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「高桑氏族」 覚書(118)

2013-09-24 11:53:52 | 歴史

美濃路(2)

本来の東海道は、「宮宿(熱田宿)」から「七里の渡し」の海上を通って、桑田宿に達する。しかし海が荒れた時や、船酔いの者は、これを避け、遥かに遠回りになるが、伊勢湾を巡る陸上を歩いて、「桑名宿」に達する。これが、「佐屋宿」を通過する「佐屋路」という「脇街道」である。

しかし上記の海上路でも、陸上路でも、東海道を先へ行くと、鈴鹿山脈・鈴鹿峠を越えなければならない。鈴鹿峠(当時378m、現在357m)は、そうは高くないと思われるが、高低差が急激、つまり坂の勾配が急で、現在でも、箱根峠に次ぐ、国道1号線の難所である。

上の様に見てくると、美濃路の重要さが分かる。特に戦乱時、大軍を動かすのに、上記の東海道進撃路は、不可能である。そこで東海道軍の「東海道」は、熱田止まりで、「美濃路」へと入り込み、中山道に達して、京へと進撃する。こうして戦乱時、美濃路は軍用道路と化した。

上記の典型的な例が、「承久の乱」時の鎌倉幕府軍の進撃路である(覚書16)。幕府軍は、北陸道軍・東山道軍(中山道軍)・東海道軍の3軍編成であった。

東海道軍は、10万の大軍であったから、本来の東海道を進撃するのは不可能である。それで当時「美濃路」という名はなかったが、この道に入り、高桑に渡河して、この地を蹂躙し、「墨俣渡」で朝廷軍と交戦して、これを突破し、「宇治川の戦い」を経て、京都を占領した。

「美濃路」は、江戸時代に整えられた街道であるが、「承久の乱」時・鎌倉時代の名称は、「鎌倉街道」であった。当時この道は、京都から鎌倉への海道(街道)で、“いざ鎌倉”の「鎌倉街道」であった。

国文学者によると、鎌倉時代の、京から鎌倉への3本の「旅日記」の中、1本は、本来の東海道の旅であったが、2本は「美濃路(鎌倉街道)」経由の旅だったそうである。

墨俣は、美濃路上に在るが、目と鼻の先の高桑は、そうではない。しかし1000m内外の外(はず)れしかない。従って実質上は、美濃路上であり、美濃路の齎す諸々(もろもろ)の影響を、直接被って来た。

台風に通り道がある様に、美濃路は戦乱の通り道であり、高桑は、その地政的宿命を甘受する外はなく、周辺が戦場になった時は勿論、大軍の通過でも、軍夫や糧食の徴発、農地の踏み荒し、兵士の乱暴狼藉等、必ず多大の被害を蒙ったであろう事は、想像に難くない。

写真は、「東海道・美濃路分岐点」
名古屋市熱田区伝馬(伝馬の地名は如何にも旧宿場らしい)

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