高桑近辺の戦い(12)
「高桑河原の戦い」(3)
「高桑河原の戦い」(建武3年)へと連なった2つの戦い(「中先代の乱」・「箱根・竹ノ下の戦い」)が、前年にあった。
新田義貞に攻められ自刃した、最後の鎌倉幕府執権・北条高時の遺子・時行は、建武2年(1335年)、信濃の諏訪氏に擁されて挙兵し、尊氏の弟・直義を破って、鎌倉を占領してしまった。北条氏が「先代」で、足利氏が「後代」、その中間が、時行なので歴史では、これを「中先代の乱」と称する。
尊氏は、この奪還を口実に、天皇が許さなかったのに、下向して鎌倉に居座ってしまった。建武政権からの離脱を狙っていた。
後醍醐天皇は、勅命に逆らう尊氏に対して、新田義貞に追討を命じた。尊氏は、これを迎え撃つべく、鎌倉を出陣し、建武2年12月12日、「太平記」の中でも、特に有名な「箱根・竹ノ下の戦い」となった。新田軍は敗れて、一路京都へと敗走した。足利軍は、これを激しく追撃し、翌3年1月12日、京に雪崩れ込んだ。
処が、新田軍を追撃する足利軍を、僅か数日の行程差で、これを追撃する天皇側の大軍があった。弱冠19歳、公卿出身の若武者・北畠顕家(あきいえ)率いる奥州軍であった。
こうして高桑の地を通過して、京へ向かう軍は、敗走する新田軍、これを追撃する足利軍本隊、殿(しんがり、後衛)軍を務める足利支隊の吉良軍、その後ろに、足利本隊を追う奥州軍となり、戦史上余り例を聞かない、この奇妙な4軍の連なりの中で、「高桑河原の戦い」となった。
処で、京の貴公子である北畠顕家が、どうして奥州軍を率いているのであろうか。それは天皇の「建武政権」によって、公家でありながら、歴戦の武将である顕家は、「陸奥守」に任じられ、奥州に下向していたからである。
画像は、「北畠顕家」
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