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「高桑氏族」 覚書(139)

2013-11-07 11:46:15 | 歴史

高桑近辺の戦い(13)

「高桑河原の戦い」(4)

この戦いは、(覚書136)の本間四郎の「軍忠状」以外に、資料が乏しいので、その様子を推定を交えて、描いてみる。

推定の根拠の一つは当時、高桑の地を通過して、京へ向かう軍は、敗走する新田軍、追撃する足利軍本隊、これを後衛として支援する吉良軍、足利本隊を追う奥州軍の4軍が争っていた事である(覚書138)。

もう一つの推定根拠は、建武3年正月8日の、足近・小熊を含む高桑近辺戦、正月12日の足利軍入京、翌13日、これを追う奥州軍が、琵琶湖畔・坂本到着、次いで入京という、3つの近接した日付に注目した事である。

上の2つの根拠から推察すると、足利本隊の後衛軍と考えられる吉良軍が、足利本隊に激しく追い縋(すが)る北畠軍を、高桑近辺で防ぎ止めようと、本間有佐の助勢を得て、必死で戦った。これが「高桑河原の戦い」に違いない。冬の減水期で、高桑河原が随分と広がり、戦場となったのであろう。

北畠軍は、足利本隊に追付く為、高桑で立ち塞がる吉良軍を、真面(まとも)に相手にしている閑はない。高桑戦は、単に進撃路を切り開く為の小戦であったろう。

こうして足利本隊も奥州軍も高桑を通り過ぎ、、吉良軍は戦場に取り残されてしまった。そうこうする内に、総大将尊氏が、北畠・新田・楠木に撃破され、遠く九州までも遁走したとの報に接した。吉良軍は已むを得ず、進撃路を逆に取り、鎌倉へと帰還の途に着いた。

建武3年(1336年、南朝暦・延元元年)1月、尊氏九州へ逃げ去る。しかし4月には早くも再挙して東上、快進撃。これからの南朝の凋落振りは、目を覆うばかりであった。5月義貞・楠木、湊川で破れ、正成戦死。8月光明天皇即位(北朝成立)。10月義貞追われて越前へ。11月室町幕府成立。12月後醍醐天皇吉野遷幸(南北朝成立)。1338年、新田義貞、越前藤島で戦死。1339年、後醍醐天皇薨去。

北畠顕家は、尊氏を九州へ敗走させて、奥州に帰任したが、建武3年、天皇の勅で再び上洛し、各地に転戦した。しかし延元3年(1338年)、北朝軍との「和泉国石津の戦い」(大阪府堺市)で戦死した。享年21歳の若さであった(新田義貞戦死と同年)。

写真は、「新田氏累代の墓」
円福寺、旧上野国新田郡(群馬県太田市)
昭和58年訪れて撮影。

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