食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

お坊さんの酒造り(日本酒の歴史)-中世日本の食(9)

2021-01-21 22:09:16 | 第三章 中世の食の革命
お坊さんの酒造り(日本酒の歴史)-中世日本の食(9)

私が純真な高校生の時の話です。

「これは世間ではお酒と言いますが、ここでは般若湯(はんにゃとう)と言います。知恵が生まれるお水という意味です。皆さんも般若湯を楽しんで、しっかり知恵をつけてくださいね!(一同笑い)」

お坊さんが酒とっくりを片手に持ちながら近くの席の団体客に説明をしています。

寺の宿坊で精進料理をいただいていた私は、これを聞いて大変驚きました。と言うのも、仏教では「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」によって酒を飲むことが禁じられているため、お坊さんは酒を飲まないと思っていたからです。

その後大人になってお酒の美味しさや歴史について勉強した私は、お坊さんとお酒の切っても切れない深い関係を知ることになったのでした。

と言うわけで、今回は日本酒の歴史を語る上ではずせない「寺院での酒造り」の話を中心に中世の日本酒造りについて見て行きます。



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・古代の酒造り

日本での本格的な酒造りは、稲作が軌道に乗った弥生時代(紀元前300年頃~西暦250年)以降と考えられているが、正確な開始時期については諸説あり固まっていない。なお、3世紀末の中国の『魏志倭人伝』には、倭人は祭礼の時に酒を飲む習慣があったと記されている。

最初のコメを使った酒は「口噛み酒」と考えられている。奈良時代に成立した『古事記』には、水につけて柔らかくしたコメを噛んで作る酒のことが書かれている。この醸造法では、コメを噛むことで唾液中のデンプン分解酵素が働いてブドウ糖ができ、そこに身の回りの酵母が入り込んでアルコール発酵を行う。

アニメ「君の名は」でヒロインの巫女が口噛み酒を作っていたように、口噛み酒は祭礼と深く結びついてきた。古代の新嘗祭(にいなめさい)でも、造酒童女(さかつこ)という少女が口噛み酒を造っていた(現代の大嘗祭でも造酒童女が醸造を行う)。なお、造酒童女のまとめ役を「刀自(とじ)」と呼んでいたのが後に「杜氏(とうじ)」に変化したと言われている。

・麹菌を使った新しい醸造法

4~5世紀にはビール造りの麦芽のように、コメを発芽させることでデンプンをブドウ糖に分解し醸造を行う方法が渡来人によってもたらされた。発芽すると眠っていたデンプン分解酵素が活性化するのだ。発芽した後に麦芽の場合は焙煎を行い、コメの場合は蒸したのだが、それでもデンプン分解酵素は働き続ける。こうして醸造を行う酒は一般的に「もやし酒」と呼ばれる。

しかし、この方法はすぐにすたれてしまう。コメのデンプン分解酵素の働きが弱かったのと、「麹菌(こうじきん)」を用いた醸造方法の方が優れており、こちらが普及したためだ。

麹菌はカビの一種で、蒸したコメなどに好んで生えて、菌糸の先からデンプン分解酵素を放出する。最初は、自然に生えてきた麹菌を見てギョッとしたのかもしれないが、コメが甘くなっていることに気が付いて醸造に利用するようになったと想像される。

日本酒造りでは蒸米に麹菌を繁殖させたものを「麹」と呼ぶ。この麹に蒸米と水を加えてしばらく置くとまず乳酸菌が繁殖してきて酸性になる。そして次に酸性状態に強い清酒の酵母が大量に繁殖してくる。これが日本酒造りの元になるもので「酛(もと)」という。

現代では醸造時間を短縮するために、乳酸菌と酵母の自然繁殖を待たずに乳酸と大量の酵母の添加が行われているが、昔ながらに乳酸菌の自然繁殖を待つ醸造法を「生酛造り(きもとづくり)」と呼んでいる。

なお、酒造りでは昔から「一麹、二酛(もと)、三造り」という言葉があり、麹が最も重要とされていた。麹菌はデンプン分解酵素だけでなくタンパク質を分解する酵素も放出し、うま味のあるアミノ酸を作り出すことで日本酒の味にも関係しているからだ。

こうして奈良時代(710~794年)になると、麹菌を使った醸造法が普及した。平城京では「造酒司(みきのつかさ)」という酒造りのための役所が設けられ、計画的な酒造りが行われていたことが分かっている。

しかし、その頃の醸造法は「醞(しおり)方式」というもので、酵母が大量に繁殖した「酛(もと)」を作らずに発酵を行うものだった。その結果出来上がった酒はアルコール濃度が低く、ブドウ糖がアルコールに変換されずに残っているため甘味が強かった。この醞方式の酒造りは、宮中では平安時代まで続いた。

・寺院の酒造り

奈良時代には寺でも酒造りが行われていた。その根底にあるのが「神仏習合」という「神も仏も元は同じ」とする思想だ。伝来して来た仏教の思想と既にあった神道を融合させたのだ。料理の世界でもそうだが、新しいものを古いものと融合させる日本人の技には感動を覚える。

神仏習合の結果、神社の中に寺(神宮寺)が作られるようになり、その寺では神にお供えするお神酒を造るようになった。また、単独の寺院も関係する神社のために酒を造るようになった。こうして、寺院での酒造りが始まったのだ。
ところで、酒を売ると金儲けができる。と言うのも、世の中には酒好きが多いからだ。私の知り合いにも、酒なしでは生きていけなさそうな人が何人かいる。酒造りを行っていた寺院は平安時代になると、一般庶民にも酒を売ることで金儲けを始めたのである。

特に、平安京への遷都によって取り残された奈良の寺院や、武家の台頭によって荘園からの収入が減ってしまった寺院にとっては、酒を売って得る金は重要な財源となった。このように一般人に売るようになった酒を「僧坊酒」と呼ぶ。

たくさん売って儲けるためには良い酒を大量に造らなくてはならない。理想の酒造りを求めて僧たちは日々努力を続けた。その結果生まれたのが、「酘(とう)方式」という酵母が大量に繁殖した「酛(もと)」を造る醸造法である。これが現代まで受け継がれている醸造法だ。

酘(とう)方式では、出来上がった酛(もと)に麹と蒸米、水をさらに加えて発酵を行う。すると、アルコール濃度の高い酒が大量にできるのだ。

当初は酛(もと)に麹と蒸米、水を加えるのは一度だけだったが、室町時代の終わりには、麹と蒸米、水を何度かに分けて加える「段掛け(段仕込み)」が行われるようになった。そして江戸時代の初期に現代でも行われている「三段仕込み」が確立した。

また、室町時代前半まで麹を造るには玄米が使われ、酛(もと)に混ぜられるコメには精米した白米が使われていたが、室町時代の後半から一部の寺院などで麹造りにも白米を使うようになった。これを「諸白造り(もろはくづくり)」というが、こうすると出来上がった酒は澄んだ「清酒」になるのだ。

・ヨーロッパより300年早かった低温殺菌法

さらに画期的な殺菌技術である「火入れ」が室町時代の末期に開発される。

日本酒造りで最大の災厄と言われているのが「火落(ひおち)菌」と呼ばれるアルコール耐性の乳酸菌が繁殖することだ。火落ち菌が出来上がった酒で繁殖すると、「火落ち」と言って酒が酸っぱくなってダメになってしまうのだ。火落ち菌が一度発生すると酒樽に住み着いて、しばらくの間酒造りができなくなってしまう。こうしてつぶれてしまった酒蔵もあったそうだ。

火落ちを防ぐために行なわれるのが「火入れ」だ。これは酒を60℃くらいで加熱することによって火落ち菌を死滅させる方法で、今日でも行われている。
火入れの最も古い記録は『多聞院日記』という奈良の興福寺の僧が書き残した日記での記述で、1568年の春から夏にかけて造った酒を火入れしたと記されている。ヨーロッパでは1866年に細菌学の父と言われるパスツールがワインの腐敗防止技術として「低温殺菌法(パスチャライゼーション)」を開発するが、その300年も前に同じ技術が日本で確立していたのである。菌という存在を知らなかった時代に開発された革新的な技術と言える。

以上のように、中世の寺院は日本酒の発展に多大な功績を残した。

ところが戦国時代に入ると、織田信長などによって宗教勢力の弾圧が起こり、寺院の勢力は急速に縮小する。その結果、寺院での酒造りは幕を閉じることになった。しかし、酒造りの様々な技術は途絶えることなく、民間の造り酒屋などに受け継がれて行ったのである。