精進料理の進化-中世日本の食(3)
精進料理と言ったら皆さんはどのようなものを思い浮かべるでしょうか。お坊さんが食べている料理でしょうか。
ちなみに、仏教の創始者の釈迦は肉を食べていたと言われており、釈迦が亡くなったのはお布施でもらった肉粥にあたったからだという話もあります。
現代日本の精進料理ができるまでにはいくつかの段階を経ましたが、そのおおよその形が現れたのは中世だと言われています。そこで今回は、中世の日本で進化した精進料理について見て行きます。
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インドの初期仏教では動物の命を奪うことは禁じられていたが、次の3つの条件に合った肉(三種の浄肉と呼ぶ)は施し(托鉢)を受けても良いことになっていた。
1.殺されるところを見なかった肉
2.自分に供されるために殺されたと聞かなかった肉
3.自分に供されるために殺されたことを知らない肉
人が生きていくためには生き物の命を奪う必要があるのだが、仏教徒はそれに直接関わらずに、余りものを恵んでもらうことで生をつなぐことが重要と考えられていたのである。
インドから中国に大乗仏教が伝わると肉食が禁止されるようになる。中国では托鉢で十分な食を得ることができず、僧が自ら食材を集める必要があったため、肉食を禁じて野菜だけを食べるようになったと言われている。
この戒律が日本にも伝えられることで日本の仏教でも肉食が禁止されるようになるのだが、一方で日本独自の肉食のタブーが既に存在していた。その一つが神聖な肉を食べないというものである。
例えば、奈良の春日大社ではシカが神の使いであり、神官や氏子は絶対にシカ肉を食べてはいけない。同じ理由で八幡宮を信仰する人々はハトや他の鳥類を食べることはタブーとされていた。ニワトリも時を告げる神聖な鳥であったので、食べてはいけなかった。
また、ウシやウマ、イヌなど労働力として人の役に立つ動物も食べないようにするという実利的な考え方もあったようだ。
天武天皇が675年に出した詔(みことのり)では、ウシ・ウマ・イヌ・サル・ニワトリを食べることを禁じている(それ以外は許されている)が、恐らくそこには宗教的なタブーと実利的な理由があったのだろう。
このように日本には肉食を避ける考えが元からあったため、大乗仏教の肉食を禁止して野菜を食べるという考え方も比較的すんなり受け入れられたのだと思われる。
実際に西暦1000年頃に書かれたと言われている『枕草子』には「精進(物)」という言葉が何度も出て来る。ただし、「思わん子を法師になしたらんこそは、いと心苦しけれ。(中略)精進物のあしきを食ひ…(訳:かわいいと思っている子を法師にしているとすると心苦しい。(中略)精進料理の粗末なものを食べて…)」とあるように、当時の精進料理は「粗末でまずい食べ物」というイメージがあったようだ。
というのも、平安時代の料理はほとんどが生ものか乾燥させたもの、あるいは焼いたもので、味はついていないので食べる時に塩や酢をつけて食べていた。野菜は多くの場合は生で食べたと思われるが、とても美味しいとは思えなかったはずだ。
この不味い精進料理が美味しいものに進化するのが鎌倉以降の時代だ。そこで中心的な働きをしたのが「鎌倉新仏教」の禅宗の僧たちだ。鎌倉新仏教とは鎌倉時代に新たに開かれた仏教宗派で、浄土宗(法然)や浄土真宗(親鸞)、時宗(一遍)、法華宗(日蓮)、そして禅宗の臨済宗(栄西)と曹洞宗(道元)がある。
鎌倉新仏教の中でも禅宗はその時代の主人公であった武士層に支持され、その影響を受けて公家や民間にも広まって行った。鎌倉時代には建長寺を第一位とする五山の禅宗寺院が北条氏によって鎌倉に建立された。また、室町時代には南禅寺を第一位とする五山十刹の禅宗寺院が足利氏によって京都に建てられた。これらの寺院は幕府と密接な関係を持ち、政治や文化に大きな影響力を示した。この禅宗の僧たちが留学先の中国(宋)から革新的な精進料理を持ち帰ってきたのである。
禅宗では食事を作ることと食べることは大切な修行の一つとされている。このため、禅寺で食事を作る技術が発達するのは必然だったのである。
ちなみに、曹洞宗の開祖の道元が著した『典座教訓(てんぞきょうくん)』と『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』にはコメの一粒までを大切にする心の重要性が説かれており、この精神を基にして永平寺の精進料理が生まれたと言われている。日本では昔からコメの一粒一粒に「稲魂(いなだま、うかのみたま:伏見稲荷の主祭神)」という神霊が宿るとされていて食物を大切にする精神が受け継がれてきたが、禅宗の考えはこれに合致しているため日本人には受け入れやすかったのだと思われる。
さて、禅僧による革新的な調理技術の一つが野菜を「煮る」ことであった。平安末期から鎌倉時代にかけて鉄製の鍋などの調理器具が発達したことも関係しているのだが、それまで生で食べていた野菜を味付けして煮込み、温かいまま食べるようになったのである。これは日本料理の歴史の中でも非常に画期的な出来事であったと考えられる。
革新的な技術のもう一つがダイズやコムギを使った「加工食品」の製造である。その代表的なものが「豆腐」だ。
豆腐にはタンパク質と脂質が豊富に含まれており、また消化・吸収されやすいため、動物性食品を摂らない精進料理ではとても重要なものだ。さらに、淡白な味や白色で見栄えが良いことも人気の一つである。
豆腐が最初に作られたのは中国で、その時期については諸説あるが、8世紀から9世紀にかけての唐代中期と言う説が有力だ。
日本の歴史で最初に豆腐が登場するのは1183年の春日大社の記録であり、この頃までには既に日本に伝えられていたと考えられる。その後豆腐は鎌倉時代から室町時代にかけて寺院を中心に上流階級で普及し、室町時代の後期には一般庶民にも広まった。また、16世紀の戦国時代には凍り豆腐(高野豆腐)が作られるようになったと言われている。
豆腐以外のダイズの加工品としては「湯葉(ゆば)」が重要だ。湯葉はダイズのタンパク成分を濃縮したようなものであり、タンパク質の少ない精進料理で栄養価の高い食品として重宝された。湯葉は豆乳を煮る時に上面にできてくる薄い膜をすくい取って作るが、この製法は鎌倉時代に禅憎が伝えたとされている。
一方、コムギに含まれるタンパク質を凝縮したものが「麩(ふ)」である。このコムギの加工食品も鎌倉時代に禅僧によって日本に伝えられたが、室町時代になると一般庶民にもかなり普及した。特に京都は当時から現代にいたるまで麩の名産地で、「麩屋町通」という名前の道が京都市内に残されている。
鎌倉時代の精進料理ではコンニャクを味噌で煮たものも食べられており、鶏肉のカスという意味の「糟鶏(そうけい)」と呼ばれた。これが「おでん」の元祖だと言われている。
以上のように、精進料理の発展によって現代でもなじみのある様々な食品が日本に登場することになったわけであるが、実は禅僧たちが日本の食の歴史に遺した功績はまだまだある。
次回も彼らの活躍について見て行きたいと思います。