古社を訪ねて


大阪・奈良の『古き神々との出会い』

11 伴林氏神社

2006-11-30 | 河内国

藤井寺市林に鎮座する「伴林氏神社

伴林氏神社

旧郡村字名 志紀郡林村字宮山
神社専用駐車場なし 駐車スペース有り
南向き

御祭神
高皇産霊神
天押日命
道臣命

「御三神は大伴氏の遠祖で古代よりわが国武士精神開祖として、また護国の神として親しみ仰がれてきた。
天押日命は天孫降臨に際して軍勢を率いて功をあげ、建国の元勲と仰がれた。またその三代後道臣命は神武天皇の御東征の砌督将として紀和の難路をひらき大功をたて天皇より道臣の名を賜った。七代後の武持は景行天皇より大伴宿禰の姓を賜り政治に参与しその子室屋孫金村は大連として国政を担当した。その分身は当所に住し地名林を姓とし祖神の祀りを奉斎した。貞観9年官社に列し、延喜式の神名帳に録された。神佑あらたかな神社である。
昭和7年わが陸海軍が軍人勅諭御下賜50年を記念し、調査した結果、当社こそわが国唯一の大伴氏の祖神を祀る神社であることが分かり、時の陸軍大臣杉山元大将・海軍大臣米内光政大将が総裁となり、大阪府知事池田清氏が会長となって奉賛会を組織し、陸海軍人の醵金財界地元の協力、勤労奉仕によって昭和15年の秋新殿は完成し、遷宮祭はおごそかに斎行された。この時靖国神社からは手水舎の移贈があり、近衛文麿公からは表参道に建碑したる社標の揮毫があった。
当神社はこの深遠なる縁起を尊重し時代の進運に鑑み、人類のいよいよ幸福ならんことを、そして世界の平和を祈願し奉るものである。」

由緒
『創建は古く、三代実録によれば、清和天皇の貞観9年2月26日(西暦867年)、志紀郡、林氏神は既に官社と記され、同じ15年12月20日には祭神・天押日命に従五位が授けられている。
しかし延喜式神名帳の記載にも伴林氏神社の名が登場することから、それよりはるか以前から道臣命の子孫がこの土地に住み、大和朝廷時代の名門として祖先を祀ってきたものと思われる。
その子孫たちは代々、守護の責任者として朝廷に仕え、七代目の武持は景行天皇から大伴宿禰を賜り、金村は平群氏を撃ち、長徳は蘇我氏を滅ぼして右大臣になっている。
時代はさらに降って壬申の乱には、吹負が天武天皇に従って戦功をたて、旅人もまた吸収を鎮定して従二位大納言まで昇進した。
とくに家持は歌人としても優れた才能を持ち、万葉集を編纂するなど日本和歌史上、不朽の活躍をしたことで広く知られる。
国道の時、淳和天皇の贈り名が大伴であったため、大伴宿禰を伴宿禰に改めたが、その子の大納言善男が応天門の変(西暦866年)に敗れて伊豆に流されてからは、一族の力は急速に衰えていった。
戦国時代、神社は信長の兵火に遭い焼失。
それまで神社の維持管理をしていた伴氏も絶え、その後はわずかに地元民らの産土神として小さな社殿を再建して伝え、明治の始め、村社となった。
昭和7年ごろ道臣命を祀る全国唯一の神社として注目を浴びるようになり、戦時中の同15年には、『西の靖国神社』として整備充実が進み、府社に昇格したが、戦後は宗教法人として自立。伊勢神宮を本宗とする神社本庁の包括となり今日に至っている。
先導の神 道臣命
天押日命より三代目で、始めは日臣命と申し上げた。
神武天皇が高千穂の宮から大和に御東征される途中、河内の国の孔舎衛坂(現在の枚岡市日下町)で長髄彦に行手を阻まれ、日の神の威光を背に負うために熊野へ迂回され、険しい山路に難渋を重ねたが、高木大神の使者・八咫烏の道案内を得て、日臣命が大軍を指揮して無事に難路を切り開き、大和の国・莵田(宇陀)に天皇を先導され、その功により道臣の名を賜った。
ちょうどその頃、莵田の兄宇迦斯が天皇を罠に陥れようと悪計を企てたが、道臣命はこれを見ぬいて逆襲し、相手は自分の仕掛けた罠にかかって倒されてしまった。
さらに忍坂の八十建の抵抗がとくに激しかったので、天つ神・高御巣日神の訓えに従い、天皇は天香具山の埴を取って莵田川の朝原に天神地祇を祀られたが、このときも道臣命は厳姫の名を頂き、斎主を勤められた。
やがて八十建は国見山で滅ぼされ、さらにその残党も、勅命により大来目部を率いて出陣した道臣命によって全滅せられた。
その後、長髄彦も金色の鵄の威力を得た東征軍に撃ち滅ぼされ、天皇は大和の橿原の地でめでたく即位の礼を挙げられたが、そのときも道臣命は諷歌や倒語を発案し、もろもろの邪気を払い退けられたという。
天皇は道臣命の功績を殊の外称えられ、築坂邑(現在の橿原市鳥屋町辺り)に宅地を下賜され、とくに寵愛されたという。
生成の神 高御産巣日神
創造、発展、完成の神秘な力を持つ神で、天つ神の中でも特別な神として第二番目に出現された。古事記には『高木の神』の御名で記されている。天孫降臨をはじめ、神武天皇の御東征の際にも、いろいろと指揮命令された尊い神。
守護の神 天押日命
大伴連の遠祖で、高御産巣日神から五代目に当る神。
天津日高日子番能邇邇芸命が日高の高千穂の宮に降臨された時、背には丈夫な矢入れを負い、八つ目の鳴鏑の矢(よく音をたてる矢)を打ち添えて、また、頭槌剣(柄の頭が槌のような形をしている剣)を腰に差して、御前にお仕えされた神。

旧林村の鎮守。地名の「はやし」は古代樹木の生い茂る場所で、大木を神木として神の天降ります神奈備とした所を意味する。神亀三年に林を拝志と改められた。和名抄には河内国志紀郡拝志郷と記す。奈良平城京跡出土の木簡に河内国志紀郡林村の文字が見られ、当地よりの献上品の荷札であろうとされている。三代実録には、清和天皇の貞觀九年官社に預かり、同十五年従五位下に叙せられたとある。延喜式神名帖にも伴林氏神社の名が記載されている古い由緒のある神社である。』

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



創建の年代は詳かではない
太平洋戦争中は、陸軍省の関与するところとなる。
陸軍大佐が社司となり、靖国神社より手水舎の下賜などがあった。



この神社は大きな手水舎と大きな手水鉢があったと記憶していたが、久し振りに参拝に訪れたが、手水鉢が小さくなった気がする。

鎮座地の林について
拝志とも書いたようで、拝志郷は奈良期~平安期に見える郷名
この神社は、林氏の祖神である。


 

10 志疑神社

2006-11-29 | 河内国

藤井寺市太井に鎮座する「志疑神社
旧郡村字名 志紀郡太井村字薬師
神社専用駐車場 無し
西向き

志疑神社

御祭神 素戔鳴命

神社の創建年代はよく解らないが、延喜式内社の古社
惣社にある志貴県主神社と紛らわしいというので、現在の社名に変えられたと伝える。神社名からすると、元々志紀首の氏神で、神八井耳命を祭神とした可能性がある。






境内のすぐ西側にある「薬師堂」 神社の神宮寺だったのだろう

明治40年に、同市の黒田神社に合祀されたが、昭和21年元の位置に復社した。
本殿の大きさからして、境内が少し狭く感じる。
復社する以前は、もっと境内が広かったかも知れない。

鎮座地 太井について
村中にあった井戸からか。





9 志貴県主神社

2006-11-27 | 河内国

藤井寺市惣社に鎮座する「志貴県主神社
旧郡村字名 志紀郡国府村字藤ノ木
神社専用駐車場 なし  鳥居前に駐車スペース有
南向き

志貴県主神社

由緒

『延喜式内の古社であるが、創建の年月不詳、姓氏録河内国皇別に「志紀懸主多朝臣同祖神八井耳命之後也」とあり、同懸主等其の祖神を祀る。社は総社と称せられ、所在も総社といい「河内誌」に「国府属邑一」とあることから、国府を設置された時の創立であろうと考えられている。
社殿に依れば楠正成の祈願所で、当時は大いに隆昌を極めたが、楠氏衰亡と共に社壇も頽廃、中世以降も度々兵火に罹り、社地又変遷することもあった。
明治5年村社に列し、昭和21年宗教法人令により法人登記する。』

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年


御祭神 主神 神八井耳命
相殿     天照皇大神 武甕槌命 経津主命 天児屋根命 比大神 住吉三神 息長帯姫命

延喜式内の古社である。

当社の社名は、この地域に志貴県という大王家の直轄地があり、それを治めていた首長(県主)が奉斎していた事に由来すると推定される。
雄略天皇が若日下部王を妻として迎えるために、日下の直越の道を通って河内に行幸した時、山の上から国見をすると堅魚木を上げた家があった。それは志幾の大県主の家で、天皇の家に似せて造った事を怒り、謝罪させる話が「古事記」に見える。


河内国府址の碑が建っている。


今年の秋(平成18年)に新しくなった。

以前は本殿の裏が児童公園になっていたのだが今は、柵がしてあって入れない。
少子化で公園が無くなるのかそれとも、整備して老人憩いの場になるのかな?

鎮座地惣社について
惣社というのは中世にできた、「惣社の制」に由来している。
この制度は、一国の神社の分霊を一ヶ所にあわせて祀り、国司の参拝の便をはかるというものだった。河内国の場合は、志貴県主神社がその惣社となった。
以後、ここは、「惣社の宮」、惣社明神などと呼ばれるようになった。








8 辛国神社

2006-11-21 | 河内国

藤井寺市藤井寺に鎮座する「辛国神社
葛井寺の西に対をなすように鎮座している。
旧郡村字名 丹南郡岡村字春日山
神社専用駐車場 無し
延喜式内社
東向き

辛国神社

由緒

『当社は今から千五百年程前、雄略天皇の御代に創建された神社で、平安時代には官社となり、式内社として人々の尊信を集めてきた神社である。
日本書紀には「雄略13年春3月、餌香長野邑を物部目大連に賜う」とあるが、餌香長野邑は旧藤井寺町のあたりと思われる。この地方を治めることになった物部氏はこの祖神を祀って神社をつくり、その後、辛国氏が祭祀をつとめ辛国神社と称するようになった。
三代実録には、清和天皇「貞観9年2月26日河内国志紀郡辛國神社を官社に預かる」とあります。元の神社は恵美坂の西南神殿にあったと思われる。室町時代(義満の頃)河内守護職畠山基国氏が社二百石を寄進して、現在地に神社を造営し、奈良春日大社に懇請してその祭神、天児屋根命を合祀したと伝えられている。明治41年、長野神社の祭神素盞鳴命を合祀して現在に至っている。』

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年

御祭神 饒速日命 天児屋根命 素戔鳴命
辛国神社


もと葛井寺の境内に鎮座していた「長野神社」の鳥居
明治41年辛国神社に合祀された。
鳥居の柱には「長野神社
写真では解りにくいが鳥居の中心に鳥が停まっていて「鳥居」だった。
鳥居の由来も鳥が居るからかも?


茅の輪は、「蘇民将来」という疫病除けの護符に由来するとか。
古くは小さな茅の輪を腰につけたり、首にかけたりして疫病除けのまじないにしていたようだ。




葛井寺境内の長野神社の旧社地 (今は神社の面影は何も残っていない)
5年ほど前まで児童公園だったが今は、西国33観音お砂踏み道場となっていて観音様が並んでいる。

長野神社について
祈年祭に鍬が加えられた古社で格式があった。
「もと葛井寺の南西隅に在ったが明治41年、辛国神社へ合祀された。
祭神は、素戔鳴命。
葛井氏は5世紀頃百済から渡来した百済十六代辰斯王の王子辰孫王の後裔で、長野連も同じ系譜の氏族と考えられている。

この辺りは志紀郡長野郷と呼ばれたので、氏族名と地名から長野神社と称し、長野連の祖を祀ったものであろう。」

鎮座地の藤井寺は、葛井寺による。
地元では、井真成の”里”だとか。