中世の菓子-中世日本の食(7)
日本の中世には、お菓子の世界にも大きな変革が起こりました。
日本古代の奈良時代には中国から唐菓子と呼ばれるお菓子が伝えられていたのですが、そのほとんどが日本には定着しませんでした。
ところが中世になると中国から新しい食品が伝えられ、日本で独自の変化を遂げることで新しいお菓子として日本に定着して行くのです。その中には饅頭や羊羹など、現代でも和菓子の代表格となっているものがいくつもあります。
つまり中世に出現したお菓子が、現代に続く日本のお菓子のルーツとなっていると言っても過言ではないのです。
今回はこのような和菓子のルーツについて見て行きます。
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奈良時代に日本に伝えられた唐菓子は、米粉や小麦粉、あるいは豆の粉に甘味や塩味をつけて練り、ごま油などで揚げたりしたものだ。唐菓子は大饗料理の一品として平安時代まで食べられていたが、油で揚げた食べ物が日本人の口に合わなかったためか、それ以降はほとんど食べられなくなった。現在は、奈良の春日大社の神饌(しんせん、神様へのお供え物)として作られているくらいだ(京都の亀屋清永でも唐菓子を再現したものが販売されている)。
鎌倉時代になると日本の留学僧や中国の僧によって禅宗が日本に伝えられ、鎌倉仏教として武士や庶民に広がって行った。既にお話ししたように、禅宗は精進料理や茶の湯などの食生活に大きな影響を与えたが、禅宗の習慣はお菓子の世界にも大きな変革をもたらした。それが「点心」と呼ばれる食事である。
点心とは「軽い食べ物」のことで、もともとは朝食前に空腹を満たすものだったが、次第に朝食と夕食の間に食べられるようになったものである。禅宗では眠気を覚ますために茶を飲んでいたが、その時の茶うけとして食べられていたのが点心であった。
なお、現代の中華料理でも広東料理を中心に、茶を飲みながら餃子やしゅうまい、肉まんなどの点心を食べる「飲茶(やむちゃ)」が行われているが、これが点心の本来の姿である。
さて、日本に伝えられた点心の代表格と言えば「饅頭(まんじゅう、中国ではまんとう)」になる。
この饅頭は、中国の伝説では三国志の諸葛孔明と深い関係がある。敵を打ち破った孔明がある河を渡ろうとすると、突然強風が巻き起こって渡ることができなくなってしまった。河をしずめるためには、その河に住む神に49人の生贄をささげる必要があったのだが、犠牲を嫌った孔明は、その代わりにヒツジとブタの肉を小麦粉で作った皮で包んで作った「饅頭」をささげた。すると河はしずまり、孔明は蜀に帰還することができたという。これが饅頭の始まりとされている。
饅頭の日本への伝来については、1241年に禅僧の聖一国師が伝えたと言う説と、1349年に帰国した龍山禅師が連れてきた中国人の林淨因が伝えたという二つの説がある。
聖一国師は、博多で茶屋の主人に肉の代わりに餡(あん)を入れた饅頭の作り方を教えたと言われている。
一方の林淨因は、奈良で日本人の女性と結婚して「奈良饅頭」を売り出したとされる。最初に作った饅頭にはヒツジとブタの肉が入れられていたが、浄因の子孫が肉の代わりに甘い小豆餡を入れたものを作ったところ評判を呼び、この形の饅頭が全国に広がって行ったと言われている。
また「羊羹(ようかん)」も中世に日本に伝わった点心の代表格だ。
羊羹の「羹(あつもの)」とは本来は「汁物」のことで、羊羹は「ヒツジの肉を煮た汁」と言う意味になる。羊羹以外にも、猪羹(イノシシ)・驢腸羹(ロバの腸)・白魚羹(白身の魚)・月鼠羹(ネズミ)などたくさんの羹があったそうだ。
羊羹は室町時代に日本に伝わったが、この時には羊肉の代わりにアズキや穀物などで羊肉風にした具材が入れられ蒸したものが作られていたと考えられている。そして1589年には京都の駿河屋がアズキと寒天、砂糖を原料にした蒸し羊羹を考案した。なお、蒸し羊羹は水分が多いため日持ちしないが、水分が少なく日持ちがする練り羊羹は18世紀の終わり頃に江戸で作られる。
饅頭や羊羹を代表とする点心は茶の湯に取り入れられて、茶菓子として重宝されるようになったが、茶の湯を完成させた千利休が愛した茶菓子が「麸の焼き(ふのやき)」と呼ばれるものだ。これは、小麦粉を水でといたものを鍋の底に広げて薄く焼いたものに山椒風味の味噌を塗って巻いたもので、中世日本のクレープと呼んでも良いものだ。利休は多くの茶会でこの麩の焼きを出したという。
このように、小麦粉をといたものを焼いて作ったお菓子はその後も様々なものが考案され、その調理法はもんじゃ焼きやお好み焼きに引き継がれたと考えられている。
ところで、点心に由来するものではないが、室町時代によく食べられるようになったお菓子に「団子(だんご)」がある。団子は古代から神饌であったが、室町時代になると串に刺したものやみたらし団子などが登場して、庶民にも広く食べられるようになった。
ちなみに三色の花見団子は、天下人になった秀吉が1598年に京都の醍醐に1300人を招いて開いた茶会で、お茶菓子として招待客にふるまわれたのが始まりと言われている。