古社を訪ねて


大阪・奈良の『古き神々との出会い』

56 白岩神社

2007-08-29 | 大和国

奈良県宇陀市榛原区赤埴に鎮座する白岩神社
画像左中央は仏隆寺の有名なサクラの巨樹
駐車場 仏隆寺を利用

白岩神社
クリックすると周辺ガイドへリンクします。



御祭神
須勢理姫命
社記によると延暦9年(790)赤埴白岩下に鎮座とある。


背後には巨石が・・・
ズームイン!

鎮座地 赤埴(あかばね)について
「万葉集」巻7に「倭の宇陀の真赤土」と詠まれている赤紅色の土質に因むという。
赤色埴土(はにつち)のことだろう。

ひとこと
駐車場に無人売店あり。。。

「郷土探訪」



55 酒屋神社

2007-08-26 | 河内国

大阪府松原市三宅中に鎮座する酒屋神社
駐車場は屯倉神社を利用
式内社

酒屋神社



御祭神
本殿 津速魂命(酒屋権現)
酒屋神社
旧社跡 松原市三宅中6丁目2番2号
元本社は、字「西ノロ」にあり、「延喜式神名帳」によれば丹比郡三宅郷の中に酒屋神社があり、「式内社」と呼ばれる神社であったが、明治40年4月8日、屯倉神社に合祀された。又「河内名所図会」によると、三宅村の西あり、俗に酒屋権現として親しまれている。その社地の西側に「酒蓋池」があり、池の東北の隅に1間四方の井戸があつて、この酒屋井より神が出現したので酒屋権現と称したもので、付近には字名として権現下、権現坂と呼ばれている所がある。貞観7年12月(約1120年前)に、「酒泉神」に従五位下を授けたとあり、後に「酒屋神」と称されたものである。(三代実緑による)また弘仁6年(約1170年程前)の「新撰姓氏録」によると、河内国神別の項に「中臣酒屋連、津速魂命十九世孫、真人連公の後也」とあり、即ち酒屋神社は、中臣酒屋連の祖神である津速魂命を祀っている。中臣酒屋連は、古代の有力氏族である中臣氏と同族で、三宅にも当時居住していたことを伺がわせる。そして酒屋連は、屯倉の米を酒屋井の水にて酒を造り、官田からの産出の米の一部を酒米として朝廷に貢していたのではないかと思われる。
また酒屋神社が何故三宅村の西口に祀られていたのかとの疑問に、古くから酒蓋池の酒屋井の出現伝説によって答えられて来たが、近年、江戸時代の「三宅村絵図」によって、酒屋神社(旧社跡)の北側の字「リクマ」に、前方後円墳の痕跡が見つかり、中臣酒屋連の祖神の墓として祀られていることが明らかになり、墳墓の西南に当る鬼門とするところに、守護神として祀ったのではないかと考えられる。


境内にある神形石

神形石について
酒屋神社と屯倉神社の間に、2メートル弱の平たい米粒のような形をした「神形石」があります。
この巨石は菅原道真が筑紫に左遷されたとき、道明寺の覚寿尼に別れのために立ち寄り、帰りに休憩した腰掛け石だという伝説が残っています。

「郷土探訪」



54 布忍神社

2007-08-24 | 河内国

大阪府松原市北新町に鎮座する布忍神社
手前の川は、西除川
境内に駐車可

布忍神社



御祭神
速須佐男之尊 中殿
八重事代主之尊 左殿
武甕槌雄之尊 右殿

「布忍神社」



ひとこと
宮司さんに神社の栞を頂いた。
境内には、水分神社が祀られてあった。
社務所にパソコンが置かれてあり神社の公式HPも作られておられる。
宮司さんにこの地方について色々と教えて頂いた。
収穫々♪



53 忍坂山口坐神社 

2007-08-20 | 山口神社

奈良県桜井市赤尾に鎮座する忍坂山口坐神社
駐車場なし
式内社

忍坂山口坐神社

御祭神
大山祇神


「忍坂山口坐神社」の大クス(楠)

「忍坂山口坐神社」の境内には一際目を引く桜井市指定「大クス」の巨樹が植わっています。推定樹齢600年、樹高30m、幹周り7.85mで、根元から2mほどの所で二股に分かれ、空洞はなく今も樹勢はいたって旺盛で、大きな枝を20m四方に伸ばしています。なお、この木は二代目で、初代の楠は、室町時代の1397年(応永4年)将軍足利義満が、京都北山に金閣寺を建てる際に、天井板を一枚張りにしたいと云って広く探した所、柳本藩領だった旧敷島村赤尾の当社にある楠を供出することになりました。その際、伐り倒した木の先が隣の忍坂まで届いたので現在も忍坂に「木の下」と云う地名が残っています。

ひとこと
拝殿の裏側に磐境があります。
中々立派な大楠であった。
古老が昔は、この村の人間が金閣寺へ参詣するのはタダやったのやぁと言っていた。

「郷土探訪」

52 十八神社 

2007-08-19 | 大和国

奈良県宇陀市榛原区額井に鎮座する十八神社

額井岳



「十八神社 由緒」



創祀について延長5年(927)との伝もあるが、信憑性が薄い。

鎮座地額井について
神社は額井岳(大和富士)の南麓に鎮座する。
地名の由来は山の中央部に清水の湧く泉(額井)があることによるとの説がある。

ひとこと
鳥居からの見晴らしはバツグン。。。

「郷土探訪」


51 中臣須牟地神社 

2007-08-18 | 摂津国

大阪市東住吉区住道矢田に鎮座する中臣須牟地神社
駐車場なし
大変由緒ある神社
式内社

中臣須牟地神社


老樹の上には何やら祀られている。

御祭神
中臣連の祖神住道神となっているが系譜は不詳である。
住吉津より喜連に通じる沿道に祀られた道路守護の神ではなかろうかとの説もある。


本殿の周囲は土塀が残されている。

由緒

平安時代に定まりました延喜式と申す規則によりますと、当社は勅使のおまいりなさっておられました大社であることが明らかであります。これは戦前の官幣大社と同格でありまして、当代一流のお宮でございます。もちろんこの規則のきまるずっと前から堂々たる大社であったはずでございます。南北朝時代から室町時代にわたる長い間の戦乱によって、しだいに当社の御由緒は忘れられてしまったようです。

当社は、中臣(ナカトミ)氏の祖先であり神武天皇にお仕え申された天種子命(アメのタネコのミコト)をはじめ、その御一族や御子孫のかたがたが、二千数百年以上もの昔から在住せられた誠に由緒ある地の神社でございます。大化改新には、この中臣氏から藤原鎌足公があらわれて大きな手柄をお建てになりました。また御子不比等(フヒト)公をはじめ御子孫の中には、奈良から京都へとつねに天皇さまのおそばにお仕えして、歴史上重要な役目をはたされたかたがたが多いのであります。藤原不比等公は勅命をお受け担って、大昔から中臣氏の根拠地であった当地に、御先祖をあわせまつられたのでございます[社記]。もちろん中臣氏は、朝廷の祭祀をうけもつて来たのですから、ごく古い時代からここでお祭りをおこなうていたのは明らかであります。

考古学の研究によりますと、当地は、畿内での弥生式農耕文化の発祥地であり、弥生式文化時代全体にわたる広大な住居地であります。ここに発達した農耕文化は、紀元前後には畿内全体に広がり、三世紀ごろには日本全体に影響したといわれます。祟神天皇はここにわが国最古の依網(ヨサミ)池を作られ、埀仁天皇は最大の狭山(サヤマ)池をつくられて、年々豊作が続き、やがて朝廷のいきおいは朝鮮半島にまで及びました。応仁天皇の御代に、大陸の人達が、本国の戦乱をさけて平和な我が国に新しい大陸文化を伝えました。わが国内は、神をまつる固有の信仰で固く結ばれ幸せに暮らしていましたから、その人たちも当社の神酒を賜うて、神にかよう穢(ケガレ)を祓(ハラ)いました。[延喜式]忌部記文にも、「スムチ(当社)の神酒を賜うて穢を祓わない者は日本人ではない。」と申しております。





鎮座地住道矢田(すんじやた)について
住道と矢田の合成地名。
大東市に住道があるがそちらは「すみのどう」と呼ぶ。
神社は住道神を祀るが須牟地は住道のことだろう。
住道 スミチ→スムチ→スンジと転訛
矢田 矢田庄からの地名


神社の前は道路が横切っている。
前の空き地も縄が張られ木々もあり昔は、学校付近まで神域だったのだろうか。

ひとこと
鳥居は2つあり普段は正面の鳥居は閉められているので参拝は、西側の鳥居から参拝することになる。
裏道に使うのか頻繁に自動車の往来があって、参拝に気が散る。
由緒ある神社だけに残念だ。

「郷土探訪」




50 阿麻美許曽神社

2007-08-16 | 河内国

大阪市東住吉区矢田に鎮座する阿麻美許曽神社
専用駐車場あり
トイレあり
画像は大和川と中央は阿麻美許曽神社の「楠の森」
右側に行基大橋が架かる
式内社

阿麻美許曽神社



阿麻美許曽神社略記(旧郷社)

    副神 天児屋根命(春日さん)
御祭神 主神 素盞鳴命
    副神 事代主命(戎さん)
末社 稲荷社・皇大神宮・琴平社
当神社は大和川にかかる下高野橋の南、天美丘に鎮座する。(大阪市域で昔は河内国中河内郡矢田村に属する神社てある。)大同年間(806~809)に創建せられた古社て延喜式内社の郷社でもある。御祭神は素盞鳴命、右殿に天児屋根命、左殿に事代主命が杞られ、俗に「阿麻岐志の宮」と呼ばれ、又矢田地区、天美地区に氏子地のあるところから「七郷の宮」とも称せられている。
拝殿は文久3年(1863)に建てられ、御本殿は独特の阿麻美造りにて昭和35年に再建、社務所・参集殿は昭和55年に造営された。神域三千坪、昭和43年に大阪市条例によって保存樹林に指定され樹令五百年の楠の古木が林立し緑深き森を形ち造っている。
7月17日の夏祭、10月17日の秋祭で七郷の氏子は勿論の事、遠近の崇敬者も多く終日賑わう。又1月8日の戎祭(八日戎)には数百個の提灯が奉納せられ、明々と境内地を照らし荘麗てある。
境内地の一隅には、「行基菩薩安住之地」の碑の他、石造りの狛犬、石灯籠の古いものが見られる。




境内に入って大楠が参拝者を迎えてくれます。
氏子さんだろうか丁寧に境内を清掃・掃かれておられた。


境内に建つ行基菩薩安住之地の碑

ひとこと
大和川の南側の神社だったのでてっきり松原市の神社と思っていたが、東住吉区の神社だった。
約20年ぶりの参拝だったので懐かしかった。
神社名からして古社のイメージだが河内天美の天美の由来もこの阿麻美だと思うし許曽は鶴橋の比売許曽神社や東大阪市の波牟許曽神社もあり許曽は”社”の意味らしいがこの許曽を使う神社は、元々渡来系の神を祀っていた可能性があると思う。
よってこの阿麻美許曽神社の祭神も時代と共に代わった可能性があると思う。

古来このあたりは丹比郡依羅郷と呼ばれていたので依羅氏の祖神を祀っていたのかも知れない。

境内に「行基菩薩安住之地」の碑が建っているが、明治の初めまで真言系の神宮寺があってかつて行基が居住し、東側に西除川が流れていた頃、行基が橋を造ったと言われています。

※ 大和川が江戸時代に西方向に付け替えられたのでその影響で西除川も付け替えられました。

「郷土探訪」





49 岡崎稲荷神社

2007-08-15 | 大和国

奈良県大和高田市三野山(岡崎山)に鎮座する岡崎稲荷神社

岡崎稲荷神社



当神社は、大和高田市の市街地より西方約2キロの位置にあり、古代朝鮮より帰化された百済王ゆかりの古墳といわれる霊妙で尊い岡崎山(三野山)に祭祀されています。
お山は馬見丘陵の南端(オカのサキ)に位置し、ヘビ、モグラおよびイタチ等が生息しており、また、かつてはキツネも出没し、正面から御所地方、東面には高田川一帯も眺望できました。
現在のお山は、孟宗竹や杉等の常緑樹で、こんもりと美しい樹叢をなし、終戦後も占領軍の意向により禁猟区に指定されています。

当神社は、もと岡崎村の嶋越宅内に鎮座されていたのを、文亀二年(西暦1502年)当家の先祖が一族の鎮護のため、現在の所有地に鎮座し、慶応元年、拝殿を再建して以来、村民の尊信厚く、近郊からも参拝されるようになりました。また、浄財による神殿、拝殿および大小の赤い鳥居等の再建、改修も数次に及び、現在では、近郊にとどまらず、全国一円にわたり、参詣の人々を迎えています。

御祭神
保食神
五穀および種々の野山の幸、また衣食の事を司り、家族繁栄、人々の精神、長寿を守り給います。
とりわけ当社は、近世後期に、産褥に苦しんでいた婦人の一途な祈願に対し如実にその霊験があらわれ、さらに、安産を乞い願う多くの参詣者にもご利益の証しがあい次いだことから、安産の神様として広く内外の祟信を集めるようになり、現在では、ご祈祷済みの「腹帯」が、はるか海を渡って(ブラジル、デンマーク等)に届けられております。

岡崎稲荷山をめぐる信仰
寒供養(寒行)・・・・毎年、厳冬の時期に、夜、お山に、赤飯のおにぎり、あぶらげ等をお供えして巡拝し、人それぞれの心情(例えば厄除け)をご眷族神に祈願することがおこなわれています。

境内祀社
稲荷社二社

ー宮司さんから頂いた栞よりー

ひとこと
お稲荷さんですが安産の神さまとして信仰があるようですが、少子化で最近は安産祈願される方がめっきり減ってしまったと嘆いておられた。
社務所の少し西側(古墳の横)に猿田比古神社も祀っていた。

「郷土探訪」








48 大蔵神社

2007-08-13 | 大和国

奈良県吉野郡吉野町南国栖に鎮座する大蔵神社
式内社

大蔵神社

大蔵神社

吉野町の東南端、川上村に通ずる衣笠山の南斜面に鎮座する旧指定村社で、国栖郷一円の鎮守であった。

祭神は大倉比売命・鹿韋津比較売命・石穂別命。創祀不明。

 『大和志』に川上鹿塩神社として「在= 樫尾東川南国栖三村之交界- 今称= 大蔵明神- 国栖荘七村民家相共預= 祭祀- 」とあったことで式内川上鹿塩神社とされた時代もあった。
 本殿に接して、神宮寺の寺屋敷や庭園などがある。東川村・南国栖村の氏神であったが、明治の神仏分離で別当等は廃寺となった。数十年前までは東川と南国栖が祭典に参加した。

 神前一対の石灯籠の右側は弘化4年(847)東川若連中から、左側は天明6年(1786)国栖郷から寄進している。
 その後、東川は当社分霊を自村へ遷祀して氏子から離別するに至った。例祭は9月1日初遡祭として親しまれてきた。

本殿は切妻造・桧皮葺の三間社で、内陣に安置の神像はいずれも鎌倉期の作。社宝に中世以来奉納の古鏡多数あり、中の一面に「大蔵大明神、正応5年(1292)5月25日 藤原□□敬白」との針書がある。
 大蔵神社庭園は室町期の標高303mの高所にある小池や流れを持つすぐれた庭園として県指定の名勝である。


ここが大蔵神社庭園


神社前の道は昔、吉野から川上へ通じる街道だったそうだ。
屋敷跡だろうか所々に石垣が残る。


神域には巨石がゴロゴロしている。






穴居跡だろうか?





「郷土探訪」











47 岩神神社 

2007-08-12 | 大和国

奈良県吉野郡吉野町矢治に鎮座する「岩神神社」
式内社

岩神神社



御神体
岩穂押分神

元来巨石を御神体とする古代の祭祀形態から発展した社とみられる。
昭和14年 宿ノ神社を岩神神社と改名。

「御神体」


背後の巨石が御神体

鎮座地矢治について
地名は谷間村落をあらわす谷地のことで、矢は谷あるいは屋の佳字、治は墾の意でこれも好字を用いたものという。

ひとこと
地元で馬の背と呼ばれている岩もある。

「郷土探訪」