食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

中世の農業革命-中世盛期のヨーロッパと食(2)

2020-11-21 18:41:23 | 第三章 中世の食の革命
中世の農業革命-中世盛期のヨーロッパと食(2)
今回は中世のヨーロッパの発展を支えた農業革命について詳しく見て行きます。この農業革命は主にアルプス山脈より北の現代のフランスやドイツで起こりました。

中世の農業革命は鉄製農具の発達と三圃制農法の普及によるものですが、それと密接に関係しているのが人口増加と森林の開墾です。その結果、ヨーロッパの農村の原型が生まれたのです。

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もともとアルプス山脈より北の地域にもローマ帝国式の農耕技術が持ち込まれていた。しかし、この農耕技術はアルプス以北の地域には適していなかったのだ。

古代ヨーロッパの中心だったギリシアやイタリアは地中海に面しており、いわゆる「地中海性気候」の気候区だった。その特徴は「温帯性で夏に雨が少なく冬に雨が降る」ことだ。現代の地中海に多くのリゾート地があるのはこのように夏が乾燥して過ごしやすい季節だからだ。そして地中海沿岸では、乾燥に強いオリーブやブドウなどの果物、柑橘類などが栽培される。

一方、中世ヨーロッパの中心となったアルプスより北の地域の気候区分は「西岸海洋性気候」で、温帯性で一年中雨が降るが夏の暑さは厳しくない。地中海性気候とはまったく異なる気候と言える。

一年中雨が降る気候のため土は湿っていて重く、水はけが悪い。このような土地で作物をうまく育てるためには、直線状に土を盛り上げた「畝(うね)」を作って水はけを良くするのが望ましい。しかし、ローマ帝国から伝わった「ローマ犂(すき)」は木製で軽く、重い土壌の表面を削るだけで、とても畝を作れるほどには土を掘り起こすことができなかったのだ。


畝(Namazu-tron, <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons)

それを一変させたのが鉄製の「ゲルマン犂」の普及だ。

西暦1000年頃からフランスのピレネーなどヨーロッパの一部で鉄の生産が盛んになり、次第にヨーロッパ全体に広がって行った。そして、多くの部品が鉄でできていて、とても重いゲルマン犂(重量有輪犂もしくはカルカとも呼ばれる)が11世紀に登場する。ゲルマン犂の先端には土を切り裂く犂刃と土を持ち上げる犂先がついていて、その後ろに掘り起こした土の塊をひっくり返すための撥土板(はつどばん)があった。そして、車輪がついているため、重量はあるが動き出せば慣性でスムーズに前進できた。


ゲルマン犂(飯沼次郎、堀尾尚志『農具』より)

最初はこのゲルマン犂を2頭のウシで引いていたが、次第に大型化し、12世紀には6~12頭で引くゲルマン犂が主流となった。なお、12世紀頃にはゲルマン犂をひかせる家畜がウシからウマに代わって行った。蹄鉄や首輪式の引き具が開発されるとともにウマの飼料としてエンバクが生産されるようになり、歩く速度がウシよりも速いウマが利用可能になったためだ。

しかしゲルマン犂にも欠点があった。それは、大型のために方向転換が難しいということだった。この問題を解決するために農奴たちはそれぞれの耕地を集合させて長方形の広大な農地を作り出した。こうすることで方向転換の回数を少なくできたし、大型で高価なゲルマン犂を個人が所有するのではなく、集落で共同保有できるようになったのだ。

さらに、11世紀頃から「三圃制」農法が普及し始めた。

ローマ帝国では、耕地を二分して一方を耕作地、もう一方を休耕地として一年ごとに入れ替える「二圃制」をとっていて、これがアルプス以北にも持ち込まれていた。しかし二圃制では半分の農地しか使えない。一方、三圃制は耕地を三つに分け、春耕地(春に蒔いて秋に収穫)・秋耕地(秋に蒔いて春に収穫)・休耕地を年ごとに替えていくもので、休耕地が三分の一しかないので土地をより効率的に利用できる。なお、休耕地には家畜を放牧し、その糞によって地力が回復する。

以上のような技術革命によって農業生産性は格段に向上し、10世紀までは2倍程度だった収穫率(まいた種の量に対する収穫量の比)が、1300年頃には悪くて3~4倍、良い場合には10倍を越えるまでになったという。13世紀の農業書『家政の書』には、収穫率が3倍に満たない農地は意味がないと書かれているほどだ。

食料の増加は人口の増加につながる。実際に11世紀から14世紀にかけて西ヨーロッパの人口が急速に増加した。例えば1100年頃に620万人だったフランスの人口は、14世紀の半ばには2000万人を越えたと推定されている。同じようにイングランド王国でも、1100年頃に130万人だった人口が14世紀半ばに380万人になったと見積もられている。

このような人口増加はさらなる農業の発展を促した。増えた人口を養うためにはさらなる農地が必要になったのだが、普及した鉄製のノコギリや農具を使って森林を開墾し、農地を増やしていったのだ。

この時伐採された木は製鉄のための燃料とされ、さらに鉄製品が普及するようになった。13世紀までには農村ごとに鍛冶屋ができ、周囲の森林を次々と農地に変えて行ったという。

このように、鉄製品の普及と農業技術の発展・普及、人口増加、そして森林の開墾はすべてが密接に関係しあっており、その結果として西ヨーロッパ社会は大きく変容した。ヨーロッパの農村の原型がこの時期に出来上がったのである。


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