉瓦を組み立てたアーチ造りで、その昔ポルトガル全土を支配していたモーロ(アラブ)人の文化の影響だろうか。
元修道院中庭の展示場
こんな歴史の古い建物と「アンティック祭り」はぴったりの組み合わせ。
展示即売の品もかつてのポルトガルの栄光を感じさせる物が多いし、ヨーロッパ各地から集まった古美術や宝飾品もどっさり並んでいる。
かつては貴族階級の持ち物だった、豪華で贅沢な品物ばかりだ。今、同じものを作ろうとしても、昔のような高い技術を持った職人がいないのではないだろうか。
その他にも、近現代のポルトガル人画家の絵画をメインにした店もあるし、物故作家の絵画だけを扱っている所もある。
窓の奥行きは壁の厚さ、アズレージョ(絵タイル)が素晴らしい
こういった骨董市にかつては日本の古伊万里などもならんでいたという。それが20数年前の日本の高度経済成長時代に日本から古美術業者が大挙してやってきて、一切合財、日本へ持ち帰ったらしい。そのころのポルトガルは日本の骨董品の穴場だったようだ。ひょっとしたら天正遣欧少年使節団が来た頃(1584年リスボン到着)の物などがたくさん残っていたのかもしれない。
中庭の回廊からさらに奥にも展示室
こまごました骨董品が棚の中にもいっぱい
今回も日本の骨董品はほとんど見かけなかった。そのかわり中国や韓国の骨董品専門の店が目に付いた。
ポルトガルはマカオを統治していたし、マレーシアのマラッカやインドのゴア、東チモールなどを古くから植民地にしていた。その関係でアジアの骨董品がポルトガルのどこかにたくさん眠っていてもおかしくはない。
数年前、ポルトガルの片田舎の小さな教会で漆塗り螺鈿の書見台が発見された。日本の、それこそ天正時代(1573年-1591年)程の古いもので、何でも日本に持ち帰れば国宝級の代物だということだ。
日本の物もまだどこかに人知れず眠っているかもしれない!
アーチ天井の二階回廊展示場
アーチ回廊の中の古い絵画と家具
宗教画や木彫、陶磁器、マニュエル様式の家具
でも、この「アンティック祭り」で掘り出し物が見つかったとしてもとうてい私の手には負えない。せいぜいセトゥーバルの蚤の市がお手ごろ。
そういえば先日、その蚤の市で広重の浮世絵版画を見つけた。「東都参拾六景の内、王子」と書いてある。あまり見たことのない珍しい浮世絵で、本物かどうかは別にして、さっそく部屋に飾って眺めている。
ポルトガルの秋はいつの間にかやって来ます。
つい数日前まではビーチに行きたいくらい暑い日が続いていたのに、夕方になると急にヒンヤリとした秋の気配が漂い始めます。
秋といっても日本のように紅葉を愛でる楽しみはありません。まわりの木々はポプラがわずかに黄色くなるくらいで、その他はいつのまにか茶色になり落葉してしまうから、秋を味わう暇もありません。
真っ赤に色づく木はほとんど見かけませんが、ぶどう畑のぶどうの葉が赤く紅葉しているのをたまに見かけたときは嬉しくなります。ぶどう畑のほとんどは紅葉することもなく茶色く枯れてしまうのですが、ぶどうの種類によっては赤く紅葉するものがあるそうです。
紅葉が見られないとなると、秋を感じるのは、町角に焼き栗屋が姿を現した時です。
だいたい10月の半ば過ぎごろでしょうか。
セトゥーバルの町角の焼き栗屋。CASTANHAS QUENTES BOASの文字を裏返しに書いた看板がしゃれている。「あつあつのうまい焼き栗」という意味
焼き栗屋は小さな車を引いてやって来ます。
その荷車には炭火を起こすカマドがあり、パチパチと燃えるカマドの上には底に小さな穴があいた壺を置きます。リスボンの焼き栗屋は素焼きの壺を使っていますが、私の住むセトゥーバルの焼き栗屋はブリキの壺で焼いています。
ひとつずつに小刀で切り目を入れる。
栗のひとつひとつに小刀で切り目を入れて壺の中に入れ、荒塩をパラパラとふり掛けて、しばらくすると壺の中からパチパチと栗のはぜる音が聞こえてきて、やがて栗の焼ける香ばしい匂いが漂ってきます。煙がもうもうとたちこめ、あたりいったいに流れていきます。
煙は町角を曲って、次の角、そしてまた次の角まで漂って行きます。町をぶらついているとどこからともなく煙の匂いがします。その匂いをかぐと、もうたまらない。
「ああ、秋だ~」思わず知らず私の足は煙の発生元、焼き栗屋に吸い寄せられて行くのです。
1人前一ダース、つまり12個入り。あつあつの栗を古い電話帳のページをビリッと破ってクルクルと丸めた中に入れてくれます。
電話帳の一枚をくるりと丸めて12個の焼き栗を入れる。値段は1.5ユーロ。この焼き栗屋さんのは、虫食いは一個もなかった。それで評判が良いのか、このお客さんは三ダースも買っていた。
渡されたあつあつの包みを両手で握ると、手の先からジワーッと温もりが身体に広がっていきます。
公園のベンチに腰掛けて焼き栗の皮をむくと切り目からパカッとはがれて、黄色い栗がポコッと出てきます。渋皮もいっしょに簡単にむけます。
時々虫食いが混じっていて、そんなのはいくら切り目が入れてあってもなかなかむけません。むりやり皮をむいても中はまっ黒だったり、小さな虫が焼け死んでいたりします。
このごろは12個のうち虫食いの栗が3~4個も入っていたりして、しかもユーロになって値段も高くなったので、家で焼き栗をすることが多くなりました。
炭火を起こして焼き栗をしたら最高の味ですが、家のキッチンではそれは無理なのでしかたなくガス台で焼いています。
ガス火の上にシャッパスという厚手の鉄板を置き、そこに切り目を入れた生の栗を並べます。
我が家では素焼きの深鉢をかぶせてシャッパスの上で焼く
そのまま焼いてもいいと思うのですが、我が家ではひと工夫して、並べた栗の上に素焼きの深鉢をかぶせます。そうすると熱が逃げないで深鉢の中にこもり、栗にまんべんなく火が通ってほっこりふかふかの香ばしい焼き栗が出来上がります。おもて4分、ひっくり返して裏4分、合計8分で出来上がり。
ポルトガルの焼き物に入れた焼き栗
焼き栗の季節になると露天市の陶器屋の店先には、底に小さな穴がいくつもあいた焼き栗用の壺が並びます。素焼きの壺もブリキの壺も売っています。
どちらも両端に取っ手が付いていて、それを両手で持って時々ガラガラとひっくり返すのです。何回か繰り返すうちにこんがりと焼き上がります。
そういえば日本では焼き栗はほとんど食べたことがありません。時々店先で天津甘栗を見かけたものですが、あまり美味しいとは思いませんでした。
子供の頃、家では茹で栗をしていましたが、渋皮がむけにくくてとてもめんどうでした。それに比べるとポルトガルの焼き栗はとても食べやすいです。切り目を入れてあるので渋皮ごとパカッと簡単にむけます。しかも焼く時に一緒に入れる荒塩が隠し味になって栗そのものの甘味が味わえます。
町の焼き栗屋はまるで日本の焼きいも屋みたいです。でも移動はしないで、いつも同じ場所で商売をしています。
秋から冬の間は焼き栗屋、そして夏になるとアイスキャンディ屋に変身します。その時は色とりどりの風船もいっしょに売っています。町角を曲ると、空中にプカプカ漂う風船が目印です。
メルカドの果物屋もこの時期は栗が主役。値段ははしりだから少し高めで、1キロ3.8ユーロ。
各国いまどき報告2005/11/21
レストラン で食事というと前菜から主菜、デザートそしてコーヒーまでと、ほとんどフルコースになる。それは町の食堂でも同じで、みんなゆっくり1時間以上かけて昼食 を取っている。ピザ屋でさえフルコース。
でも旅先では昼食に貴重な時間を取られるのがもったいない時もある。そんな時は簡単にサンドイッチとソッパ(スー プ)で済ませたいと思うのだが、レストランでパンとソッパだけで食事をするのはみっともないし、そんなことをしたら店の人に失礼になるだろう。
レストラン は昼前に開店して3時ごろまでしか開いていない。夕食は7時からまた開店するが、もし時間がなくてお昼を食べ損ねたら、パステラリア(お菓子屋)で菓子パ ンを食べるか、スカスカパンのサンドイッチを注文するしかない。
そのサンドイッチというのが恐るべきもので、店の人は「チーズとハムがあるけどどっちにし ますか?」と言う。まるで麩のようにすかすかしたパンにチーズだけか、ひらひらのフィアンブレ(ハム)を2枚挟んで出来上がり。バターもマヨネーズも付い ていない。あまりにも貧相なので、「バターを塗ってハムとチーズを挟んでください」とわざわざ注文しないとまともに食べられなかった。
日本では、「いつで も何処でも何時でも」の精神で、うどんでもサンドイッチでもカレーでも丼物でもなんでもそろっている。それはほとんど「日本式のファーストフード」と言え る。でもポルトガルでは「外食はレストランでフルコース」というのが伝統的な礼儀なのだろう。
ポルトガル人は食事時間をとても大切にしている。昼食は子供 も大人も学校や会社からわざわざ家に帰り、家族揃ってゆっくりと食事をし、その後は昼寝をして3時からまた学校や職場に戻る。昼前のバスと3時前のバスは いつも満員だった。
今まではみんながそうしてきたと言っていい。でもヨーロッパ連合の一員となり、停滞していた経済も回りだして、さすがにのんびりと昼食 を取ってそのあと昼寝…どころではなくなったらしい。それに家庭では住宅やクルマのローンを抱えて、夫婦共稼ぎが多い。
いつの間にか街中のカフェではお昼 の定食を出す店ができて、昼食をカフェで簡単に済ませる人たちが増えてきたようだ。
その上、このごろとても便利な店ができた。ソッパ(スープ)専門の ファーストフードチェーン店が出現したのだ。
大型ショッピングセンター内にあるソッパのファーストフード店
ふたつのチェーン店がほとんど同時にできた。どちらも店先にソッパの入った大きな鉄鍋をずらりと並べているの で、ひとめでソッパ専門店とわかる。
大きな鉄鍋にそれぞれ違うソッパが入っている
メニューも値段も良く似たものだ。大規模なショッピングセンター内に出店しているので、私たちも買い物に行った時など 昼食によく利用する。サンドイッチとソッパと飲み物とコーヒーがセットになっていて、4~5ユーロ。ソッパはお椀のサイズが大と中と二種類あるのだが、大 椀はラーメン鉢よりも大きいし、中椀でもうどん鉢ほどもある。ソッパの中身も数種類あり、野菜や豆やマカロニなどがどっさり入っている。
中椀に注いだ半人前のソッパ・デ・アボボーラ(カボチャのスープ)とキッシュのセット
大椀に注いだ半人前の量のソッパ・デ・ペードラとサンドイッチのセット
特に「ソッパ・ デ・ぺドラ」というのは数種類のくず肉がたっぷり入った田舎風のソッパで、食べ応えがある。なぜか「石のスープ」という意味だ。食べ終わった後、まるで石 のようにどーんとこたえるという意味だろうか?
「ソッパ・ヴェルデ」はビタミン類をたっぷり含んだグレガ(ケール)を煮込んだ緑色のソッパ。日本で健康食 品として話題になっている青汁の原料はグレガ(ケール)と同じものだと思う。
このごろはアメリカ系の某ハンバーガーチェーンの店先にもソッパの看板を見か ける。ポルトガルの各種ソッパを取り入れたメニューだ。その他に、スーパーの棚にもパックに詰められた工場生産のソッパが数種類並んでいる。一人暮らしの 人にとっては便利だ。
ポルトガルの地方を旅すると、中規模のスーパーがどこの町にもできている。その中に軽食を出す店が入っていて、昼時は町の人たちで賑 わっている。地方でも買い物のついでに昼食を簡単にすませる人が増えてきたようだ。
私たちにとっても、急いでいるときはそんな店でソッパとサンドイッチで 手軽に食べられるようになった。その代り夕食はゆっくりとレストランで楽しもう。旅に出て食事の選択幅が広がってきたのは嬉しいことだ。
岩山の頂上にそびえる鷹ノ巣村、マルバオン
晩秋になると、栗の収穫とビーニョ(ワイン)の新酒が出来上がる。その二つの味覚を楽しむ祭りがマルバオンであるというので出かけた。
我が家から北へ車を飛ばして4時間弱。マルバオンはポルトガルの中ほどに位置し、スペインとの国境まで数キロという国境の村。しかもそそり立つ岩山の断崖絶壁の上にある、鷹ノ巣村だ。
そこには城壁に囲まれた村と古城と教会があり、普段はひっそりと隠れるように生活が営まれている。
この城壁からは下界の様子が手に取るように見える。昔は天然の要塞として、下から攻め上ってくる敵兵を簡単に発見できたのではないだろうか。
山裾一帯には栗の木がびっしりと植えられ、栗の特産地となっている。村へ登る道の両側は黄色く染まった栗林、その下には熟した栗の実がたくさん落ちている。
生栗の量り売り
すごい人出だ。
城壁にたどり着くずっと手前から山を切り開いた特設の駐車場がいくつもできているが、そこに行く間も交通整理と渋滞。やっと車を止めて、坂道を徒歩で上る。途中には観光バスが十数台も駐車している。
城壁の門をくぐり祭りの入場料1ユーロを払って、村の中へ。
特売場では生栗やリンゴの量り売り。出来たばかりの新酒のビーニョ。竃で焼いたどっしり重い田舎パン、羊のチーズや素朴な甘いお菓子。農家の庭先からちぎってきたばかりの、まだ硬そうな柿も並んでいる。どれも特別安い。
村の消防隊が太鼓やラッパを鳴らし、そのリズムに合わせて踊る子供や大人。
城壁に向かって上る道のあちこちから煙がもうもうとあがっている。栗を焼いているのだ。
出来立ての新ワイン
上へ上へと登って行く人びとに揉まれながら石畳の狭い路地や急な階段を上ると村役場と教会のある広場。
以前この村に来た時は、ベンチにひっそりと腰掛けている老人の姿しかない、静かな見晴し台だった。でも栗祭りの開かれている今はびっしりと様々な屋台が立ち並び、人びとがビーニョの入った陶器のコップを片手に、焼き栗を食べながら店をひやかしている。周りでは威勢の良いスペイン語が飛び交う。国境の村なので、スペインからバスを連ねて団体客がたくさん来ているようだ。
栗を焼く煙が立ち昇る断崖絶壁の村
広場の一角からもくもくと立ち昇る白い煙、そこに大勢の人たちが群がっている。草ぶき屋根の小屋では二箇所の籠で薪を燃やし、大きな鉄なべで大量の栗を炒っている真っ最中。小屋の周りには簡単なカウンターが作られ、そこで栗を食べながら小さなコップに入ったビーニョを飲んでいる人々。
タンクから陶器のコップにビーニョを注ぐのに忙しい
私たちもそうしようとしたら、まず隣の小屋で引換券を買わないといけないという。焼き栗が70センチモ、ビーニョが50センチモ、そして陶器のコップが1ユーロ50センチモ。合計2ユーロ70センチモ。約350円! 手作り陶器のコップが付いてこの値段。それになんといっても焼き栗の値段がびっくりするほど安い! リスボンなどでは12個入りで2ユーロする。この袋には50個以上入っているのだ。
カウンターには焼き栗を買う人たちが群がって我先に買おうとする。
「あんた、おとなしく並んでたらあかんわ?、もっとぐいぐい詰めな?」とまわりのスペイン人のおばさんたちが陽気に笑いながら言う。まるで大阪のおばちゃんたちの迫力! 私の前の男性もおとなしく並んでいたが、一人で数袋も注文したので焼き栗は底をつき、ついに売り切れてしまった。
薪をくべて次々に栗を焼く係の男たちは20キロ入りの袋から大鍋に生栗をどさっと入れて、籠に薪を次々とくべる。みんな汗だくでビーニョをぐいぐいあおりながら必死。 でも焼きあがった栗はいったん籠に移し変えて、その上にもう一つ籠を置いて、別の鍋の焼き栗をそこに入れる。焼きあがった熱々の栗をいったん押さえつけて蒸しているのだろうか? それから計り始めるので、時間がかかる。
20分以上も待たされてやっと私の番が来た。これでもスペインのおばちゃんたちが係の男をせかしたお陰でかなり早くなったのだ。
焼き栗は特大のカップで山盛り計り、それを電話帳の2ページを張りあわせて作った袋に入れてくれる。
ところがこの袋、電話帳にしてはちょっと変だ! とても字が小さい。しかも袋の裏は白地。普通の紙にわざわざ電話帳のページを印刷して袋を作ってある。
後で聞いたのだが、このごろ電話帳で食べ物を包むのは衛生上問題があるということで、禁止になったそうだ。そこでひとひねりした電話帳そっくりの紙袋が登場。言われなければ分からないほどよくできている。
途中で気が付いて写真を撮ったので、栗もビーニョもかなり減ってしまった。紙袋は、普通の紙にわざわざ電話帳のページを印刷して作ってある
真っ黒にこげた栗の皮は渋皮ごとぽろりとむけて食べやすい。ビーニョもコップになみなみと注ぐので、泡だってこぼれそう。完熟の甘い栗と出来立てのビーニョはとてもよく合う。
その他の出店ではいろんな物が実演販売。卵を使った甘いお菓子を売る店が圧倒的に多いが、栗を使ったお菓子が数種類もあり、中でも見た目は日本の栗饅頭に良く似たものがコンテストで一等賞を勝ち取っていた。
甘いあま~い栗のお菓子
コンテストで一等賞を勝ち取った栗のお菓子
教会の周りでは男女一対のギガンテ(巨人)人形を先頭に大太鼓、小太鼓の楽隊が練り歩き、中世の服装をした楽隊も笛や太鼓を打ち鳴らし、警察の軍楽隊やその他にもまだふたつ以上の楽隊が演奏しながら村のあちこちを歩いていた。
以前は荒れ果てていた古城はりっぱに修復されて、その下の展望台にはフランス風のきちんと刈り込みされた公園ができている。そこに焼き栗とビーニョを持った人びとが次々とやってきて、生垣の縁などに腰掛けて食べている。
断崖絶壁の鷹ノ巣村から下界を見下ろし、熱々の焼き栗と出来立ての赤ワイン! 最高に美味い!
男女のギガンテ(巨人)人形と楽隊はアマランテから応援に駆けつけた
中世の服装で練り歩く鼓笛隊
ポルトガルは大昔からエコの国だった。
大西洋に面した小高い丘には帆を張った風車が回り、粉をついた。
風車の丈夫な帆布を応用して風の力で走る帆船が作られ、大航海時代は世界の半分を制覇した。
その他にもエコエネルギーとして、潮の満ち引きを利用して粉を挽く水車が使われていた。それが私の住むセトゥーバルに残っていて、今は博物館になっている。干満の落差をうまく利用し、水車を回して杵を上下させる仕組みだ。
現代はもっと進んでいる。まだ実験段階らしいが、波の打ち寄せるエネルギーを利用した発電装置が大西洋の沖合いに設置されたという。
ポルトガルはその気になればエコ資源はどっさりある。
大西洋の荒波、海から吹きつける強風、そして焦げ付くような太陽光線と長い日照時間。
風を利用した巨大風車発電装置を私が最初に目にしたのは南のアルガルヴェにある小さな村だった。広大な土地に数十基のモダンな風車がずらりと立ち並ぶ姿に圧倒された。それは日本の会社が設置して、風車には日本企業のマークが印されていた。
その後いつのまにかどんどん増えて、リスボン近郊や大西洋岸にニョキニョキと群れになって立ち並んでいる。でも残念なことに日本企業のマークではなくなった。
ポルトガルはヨーロッパの中でも日照時間が長く、しかも太陽光線も強い。特にアレンテージョ地方の夏の暑さは強烈で、時には40度を超えたりする。
そこに巨大なソーラーパネルが立ち並ぶ発電システムが完成したという。いったいどんな規模のものだろう!太陽熱を利用して電力エネルギーを作るエコシステムとはどんな所にあるのか確かめに行こう!
エコシステムを見るのに、値上がりの激しいガソリンを撒き散らしながら行くというのも変な感じだが…。
その場所はスペイン国境の近く、モウラにあるらしい。
家を出るときはヒンヤリと涼しかったのに、東へ向かうにつれて日差しがどんどんきつくなる。アレンテージョ地方は完全に猛暑。
モウラに着くと、ツーリスモ(観光案内所)でソーラー発電設備のある場所はどこか尋ねたのだが、それはモウラからさらに26キロ離れたアマレレイジャ村にあるという。
田舎の道をのんびり走る。道の両側はオリーブ林やコルク樫の森、そして広大な牧場が続く。牧場には茶色や白い牛たちが木陰で気持ち良さそうに寝そべっている。日なたは暑いが、木陰に入るとさわやかで過しやすい。
アマレレイジャ村の入り口にさしかかったが、あたりにはソーラーシステムは見当たらない。そうとう巨大な設備らしいから、すぐに目に付くだろうと思っていたが。村の中心広場で車を止めて、誰かに尋ねよう。
それにしても暑い!強烈な日差しの当たる広場には誰もいない。古びたカフェの軒先に隠れるように老人がぼんやりと座っている。その隣に小さな店があり、アイスクリームの看板が見えた。
冷たいアイスクリームで一息ついて、ソーラー発電所の場所を尋ねた。
おかみさんは外に出て「ここの道をずっと行って教会の横を左に曲がったら、後はまっすぐまっすぐ行けばすぐ見つかるわよ。歩いても5分、車なら2分よ」とあっさり教えてくれた。この様子では村の誰に尋ねても知っている感じだ。
教えられたとおり教会の横を行くと、すぐに村を出てしまい、さらに畑や空き地の中を進むと遠くにそれらしき固まりが目に付いた。
畑の間のトラクターしか通らない地道を走ると巨大なソーラーパネルが何百と立ち並ぶ場所に出くわした。でもその位置は真後ろにあたり、ソーラーパネルは全て後ろを向いている。しかも小さな川が間にあるので、車では渡れない。
元に戻って正面に行ける道を探して大回りをした。
やっと一本の農道を見つけて左折。ここも地道で、しかもパウダー状の砂で覆われて砂埃がもうもうと巻き上がる。それでも狙い通りぴったり真正面にたどり着いた。
巨大な青い鏡のようなパネルが等間隔でずらりと並んでいる様子は圧巻!
でもまだ完成はしていないようで、遠くで新たな取り付け作業をしている姿が見える。 ソーラーパネルの真横に立つとその巨大さが実感できる。何百枚、いや千枚以上あるかもしれない、数えることさえできない!すごいスケールだ。
でもこの土地の面積もすごく広い。元々はこのあたりはコルク樫が立ち並ぶ森と羊の牧場地帯だったらしい。それがこのソーラーパネル発電所を設置するために切り倒され、周りの空き地に積み上げられて、そこで炭を作っている。
森だった所が潰されて、しかも木を燃やして炭を作っている。
森だった土地は水分を失い、まるで砂漠のよう。これではエコシステムとは逆行している。
砂漠を作るのではなく、砂漠に木を植えて二酸化炭素を酸素に変え、ソーラーパネルは建物の屋根に取り付けて発電すれば、こんな広大な土地を占領する必要はない。
ところが個人の屋根にはソーラーパネルはほとんど見かけない。個人で取り付けようとすると値段が高すぎるのだろう。こんなに強い太陽が降り注いでいるのに、もったいない!
そういう我が家も付けていない。
帰宅してから考えた。このところガスも電気も水道もどんどん値上がりしている。毎日入る風呂を沸かすガス代をなんとかできないものかと頭をひねった結果、我が家の手作りソーラーシステムのアイデアが出た。
というとすごいことに思われるかもしれないが、実は簡単!
南向きのベランダに五リッター入りのペットボトルを14個並べて置くと、夕方にはまずまずの風呂用のお湯が出来上がる。
これで真夏の風呂はエコ風呂!
風呂のあとの水はバケツに汲んでトイレの水に流す。一晩に使う風呂の水が、翌日のトイレの水としてちょうど使い切る。毎晩捨てていた風呂の水とトイレの水の量はかなりのものだった。
問題は毎日14個のペットボトルに水を入れてベランダに運び、それを風呂に入れた後、また水を入れてベランダに運ぶ手間と体力。いつまでつづくかな~。
ずらりと並んだソーラーパネルを後ろから。
コルク樫の森を切り開いて設置されたソーラーパネル群
何百枚と並ぶ巨大なソーラーパネル
ソーラーパネルの横に立つ人と比較するとその巨大さがわかる。
まだ取り付け工事は続いている
リスボン郊外の巨大風車が立ち並ぶ丘
私の住んでいるセトゥーバルは大西洋に面し1年を通して比較的穏やかな気候だが、その東側、スペインとの国境までの間に広がるアレンテージョ地方は真夏には連日40℃近くの猛暑が続く。「真夏のアレンテージョには行くものではない!」と今までの経験でわかっていても、この夏もまた行ってしまった。「どこへ?」「ルドンドへ紙の祭りを見に…」である。
ルドンドは素朴な陶器と美味しいワインの産地、そして8月に開催される夏祭りは見応えがある。ルドンドは小さな町で、古い家並みが続いている。そうした家並みの間をいくつもの石畳の小道がめぐっている。ルドンドの夏祭りの特徴は紙細工。小道ごとにテーマを決めてすべて紙細工で飾り付けてある。
紙で作られたバルセロスの雄鶏。紙細工の天井が涼を作る。
小道の入口と出口には紙細工のアーチが作られ、その間にはひもを張り、切り紙がひもにずらりと貼り付けてある。真夏の直射日光を防いで日陰を作り、たまに風が吹くとさわさわと涼しげな音を立てながら揺れる。切り紙細工の下にはテーマにそって作られた力作が入口から出口までずらりと並ぶ。それがすべて紙で作られているのだが、あまりにも精巧で見事なので、思わず目をこらし、手で触って確かめてみたくなる。
ここは赤ん坊や幼児の小道
幼児の広場
車を飛ばして町に到着したのはちょうどお昼。祭りの間は市役所脇の公園に特設の食堂ができるので、私たちは毎回この屋台でお昼を楽しむ。町の農協メンバーがやっているらしいので、食堂のことはいかにも素人でものすごくスロー。まず前売りで食券を買うのだが、小さな窓に顔を突っこんで、奥に座っているおじさんに注文をする。メニューは窓の横の壁に手書の紙が張ってある。メニューといってもすべて炭火焼だけ。選べる品はフランゴ(チキン)か豚肉、それにイワシ。
私たちはフランゴの炭火焼一羽と焼きピーマンのサラダ、パン、それにノンアルコールビールとコップいっぱいの赤ワイン、デザートは白いメロンを注文。一品ごとに切符をきるので、全部で7枚も手渡された。それから小屋の反体側に回ると、また窓口があり、ここで切符を渡して紙のテーブルクロスとお皿とナイフとフォークを受け取った。
即席で作られた長いテーブルが数列並んでいるのだが、今年は日よけのテントが張ってないので、ほとんどの席がカンカン照り。わずかにある木蔭の席はどこも先客が座っている。半分木蔭の席をどうにか見つけてテーブルをセットした。できあがった料理は自分で受け取りに行き、飲物は別のカウンターに切符を渡して受け取る。まだお客が少ないのでよいが、混んできたら時間がかかってしょうがない。でも青空の下、木蔭で食べるのは気持がいい。フランゴはかなり焦げすぎだったが…炭火焼はやはり美味しい、デザートのメロンもぐっと冷えて旨かった。
ゆっくり食事をした後、「今年はどんなテーマなのだろう」と期待して紙の祭りの展示を見て回った。その中でも「アマゾン」をテーマにした小道は見応えがあった。
パパガイオ(オウム)の小道
アマゾンの珍しい草や花、そして生息する昆虫や動物が紙で再現されている。本物そっくりの花の上にはこれまた本物そっくりの小さな昆虫が止まっている。紙でできた木の枝には紙製のカメレオンが止まって長い舌を出し、舌の先には紙で作った小さなハエ。なんと芸が細かいこと!
アマゾンの小道。蝿を取るカメレオン。
木に着生する蘭の花に小さな虫
アマゾンのインディオ。石も竹もフルーツも人間もすべて紙で作ってある。
白むねオオハシも木の葉も紙製
別の小道ではポルトガルらしいテーマ「マタンサ」。これは秋の終りに農家で行なわれる伝統行事。これからやってくる冬に備えて、養っていた豚をしてベーコンやハム、ソーセージなどの保存食を作る作業。このテーマをとても細かいところまで再現している。
「マタンサ」の小道。豚もナイフも人形も服や靴もすべて紙。
まず母豚が子豚に乳を飲ませているところ、次には豚を解体する場面、豚肉をミンチにして腸詰のチョリソ(ソーセージ)を作るところ、チョリソなどを乾燥、燻製する小屋など…これがすべて紙で作られているというのがすごい!
豚肉をミンチにする。これもすべて紙製。
チョリソを燻す小屋。チョリソも小屋も鍋も紙製。赤い服のおじさんは紙製ではありません。
その他にも、世界情勢を反映して、経済新興国ロシアと中国をテーマにした小道もあり、バラエティに富んでいる。
ロシアの小道
2時間ほど猛暑の中を歩き回ってふらふら。この時間、歩いているのは観光客だけで、町の住民は窓を締め切って食後の昼寝をしているのだろう。夕方からぼつぼつ人が出て、夜9時過ぎから特設舞台で演奏が始まり、夕食を終えて待ちかまえていた人々が踊り出す。それから夜中の1時まで祭りは盛大に盛り上がる…。
北部ミーニョ地方の町ヴィアナ・ド・カステロの夏祭り。去年に続いて今年も350キロの道のりをものともせず出かけた。といっても運転は夫で、私は横に座っているだけなのだが。
ミーニョ地方はポルトガル発祥の地と言われている。十一世紀にキリスト教徒がイスラム勢力から国土を取り戻そうと起こしたレコンキスタ(国土回復運動)。そのとき活躍したフランスのブルゴーニュ公爵に与えられた領地だった。それがポルトガル発祥の土台になり、イスラム勢力を南へ南へと追い出して領土を広げていった。祭りを見ると、そのころの文化が今でも色濃く残っている。
祭りに参加する人々は男も女も伝統的な衣装を身につけ、女性たちは代々伝わる金の首飾りを何重にも胸にかけて練り歩く。去年はニュースを見て、急に思い立って出かけたので、着いたのは最終日の夜8時過ぎ。すごい人出と人垣で、祭りの行列は隙間からしか見えず、周りが暗いので写真もあまり取れなかった。今年は昼間の行列をぜひ見たいと出かけた。町の入り口あたりからすでにどこもここも車がびっしり駐車している。観光バスも次々と到着。バスから降りた人たちがぞろぞろと中心に向かって早足で歩き、どの顔からもかすかな緊張と興奮が感じられた。
この「ロマリア祭」はアゴニア教会を目指して各地から巡礼者が集まる。去年、道路わきの空き地にテントを張って泊り込んでいる人々をかなり見かけたが、彼らは祭りの4日間をそうして過ごす巡礼者だったのだろう。中心地では、駅から港へ通じる大通りの両脇に階段状の観覧席が設置されている。去年は無料だったが、今年は有料で8ユーロ。それも全席すでに売り切れだという。その他の道路沿いは無料だが、どこも最前列はプラスティック椅子や折りたたみ椅子などを置き、早い時間から場所取りをしている。祭りの行列は午後の4時から始まる。でも後ろの方だと人の頭しか見えなかった去年の苦い経験があるので、最前列はもう無理だとしても絶対に2列目は確保しようと、私たちもずいぶん早くから場所を決めてそこを動かないことにした。
通りの両側はだんだんと人が増えて、車両進入禁止の道路では手押し車に折りたたみ椅子を満載した「にわか椅子屋」が何人もいて、掛け声を上げてひっきりなしに行ったり来たり。あちこちから声がかかり、飛ぶように売れている。行列の間ずっと立っているのも大変なので私たちも買った。これでゆっくりと長時間見られる。
3時ごろになると、祭りに出演する人たちが晴れやかな伝統衣装を着て、次々とやって来た。出発の集合場所に向かっている姿は楽しそうだ。親たちはもちろん、小さな子供たちや赤ん坊まで晴れ着を着て、まるで日本の「七五三のお宮参り」のよう。
見事な刺繍がほどこされた伝統衣装。
母親に手を引かれて祭りの集合場所へ急ぐ子供たち。
母親に抱かれたこの小さな子供たちも、行列では母親と一緒にダンスを踊った。
4時を少し過ぎて、いよいよ始まった。先頭は「ギガンテ」と呼ばれる張りぼての巨人たち。高さが3メートルほどで、フラフラしながら太鼓に合わせて踊る。大太鼓の小気味良いリズムと音が腹に響き、沿道の観客も一気に祭りの雰囲気に引き込まれる。
昔は牛か馬が引いていたのだろうが、現代はトラクターに引かれた祭りの台車がやってくる。台車ごとにテーマがあり、まず今年の「ミス・ロマリア祭」に選ばれた女性、そして黒いドレスに何重もの金の首飾りを着けた上流階級の女性たち、手には金銀の飾りに包まれたロウソク。新郎と腕を組み、白いブーケを手に持つ花嫁。昔の服装をした貴族夫婦や商店の夫婦たち。
昔からの町の産業と特産物を再現した台車も次々にやってくる。陶器の台車では土をこね、足で蹴るロクロの実演、ビーニョ(ワイン)の台車ではぶどう棚に本物の葡萄の葉と実をつけて、後ろにはビーニョ樽があり、コックを開けて甕に移し変えたのを沿道の観客に振舞っている。
ミーニョ地方の特産「ビーニョヴェルデ」は発泡性ワインで、フランスのシャンパンの元祖みたいで素朴な味。グラスではなく茶碗で飲む。私の前に座ったおじさんが強烈に要求して、何杯ももらっていたが、ついに私の横にいる女性が手を出してその茶碗をむんずとつかんで奪い取り、飲んでしまった。おじさんはあっけに取られ、周りは爆笑。
大太鼓小太鼓のリズムに合わせてユーモラスに踊るギガンテたち。
金銀細工で飾ったロウソクを捧げ持つ女性。胸にはずっしりと重たそうな金の首飾りが。
上流階級の新郎新婦。
発泡性ワイン「ビーニョヴェルデ」は厚手の茶碗で飲む。観客に振る舞い酒。
台車はますます庶民的になり、もうもうと煙を振りまくサルディーニャ(イワシ)の炭火焼まで実演。希望者が台車に駆け寄って手を出す。若い女性たちがパンやお菓子をくばり、その後を蜂蜜の壷を抱えた女性たちが観客たちの差し出したパンに付けている。ちょうどみんなお腹がすくころだから、大喜び。
行進する台車の上でイワシの炭火焼。
壷に入った蜂蜜を振舞う。
マリア様へ薔薇の花の捧げもの。かなり重そうで、途中で隣の女性と交代。
華やかな衣装を着た年配の女性たちが頭に大きな花かごを乗せている。花かごの中にはレイタオ(生後間もない子豚の丸焼き)。これはさすがに試食はない。
あとの方になると、漁師たちの台車が来た。本物の漁船の上ではヤスに本物の蛸を突き刺したり、別の漁船ではモリの先に何やら長いものを突き差している。それは、長さ1メートルほどもあるランプライア(ヤツメウナギ)だ! 遠目にも点々と8個の眼(眼と7個の鰓孔-えらあな-)が付いているのが判った。ミーニョ地方の特産だ。
農家の人々は鋤や鍬を持ち、女性たちは野菜やトウモロコシを入れた籠を頭に乗せて行進。台車と台車の合間には、民族衣装で着飾ったフォークロアの人々が民謡を歌いながら踊る。小さな子供たちも母親の踊りをまねて踊っているのが、なんとも可愛らしい。
この祭りは「ノッサ・セニョーラ・ダ・アゴニア教会」の宗教行事を中心に、敬謙なキリスト教徒である貴族、町民、漁民、農民など、あらゆる階層の人々が自分たちの職業と衣装にほこりを持って生きてきたことを確認するための4日間なのだろう。みんなが生き生きと祭りを楽しんでいた。
マリア様への捧げもの。レイタオ(子豚の丸焼き)の入った籠を頭に乗せて。
漁師たちが集まるバル(一杯飲み屋)を再現。台車の上で飲み食いして盛り上がっている。
フォークロアの演奏。
楽隊の演奏に合わせて唄い踊り始めたフォークロアの人たち。
このごろメルカド(市場)はどうも活気がないな~と感じるのは、私だけだろうか。
以前だったら土曜日の午前中は買い物客がつめかけて、建物全体がワオンワオンと鳴り響いていた。
二重三重の人だかりだったカニ屋の店先もこのごろは客足がまばら。
アジとイカを専門に売っているアジ屋のおじさんも、忙しいはずのこの時間に果物屋の店先で桃を手に取って品定めをしている。
「あらら~、こんな所でさぼって大丈夫かな~」とおもわず声をかけたくなる。
メルカド全体が暇そうだが、特に魚売り場は活気が落ちている。
今の時期は国民がいっせいに夏休みを取って、南のアルガルヴェ地方や海外はブラジルやキューバなどリゾート地に出かけている。
メルカドに活気がないのはそのせいかもしれない。
でもそれだけが原因とはいえない。
私たちがいつも行く大型スーパーの魚売り場は以前に比べてお客が急増している。
番号札を取ると、30人、40人の順番待ちがふつう。
というのも以前に比べて魚の鮮度がすごく良くなっているし、そのうえ値段がメルカドよりずっと安い。
メルカドは旧エスクードからユーロに替わってから、魚も野菜もそれまでの2倍の値段になって、そのまま高値の商売を続けている。
それに比べてスーパーは他店との競争が激しく、なんと60パーセント引きバーゲンセールなどを時々やっている。
肉や魚や野菜などかなりの品が大幅割引だから、私も買いたいものをメモしてまとめ買いをすることが多い。
これではメルカドは大型スーパーにお客さんを取られても仕方がない。
実際、メルカドでは店を閉めてしまった所も見かける。売り上げ不振で閉めたのかどうかは分からないが、だいぶ前から空き家になっている売り台が数軒ある。
ところがその中のひとつがこのごろ開業した。
しかもいちばんメインの通りの空き店舗に「ハーブ屋さん」がオープン。
ちょっと前までメルカドの外で野草や乾燥ハーブを少しだけ並べて売っていた女性がメルカドの中で本格的に店を出したのだ。
メルカドで本格的に野草と香草の専門店を開店
外の店のときは私も鉢植えの野草を買ったことがあり、その時そばにある野草などの名前を尋ねたりした。
今度の店はあつかう品数も今までよりもずいぶん多くなっている。
乾燥したローリエやバジル、コリアンダーなどが台の上や天井からたくさん吊るしてあるし、生葉のミントやパセリや名前を知らないハーブなど、種類が多い。
鉢に植えた薬草やハーブもあり、その中に可愛らしいふわふわした花を段々に咲かせたミントと良い香りのするラヴェンダーの鉢植えを見つけて、ついつい買ってしまった。
可愛い花が咲いたコリアンダーや、パセリやミントなどの生葉
ふたつともポルトガル語の名前を紙に書いてもらったので、覚えやすい。
部屋に置いて花の鑑賞ができるし、どちらも料理の香味として使えるという。
ポルトガル料理は煮込みに香味野菜をよく使うから、こんな専門店が成り立つのだろう。
手前は乾燥したオレガノやコリアンダーの種、唐辛子など。
後ろに並んでいるのは、ジュースの空き瓶にそれらを入れて、オリーヴ油漬けにしたもの。
町の住民はこうした店で買うのが手軽だが、町を出て野原を歩けば、道端に野生のミントやフェンネルやラヴェンダーが生えている。郊外の人たちは草摘みをして料理やお茶などに使うのだろう。
このごろ私たちは野草の写真を撮ることに夢中になっている。
撮りためた美しい野草の花も名前が分かってきたらいろいろと世界が広がってきた。ポルトガルの野草はかなりの物が薬草だと知って驚いている。
家の近くの山道に咲いている可愛いピンクの花が「ベニバナセンブリ」だという。これは胃腸に効くらしい。「センブリ」は日本でも昔から「せんじ薬」として使われていたようだ。
山道に咲く「ベニバナセンブリ」
その隣に咲いていたオレンジ色の小さな花が寄り集まった植物は「キバナノコギリソウ」。これはドライフラワーにしたものがハーブ屋さんに売っていて、肝臓などの病気に効くらしい。
野原に咲く「キバナノコギリソウ」
薬草の効能を知っても、自分で煎じて飲むことは今のところできないが、野原を歩いてどれがハーブでどれが薬草かなどと知っているだけでますます楽しくなる。
そのうえ、メルカドに行けば「ハーブ屋さん」で、知らない野草のことをいろいろ教えてもらえるし。その前にあの店の常連になって、応援しよう。