食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ジャガイモ-ヨーロッパにやって来た新しい食(2)

2021-05-10 12:06:17 | 第四章 近世の食の革命
ジャガイモ-ヨーロッパにやって来た新しい食(2)
ジャガイモは現代社会ではなくてはならない食材です。

日本でよく食べられるジャガイモを使った料理を思い浮かべてみても、肉じゃが・ポテトコロッケ・ポテトサラダ・ポテトチップス・フライドポテト・ビーフシチュー・カレーライス・クリームシチューなど、皆が大好きな料理ばかりです。

他の国々でも同じように、ジャガイモ料理は人気のメニューになっています。例えば、スペインの代表的な料理にトルティージャ・エスパーニャというジャガイモを使ったオムレツのような料理があります。


トルティージャ(unserekleinemausによるPixabayからの画像)

このように大人気のジャガイモですが、ヨーロッパに伝えられてしばらくの間は食べられることはほとんど無かったということです。今回はこのようなジャガイモの歴史について見て行きます。

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ヨーロッパ人の記録にジャガイモが最初に登場するのは、スペイン人シエサ・デ・レオンが1553年に書いた『インカ帝国史』で、そこにはジャガイモのことを「パパ (papa)と言い、キノコの松露に似ている。ゆがくと柔らかくなって、ゆで栗のようになる」と記されている。

インカ帝国は1532年にスペイン人によって征服されるが、インカ人の抵抗がその後も続き、またスペイン人同士の争いも勃発していた。これを平定するためにスペイン王室から1547年にペルーへ派遣された軍にシエサ・デ・レオンは所属しており、クロニスタと呼ばれる記録者として南米の優れた記録を残したのである。

その後の1570年頃にジャガイモは新大陸からスペインに持ち込まれたという説が有力だ。しかし、スペインでの栽培はあまり広がらなかった。ヨーロッパに持ち帰ろうとしたスペイン人が試しに食べてみたところ芽の毒にあたったため、食べるのには適さないと思われたからとも言われている。ちなみに現代のジャガイモの芽にも毒があるので注意が必要だ。

ジャガイモはスペインに持ちこまれた後、1600年前後にフランスやドイツ、イギリスなどのヨーロッパの多くの国々に伝わって行った。ところがこれらの国々でも、「毒がある」「ハンセン氏病になる」「聖書で認められていない」「妊婦が食べると早産する」などと言われて、しばらくの間本格的に食べられることはなかった。むしろ花の美しさから観賞用あるいは研究用として栽培されることが多かったと言われている。

このように最初はあまり食べられていなかったジャガイモだが、徐々にヨーロッパの北部を中心に広く栽培されるようになる。その大きな要因となったのが戦争と気候の寒冷化だ。

ジャガイモ栽培が広がるきっかけとなった最初の大きな戦争が、1618年から1648年まで現在のドイツ(当時は神聖ローマ帝国と呼ばれた)で戦われた「三十年戦争」だ。この戦争はカトリック国であった神聖ローマ帝国が帝国内の新教徒(プロテスタント)を弾圧したことに端を発するものだが、プロテスタント国のデンマークとスウェーデンが参戦したことや、神聖ローマ帝国を支配していたハプスブルク家と対立するフランスが参戦したために大規模な国際戦争へと発展したのである。

この戦争の結果、神聖ローマ帝国の人口の約20%が失われ、各国の死者の合計は800万人以上にのぼったと言われている。土地の荒廃もすさまじく、多くのコムギやライムギなどの畑が兵士によって荒らされてしまった。

このような耕作地の荒廃とそれにともなう食料不足がジャガイモの栽培の拡大につながったのだ。ジャガイモは畑を踏み荒らされても収穫できたし、単位面積当たりの収穫量もカロリー換算でコムギの約2倍ととても高かったためだ。また、16世紀の後半から寒冷化していた気候が、冷涼な環境で育つジャガイモの栽培には適していたこともあった。ちなみに、寒いアイルランドでは17世紀からジャガイモが積極的に取り入れられ、18世紀には主食の地位を占めるようになった。

現在のドイツ北部からポーランド西部にかけての地域を領土としたプロイセン王国では、フリードリヒ大王(1712~1786年)がジャガイモ栽培を農民に強制することで、飢饉から人々を救ったと言われている。フリードリヒ大王がオーストリアと戦ったバイエルン王位をめぐる戦争は「ジャガイモ戦争」と呼ばれているが、この戦いでは本格的な戦闘をほとんど行わずにジャガイモを育てることに熱中していたという。

一方フランスでは、農学者・栄養学者のアントワーヌ・オーギュスタン・パルマンティエ(1737~1813年)がジャガイモを食用として広めることに大きく貢献した。彼はイギリス・プロイセンなどの連合軍とフランス・オーストリア・スペインなどの連合軍が戦った七年戦争(1754~1763年)でプロイセンの捕虜となったのだが、収容所でジャガイモを食べた経験からその価値に気づき、フランスに帰国後にジャガイモ栽培の普及に努めたのだ。

彼は、フランス王ルイ16世と王妃のマリー・アントワネットに協力を仰ぎ、ジャガイモの花で作った花束やブーケで部屋や衣装を飾ってもらうことで、上流階級におけるジャガイモの認知度を広げて行った。


ジャガイモの花(Andrea FrydrychowskiによるPixabayからの画像)

また彼はジャガイモが貴重な作物であることを農民に分からせるため、昼間はジャガイモ畑に見張りの兵をつけ、夜になると兵を引き上げさせて、わざとジャガイモを盗ませるように仕向けたという逸話が残っている(プロイセンのフリードリヒ大王にも同様の逸話がある)。

パルマンティエの教えに従ってジャガイモを栽培した地域では凶作の年に飢饉を免れたことから、人々はジャガイモの価値を認めるようになり、ジャガイモの栽培がフランスに根付いて行った。

こうした彼の功績をたたえてパリの地下鉄3番線にパルマンティエ駅が作られ、農民にジャガイモを手渡しているパルマンティエの像がすえられた。また、フランスには彼にちなんだ「アッシ・パルマンティエ」という有名料理がある。これは、炒めたひき肉の上にマッシュポテトを重ねチーズを乗せてオーブンで焼いたもので、これを食べない者はフランス人ではないと言われるほどだ。これ以外にもジャガイモを使った料理には「パルマンティエ風」と付けられているものが多い。


アッシ・パルマンティエ

こうして18世紀中にはヨーロッパのほとんどの国で食用にするためにジャガイモが栽培されるようになり、19世紀には多くの国で主要な作物になった。

なお、日本には1600年頃にインドネシアのジャカルタを拠点にしていたオランダ人によって伝えられたという説が有力だ。そして、ジャカルタから「ジャガイモ」という名前が付けられたと言われている。


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