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大阪狭山市半田に鎮座する 狭山神社
式内社 西向き
![狭山神社 狭山神社](http://chizumado.jp/mado/1006117/image.jpg)
矢印が狭山神社(狭山神社バス停前 参拝者用駐車場有り)
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御祭神
主神 天照大神 素盞鳴命
配祀 臣狭山命 天児屋根命 大山祇神 稲田姫命
狭山神社御由緒略記 (神社の栞より)
『狭山と呼ぶ土地は我国所々にあるが、大低は地形の上からの呼びならはしである。その中でもわが河内の狭山は国史の最初からその名が現れて現在にまで続いている。そしてこの狭山の鎮守である狭山神社は崇神天皇の勅願により創建せられたと伝えられており、天照大神、素盞鳴命、狭山連の祖を祭神として里人の尊崇をあつめ郷土を護らせ給い来ったのである。
特にここに狭山神と狭山堤神(堤神社…式内の旧社にし垂仁天皇の皇子にあらせられる入色入彦命、命勅を奉して狭山池を造り耕地の潅漑の便を計り給うた)二座の式内社が鎮座します事は例の少ない珍らしい事で、即ち式内社と云うのは平安朝の初め醍醐天皇の延喜年間に勅命で編纂された延喜式に当時日本国中の神社が記載されている所に列している。そして、その頃狭山が属している丹比郡には大三座小八座合せて十一座の神があった。その大三座は狭山神社と狭山堤神社(現在、狭山神社境内に鎮座)の外に菅生神社とである。
即ち狭山神は狭山池の築造以前から郷土の鎮守として、狭山堤神社は狭山池開発の功労者である入色入彦命を祭神として奉っている。この事は続日本書記をはじめいろいろの文献に表れている。現在の本殿は南北朝から足利時代へかけてこの附近は南北両軍の接戦地となり、度々兵火の厄にあい現在の本殿は足利の中頃(明応二年)と推察せられる。ケヤキ材の住吉造の本殿である。
なお神社の森から出土した唐草瓦と巴瓦を見ると、唐草瓦は藤原時代後期と推され、巴瓦は典型的な鎌倉初期の三巴文を現した行基葺の形式で、この瓦の戴ってあった建築物はかなり壮大なものであった事が想像できる。おそらく兵火のために灰燼に帰した名残の古瓦であろうと思われる。
境内には本殿の外、摂社として狭山堤神社、稲荷神社、戎神社と末社五社鎮座されている。』
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右側より
埴土社 (末社)
岐社 (末社) 祭神 イザナギノミコト 塞神
戎神社 (摂社 )祭神 事代主大神
拝殿と本殿
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右側より
岳主社 (末社) 祭神 大山祇神 猿田彦大神
堤神社 (式内社)
足玉社 (末社) 祭神 大国主命 天児屋根命
水本社 (末社) 祭神 瀬織津姫命 タカオカミ
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右より
足玉社
水本社
稲荷神社 (摂社) 祭神 宇賀御魂神
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正面より 埴土社
御祭神 埴安姫大神 大歳神
また参拝したくなる神社だった。
手水鉢には「牛頭天皇御神前」と書かれてあった。
「郷土探訪」