うどん・そうめん・石臼-中世日本の食(8)
「粉食(ふんしょく)」という言葉があります。これは、穀物などを粒のまま食べずに、粉にした後でパンや麺にしたり、水でといたものを焼いたり揚げたりして食べることを言います。うどんやそうめん、お好み焼きのように、コムギを食べる時はたいていは粉食にします。
一方、日本のご飯のように粒のまま食べることを「粒食(りゅうしょく)」と言います。
このようにコムギとコメの食べ方が異なっているのは、粒を覆っている皮(外皮)の付き方に違いがあるからです。つまり、コメの外皮ははずれやすいのに対して、コムギの外皮は次の理由から簡単には取り除くことができないのです。
コムギの外皮はとても固くて、内側の胚乳にしっかりくっついています。また、コムギの粒には縦方向に「粒溝(りゅうこう)」と呼ばれる深い溝があって、そこに外皮が入り込む構造になっています。さらに、胚乳部分がとてももろいため、中身を崩さずに外皮を取り除くことがとても難しいのです。そこでコムギの場合は、外皮が付いた状態ですりつぶした後に、篩(ふるい)にかけて外皮を取り除くことで小麦粉にしているというわけです。
コムギの粒(縦方向に深い溝「粒溝」が見える)
コムギをすりつぶすために使用されたのが「石臼」です。石臼は2つの石をすり合わせることで穀物や茶葉などを粉砕します。
人類が最初に作った石臼は、石板の上で手に持った石を往復させる「サドル・カーン(saddle quern)」と呼ばれるもので、古代エジプトではこのタイプのものが使用されていました。その後、紀元前1000年頃の西アジアで2枚の円板を重ねた「ロータリー・カーン(rotary quern)」が発明されました。ロータリー・カーンは画期的で、上の石をいくらでも大きく重くできるため、大量に粉をひくことができるようになったのです。
石臼(ロータリー・カーン)
(Dimitris VetsikasによるPixabayからの画像)
今回は石臼の日本への伝来について触れながら、「うどん」と「そうめん」の歴史を見て行こうと思います。
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日本にコムギが伝来したのは約2000年前の弥生時代だとされるが、その頃は粒のまま粥のようにして食べられていたと考えられている。
石臼は漢代(紀元前206〜後220年)にシルクロードを経由して西アジアから中国に伝えられた。そして「碾磑(てんがい)」と呼ばれる大型の石臼が作られて、小麦粉が大量に作られるようになった。前回お話しした諸葛孔明(181~234年)がヒツジとブタの肉を小麦粉で作った皮でくるんで饅頭を作ったという伝説も、小麦粉がその頃には一般に流通していたことを示している。
石臼が日本にもたらされたのは奈良時代と考えられている。東大寺の旧境内からは奈良時代の製粉所らしき建築物や碾磑(てんがい)の一部と思われる石の破片が見つかっており、寺院などを中心に小麦粉が作られていたと推測されている。
コムギの小さい粒を粉砕する石臼の作製には高度な加工技術が必要とされるため、多くの場合は中国などから輸入されていたと考えられている。そのため、石臼はとても高価なものであり、石臼を使って製粉ができるのは宮廷や有力貴族、そして大きな寺と神社だけであった。ちなみに、一般庶民に石臼が普及するのは江戸時代に入ってからと言われている。
なお、鎌倉時代後半になると、茶の文化を伝えた禅僧によって「茶磨」という抹茶を作るための小型の石臼が日本に伝えられた(現代日本では「茶臼」と呼んでいる)。茶磨は宋代(960~1279年)前半に発明されたもので、抹茶を飲むためには欠かせないものだ。
それではここからは「うどん」と「そうめん」の話をしよう。最初はうどんだ。
うどんの直接のルーツと言われているのが、中国で唐の時代(618~907年)に始まった切り麺と呼ばれるもので、こねた小麦粉を包丁で切ったものをゆがいて作る。切り麺は宋代で全盛となり、平安時代の終わりから鎌倉時代の初めに禅僧などによって日本に伝わり、「切り麦」と呼ばれるようになった。
日本に伝わった頃は、切り麦は冷やした状態で食べられていたと考えられているが、時代とともに温かいものも食べられるようになり、これが「うどん(饂飩)」になったと言われている。
うどん(饂飩)という言葉がどのように生まれたかについては諸説あるのだが、「飩」が「麺」を意味することから、「温かい麺」を意味する「温飩」が「饂飩」に変化したと言う説(奥村彪生さんの説)が私には一番もっともらしく聞こえる。
江戸時代前期の1697年に出版された食の百科事典『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』には、温かい「うどん」とともに冷やして食べる「冷や麦」のことが記載されており、この頃までに「うどん」と「冷や麦」という2つの食べ物が世の中に広まっていたことが分かる。
なお、現代のうどんは醤油味のつゆで食べるのが一般的だが、醤油が普及するのは17世紀以降のことであり、それまではうどんは味噌味で食べていた。また、現代のうどんでは「コシ」が話題になることがあるが、うどんのコシが意識されるようになったのは20世紀になってからと言われている。
ちなみに、「コシ」は小麦粉の生地に塩を加えてこねる時にタンパク質のグルテニンとグリアジンが結合して網目構造(これを「グルテン」と呼ぶ)が作られることで生まれる。また、生地をしばらく寝かせるとグルテニンとグリアジンの結合が強化されてコシが強くなる。現代のうどん作りではこうしてコシを強くしている。
次は「そうめん(素麺)」だ。
現代のそうめんの原型と考えられているのが唐菓子の「索餅(さくべい)」である。これは小麦粉に塩や醤・未醤(味噌のようなもの)を入れて練って細長く引き延ばしたものと言われており、奈良時代に遣唐使によって日本に伝えられたとされる。
索餅は平安時代には宮中で疫病除けのために七夕に食べられていたらしい。また、平安京の南部の東西に一つずつあった市でも索餅が売られていて、庶民も買って食べることができたそうだ。江戸時代にも虎屋が七夕の食事として索餅を宮中に納めている。このため、現在では七夕の7月7日が「そうめんの日」になっている。
現代のそうめん作りでは、生地を延ばす時に表面に油を塗る。このすると麺の乾燥を防いで細く長く延ばすことができるのだ。この作り方は中国で開発され、宋代に全盛になったと言われている。これが禅僧などによって鎌倉時代から室町時代にかけて日本に伝えられたのだ。
しかし、そうめんを作るためには小麦粉と油という高価な食材を必要とするため、室町時代に作ることができたのは宮中や有力貴族、寺院などの限られたところだった。庶民の間で広く食べられるようになるのは江戸時代になってからである。
(日本の昔からの麺類には、うどんとそうめんのほかに「ソバ」がありますが、ソバが日本に登場するのは17世紀のことになります。ソバについては「近世」でお話する予定です。)