土岐氏と高桑氏(4)
戦国時代(6)
「美濃諸舊記」という、美濃を語るのに不可欠な全12巻の旧記がある。「覚書61」で、川手城攻防戦敗北後、高桑氏が最後に従属した土岐頼純と共に、越前・一乗谷・朝倉氏を頼って落ちて行った様を述べた。その状況に見合った「諸舊記」は、「巻二」であるので、その原文抄本を、此処に転載する。
・・・・・時に道三、再び頼芸に勧(すす)め、某(それがし、自分)に討手(うって)を命ぜられ給わゞ、忽ち革手の城を攻(せめ)破り、頼純殿(よりずみどの)を追落し、・・・・・。
頼芸許容ありて、さらば早く攻(せめ)落し参れかしと、下知(げち、命令)を伝へられ、軍勢を差出す。其勢五千五百餘人と云々(しかじか)。干時(ときに)大永七年八月十二日なり。
道三、自ら先陣に進たれ、(頼純方は、)俄(にわか)の事なれば、遠方の幕下(配下の兵)は、夢にも知らず、馳(は)せ参らざれば、漸(ようや)く城に在合ふ兵に(兵と)、俄に聞き付けて、馳せ加はりし輩(やから)を集め、其勢僅二千餘人なり。
其面々には、蜂屋主馬助(うまのすけ)・猿子源助・多治見蔵人(くらうど)・各務伝之丞(かがみでんのじょう)・鷲見(すみ)新五郎・・・・・高桑才左衛門以下、我も我もと持口(戦闘配置場所)に馳せ行き、飛(とび)矢を射(い)出し防戦す。
(次回に続く)
写真は、「一乗谷朝倉氏遺跡」石碑前で、人物は当筆者本人
「一乗谷城」は、この朝倉氏館背後の山に在った。
昭和62年8月、越前・加賀旅行の折に写す。
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