古社を訪ねて


大阪・奈良の『古き神々との出会い』

86 狭山神社

2007-11-28 | 河内国

大阪狭山市半田に鎮座する 狭山神社
式内社 西向き

狭山神社
矢印が狭山神社(狭山神社バス停前 参拝者用駐車場有り)



御祭神
主神 天照大神 素盞鳴命
配祀 臣狭山命 天児屋根命 大山祇神 稲田姫命

狭山神社御由緒略記 (神社の栞より)

『狭山と呼ぶ土地は我国所々にあるが、大低は地形の上からの呼びならはしである。その中でもわが河内の狭山は国史の最初からその名が現れて現在にまで続いている。そしてこの狭山の鎮守である狭山神社は崇神天皇の勅願により創建せられたと伝えられており、天照大神、素盞鳴命、狭山連の祖を祭神として里人の尊崇をあつめ郷土を護らせ給い来ったのである。
特にここに狭山神と狭山堤神(堤神社…式内の旧社にし垂仁天皇の皇子にあらせられる入色入彦命、命勅を奉して狭山池を造り耕地の潅漑の便を計り給うた)二座の式内社が鎮座します事は例の少ない珍らしい事で、即ち式内社と云うのは平安朝の初め醍醐天皇の延喜年間に勅命で編纂された延喜式に当時日本国中の神社が記載されている所に列している。そして、その頃狭山が属している丹比郡には大三座小八座合せて十一座の神があった。その大三座は狭山神社と狭山堤神社(現在、狭山神社境内に鎮座)の外に菅生神社とである。
即ち狭山神は狭山池の築造以前から郷土の鎮守として、狭山堤神社は狭山池開発の功労者である入色入彦命を祭神として奉っている。この事は続日本書記をはじめいろいろの文献に表れている。現在の本殿は南北朝から足利時代へかけてこの附近は南北両軍の接戦地となり、度々兵火の厄にあい現在の本殿は足利の中頃(明応二年)と推察せられる。ケヤキ材の住吉造の本殿である。
なお神社の森から出土した唐草瓦と巴瓦を見ると、唐草瓦は藤原時代後期と推され、巴瓦は典型的な鎌倉初期の三巴文を現した行基葺の形式で、この瓦の戴ってあった建築物はかなり壮大なものであった事が想像できる。おそらく兵火のために灰燼に帰した名残の古瓦であろうと思われる。
境内には本殿の外、摂社として狭山堤神社、稲荷神社、戎神社と末社五社鎮座されている。』



右側より 
埴土社 (末社)
岐社  (末社) 祭神 イザナギノミコト 塞神
戎神社 (摂社 )祭神 事代主大神
拝殿と本殿


右側より
岳主社 (末社) 祭神 大山祇神 猿田彦大神
堤神社 (式内社)
足玉社 (末社) 祭神 大国主命 天児屋根命
水本社 (末社) 祭神 瀬織津姫命 タカオカミ


右より
足玉社
水本社
稲荷神社 (摂社) 祭神 宇賀御魂神



正面より 埴土社
御祭神 埴安姫大神 大歳神

また参拝したくなる神社だった。
手水鉢には「牛頭天皇御神前」と書かれてあった。

「郷土探訪」

















85 狭山堤神社

2007-11-27 | 河内国

大阪狭山市半田に鎮座する 狭山堤神社
式内社 西向き

狭山堤神社
神社は狭山神社の境内に鎮座

御祭神
入色入彦命


狭山堤神社の旧社地を望む

狭山堤神社は、狭山池の東岸に池の鎮守と祀られていたが明治42年に狭山神社の摂社となった。

狭山池には博物館があり、池の周りは遊歩道になっていて散歩コースとなっています。

「郷土探索」




84 龍神社

2007-11-26 | 河内国


大阪府大阪狭山市狭山池に鎮座する 龍神社

龍神社
矢印が龍神社



御祭神
水波能売命 天水分神 国水分神

往古、大早魃に農民が苦悩の上、龍神を勧請し祀ったのが、神社の創始。



PL平和塔 葛城山 水越峠 金剛山が見えマンション付近に遊園地があった。



狭山池下流流域の五穀豊穣と安全を祈願するため、毎年6月1日に龍神祭が行われるそうです。



地元の方の話によると、池の「平成の大改修」の折神社を無くす話が出たそうですが地元有志の方々の熱意で残す事になったそうです。











82 住吉神社

2007-11-17 | 河内国


大阪府交野市寺に鎮座する 住吉神社

住吉神社



御祭神
住吉大神

創建年代不明
明治5年6月私市の天田神社に合祀されたが、同12年7月旧に復し村社に列せられた。



鎮座地 寺について
地名は寺院の存在からだと思うが正行寺が地名の由来かも?

「古社を訪ねて」









81 菅原神社

2007-11-14 | 河内国


大阪府交野市傍示に鎮座する 菅原神社
傍示地区の鎮守 南向き
竹薮の崖っぷちの途中に鎮座

菅原神社


大岩を背にして祀られている。

御祭神
菅原道真公
由緒
創建年代は解らない。
もと紅梅神社と呼んでいたようだ。



鎮座地 傍示について
生駒市にも傍示という集落があり交野市の傍示は西傍示と称されることが多い。
傍示は、「榜(フダ)を立てて国境を示す」ことであり、「傍示」は河内国と大和国の境で、河内と大和をむすぶ「かいがけ道」の峠に当たる。





「郷土探訪」







80 梶無神社

2007-11-12 | 河内国

大阪府東大阪市六万寺町に鎮座する 梶無神社
式内社 西向き

梶無神社

御祭神
船山明神・大山祇神・女鹿葺津媛の他、男神不明・女神木花咲耶橘姫命などの説あり。

梶無の名は、神武天皇の東征にあたって孔舎衛坂の戦いに利なくこの地に回幸したが、風強く、波高くして船の梶が折れたからだという。

旧社地は瓢箪山駅の南西にあたる字梶無が旧社地と言われています。
七五三の時期に参拝したが、正装した子供さんが微笑ましく見えた。

鎮座地 六万寺について
六万寺は、古くは桜井村とも呼ばれていたようで、梶無神社の東側の古い家並みが桜井の中心部だったようです。
ここには、明治5年に梶無神社に合祀されるまで桜井神社が鎮座していたそうです。
因みに、桜井の井は予想通り、井戸の井でまた、周辺は桜井郷にあたり、桜井屯倉があったところで、桜井田部連が首長として支配管理していたと言われています。

「郷土探訪」







79 都留美嶋神社

2007-11-10 | 河内国


大阪府八尾市都塚に鎮座する 都留美嶋神社
式内社 西向き

都留美嶋神社

御祭神 よく解らないそうだが闇御津羽神(水神か?)とも伝える
境内は児童公園になっている。
神社の西側は田圃が広がっているが東側は、本殿の裏は道が走り住宅が密集している。
どうやら元々違うところに鎮座していたようだ。

参拝時は、お爺さんと御孫さんが竹とんぼをして遊んでいた。
久しぶりに見た竹とんぼだった。

鎮座地 都塚について
地名の由来は、古代の由義宮の宮跡の一部が残り塚をなしていることによる。

「郷土探訪」








78 軽羽迦神社

2007-11-09 | 河内国

大阪府羽曳野市軽里に鎮座する 軽羽迦神社
軽里地区の氏神 南向き

軽羽迦神社
矢印付近に鎮座 南向き

御祭神
天照大神と蔵王権現 熊野権現の二神を合祀し三神を祀っている。


古社ではないが、なかなか立派な本殿
この日も氏子さんが綺麗に境内を掃除されていた。
鎮座地からして、日本武尊を祀っていると思っていたが、天照大神とは以外だった。

「郷土探訪」







77 白鳥神社 

2007-11-05 | 河内国

大阪府羽曳野市古市に鎮座する 白鳥神社
東向き

白鳥神社



「白鳥神社」

御祭神
日本武尊 素盞鳴尊 橘媛尊



本殿横より近鉄古市駅のホームが見える。
赤く見えるのが近鉄電車



神社は「モガリ」と呼ばれていた前方後円墳上に鎮座し、古墳は近鉄古市駅の工事で少し削り取られた。

現地の案内板にも書いてある神社の旧社地「伊岐宮」の場所だが、軽里の羽曳野中央図書館前の峯塚~山ノ池付近の谷を「伊岐谷」と呼んでいたらしく、このあたりに祭祀場があったらしい。

鎮座地について
古市 太古から物々交換の市場があったことから
軽里 この辺りは古市古墳群と呼ばれていて古墳が多いのであるが、「軽里」は日本武尊の仮りの墓(カリハカ)から「カリハカ」転化して「カルハカ」となり、「ハカ」は縁起が悪いので、ハカ→サト となり「軽里」となったかも知れない。

「郷土探訪」