古社を訪ねて


大阪・奈良の『古き神々との出会い』

93 日根神社

2008-03-02 | 和泉国

泉佐野市日根野に鎮座する「日野神社」式内社
駐車場 観光組合の駐車場あり 御手洗あり

日根神社


長い参道が続くこのあたりで中間付近

日根神社は和泉国五社の一社で、社地が当地域の灌漑の取水点であったので、中世には九条家領日根荘の惣社として崇敬を集めた。


やっと拝殿が見えてきた。

【創建のいわれ】(神社より頂いた栞より)

日根神社は大井関大明神と称して、延喜式や国内神名帳にも名がでている古い神社です。神社の創建にはいくつかの伝承があります。

(1)神日本磐余彦(神武天皇)が紀伊熊野から大和に入る途中、日根野の地に神を祭り戦勝を祈願したのがこの神社のはじまりとします。

(2)神功皇后が朝鮮との戦いの帰途、岡本の船岡山に上陸し、皇后に助力し共に帰ってきた神を祭ったのが溝口大明神(比売神社のこと。現在は日根神社摂社)で、この神社が日根神社のはじまりといわれます。

(3)樫井川流域を開発した日根造は、新羅からの渡米人の子孫で「神祇志料」にはこの日根造が日根神社の主神として先祖の億斯富使主を祭ったとされています。慶長7年の日根神社縁起由来には「当社大明神ハ古三韓新羅国修明正覚王一天四海之御太子ニテ」とあり、この説をとっています。

(4)天武天皇の時代に大鳥神社より分霊を勧請し神殿を造ったのがはじまりといわれます。



御祭神

鵜葺草葺不合尊 玉依比売命 このニ神は神武天皇の祖にあたり、合わせて五瀬命、若御毛沼命(神武天皇)など四王子を祀ります。
他に億斯富使主(日根造の祖で新羅より渡来)などを祀ります。

末社として五社と十五の社を合祀した十五社があります。
その社は天神、稲荷、賀茂、八幡、金比羅、愛宕、多賀、吉野、春日、熊野、祇園、熱田、恵比須、安産、住吉です。(安産?)


「日根神社本殿」
本殿の左側に少し見えるのが、明治に合祀された新道宮(祭神 菅原道真)
本殿の数百メートル東南に千石岩があったらしく樫井川を堰き止めていたが洪水を恐れて破砕したそうだ。

【神社の歴史】

伝えられる由緒から推測すると、最初に樫井川から水を引き、上之郷と日根野の一部を開発した人たちが溝口大明神(比売神社)を祭り、後に新しい井堰・水路をつくり大規模に樫井川流域の開発をすすめた豪族(日根造)が樫井川の水を押さえる重要な場所に大井関大明神(日根神社)を祭り、やがて溝口大明神を吸収したのでしょう。そして大鳥神社などと共に和泉国を代表する神社になっていきます。

(1)奈良時代716年(霊亀2年)、河内国より和泉国が分かれた時、大鳥、穴師、聖、積川、日根神社を和泉五社とし、井上大明神を五社合祭の総社とし、720年(養老4年)に五社の神輿を総社に集め盛大な祭りをおこないました。
732年(天平4年)に大旱魃がおこり和泉五社に降雨祈願が命じられ、その効果があって、神領6800石が与えられ、その内500石が日根神社に分けられたとされています。
905年(延喜5年)に延喜式が施行され、その神名帳に記載された神社を式内社といいますが、泉佐野では比売、日根神社とともに加支多、火走、意賀美神社が式内社となります。

(2)鎌倉時代に日根野は九条家の荘園となり、溜め池や水路がつくられ開発が進み、日根神社は大井関大明神の名で呼ばれるようになります。1316年の日根野村絵図には溜め池、耕地、集落のほかに大井関大明神、溝口大明神、丹生大明神、蟻通大明神が描かれています。

(3)南北朝の動乱の時代になると、この地方の武士である日根氏も守護方に加わり戦いに参加し、すぐ近くの土丸城は南朝、北朝の争奪の城となり、何回も合戦がおこなわれます。1353年(正平8年)には兵火により社殿がことごとく焼かれました。しかし2年後に再興されます。

(4)戦国時代の1500年ごろ、大井関大明神で盛大な祭礼がおこなわれていることが、日根荘の領主九条政基の日記「旅引付」に書かれています。戦国時代末になり、日根神社は朱印地(500石)を受けますが、織田信長、豊臣秀吉は統一のために根来寺や一向宗徒を攻撃します。日根氏は秀吉に従います、そのため1576年(天正4年)に兵火により炎上します。1585年(天正13年)には秀吉により神領地が没収されました。この年より和泉五社の神輿会合は中止されます。しかし、その遺風は各神社で受け継がれ、日根神社では岡本村の船岡山への神輿渡御が始まったとされています。

(5)1600年(慶長5年)豊臣秀頼は吉田半左衛門を奉行として社殿を再興します。これが現在の本殿です。1687年(貞享4年)岸和田藩主岡部美濃守は水田一町余を寄進します。春の祭礼で幟の行列が船岡山まで華やかに渡御します。

(6)現在は日根野、上之郷、長滝地区の総社となっています。これらの地区の人たちは、それぞれの地区の神社(野々宮、意賀美、蟻通神社など)の氏子でありながら、日根神社の氏子であるという二重氏子となっています。


明治に合祀された丹生神社と式内比売神社

合祀社
明治41年に明治政府の一村一社の命令によって、日根野村の集落毎にあった神社はすべて日根神社に集められました。しかしこれらの神社は日根神社とは別に、現在も宮座を持ち神社の行事を行っています。


丹生神社 (野々宮) 旧日根野村の神社で”ゆ川”沿いに鎮座していた。
御祭神 丹生都比売


野口恵比須神社 日根野野口に鎮座していた。
御祭神 事代主命


岡前神社 旧俵屋村に鎮座していた。
御祭神 素盞鳴命


赤之宮 日根野辻花に鎮座していた。
御祭神 丹生都比売

鎮座地日根野について
日根野氏は別称を根使主ともいい、堺市の日部神社鎮座地の大鳥郡草部郷にも居たらしい。
日部神社は”日神”を祀っていたと思うので日根神社も”日神”の太陽信仰をされていたかもしれないし祭神の玉依姫命は水と縁があるので水神の地だったかもしれない。

参拝は時より小雨模様の天気だったので、ゆっくり参拝できなかった。
参道は長く「日根の松原」で有名だったらしいが今は参道沿いには、工場が建ち並び残念だった。

次回は、神社付近の地形も踏まえて参拝したい。

「郷土探訪」



















92 比売神社(溝口大明神)

2008-02-29 | 和泉国

泉佐野市日根野に鎮座する「比売神社」(溝口大明神)式内社

日根神社


「比売神社本殿」

御祭神 大日霊貴尊(天照大神)と素盞鳴命
また、衣通姫の説もある。

比売神社は東上の溝口にあった溝ノ口大明神で、いつのころか日根神社に移され、本殿と向かい合って建てられ「下の御前」と言われてきた。

神社から頂いた「日根神社由緒略記」では、最初に樫井川から水を引き、上之郷と日根野の一部を開発した人達が溝口大明神(比売神社)を祀り、後に新しい井堰・水路をつくり大規模に樫井川流域の開発を進めた豪族(日根造)が樫井川の水を押さえる重要な場所に大井関大明神(日根神社)を祀り、やがて溝口大明神を吸収したのでは?との事。

「郷土探訪」




91 大森神社

2008-02-28 | 和泉国

泉南郡熊取町大宮バス停横に鎮座する「大森神社」

大森神社

御祭神 菅原道真 事代主命

穂波神社とも称する。
創建年代は不明だが「和泉国神名帳」の日根郡の部に「従五位上大杜社」とある。
明治41年に、熊取町域の神社55社を合祀した。
合祀された神社の野田神社と雨山神社と共に熊取の三社と呼ばれ祈雨に霊験ある神社として奉祀されてきた。

「郷土探訪」




90 西葛城神社

2008-02-27 | 和泉国

大阪府貝塚市木積に鎮座する「西葛城神社」

西葛城神社


御祭神 大国主命 菅原道真 
もと深谷神社と称していた。
明治43年8月11日に西葛城神社と改称した。
境内社の楠神社は「子授けの神」として信仰されている。
画像の杉は”駒つなぎの杉”と呼ばれている。


左が楠神社 右が西葛城神社



鎮座地「木積」について
地名は、行基が畿内に49院を建立するにあたり、木島の杣山から伐り出した用材を当地で積んだことに由来するという。

「郷土探訪」

89 市杵島姫神社 

2008-02-20 | 大和国

御所市池之内に鎮座する「市杵島姫神社」

市杵島姫神社


御祭神 市杵島姫命 (美人で歌も楽器も得意な神様)
市杵島とは神霊を斎き祀る島という意味
市杵島姫は仏教の影響で弁才天と同神とされ「弁天さん」として広く信仰されている。


市杵島姫命は宗像三女神の中の一柱で、海上の安全を守る神とされている。

一般に池中の島に祀られている。

「地名と蛇池の由来」
弁天さんの使いは蛇で農村では農神としての性格を色濃くみせる。

地名の池之内という水神所縁の地に市杵島姫が祀られているのが面白い。

鎮座地「池之内」について
地名は池があったことから付けられた。
推古紀21年11月条に見える「掖上池」を当地に比定する説がある。

冨田の交差点近くに鎮座する天満神社鳥居前にある五輪塔は、近くの大口峠にあったという。

「郷土探訪」

88 龍穴神社

2007-12-23 | 大和国

奈良県宇陀市榛原区の青龍寺境内に鎮座する龍穴神社(玉立)

龍穴神社
矢印が龍穴神社

御祭神
天龗神 くらおかみの神
創祀 不明
青龍寺の鎮守として祀られたと思われる。

明治初年の神仏分離後、一旦 墨坂神社の摂社となるが玉立住民の要望で旧社地に還座されたようだ。



「本殿の青龍」

かつて千魃続きの時は、青龍寺の鐘を社前の小川に投げ入れて水を堰き止め雨請したらしい。また、玉立の人々は太古、鐘をたたいて松火を持って嶽登りしたとか。

「郷土探訪」




87 大己貴神社

2007-12-09 | 大和国

奈良県宇陀市榛原区柳に鎮座する 大己貴神社
東向き 徒歩参拝の方が無難

大己貴神社

「大己貴神社」

御祭神 大己貴命
背後の宮山を神体山(神奈備)として本殿は無く、笠形の神山が神体として崇敬され、数少ない古代の祭祀形態の神社である。
境内の巨杉には注連縄がされ、創祀は不明だが巨木から判断して古社だろう。


本殿は無く、古代祭祀形態を残す古社


境内には、巨樹が数本あり太古より祀られていたに違いない。


参道拡張工事中に発見された磐座


鳥見山方面

「郷土探訪」








86 狭山神社

2007-11-28 | 河内国

大阪狭山市半田に鎮座する 狭山神社
式内社 西向き

狭山神社
矢印が狭山神社(狭山神社バス停前 参拝者用駐車場有り)



御祭神
主神 天照大神 素盞鳴命
配祀 臣狭山命 天児屋根命 大山祇神 稲田姫命

狭山神社御由緒略記 (神社の栞より)

『狭山と呼ぶ土地は我国所々にあるが、大低は地形の上からの呼びならはしである。その中でもわが河内の狭山は国史の最初からその名が現れて現在にまで続いている。そしてこの狭山の鎮守である狭山神社は崇神天皇の勅願により創建せられたと伝えられており、天照大神、素盞鳴命、狭山連の祖を祭神として里人の尊崇をあつめ郷土を護らせ給い来ったのである。
特にここに狭山神と狭山堤神(堤神社…式内の旧社にし垂仁天皇の皇子にあらせられる入色入彦命、命勅を奉して狭山池を造り耕地の潅漑の便を計り給うた)二座の式内社が鎮座します事は例の少ない珍らしい事で、即ち式内社と云うのは平安朝の初め醍醐天皇の延喜年間に勅命で編纂された延喜式に当時日本国中の神社が記載されている所に列している。そして、その頃狭山が属している丹比郡には大三座小八座合せて十一座の神があった。その大三座は狭山神社と狭山堤神社(現在、狭山神社境内に鎮座)の外に菅生神社とである。
即ち狭山神は狭山池の築造以前から郷土の鎮守として、狭山堤神社は狭山池開発の功労者である入色入彦命を祭神として奉っている。この事は続日本書記をはじめいろいろの文献に表れている。現在の本殿は南北朝から足利時代へかけてこの附近は南北両軍の接戦地となり、度々兵火の厄にあい現在の本殿は足利の中頃(明応二年)と推察せられる。ケヤキ材の住吉造の本殿である。
なお神社の森から出土した唐草瓦と巴瓦を見ると、唐草瓦は藤原時代後期と推され、巴瓦は典型的な鎌倉初期の三巴文を現した行基葺の形式で、この瓦の戴ってあった建築物はかなり壮大なものであった事が想像できる。おそらく兵火のために灰燼に帰した名残の古瓦であろうと思われる。
境内には本殿の外、摂社として狭山堤神社、稲荷神社、戎神社と末社五社鎮座されている。』



右側より 
埴土社 (末社)
岐社  (末社) 祭神 イザナギノミコト 塞神
戎神社 (摂社 )祭神 事代主大神
拝殿と本殿


右側より
岳主社 (末社) 祭神 大山祇神 猿田彦大神
堤神社 (式内社)
足玉社 (末社) 祭神 大国主命 天児屋根命
水本社 (末社) 祭神 瀬織津姫命 タカオカミ


右より
足玉社
水本社
稲荷神社 (摂社) 祭神 宇賀御魂神



正面より 埴土社
御祭神 埴安姫大神 大歳神

また参拝したくなる神社だった。
手水鉢には「牛頭天皇御神前」と書かれてあった。

「郷土探訪」

















85 狭山堤神社

2007-11-27 | 河内国

大阪狭山市半田に鎮座する 狭山堤神社
式内社 西向き

狭山堤神社
神社は狭山神社の境内に鎮座

御祭神
入色入彦命


狭山堤神社の旧社地を望む

狭山堤神社は、狭山池の東岸に池の鎮守と祀られていたが明治42年に狭山神社の摂社となった。

狭山池には博物館があり、池の周りは遊歩道になっていて散歩コースとなっています。

「郷土探索」




84 龍神社

2007-11-26 | 河内国


大阪府大阪狭山市狭山池に鎮座する 龍神社

龍神社
矢印が龍神社



御祭神
水波能売命 天水分神 国水分神

往古、大早魃に農民が苦悩の上、龍神を勧請し祀ったのが、神社の創始。



PL平和塔 葛城山 水越峠 金剛山が見えマンション付近に遊園地があった。



狭山池下流流域の五穀豊穣と安全を祈願するため、毎年6月1日に龍神祭が行われるそうです。



地元の方の話によると、池の「平成の大改修」の折神社を無くす話が出たそうですが地元有志の方々の熱意で残す事になったそうです。