食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

アッバース朝と交易路の発達-イスラムの隆盛と食(1)

2020-10-10 18:39:46 | 第三章 中世の食の革命
3・2 イスラムの隆盛と食
アッバース朝と交易路の発達-イスラムの隆盛と食(1)
今回は、イスラム帝国の最盛期であるアッバース朝のお話です。この王朝期には中国とイスラム帝国を結ぶ広大な交易路が完成し、豊富な物資が東西を行き来しました。そして、この頃は、食文化を含む様々な文化が世界規模で伝わった時代でもあります。

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ウマイヤ朝はアラブ人のための国家であり、同じイスラム教徒でも非アラブ人には満足のゆく世界ではなかった。例えば、アラブ人なら免除されていた人頭税(ジズヤ)や地租(ハラージュ)などの税が非アラブ人には納める義務があり、かなりの負担になっていた。これは「ムスリムは平等」というイスラムの教えにも反しており、非アラブ人には政府に対する不満がたまっていた。

一方、シーア派はずっとウマイヤ朝と対立を続けており、また、人々の間にもムハンマドの子孫がカリフを務めるべきだという考えが根強くあった。

このような状況をうまく利用して反乱を成功させたのが、ムハンマドの叔父の子孫のアッバース家である。彼らの戦略は巧妙で、自らは先頭に立たずに「皆がふさわしい人を指導者に」というスローガンを広めることで人々を反乱へと誘導した。シーア派にしてみれば、アッバース家に協力して王朝転覆が成就した暁には、ムハンマドの娘婿アリーの子孫がカリフになるはずであった。

こうしてイラン東部で蜂起した反乱軍はウマイヤ軍を破りながら西進し、749年にイラクの州都であるクーファを占領した。そして翌年には、アブー・アルアッバース(在位:750〜754年)がカリフとなった。アッバース朝(750〜1258年)の始まりである。

ウマイヤ朝打倒に協力したシーア派であったが、当初の目論見どおりには行かなかった。アッバース朝は政権を安定化させるために多数派であったスンニ派と手を結び、シーア派を厳しく弾圧するようになったのだ。そのため、アリーの子孫であったイドリースは北アフリカ西部のモロッコに逃げ延び、そこでイドリース朝(788~985年)を興すことになった。これがシーア派最初の王朝である。

また、ウマイヤ家の王家の一人だったアブド・アッラフマーンもイベリア半島に逃げ延び、独自の王朝である後ウマイヤ朝(756~1031年)を開いた。

アッバース朝の話に戻ろう。

ウマイヤ朝はアラブ人だけを優遇するアラブ人のための国家であったが、アッバース朝ではイスラム教徒(ムスリム)の全員に地租(ハラージュ)だけを課すようにして、イスラム教徒であればみな平等という政策をとった。このようにアッバース朝はアラブ人のための国ではなく、イスラム教徒の国と言えることから「イスラム帝国」と呼ばれることが多い。

アッバース朝は、ウマイヤ朝時代の北アフリカ西部やイベリア半島を失ったが、東は唐と国境を接するところまで進出する。そして、751年に唐との間で「タラス河畔の戦い」が起きた。この時にアッバース軍が捕虜とした唐軍の兵士の中に製紙技術を有する職人がいて、イスラム世界に製紙技術が伝わることとなった。この結果、アッバース朝では製本が盛んになり、現存する最古の料理本である『キタブ・アル=タビク(Kitab al-Tabikh)(料理の本)』を始めとするたくさんの料理書も出版された。

なお、製紙技術はその後イスラム勢力の支配地内を西進し、北アフリカを通って12世紀にはイベリア半島に伝えられ、14世紀にはヨーロッパ全域で紙の製造が始まることになる。

イスラム教では商売が奨励されており、アッバース朝の成立前後からアラブ人やイラン人などのムスリム商人による交易が盛んになった。彼らは中国やインド・東アジア、アフリカ、ビザンツ帝国などに出向いて交易を行うと同時にイスラム教を布教した。

ムスリム商人は中国からは陶磁器・絹織物などを、インド・東アジアからは香辛料・香料などを、アフリカからは金・奴隷などを、そしてビザンツ帝国からは絹織物などをイスラム世界にもたらした。これ以外に食品では、インド方面からレモン・オレンジ・バナナ・マンゴーがこの時期にイスラム世界に持ち込まれ、やがてヨーロッパにももたらされることになる。

アッバース朝の首都はチグリス川流域のバクダードだった。この地は初代カリフによって「世界の交差点」と呼ばれたように海の道と陸の道が集約する地で、交易に非常に適していた。ムスリム商人は、ラクダを使ってシルクロードなどの陸の道を通ったり、ダウ船と呼ばれる三角帆をつけた船で海の道を進んだりして交易を行った。中国や東アフリカの交易都市にはムスリム商人の居留地が造られ、自治権も認められていたという。



さらにバグダードは肥沃なチグリス川流域の中心に位置していたこともあり、短期間のうちに急速に発展した。アッバース朝最盛期の第5代カリフ・ハールーン(在位:786~809年)の時代には人口は150万人にも及び、世界最大の都市となった。市場には世界各地の品々が満ちあふれていたという。このような発展につれて、バグダードには学者や技術者などもたくさん集まるようになり、イスラムの高度な文明が開花して行くことになる。


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