一向一揆(4)
中世記事
「高桑備後本願寺門徒也」 備後は、一向一揆軍の一隊を率いる中首領で、一揆で言う「旗本」であったろうが、天正8年(1580年)、信長の宿将・柴田勝家による一向門徒撲滅作戦の犠牲になっている。
備後の様な地侍の「門徒武士」は、一揆の戦いで、農民を率いて指揮者となった。
古書・「越登加三州志」によると備後は、加賀国石川郡・舘山城主であった(小領主・地侍)。柴田勝家に攻められ降伏したが、殺されたらしい。
上記の「三州志」以外で、江戸時代宝永年間編集の「宝永誌」にも、上と同様の記事がある。石川郡割出に備後は、「高桑館」(上記の舘山城)を構えていた。しかし跡地は、江戸時代に、もう畑になっていたが、其処は「館(やかた)」の地名になっていたと云う。
備後の子・五郎は、館が勝家に攻略された時、家臣に守られ、遥か北の河北郡森下に逃れ、其の後武士を捨て、染色業を営み、世間から「館紺屋」と呼ばれた有名な挿話は、「覚書107」の通りである。
中世記事
「加賀国 倉月庄名主 高桑六郎左衛門、同 高桑彦太郎 大永以後の人々」 「大永年間」は、16世紀初頭で、織田信長が生まれる少し前の年代である。
当時は、「兵農未分離」の時代であるから、「名主(おとな)となると、「地侍」である。この記事にはないが、恐らく「真宗門徒」であったであろう。
画像は、「法然上人」(覚書141)
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